・・・2015.07.11更新
創業して6年目になる。
多くの人との「つながり」が支えになり、継続できるカギと気付いた。
これまで多くの助言、ご指導をいただいてきた。
しかし時に心を前に向けて進むことができない場合もある。
事業3年目に大きく体調を崩した。
寝るしかない病状になり3週間、身体を横にしていた。
こんな時、心を前へ向けることは至難の業だと、身をもって体感した。
お仕事の師でもあり、人としての育て親でもある「山田富也氏」のことをずっと考えていた。
富也さんは、自らが筋ジストロフィーという難病を抱えながら、障害者団体運営、施設の経営、
障害者自立のための活動を一手にやってのけるリーダーであった。
24時間、365日体調がよくない状態でありながら、私に対しても、時には叱る、褒める、励ます。
励まされた記憶が特に鮮明にある。
心から関わっていただいたのだろう。
先日も心を悩ませる事態があった。
これまでも同じ心境、状況の連続であるが、特に立ち止まる事態に遭遇した。
ふと、富也さんが書いた「聖芯源流」という本を手にした。
この本もまた、ずっと支えてくださっている方から創業時にいただいた本であった。
「あなたに読んでもらいたいから・・・」ということで、仙台から電動車いすに乗って訪ねてくださった。
ちょうど自分が富也さんと出会った時と同じ年齢になり、何かを求めるように読んでいた。
その本は、富也さんが病を抱えて生きる中で人々との出会い、思いをありのままに伝えるといった内容である。
その中「ホーキング博士」と会話した時のエピソードが心救われた。
ホーキング氏が話した「病をもって生きる上で、不安をもつということはあなたの可能性を削ぐことになります。」
という言葉であった。
ホーキング氏は「私は世界を旅する中で自分の体調を心配したことがない・・・」と
自分自身の可能性を信じるということは、ここから始まるのだろうか。
多くの不安を抱えて生きるということは、たしかに可能性を将来に見ることはできないだろう。
病を抱えて、不安と闘い、また将来の可能性を考える、富也さん、ホーキング博士。
多少の病を抱えて生きる私にとって「生きる道標」になる。
心を前に向けることを、役割としてをもっていることを誇りに思わなければなりせんね。
・・・2015.07.02更新
7月1日は私にとって少し立ち止まる日になる。
2009年の7月1日事業を開始した日だ。
前日に事業所内の清掃、送迎車の清掃、スタッフへの伝達など、気付いたら日付が7月1日になっていた。
この日を迎えるまでも結構いろんなことを乗り越えたが、まだまだ山は続きそうだった。
開業初日、利用者様はゼロであった。
次の日からは2名ご利用者 様がご利用された。
本当に嬉しく又緊張してお迎えしたのを現在でも覚えている。
今年で6年目となり、毎年この7月1日を迎える度に「さて今年はどんな年だったか?」振り返る。
2011年の時は、震災の影響もあって、暗く先の見えない不安がスタッフ全体にも見えた。
昨年は分社もあって、「がんばってくぞ」と気合を入れたように覚えている。
さて、今年はなんだか静かに過ごしている。
相変わらず余裕のない生活ではあるが、なんだ気持ちは落ち着いていた。
人々の集まる中で過ごせたこと。
多くの人々に支えられていることをやっと実感できたからなのだろうか?
やっぱり人と関わり、つながることが心のゆたかさになる。
・・・2015.05.27更新
マーボー豆腐には思い出がある。
料亭で働いていた頃の話だ。
料理人はお客様への料理をつくるが、もう一つ料理人の食べる「まかない」もつくる。
料理人が日替わり当番で一人でつくる。
ちなみに、私の得意まかないは「温麺」であった。
18人いた料理人の中でも、ナンバーワンは四国出身の先輩がつくる「マーボー豆腐」である。
生姜、葱、を丁寧に刻み、和風の味噌仕立てで仕上げる。
ご実家が中華料理店をされていて、息子さん二人が和食、洋食の料理人の修行をして、将来、和洋中のある料理店を開店されるとの夢があった。
そのご実家直伝の「マーボー豆腐」と和風の味がプラスされていたわけだ。
「末岡!お前今日のまかないは何がいいかね?」
毎度「マーボー」を注文する、仕事の時とは違い優しく毎回要望を聞き入れてくれた。
そんな先輩が不慮の事故で亡くなったと友人からの噂で知った。
料理の世界から介護・福祉の世界へ転職する際も、荷造りダンボールへメッセージを書いてくれていた
自分がオヤジになった現在でもあたたかく思う。
誕生日にはサプライズでカラオケを熱唱してくれたこともあった。
仕事には厳しく、叱られ注意していただいた。
そんな優しくあたたかい人のつくるマーボーにはもうお目にかかれない。
だから、たまに自分でもマーボーをつくる機会がある。
あの味を思い出し、丁寧さを心がけ、優しい和風味に仕上げる。
料理にはその人の思いが込められるということを教わった。
中華街では味わえない「和中マーボー」是非という方はおつくりしますよ 笑
・・・2015.03.14更新
子供の頃、よく「自家中毒」になっていた。ウィキペディアを調べると、アセトン血性嘔吐症(アセトンけっせいおうとしょう、acetonic vomiting)は、過労、精神的緊張、感染などにより誘引される嘔吐症で、血中にケトン体(アセトン)が多い状態になる。
と書いてある。
はっきりとした原因は解明されていないらしい。
その状態に、子供の頃よく罹ることがあった。
決まって「野口小児科」(野口英世先生そっくりな先生なので…実際の病院名は違います。)へ母が連れていく。
先生は「お母さん、何でもないよ、大丈夫だ。今日だけは好きなものを食べさせてあげなさい」と声をかけてくれる。
大抵病院に入って、先生に診てもらうころにはすっかり治っていることが多かった。笑
母も帰り道、好きなものを買ってくれた。
「ファンタオレンジ」を希望する。
母のシツケは厳しく、食べ物に対しても同じく厳しかった。
ジュースはダメだし、スナック菓子も指定された商品、 買い食いもバツだった。
自家中毒にならない限り、そして英世先生が許してくれることで「ファンタオレンジ」飲める。
だから英世先生を子供ながら尊敬していた。
「よく、わかってくれている」本当に最高のお医者さんだと思っていた。
先生はいつでも優しくしてくれた。
そして大切にしてくれた。
この記憶、先生から受けた愛情は今でもくっきりと心に残っている。
もう40を超えたというのにである。
そして現在の生活の中でも、あの優しい眼差しは本当に救いになる。
もう一つ英世先生に関係するエピソードを紹介したい。
先生に世話になった時期から20年が経ち、私も親になり子供を授かった。
ある時、実家へ帰省中に乳児の長男が高熱をだした。
正月でもあり、休日病院へ連れていく、全く回復しない、乳児は脱水になりやすいのだが、見たことのない汗をかく。
子供を早く適切に処置しなくては、死んでしまうかもしれない…そんな思いで焦り、不安を募らせた。
その時ふと「英世先生」のことを思い出した。
「先生しかいないな」そう確信した。
現在の実家は子供の頃とは違う場所へ移っていて、少し時間はかかるが、先生のとこへ行けばなんとかしてくれる。
近所の医者では乳児に点滴が入れられないこともあり、英世先生へすがる思いで受診した。
病院は以前と同じ場所にあった。
少し現代風にはなっていたが、あの頃と雰囲気は変わっていなかった。
「すいません。息子が高熱を出していまして、もう3日が経っています。なんとか点滴を打ってもらえないでしょうか?」
「わかりました。大丈夫ですよ。細いチューブで点滴しましょう。」
そう言って若い先生が丁寧に病状について説明してくださった。
高熱の原因である病気について…水分さえしっかり確保していれば心配はないこと、今後の処置、自宅へ戻ってからの主治医への手紙(病状について)まで付けてくださった。
子供への配慮も親への配慮も本当にありがたく感じた。
感動した。
帰り際「英世先生は元気ですか?」と聞いてみた。
「あ、父は5年前亡くなりまして」とかえってきた。
先生亡くなられのか…で息子さんが先生になったんだな。
息子さんに簡単に世話になって大好きであったことを伝えた。
息子さんもニコッとして喜んでくださった。
「また世話になりました。」心から感謝した。
人を大切に思う気持ち、そして行動は長い人生において大きな助けになるだろう。
そんな介護サービスを提供したい。
・・・2015.02.21更新
小規模・横浜の町内会で、明日もちつき大会が開催される。
明日の準備に参加して、「この木は何の木ですか?」と聞いて驚いた。
「バナナ」だそうだ。
この寒空にバナナの木とは・・・びっくりしながら感心した。
よくここまで大きくなったものだ。
よく通る道沿いでもあったしまさかバナナとは思わなかった。
気候変動により、数十年もすれば、もしかしたら収穫できるかもな?と妄想しながら
浜のバナナを応援したい。
・・・2015.02.13更新
夜、ふらっと本屋へ立ち寄る。
アインシュタインの言葉?のような写真付の本を
手にとってパラパラと読む
「動物と暮らしなさい」と書いてあったと思う。
現在、 犬・鳥と暮らしている。
あとは猿だろうか?
桃太郎にはなれないが、救われることは多くある。
また、自分の手の中にある命を感じる。
犬の「まり」は賢い、人を素直に愛することができる。
鳥の「トオル」は「鋭い」人の心の動きを感じて鳴く。
さて、私は何できるのだろうか?
考えてみたい。