デカダン日記

もうサイトの名前を「『なるたる』の分からないところを解説するサイトでは分からない所を解説するサイト」に変えてもいいんじゃないかな?
あとそうそう、サイトマップ的なページが存在するのでテーマの所にあるそれっぽい所を見てみてください。


テーマ:
だいぶ間が空いてしまったし、須藤の記事がグーグルの1ページ目にくる兆しも見えないけれど気にしたら負け。

とりあえず前編でもう大体の目的が解説できただろうから、時系列に沿っての解説をしていく。

まず、須藤はトリックスターと繋がる。

その事によって何を知ったのだろうか。

恐らくは前編に書いたことを高校生ながらに真理だと考えるに値する情報だと思う。

トリックスターと繋がる前の須藤は、ごく普通の高校生であっただろうと推測できる。


(7巻p.17)


なるたるの物語中の須藤ではこのように友人と談笑しながら歩くなどという事はあり得ないのだから、変化があったと考えるのが妥当であって、この「そして、虚言」において、

(7巻p.24)

このシーンがあるのだから、当然以前の須藤は扉絵の須藤であって、変化を経た結果が今であると判断するべきであって、須藤に訪れた変化で読者が知っているのは竜の子との関わり以外に存在しない。

つまり、須藤はトリックスターと繋がったことで性質に変化が生じたと考えるべきだろうと思う。

トリックスターと繋がったことにより人間に絶望して、それを抹殺せんと行動をし始める。

須藤には何かしらそのような破壊を行う素地が存在していたと考えられ、それが刺激されることによって実際の行動に移すことになる。

人間を規定する要素は遺伝的要因、環境要因、学習要因、肉体なのであって、学習要因だけであのような行動に移るとは考え辛い。

よって何らか生来的なものに破壊を選ぶ要因があったと考えるしかない。

トリックスターに次の地球の核になる人間の庇護と、その人間に破滅する地球の未来を見せるという役割が与えられたという事を教えられる。

そして、それから少し経って須藤は一緒に住んでいた家族全員を殺害する。

それはこのページから分かる。


(5巻p.52)

直前に文吾は涅見子から殺した人間の家族関係について聞かされる。

曰く「どんな敵や 悪人や組織の構成員にも 家族はいる」とのこと。

それを無視して良いのかと聞くけれど、文吾はそれに対して須藤さんは?と問う。

答えが上の画像なのだから、殺したと考えるしかない。

「だから」である以上それ以外考えられない。

実際家族が足を引っ張るという事は良くあることだし、須藤のやろうとしている事で家族が不幸を被るのは火を見るより確かで、『ぼくらの』のコモ編やウシロ編を読めばわかる。

須藤がこれからしようとしていることを考えれば、その為に家族が少なくとも良い働きを演じることはあり得ないわけであって、それを切り捨てたという事に過ぎない。

歴史上でも呉起(呉子)は割とひどい奴だから、自分の邪魔だから妻を切り殺したということがあった。

まぁ、というより須藤にとって須藤自身が考える無反省の人間の一人が須藤の家族だったのだろうけれど。

その中に須藤角直本人も入るのだけれど、それの説明は後にまわす。

須藤が家族を殺したことと涅見子と邂逅したことのどちらが先かは分からない。

けれどもそれを行った後に、まずさとみと出会う。

どうやって出会ったのだろうか、恐らくは涅見子の力によってだと思う。

スタンド使いみたいに保持者同士は、更に限定して同じ思想の者同士が惹かれ合うという事はどれ程に可能性があるだろうか。

結局これは「分からない」。

描写されていない以上、沈黙する以外あり得ない。

判断材料が存在するならその限りではないのだけれど、存在しない。

とは言っても、


(4巻p.23)

これを見る限り竜の子の保持者かどうかを判断する術は持っていないようだし、ここで惹かれあうような設定があるのならば「この娘からは感じない」とかいう台詞が想定できるのだけれどそれもないし、一方で須藤側にはまだ完璧に掌握していないとはいえ「そのような事」を知ることが出来る涅見子が居るのだから、涅見子が探したと考えれば別に良い。

とりあえず、さとみと邂逅して須藤が仲間に引き入れ、芋づる式に文吾も加わる。

僕は「鳩首その1 黒の子供の会」の会話からさとみたちの後に小森だと考えたけれど、須藤の思想を鑑みて、入った順番だとかいった形式的な序列に価値を見出すとは思えないから違うかもしれない。

ただ、その会話を読む限り全く同じ時期か、小森の方が後に思える。

古株であるほうが発言権が高いのは無意識に行われる日本の伝統なのだけれど、それを踏まえると小森に対しての言動がさとみたちより先に居た人間に対してのそれとは思えない。

また全く同じ時期というのも中々に考え辛いので、小森の方が後だと思うのだけれど、材料が足らず判断不能。

とりあえずメンバーがこれで揃ったから、黒の子供の会は始動するはずなのだけれど、小森が政府に捕縛される。

この時点で須藤としても小森がどうなったのかは理解していないけれど、とにかく事態が事態なのでさとみと文吾を招集する。

これが須藤の初登場の「鳩首その1 黒の子供の会」。

別に意味はあってるんだけれどさ、もう少しカッコいい名前はなかったのだろうか。

シュバイツ・キンダー・ファープフレグンクとか。(安易な中二的ドイツ語翻訳)

それで「鳩首その1 黒の子供の会」だけれど、僕は最初何言ってるか分からなかった。

最初はそうだけれど、もう本当に意味が分からなかったから、鬼頭先生何も考えてなかったんじゃないのか?とすら考えていた。

けれど、ついこの間意味が分かった。

僕が意味が分からなかったのは、このシーン。



(2巻pp.95-96)

「血は 穢されてしまった」の意味が分からなかった。

穢れってなんだよ、って問題なのだけれど、頼みの綱の『神話・伝承事典』には載っていない。

要するに穢れって日本的な概念なのだと思う。

日本的と言うか仏教的と言うか。

で、それが使えないから穢れについて色々調べるのだけれど、どう考えたって須藤の思想とは関係ない。

「差別が平等をつくる」って言ってもなんだかよく分からない。

だからもう分からないものは分からないし、鬼頭先生は決して神でもなんでもないのだから、普通に設定が煮詰まってなかったと判断したこともあった。


(岩明均 『ヒストリエ』 7巻p.125)

なのだけれど、この前の前編を書き始めた日にひょんなことからしっかり設定がされていることを理解することになった。

まぁ、普通に知っていた事ではあったのだけれど、ドイツでは現在精神障害者の数が少ない。

これは何故かと言えば、ヒトラーが断種政策を行い、精神障害者を殺害したおかげで、遺伝的な原因を持つ精神障碍者の絶対量が少ないらしい。

この説明の中でドイツのある人が「ヒトラーによって血の汚れが綺麗になった」と語ったという話があった。

これを聞いた後に、1~2分考えて、須藤が徹頭徹尾優性論に従って考えているという事を理解した。

つまり、僕は穢れを超越的な意味でとらえ過ぎていたらしい。

超越的と言うよりも呪術的と言ったほうが良いか。

らい病とか、穢多とか、それに付随する意味での穢れとして考え過ぎた。

なるたるはそのような神話的と言うか神秘的な…やっぱり超越的と言うのが一番しっくりくるのだけれど、そのようなキーワードが多いので僕も「穢れ」をその俎上に載せて考えたのだけれど、それだとどうやっても成り立たない。

けれど、この「穢れ」を「汚れ」と考えればそこまで難しい問題でもなくなる。

つまりは、本来的に自己の生存と言う利己的な目的以外に存在しなかったはずの人類の遺伝子、すなわち血が、自己反省と改革を行わない個体の生存によって汚されてしまったという事。

遺伝子のプールがそのような不純なものによって穢されてしまったという事。

それなら須藤の思想は一貫していると言える。


(同上)

差別が平等をつくる、というのはすなわち、須藤にとっての平等とは能力に対しての平等であって、高い能力を持つものが多くのものを獲得するという事が真に平等であるという発想を須藤は持っていることを前編で解説した。

よって能力を持たない個体への差別が、能力主義という基礎の上での平等をつくりあげると須藤は言っている。

弱者へ手を差し伸べることが、弱者の増長を引き起こし、結果本来的に多くの物品を手に入れることが可能であった個体への不平等を生んでいる。

と、須藤は考えている。

どうだろうね。

この「鳩首その1 黒の子供の会」でなるたるの物語が本格的に動き出すのだけれど、物語全体の解説はしない。

とりあえず、小森が黒の子供の会のメンバーだったこと須藤たちが武器を手に入れたことが明らかになる。

けれど正直、須藤の思想は明らかになってない。

多分、殆どの人が理解できてなかったはず。

僕だってわからなかった。

この後、さとみたちとシイナが邂逅したりするけれど、今は関係ないので省略して、次は「小森朋典とその家族について」に須藤は出てくる。

けれども、に解説したから今回はしない。

とにかく2巻と3巻は様々な人たちの色々な思惑が入り混じるから、理解するのも解説するのも大変すぎる。

なので、それぞれ縦の軸で解説しているわけだから、それを参照してもらいたい。

鬼頭先生の記事を書いたらサイトマップみたいなページ作るよ。多分。

で、次は東富士だけれど、須藤は見てるだけだから何とも。

一応、須藤はこの時に3つの事を行っている。

政府にあまり挑発するなという警告、さとみのテスト、アキラが竜の子を持っているかどうかを調べること。

自衛隊は壊滅に成功、さとみは現状使えないけれど発破をかけることには成功(毒ガスの面ではそもそも十分使い物になってはいたが)、アキラはなんか持ってそうということは分かったから多分成功。

なのだけれど、アキラはなんだかはっきりしないから、直接に会って調べることにした。

多分住所は前回家までアキラを送ったのだと思う。

ここで少し気になるシーンがある。


(5巻pp.78-79)

変哲のないシーンに見えるかもしれないけれど、僕からしたら意味深長過ぎる。

これはどういう意味か。

「ご飯小盛りとお新香盛り合わせ」という精進料理だったり、ジャイナ教徒みたいなものを頼んでいる。

ここに須藤の一貫性がある。

自己の生存にギリギリ必要なものしか摂取しない。

なるほどなぁ。

まぁ、こんな生活してたらいつかぶっ倒れるけどね。(経験談)

そうして食べた後に、アキラを呼ぶ。

アキラは来る。

アキラの心理は別にここでは重要ではないけれど、何で応じたのだろうか。

誰かが助けてくれるとでも思っているのだろうか。

この後に魚釣りにって、魚の命の話をするわけだけれど、アキラの時に解説したから今は重要ではない。


(5巻p.102)

ここでまた須藤の思想が明かされる。

確かに理想的ではあるけれど、具体的ではないのよなぁ。

慣習にだって必要があるから消せないものも存在する。

僕は大半は要らないのだから、一度整理すべきだとは思うけれど。

とは言っても捨てきることは中々難しいわけであって、須藤が考えるその方法が『リヴァイアサン』。

ここでリヴァイアサンにリンクを貼ろうと思ったけれど良いリンク先がなかった。

まぁ「万人の万人に対する闘争状態」という事です。この場合正確には違うけれど。

どういう事かは前編で説明したから良いと思う。

次は「そして、虚言」だけれど、前編で説明したのだから要らないと思う。

で、「警告はありふれた事件」になる。

色々考えたのだけれど、「若者が言い争いになって相手を殺害したありふれた事件」なのだと思う。

この話でこのシーンが分からない人が居るらしい。



(7巻pp.104-105)

普通に考えて、涅見子は須藤サイドなのだから、須藤サイドである以上、近い未来に「虚無へと収斂する破壊」が起こるわけであって、そうなったら人間はいなくなる。

いなくなった以上、今後人間を見ようとしたならば、竜に保存された人間を見るしかないわけだけれど、竜と言うフィルターがかかっている。

こんなこと本気で説明する必要がないと思うのだけれど、分からない人が居たみたいだから、一応ね?

この話でごみを捨てる不良を殺した須藤だけれど、現状だとあまり多くの人を殺す術がないという事を理解していて、その打開策として宮子巽との接触を試みているのだと思う。

この時期になると涅見子もシェオルをシイナのことは把握出来ていないみたいだけれどそれなりに掌握できているようだし、宮子巽も調べたのだと思う。

フッサールも言っていたのだけれど、「意識は何かに対する意識」であるので、東富士で敵対した日本政府の鳩首を一人一人調べて行って、その中に宮子が居て、宮子がリーダーであることおよび国粋主義的な思想を知るに至って、それを利用可能であるとして須藤に報告、須藤も納得して宮子へのコミットメントを企てたという図式が最も分かりやすい。

というより、何人か調べていくうちに「臨時軍事用気球研究会議」が東富士の出来事の大本営であるという事が分かるのであって、そのうち一人を調べただけで宮子にたどり着くのだけれど。

ここで人を殺してから宮子を呼ぶ理由は、もう「殺人の酌量を条件にしての協力体制」の確立以外思いつかない。

他になんかあんの?

それで宮子と接触に成功、竜の子を持っていることと東富士に関わっていることを告白。

宮古はその為に自衛隊を何人も殺しているので嬉しくて、仲間の死は厭わない。

そして、「満ちるコップ」で実験して利用可能と判断して、動き出す機会を見計らう事になる。

そんな折に、広島でジェーンが事故を起こす。

時は至れり、須藤を招集して出方を見る。

この辺りはここに書いてあるから、別にまた書く必要はないと思う。

とにかく広島で核を爆発させることになったのだけれど、それに確保しておいたアキラを呼ぶ。

こんな役立たず呼んでどうするつもりだったんだろうね。

それで首尾よく爆発させて、次の作戦まで待機だけれど、ある日涅見子がシェオルを掌握してしまう。

その結果、世界中の核のサイロの場所が分かってしまったために、宮子とつるむ必要がなくなってしまったため、文吾と一緒に世界中の核発射施設を行脚して、核を発射させまくる。

この時、高校生に核の発射の方法なんて分かるはずがない、と考えた人が居たらしいのだけれど、ここに書いた通り竜の子にはそうした情報を知る術は存在するようなので、割と問題ではない。

で、世界に核を撃った後に文吾に色々言う。



(11巻pp.238-239)

考え直すって言ったって、考える主体が存在しなくなったら全く意味がないと思うのだけれど。

とにかく前編で示したように、現にある人間たちが須藤は嫌いで仕方がない。

一方で、須藤もその中の一人であるということを須藤は気づいている。

結局、須藤は車を利用しているわけであって、銃も使っている。

次に須藤が出てくるのはシェオルの掌の上だけれど、そこで須藤は、


(12巻p.134)

こう言っている。

現状提出されている材料の中で、須藤が自分のことを嫌う理由を探さなくてはイケなくて、見つかる理由は須藤もその傲慢な人間の一人だという事を自覚しているだろうという事。

そしてその傲慢というところに着目するならば、自分よがりな考えで、世界中の全ての人間を殺戮して回った須藤は傲慢なのであって、個人的にはその傲慢さも含めて須藤は自分が嫌いなのだと考えている。

ここで以前書いたように須藤がシイナと読者に役割について解説して、須藤は餓死して終わり。

当然、読者は須藤が何を言っているのか理解できるわけがないので、



(12巻pp.138-139)

「あんた そりゃないでしょ」というシイナのセリフをシイナの気持ちになって体感して、須藤ではなくて作者の方にそりゃないでしょ、って言葉を抱く。

そりゃないよ。

ここで須藤が死亡して須藤の物語は終わり。

僕は最初、本当に最初、最後に出てくる子供は須藤の子供だと思っていたのだけれど、結局ヤクザの子だったから、もうついて行けなかった。

今となっては色々と解説できるようにはなったけれど、そこに至るまで何年かかったことやら。

その解説だってもう半年以上ちんたら書いているけれど、次の記事で予定していた分がすべて終わりになる。

まぁ、サイトマップとして記事を作って、それぞれ分かりやすいようにリンクを貼る予定だけれど、どの道それで終わり。

4月に一人で藤沢行ってきた話もあるけれど、なるたるに直接に関係があるわけじゃないし、次で鬼頭先生の解説をして終わり。

本当になるたるの舞台足りえるか検証したりしたけれど、絶対的に必要というわけでもない。

シイナの小学校が本当にそこかとか、小森が柱に血を捧げた森は存在するのかとか調べたけれど、ね。

僕が藤沢行った話とか誰も興味ないでしょ。

だからそれは書かないで、多分鬼頭先生の解説が一番読む人の福利に役立つと思うから、鬼頭先生の事を来週あたりに書くよ。

きっと。

ではまた。

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