2015年07月21日

 デマゴギーとプロパガンダ@

 ●デマにふりまわされてきた戦後の防衛論議
 日本の政治が、デマゴギーやプロパガンダの縄にかかって、がんじがらめになっている。
 安保法制を戦争法案≠ニ呼ぶのが悪質なデマゴギーなら、若者を戦場に送るなという一部メディアの声がウソで固めたプロパガンダで、反日勢力の情報操作によって、安全保障の肝心な議論がどこかへふっとんでしまった観がある。
 これでは、国を護るという国民的コンセンサスは、いつまでたっても、できあがってこない。
 それどころか、デマに妨害されて、まともに、政治を語ることが困難になる。
 国家防衛の不備や欠陥を補う安保法制を「戦争の準備」「戦争が大好きな安倍首相」「自衛隊員を殺すための法案」というデマにおきかえて、どうして、正気で、安全保障に取り組んでゆけるだろう。
 議長席に詰め寄った辻本清美議員が、テレビカメラに気づくと、手を合わせ、「お願いだから、やめて」と涙声で哀願し、可決後、「祖父は戦争で死んでいる。戦争だけはアカン」と涙を流してみせる。
そして、一部新聞が、この大芝居を国民の代弁であるかのように報じる。
 万事、この調子で、いま、政治の世界にただよっているのは、狂気である。
 左翼にとって、デマゴギーは、伝統的な戦術で、宣伝戦もお手の物である。
 なぜなら、デマゴギーもプロパガンダも、有力な破壊工作で、左翼にとって破壊こそが、政治活動のスタート地点だからである。

 わたしが、島議会と防衛庁、自民党の仲介に立った三宅島の「官民共用空港」建設計画では、反対派を指導する共産党が、米軍戦闘機の爆音によって、豚が仔を生まなくなる、魚がとれなくなる、若い女性はみな島外に疎開しなければならなくなるなどのデマゴギーを流して、結局、島議会の反対派と賛成派が逆転して、計画が流れた。
 60年安保闘争では、皆が反対するのでわたしも反対するという群集心理によって、革命前夜の様相となったが、騒乱も、また、デマゴギーの所産である。
 わたしは、当時、民族派運動家として、安保改正賛成の広報活動に参加したが、安保反対を叫ぶ大衆のなかに、安保の安全保障上の意味どころか、条約の内容を知る者すらいなかった。
「アンポ反対」が社会現象になったといっても、「非武装中立」「強行採決反対」を叫ぶ朝日らの新聞キャンペーンに煽られただけで、60年安保が、占領時代の基地提供条約だった50年安保の大幅な改定で、アメリカに安全保障条項をみとめさせた大幅な改正案だったことを知る活動家も、その事実をつたえる報道も皆無だった。
 日本人は、日米安保条約について考え、行動したのではなく、親ソ・親中派と親米派のいがみ合いに便乗して、「アンポ反対音頭」を踊ってみただけだったのである。

 政治がデマゴギーやプロパガンダに翻弄されるのは、大衆が、政治の主人として、君臨しているからである。
 それが、主権在民と民主主義の最大の欠陥で、政治が、政治的無能者の手にゆだねられている。
 衆愚政治は、紀元前のソクラテスの時代から批判されてきたが、絶対王政やファシズム、一党独裁よりはマシ(チャーチル元首相)という理由から、先進国は、やむなく、民主政治をとっている。
 その民主政治が、一応、世界で成功をおさめてきたのは、政治的判断を政治家にゆだねる代議員制が機能してきたからだった。
 本来、政治は、個人と国家の利害を調整する性格のもので、高度な判断力をもとめられる。
 真実を知りえるのは、十分な情報や知識をもち、事情につうじた一部の人々で、官僚や専門家にかぎられる。
 一方、大衆は、高度な政治的判断力をもちえず、個の利益しか考えることができない。
 そこで、信頼できる政党、政治家に政治を委任する。
 民主主義(間接)には、大衆の無知を補正し、エゴイズムを抑制する機能がそなわっていたのである。
 ところが、日本では、この機能が裏目にでて、無知とエゴイズムが、政治をうごかしている。
 大衆は、公的利益に無関心で、政治的情報や知識、事情に疎いが、選挙権と知る権利、表現の自由をもっている。
 そこで、反体制派の政治勢力が、大衆をとりこむため、大衆の無知やエゴイズムに迎合して、国家性悪論をくりひろげる。
 そのとき、もちいられるのが、ウソ(デマゴギー)と甘言(プロパガンダ)で、その論法からうまれた鬼っ子が、反日主義である。

 特定の政治勢力にとりこまれた大衆が、いっぱしの政治通になったつもりで「憲法9条をまもれ」「原発反対」などのデマゴギーを振り回し、プロパガンダのスピーカー役を買って出る。
 それが、民主政治の落とし穴で、大衆の政治参加がすすむほどに、デマゴギーとプロパガンダの泥沼へはまりこんで、物事の筋道が見えなくなってゆく。
 憲法9条をまもれというのは、自衛隊も違憲ということで、当然、集団的自衛権も個別的自衛権も否定される。
 交戦権の放棄は、主権の放棄なので、明日にでも、尖閣諸島に五星紅旗がひるがえるだろう。
 デマに洗脳されると、そのあたりまえの道筋が、見えなくなる。
 デマに頭を占領されて、常識が通用しなくなっているのである。
 日本の安全保障をどうするかという議論が、「わたしの祖父は戦争で死んだ」「戦争で死ぬのは若い自衛隊員だ」という涙声や怒号にかき消されて、空中分解している。
 次回は、安全保障の議論が、戦後、いかに迷走を重ねてきたか、ふり返ってみよう。

posted by office YM at 14:49| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする