付け焼き刃の国際情勢観:創価の森ウォッチ 126

最近、長年まかされてきた「商品開発」の役職を自ら退いたという菊川広幸さんが
新聞紙を読んで「中国」を批判されています。

その内容は以下の記事で確認されるとよろしいかと思いますが、少々見逃しがたい
『思い込み』が三つあります。

中国の赤い舌
http://sokafree.exblog.jp/24525118/

続・中国の赤い舌
http://sokafree.exblog.jp/24545811



まず一つ目。

※今、日本政府は、集団的自衛権と安全保障関連法案の構築に急速に舵を切っています。
 これは中国の異常な海洋支配行為に対抗するためのものでしょう
【中国の赤い舌】

--

なぜ、中国が南シナ海で岩礁の埋め立てをして、いそいで構築物を造っているいるのか
というと、そこが中国の支配権の及んでいる「自国の領地」とは未だいえないからでしょう。
「赤い舌」と呼ばれる部分は、「中国本土の大陸棚は中国の領海」という国際法に
そぐわない中国独自の主張に過ぎません。

実際に中国が現在埋め立て工事等をしている「岩礁」の領有権は数カ国が主張
しています。
というのも国際法上「領土」となり、その周りに「領海」が設定できる「島」とは、潮の
満ち引きで水没しない陸地であることが条件です。
たとえ、中国が岩礁を埋め立てて「領土」としても、現在議論されている「集団的自衛権」
とは全く関係がありません。
そもそも今話題の「限定的集団的自衛権の容認」は、他国の領地、領土の紛争解決の為に
発動できません。
たとえば、この件でアメリカ軍が中国に攻撃されたとしても、日本は中国を攻撃できる訳
ではありません。
中国が南シナ海で領有権の拡大を目論んでいる事と、日本防衛上の集団的自衛権は
直接関係がなく、抑止力にはなりません。
「尖閣諸島」「竹島」問題とまったく違う次元のお話です。


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※事態の収拾は、2つのシナリオが考えられます。
1つは、早期に米国が中国と対峙し、人工島構築を無力化する方法。
2つに、あえて東シナ海を中国にとらせて、世界的世論を味方につけて太平洋進出を阻止する方法。
【 中国の赤い舌 より抜粋 】


-----

複数国が領有権を主張しハッキリしていない場所に頼まれもせず「米軍」が関与し、人口島
構築を無・力・化(抑止)することはできません。
ある意味、中国は国際法を熟知しているからこそ、領地でも領海でもない所に、まず
「既成事実」を造っているのでしょう。
仮に中国が人口島をつくってゴリ押しで領有権を主張し認められたとしても、領海はその
12海里(約22km)限られます。したがってこれだけでは南シナ海は取れません。
太平洋進出(?)が意味不明な概念である以上世界的世論も味方につかないでしょう。

(参考リンク:ニュースでよく見る「領海」や「接続水域」何が違うの)
http://thepage.jp/detail/20131020-00000001-wordleaf

事態の収拾は、フィリピンやベトナムなど、岩礁の領有権を主張している当事国がまず
中国政府と話をつけようとするのが第一歩になるはずです。

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※この岩礁埋め立ては国際法上、違法行為であり認められるものではありません。
【 続・中国の赤い舌 】

--

領有がハッキリしない岩礁の埋め立てが即国際法上「違法行為」になるとは
聞いた事がありません。
菊川さんも前段新聞記事を引用したように
『水面下の岩礁を埋め立てた人工島には国際法上、領有権は認められない』という
事です。
ということは領海も領空も認められませんので、実際に当該地で中国がなにがしかの
戦闘行為を行う理由に「領地・領空の防衛」という主張は通じません。
そもそも、公海上での多国間でのパワーバランスが変わる事と
菊川さんの主張する「海洋支配」という漠然とした概念が「合致」しているのか
理解に苦しみます。


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菊川さんは、どんな形でも相手国がやってきたら軍事力があればおいかえせると
お考えのようです。
そういう考え方の方も少なからずいるでしょう。

実際には、日本国領海において公然と軍艦が戦闘行為をしに来ない限り、「警察権」
がまず働きます。
自衛権とよく言われますが法律上では、明確にされていません。
いま国会で議論されている「法案」の中には、領海侵犯、不法入国等本来、警察や保安庁が
うけもつ警察権を「首相の判断で」自衛隊も関われるようにするものがあるそうですが、
(注: この場合は対抗措置と呼ばれます )
これは同盟国の軍隊、また、国連軍との兼ね合いとなる「集団的自衛権」とは関係ありません。

公明党のHPをよく御覧になって勉強しておいてください。

Q&A 集団的自衛権<上> https://www.komei.or.jp/news/detail/20140602_14119

ともかく、国際問題をなんでもかんでも武力(軍事力)のパワーバランスで
解決できるなんて考え方や漫然とした期待感が、平和を脅かしかねない危険性
を高める事を知るべきではないでしょうか。















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君はまだ成長できる:創価の森の迷い人

「千早さん」宅に個人ブログの記事にするために遠方の茨城から、中国地方
西部の空港まで自腹で交通費を支払って取材を敢行したという菊川広幸さんの
話題を掲載させていただいたところ、「千早」さんが苦情の記事を掲載されました。

【勝手な"推測”記事を書くのはやめましょう 】
http://harutonaru.at.webry.info/201504/article_1.html

要約すると、
千早さんは菊川さんと一度東京で出合っており、知らない人ではない。
千早さんが、要求を菊川さんに押しつけることはあっても、菊川さんから押しつけられた
ことはない。
体調が悪いときにメールや電話でどれだけ助けられたかわからない。
メールを記事にするときは千早さんの「許可」をとってからされているし
私が「困っている」からこそ、手助けをしてくれている。


との事です。

ということは、菊川さんに世話になっているので、自分から自宅に呼んだのだという事
なのでしょうか?それは違うでしょう。
菊川さんは「創価の森の小さな家」という個人のブログ記事でこのように書いています。

「あの約束早いほうが良いな」「今年がいい。早いほうがいい」【千早抄:千早さんの家】

あの約束というのは、以下の記事にも書かれています。

※大事な約束の記事を、あなたの誕生日に書くことを表明して延期となり、
 次に7月末から書き始めることを申し上げていましたが・・
【前略千早さま(16)オオカミ少年の憂鬱と決意 より抜粋引用】



ではいったいどんな約束をしていたのでしょう。
菊川さん自身がこのように陳述しています。


※「あなたは自身の人生を「普通」と言うけれど、現実には普通なんてものではない。
 大きな障害を乗り越え、たもちがたい信心を貫かれた勇者です。
 ですから、私はあなたの半生を体験談としてまとめたいと思うようになりました。
 あなたは、あなたのブログで断片的な体験を書かれているが、もっと鮮明に、
 もっとリアルにまとめてほしいと申し上げたりしましたが、そう簡単に記事にもできそうもない。
 あなたの「あたり前」のことは、本当は「すごいこと」‥
 そうなると、どうしても第三者が書かなければ伝わらないわけです。

http://megalodon.jp/2014-0814-1834-08/sokafree.exblog.jp/23158493/



ようするに、「千早」さんはブログを開設し自分の事を断片的に記事にされている
けれど、自分が「スゴイ人である」ことが書ききれていない。できそうもない。
だから第三者である「菊川広幸」が取材をして書かなければ伝わらない。
という、少々傲慢に近い一方的な思い込みによる「約束」です。
インターネット自画自賛で一定の評価を得ている「自分」なら、千早さんの人生を
ドラマチックに表現できると過信してしまっているのでしょう。

千早さんは、菊川さんのブログ記事に「撮影された画像」が貼ってあるのを
ご存じだとおもいます。
一般的に写真の背景にうつっているものには、かなり場所を特定できるものがあり
記事の内容とともに、他での関係者とのやりとりを加味して記事にさせていただい
ております。
「推測で記事を書かないで欲しい」と言われますが、会った事もない第三者である
あべひが推測できるだけの情報を「菊川さんが善意」で公開している事に「千早」さん
は気付くべきでしょう。

メールや電話で、千早さん自身と菊川さんは直接連絡が取れる間柄なのに
なぜ「前略千早さま」などと公開文通をしなくてはならないのか。
「千早」さんは、上京される時にネットを通じて知り合っただけの方に時間を割いて
案内をしてもらったようですね。
失礼は承知で、書かせていただきますが、まったく別の地域の学会員さんに高額な
旅費を払わせてまで、自宅取材を受けるだけの「信心」をされているのでしょうか。

しかも菊川さんは北関東の「ブロック幹部」です。
中国地方の「千早」さんと組織的にはなんの関係もありません。
別地域の「本部幹部会同時放送」にいっしょに参加する前に、自分の
ブロックの会員さんや友人を誘ったりするのが本来の菊川さんの学会活動です。
茨城の本部には1人も「障がい」を持っているかたがおられないのでしょうか。
そんなはずはありません。

「千早」さんは、日本一の宗教団体、創価学会で信心されているのですから
あなたの、現場組織はしっかりあるはずです。

創価学会の信心は「1人たつ」信心です。最初、よくわからない事を手伝って
もらったり教えてもらうのは仕方がないことだとしても、他地域の学会員さん
に 信 心 の 上 で「自分ができないこと」をいつまでも頼っていれば
、成長できないどころか、「してもらうのが当たり前」になってしまいます。

ブログで弱音を書き込めば、遠隔地の学会員さんがいち早く励ましてくれる。
たしかに嬉しいでしょう。
しかし、「千早」さんを現場から遠のかせているのは誰なのか。
相手の学会活動を妨げている存在は誰なのか。
“自分さえ良ければ、誰がどうなろうとかまわない”
そういった小さな自我から脱皮するのが、人間革命ではないでしょうか。

千早さんの信心は、ブログの為にされているのではないでしょうし、
菊川さんのブログのネタにされるために信心しているのではないでしょう。

日蓮大聖人の仏法は「助けてもらうため」ではなく、「助けるため」の
信心ですよ。
なにも出来ないと卑下する必要はありません。
これからなんでも出来る自分になれるのですから。

まだどんどん成長できるのに、安住の地をみつけて足ぶみ状態を
作り出しているは自分自身なのですよ。




知らない人が家に来た:創価の森ウォッチ125

( 初出 2014/8月 加筆 2015/4/3 )

「ひらがな御書」サポートブログ“創価の森通信”のある記事を読んで驚きました。

なんと菊川氏は、千早さん宅に突撃「取材」をしていたというのです。
http://sokafree.exblog.jp/23158493/

千早さん宅はおそらく中国地方西部にあり、茨城から遠路はるばる、千早さん宅
を訪れ、個人情報をバッチリ握られていることになります。
茨城の守谷市で「ブロック長」の任をされているはずの菊川さんが、ネットで知り
合ったというだけにすぎず、しかも視覚障がい者さんの自宅や現場にまで乗り込む
という愚挙をなぜ行うのでしょう。

反対に長年ブログをされている菊川氏の自宅を訪問したなどというブログ仲間は
皆無です。


かつて、ネットで知り合った自称学会員さんに連絡先を教えたら、配慮もなく
自分事の相談電話を掛けられて辟易したとか、あいさつ代わりに住所を教えたら、
突然来訪された等の笑えない話を聞いたことがあります。
怖かっただろうなと思います。
一学会員が「自分のブログ」のコンテンツにする為の「取材」と銘打って、時間と
お金を掛け、地域の現場にまで押しかけたという事実。
これは障がい者さんでなくとも、恐怖を感じた事でしょう。

聖教新聞に掲載されている 寸鉄 には

「高校生2割が知らぬ人とネットで通信。危険は身近に。注意喚起絶やさず」
【 2015/4/3日付け 】

と見知らぬ人と関わり合う事で余計なトラブルに巻き込まれかねない危険性が
指摘されています。

当の千早さんのお体の具合は現在もよくないようですが、立て続けに菊川さん
の要求を強引に押しつけられていたり、一方的に感情の込められたメールを
送りつけられたり、いつブログで記事にされるか解らない、コメントや返信を
返さなければならないといった精神的負担があるのではないかと大変気になります。

それにしても、

※私はあなたの半生を体験談としてまとめたいと思うようになりました。
 (略)
 あなたの「あたり前」のことは、本当は「すごいこと」‥
 そうなると、どうしても第三者が書かなければ伝わらないわけです
 (略)
 本年4月、あなたのご家族、あなたの地元組織の人たちとお会いした。
 千早さんの体験を記事にするための旅でした
 (略)
 さあ、インタビューの旅から100日が経過した今、いよいよ執筆します。
 この夏休みの宿題、しっかりやりますよ!

【 前略 千早さま (18) ☆千早さんの人生、語ります。(^^)
                  2014年 08月 14日付け記事より抜粋 】

と意気込んで「千早抄」と名付けたものの、結局は第三者のプライバシーを「体験」
の体をとった客観的な文章で表現できず、撮影してきたコンテンツを紹介した
旅行記になっただけにとどまっているのです。

http://sokafree.exblog.jp/i37

個人のプライバシーを取材し、自分のブログのコンテンツの一つとして造り
あげた菊川さんは、大変満足げです。
表向きは「視覚障がい」者である「千早」さんを人生の勝利者だと褒めちぎって
いますが、私はまだ菊川さんが「千早」さんに対して「可哀想な人」だと感じている
からこそ、他者を協力させたうえで自分を間接的に表現するための活動を続けて
いるのだとおもいます。

しかし、菊川さんが「ちよ」さんと組んで学会本部を案内したときに始めて
会ってまる二年たっていますが本当に「千早」さんの為になっているのでしょうか。
甚だ疑問です。

(上記記事は昨年夏に公開させていただいた「無邪気なハラスメント」の続きとして
草稿を残しておいた記事に加筆修正を加えました。)









菊川さんの境涯革命とは:創価の森ウォッチ124

( 初出 2013/12/11:修正 2015/3/27 )

創価の森の小さな家(別館)にて、「境涯革命」についての連載を続けて
おられた菊川さんでしたが、現在に至るまでの自分の半生を24回に渡って
説明した時点で、一度休載するとの公示がされていました。
その消去記事のログ
https://archive.today/lELkE

「境涯革命」シリーズは、他人の体験談をネットに求めている方には好評のようで
ブログ村創価カテ内での評価が一気に上がり、同じくブログ村上位の「真実を語る」ブログ
の常連読者さん数名が、コメント欄に賛辞を書き込まれています。

さてかつて菊川さんが同様に「近況報告」としてブログに掲載された記事
に、以下のような書き込みがありました。

※精神的にも疲れが溜まっていましたが、随分、リラックスしてほぐれて
 きました。
 出社時間も多少、早くなりました。
 このように、ブログにかけていた時間の枠が、生活全体に広がって、
 ものすごくリッチになっているのです。

(近況報告2 より)



これは、複数運営し手間を割いてブログの更新を一時停止された
頃の「ホンネ」であると考えられます。

おそらく、ブログを更新する事、コメンターの応答に手間取った事で精神的
にも肉体的にもストレスだったという事でしょうね。
「ブログにかけていた時間」というよりも、菊川さんは意識していないでしょう
けれど「ブログにかけさせられた時間」と言えます。

公開コミュ系のブログを設立される場合、おそらくブログ主は
「自分本位で発言ができて、自分を好む人が集まってきてくれるだろう」という
漠然とした予想してしまうでしょう。ところが違います。

より専門的な分野や趣味の話しともなると、その内容によっては読者から
批判を受けたり要望をうけたりします。
読者の反応を期待してブログコミュをつくっているがために
読者の反応を見て記事やコメントを書かねばならす自分本位の発言という
ものがどんどんできなくなってきます。

気がつけば、本来の自由さはなくなり、読者におもねった内容に片寄って来ます。
ネットで「自分自身が思ったことを言いたい」という目的はコミュニケーション
によって、かなりゆがめられてしまう場合も充分ありえるワケです。
当然集団になれば、細かいところでいろんな意見をもっておられる方が
いても不思議ではありません。

でも、そんな風になっていてもブログ主はコミュ内の「和」をたもとうと
評判のよい気の抜けた記事を書き続けたり、よせられたコメントの返答時間を
割き、「和」を乱しかねない批判的な意見を封殺するために、マメに自分の
ブログをチェックし、ちょっとした批判イベントを講じてみたりして「自由な表現」
よりも「コミュニティの延命」に時間的精神的労力をかけて
しまうのです。

とても暇な人ならいざしらず、仕事や家庭、学会活動を真面目にこなして
いる人であれば自分の趣味に使える時間など限られてきます。
よほど要領の良い人であれば、時間を決めて価値的につかう事ができるでしょうが、
ブログコミュ重視の方であればあるほど、家庭や学会活動へのとりくみがおろそか
になりがちです。

なぜかというと、限られた時間である場合
人間は自分により近しいコミュニティを優先するものだからです。
極端な話ですが、想像してみてください。

もし、学会員さんが自分が不治の病気になって余命が少なくなった事を知った時
に、家族、仕事、趣味、学会活動に使う時間の配分をどのようにされるでしょう。

病気の方、健常者にかぎらず、一日は24時間しかありません。
その枠の中で現実社会を生きているのは皆さんも同じです。
おそらくは、自分にとって大切だと思えるコミュニティ順に時間を配分するでしょう。

だとするなら、リアルと関係の薄いネットでのコミュニケーション
(ある意味趣味のジャンル)で時間を割けば、どこかに足らない時間の
しわ寄せがいくのは当然のことです。

菊川さんの場合、複数あるブログの一つを更新しなくなっただけで
出社時間が早くなり、生活に余裕がでてきたそうです。

つまり、菊川さんにとってブログコミュの為に割いた時間は、生活や仕事に
負担をかけていたという事です。

ブログを始めて七年もの間、この時間を勤行や学会活動、自己研鑽に当てる事
は考えつかなかったのでしょうか。
またば菊川さんの「信心」に対する優先度が反映されているのがブログやサイト
への記事更新度や返礼コメントだといえるでしょう。

拙が思うに。菊川さんはどうやら、ネットでの自分に対する反応(評価)が
少なくなる事を恐れているようです。

学会活動をする時間が以前よりも減っているにも係わらず、よりネットの自己表現
に時間を割く「境涯革命」とはなんでしょう。

ブログ主への信用と代償:創価の森ウォッチ123

( 初出 2012/4/14 ・ 追加・修正 2015/2/19 )


※ネットの活用、情報受発信機能、双方間での対話機能を理解せず、
 矛盾した利用法の「見ざる、聞かざる、言わざる」がモットーの人がいます。



ある学会員さんが指摘されていました。
東照宮の「三猿」さんに申し訳ない(笑)ので追記しておきますが
同じ学会員さんである、鯖くんと菊川さんの間で制定されたこの「おきまり」
はあくまで自分に対して都合の悪いものを選別する為のお題目でしかありません。

見てない事にしたい。聞いてない事にしたい。言ってないことにしたい。

この方法は、記事を削除したり検閲する管理者権限が重要です。
彼等の言う三猿とは 情報統制 であり、師匠が推奨する「対話」とは対極にある
考え方です。

また掲示板の主・宰・者・に気に入られないと「無視される」「存在(ログ)を消される」
といった批判封じの効果も期待できるでしょう。

対等で参加しているように見えるかもしれませんが親分子分の関係です。
選別思想にも通じます。

これは、創価の森三ブログを運営する菊川さんの以下の発言にも顕著です。

※これは全てアンチのナリスマシだと思っていましたが、中に、本当に
 学会員がいました。その人は、メールくださいときた。
「こいつは絶対にナリスマシだ」と思い、メールすると、そのメール返信が
「私はこんなに不幸」というのです。自分も家族も皆不幸だと言うのです。
そこで「あなたはナリスマシだろ!」と言ったら、住所も電話番号も提示しました。
いくつか応答し、これは学会員だと分り、しっかりアドバイスしました。

http://megalodon.jp/2012-0412-1234-51/jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/8831/1237046518/333-



まず相手を「ナリスマシ」と疑うことで、威圧し、優位な力関係をつくったうえで
「信用」を取り戻すには個人情報を差し出すしかないと迫ったわけです。
個人情報と引き替えに菊川さんに指導をされた人とは、いったいだれなのか
は解りかねますが、個人情報を握られた以上、第三者やネットで漏らされる危険性も増し
対等な立場とは言えなくなります。

はてさて、ネット上の会員指導が菊川さんの本来の目的だったでしょうか。
ブログの自画自賛の内容に釣られて強信者であると信用をした人が内々にメールで
現場での不満を相談すると「ナリスマシ」のラベルを貼られる。
純粋な学会員さんなら、「ナリスマシ」だと疑われた事に対して猛烈に
侮辱されたと感じると同時に疑いを晴らしたいと思われるでしょう。
ブログ主にかけられたあらぬ疑いを早急に払拭するためには個人情報を
伝えるしかない とすれば、こんな恐ろしい派閥造りの方法はありません。

そういえば学会員さんの掲示版では、役職などの込み入った自己紹介を
強制する所があります。
内々では得られた個人情報をメールで第三者に渡している人もいるでしょう。
また鯖くんのように「御書メールマガジン」の自動配信サービスを使っている
なら、大量の学会員のメールアドレスを管理しているはずです。
通常の感覚であれば、おいそれとネットでメールの内容等を公開する愚かな事
はさすがにしないですが、菊川さんのように「善意」であれば他人および自分の
プライバシーに配慮がされない方が実際にいる事を忘れてはならないでしょう。

プライバシーを渡した人が、菊川さんの危険性に気がついたときには従順の意
を示し続けるか、フェードアウトするしかないのです。

「三猿運動」 とは 服従・非服従をフルイにかけ集団の先鋭化(極性化とも言います)
のキッカケともになっているのです。

菊川さんの「ナリスマシ」観は「創価の鯖板」で熟成されたものだと
いえますが、掲示版主宰者の鯖くんが主張していた


①→②→③と、だんだんに見破るのが難しく、それ故に厄介な存在であると思います。
特に③については、学会系BLOG等に「善意の意見」のようなふりをして書き込みを
続け、主催者のヤル気を失わせるものがおり、注意が必要かと。

(アンチについての所感~)
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/8831/1237046518/333

-----

という発想などはアンチの根拠が「自分のやる気を削ぐ人」という、およそ他者を
見下した立場で語られています。
モチベーションをアップしてくれない人は「アンチ」なのでしょうか。
私が思うに、鯖くんにしても菊川さんにしても、自分がネットで言論を発表している
「リーダ」だという責任感が希薄なのではないでしょうか。

ちょうど(注:2012年です)、小説・新人間革命は新たな抄「人材城」に突入しましたので
以下の部分を引用します。


ゆえに、リーダーは、一人ひとりの奥底の一念を見極めていく眼をもつことです。
そして、後輩の根本的な一念が濁ったり、曲がったりしないように、的確に
指導し、広宣流布に生き抜く本物の闘士に育てていく

(人材城 3  2012/4/12付け)



という指導でした。
自分を磨かずに、今の自分を褒め称えてくれる人だけ指導(アドバイス)する
という序列的考えではありません。

創価の看板を自ら挙げておきながらリーダーたり得ないものがネットで
学会活動をリードしようなんて愚の骨頂です。
またネット上で自分を承認してほしくて、いわれるがままに「情報」をわたす
ような不用心な方は、ネットコミュには向いていません。

現場活動に専念すべきだとおもいます。

リーダーが言ってはならないコトバ:創価の森ウォッチ122

(初出 2013/5/25 :補記2015/2/18 )

ブログ村ランキング学会員向けの創価カテに、“創価の森の小さな家(別館)”
を登録して若干教学的な話題を書き、また他宗向けの「仏教カテ」に
“創価の森の小さな家”を登録し、擬似学会活動の話題を書き分けるという方法
を取り、二重ブログを運営する菊川広幸さん。
(2015年現在は 創価の森通信を設置し三重ブログを運営しています)

その学会員さん向けのブログ記事に、ちょっと首をかしげたくなる記述がありました。

※例として、公開しない項目を幾つか列記しておきます。
(略)
しかし、当ブログは、個人的な生活を表現しているブログなので、
極端な内容のコメントは困ります。
創価の森ブログは、私の日常生活を表現しているのであって、相談に乗る
ことにも限界がありますし、解釈を巡って意見を戦わせるというような
ことも適しません。
徹底してやるとなると、ブログの雰囲気は完全にオカシクなり、
私自身、まともに記事も書けなくなるのです。
(略)
それは、結論の出ないことを延々と対話するということに限界を感じたこと、
あるいは時間的、物理的に対応できなくなったからです。
(略)
私は、何度も申し上げておりますが、平凡な学会員でしかありません。
少なくとも、私を過大に評価することだけはしないでほしいのです。
過大に評価すると、必ず、後でガッカリされます。

http://megalodon.jp/2013-0525-1024-13/sokamori2.exblog.jp/20491349/


(以上引用)
//////////////


菊川さんは“私への心証が良い評価しかコメントは表示しません。”
と大前提を示し、 その理由は
「個人のブログ」であり「平凡な学会員」だから、自分がやりたい記事の公開
 を差し置いて割いて延々と対話をする力量も時間もないからです。
 だから期待しないでね。期待するからガッカリするんですよ”

と言い訳をしているのではないでしょうか。


耳をふさぎ目を閉じて、「言いたいことだけ」世界に配信する。
それ以外は無駄ですよ というのでしたら最初からコメント欄を
閉鎖しておけば、手間が省けます。 メールも受け取る必要ないでしょう。
自分からはプレゼントやサプライズで人を巻き込んだり
余所の掲示板やブログに同じHNでコメントをいれてリンクアップ目指して
関わってきておいて
いざ手に余ると「聞く耳もてません」。

菊川さん。

あなた同じ事をブロックの学会員さんに言っておられないですよね。
地区部長さんや支部長さん、婦人部長さんに言っているのでしょうか。

「フツー」だとか「平凡な」とか自己評価をしながら、そういった謙遜的コトバで
我が身を取り繕う必要があるのでしょうか。

菊川さんは自分で進んでインターネットという衆人環境に乗り出して来て
不特定の人から相談を受けようとしたり、依頼を受けて動いている記事を
発表し、注目されるように毎日更新をし自分で宣伝しておいて、いざ手に
負えなくなってくると投げ出すのですか?

池田先生は毎日「新・人間革命」や折々のメッセージの中で幹部は
どうあるべきだと指導されているでしょう。

※なんの利害も考えず、自らの大切な時間を使い、命を惜しまずに、
 涙ぐましいまでに奮闘してくださる。
 それは、まさしく、仏がなさんとされた『開示悟入』の労作業を、仏に
 代わって実践している尊き姿です。
 仏の使いでなければ、日蓮大聖人の本眷属でなければ、決してできない
 崇高な努力です。

(奮迅19 2013/5/25)



「平凡な学会員」は無責任な人のことではありません。

自分が語りかけておいて、「忙しいから聞いていられません」はリーダーが
言ってはいけないコトバだとおもいます。

自慢話が止まらない:創価の森ウォッチ121

自称「普通」の創価学会員、菊川さんの創価の森ブログで、新たなキャンペーンが
始まっています。

自分自身の体験を「起承転結」の形をとってカミングアウトし、いかに
現在の自分が「境涯革命」に至ったのかをブログに掲載するつもりになったそうです。
何編かに眼を通させていただきましたが、陰鬱な幼少体験に始まり、いかに貧乏で無学
な家庭であり、自分が苦労してきたかを強調されています。
この部分が起承転結の「起」の部分なのだそうです。
「承」の部分は、上京後の学生時代から、就職、そして離婚の話では
ないかと私は推測します。
そして、「転」の部分は、会社の不正を暴いたことで「閑職」に配置され、御書を
読み、創価学会第二代会長ばりの「悟達」を得たこと、そして現在の経営者の
立場となり、財産を所有し、幸せと確信に充ち満ちた感謝の人生を送っている
というおおまかな筋ではないでしょうか。

「あべひ」さんは、大川隆法ばりの菊川さんの守護霊の代弁者か?と疑われるかも
しれませんが、そう感じたのには理由があります。

すでに更新を終えているはずの、「創価の森の小さな家」にすでに発表されているからです。
「創価の森の小さな家」はこのように締めくくられています。(以後 (本館)と表記します)

このブログは、平凡な一人の学会員の53年間の軌跡です。
そして、読者の方々の温かな励ましと導きに支えられたブログです。
お時間のある方は、どうか、ご覧になってください。
きっと、新しい何かが見つかることでしょう。
(略)
思いは尽きませんけれど、これにてブログを終了いたします。
リアルブログは、もう、これからはありません。
私は語り尽くしました。ですから悔いもありません。
少しゆっくりさせていただいて、また新しい夢に向かって歩んでまいります。
(以上:創価の森の小さな家・ さようなら!から抜粋引用)
http://megalodon.jp/2013-1210-1047-40/sokanomori.exblog.jp/21026282/



おそらく菊川さんは、自分自身の過去や現在の事を赤裸々に
ネットで紹介することを「リアルブログ」とされているのでしょうが、
語り尽くしたはずの「リアル」では、まだ自己表現に足りないと感じられたのか
今度は「創価の森の小さな家(別館)」でリアルブログがはじまったのです。
(本館)での菊川さんの身内のプライバシー暴露記事に対しては以前に
なぜ身内や知人をネタにする必要が?:創価の森ウォッチ09
で取り上げ、話題にさせていただきましたが今回は(本館)で好意的に紹介されて
いた母方の「祖母」さんや、母親の監督責任を暗に追求するかのような内容まであります。

今回(別館)で始まったキャンペーン「境涯革命」の<序>の書き出しは

功徳の話を書くと、「自慢話」と言う人がおります。
そのような発言を聞くと、「あゝ、この人は、本当に惨めで、本当に苦しい地獄に
いたことがない人なんだ」と思います。

(以上引用)



「創価の森ウォッチ9」で拙は、菊川さんの自慢話はナルシズムを感じると表現しましたが、
「自慢」の意味をご存じないのでしょう。

一般的に「自慢」とは 『自分で、自分に関係の深い物事を褒めて、他人に誇ること』
(コトバンクより)であって、だれに頼まれた訳でもなく自発的に他人に誇ることです。
そして、自分の感じた感動を批判する(褒めない)ものは、まるで苦労をしたことがない
かのように卑下することを厭わない。
これでは「独善」と批判を受けても仕方ないでしょう。

仏法用語ではこういった人を「自高蔑人(じこうべつにん)」と言います。
「慢心」とも「驕(おご)り」とも言いますね。

////////////////

さて、だれしも自己愛があるものですが、それが高じて「自己陶酔(ナルシスト)」と
なってしまった方は、ほぼ共通の思考パターンがあります。


「自分に対する無条件の賞賛、全肯定」(自己経験を重んじる)
「他者をコントロールしようとする」(批判は許せない)
「自己顕示欲が高い」(自分で自分を宣伝する)
「特別な存在だと意識する」(非凡であることを強調する・凡人だと謙遜する)


これらは、発言や行動とは裏腹の「自分に対する自信のなさ」が深く影響している
と言われています。

表向きは「自信過剰」とおもえるぐらい、自画自賛していますが、それは
自分に対する無能感や、臆病を隠すために他者の前で「ハイ」になっている
状態だというのです。
またドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムは

「狂信者は自己陶酔的な人間で外側の世界と全く関係を持たない」
「狂信者は行動の根拠を神聖化している」


と論じましたが、ブログという
自分自身の造り上げた閉鎖空間で心酔し、その行為が素晴らしく
意義深いことだと神聖化している様子は「狂信者」のそれと同じようなものでしょう。
残念ながら「創価学会」を掲げてブログ運営をしている方の何人かが、自己陶酔型
であるように思います。

前述のような行動パターンを取れば、他者との軋轢に発展しがちです。

「即決型だが、持続性一貫性がない」
「他者を巻き込むことに配慮が無い」
「自分の価値観が普遍的であると、押しつける」
「自尊心を傷つけられたと一度感じると、執拗な報復行動をとる」

このような行動を取っている人は、現実社会ではおいそれと会うことは
ないでしょうが、程度の差こそあれ、ネットには結構たくさんいます。
フロムの主張した狂信者は「外側の世界と全く関係をもたない」と論じました。
一見すると、外側の世界に関係しているような「インターネット」、不特定多数の
コミュニケーションが出来るSNSなどでは「狂信者」は存在しないと思われるかも
しれませんが、相手と適度な距離が取れ、自分自身の世界に閉じこもれるの
もネットの利点の一つではないでしょうか。
また「孤立している人」が自己中心的で狂信者であるという意味では
ありませんのでご注意ください。

誰だって自慢の一つや二つはあるでしょう。それを評価してほしいと思う事も
あるとおもいます。

ですが「その自慢」が、他の誰かの犠牲(協力)の上で成り立っており、
賞賛や賛同以外の選択肢を選ばせない人に係わることは、非常に危険だと
認識して置いて欲しいのです。
トラブルに巻き込まれる可能性が高いです。

また、現実社会では「自慢」をされないような方でも、一度ブログをつくり、自慢を
し他者から肯定的な評価をされることが繰り返されると、ナルシズム(自己愛)に
目覚めてしまい、ナルシスト(自己陶酔)型に陥ってしまいます。
賞賛をすることで、トラブルを助長する可能性も高いのです。

気がつけば、ブログ主と一緒に、だれかを誹謗中傷しているような愚かな
「村」に自分は係わっていませんか?




宗教間対話とテロリズム:創価の森ウォッチ120

テロの襲撃に遭った「シャルリエブド」誌での、ムハンマドの風刺画
再掲載は世論を騒がせました。
学会員さんの間でも話題にされるかたがおられ、当初は風刺画を転載
したうえで、論評をされていたのですが読者の善友のの忠告を受け入れ
画像は削除されました。懸命な判断だとおもいます。

ところが、創価の森シリーズのブログを運営する菊川広幸さんは
あい変わらず、

「世界はイスラム教をさらに恐れるに違いない」(“「イスラム国」人質事件”より抜粋)
http://sokamori2.exblog.jp/24046404/


と、特定の宗教へ懸念として公表しています。
果たして、世界的視野に立ち、テロリストたちをみて、イスラム教そのものを
怖れる人がいるのでしょうか。

まず日本国内で考えてみましょう。
今のところ、日本国内のムスリムはフランス同様マイノリティ(少数派)に属している
と思いますが、「イスラムは恐ろしい」といった話は、聞こえてきません。

そもそも日本は1979年に“経済的・社会的及び文化的権利に関する国際規約”
いわゆる「国際人権規約」 に批准(条約に拘束されること)しています。
(ちなみにフランスは加入しているけれど現在でも批准していない)
この規約にも「信教の自由」や「表現の自由」の保障がうたわれていますが
同時に


諸国民の間及び人種的、種族的又は宗教的集団の間の理解、寛容及び友好を
促進すること並びに平和の維持のための国際連合の活動を助長することを
可能にすべきことに同意する (第13条の1)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo8/gijiroku/020901hc.htm


とあります。
さらに、ここからもう一歩踏み込んで

“宗教または信念に基づくあらゆる形態の不寛容および差別の撤廃に関する宣言”
(1981年国連総会採択)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo8/gijiroku/020901hh.htm


にも日本は1995年に批准しています。
ちょうど、阪神大震災、オウム真理教無差別テロがあった年です。

つまり、日本ではあからさまに、特定の宗教の根幹を侮辱しそれを報じる事で敵愾心
を煽るようなマスコミ記事はありません。
もちろんこれは「人種」であっても同じことです。

しかし、「東京新聞」ではムハンマドの風刺画を掲載したために
日本在住イスラム教徒が抗議をしたとの報道がありました。
【参考リンク】
http://www.asahi.com/articles/ASH1P5KN5H1PUTIL02F.html

東京新聞曰く
「侮辱する意図はまったくなく、問題の判断材料を読者に提供するために載せた」
とのこと。
風刺画そのものが、信仰の根幹に対する「侮辱・冒涜」であたるかどうかは
全く考慮にいれていないとの判断です。

そもそもこういった、報道する側の宗教的「無認識」「理解する努力の放棄」こそ
が不寛容の発露であり、差別を助長するの根源ではないでしょうか。
そして、相手を理解するために認識のミゾをうめようとする努力こそが「対話」
なのです。

滑稽なのは「宗教間の対話」の必要性を説いている人の中に「相手を理解する努力」
を放棄したまま、スローガンとしてのみ「宗教間対話」を掲げている方がおられることです。
人道主義者であるかのような虚栄心が見え隠れします。

昨今のテロリズムは、オウム真理教のように、自分の集団の意に沿わぬものの
排除であり恫喝であり、賛同者募集、経済的支援募集の「コマーシャル」の為に
人命を奪うことだといえるでしょう。
恐怖による支配は「宗教的な意義」を弘める為の行為ではないことは確かです。

今回自称「イスラム国」が二人の日本人を誘拐し、金銭を求めてきました。
いままで「宗教上の大義」の為に一般人を殺害してきたにもかかわらず、
バケの皮が剥がれ、単なる「強盗団」であることが明白になったと思います。。

にもかかわらず、21世紀のテロリズムが中世よろしく国家間の「宗教間紛争」の
延長上だと単純解釈し、思考停止されている方は、
「テロリストはイスラム教なんだって?怖い宗教だね」とさらに畏怖心を煽って
「対話」など、できようはずもありません。

創価学会インターナショナル(SGI)会長が毎年、1月26日に、SGI提言を
発表しますが、昨年(2014年)の提言にはこのようにありました。

“「テロの脅威」を理由に特定の宗教を信仰する人を十把一絡げに
 危険視する風潮を煽るような動きをはじめ・(中略・”
“その底流に善悪二元論的な思想があるかぎり、かえって恐怖や不信の
 渦を強めて、社会の亀裂をさらに深めてしまう恐れがあると言わざるをえない”

(第39回「SGIの日」記念提言より抜粋)



つまり、創価学会員さんが師匠としている「池田大作」氏は
無理解・思考の単純化による「善悪二元論」が分断の「因」となってしまう事
を指摘しているのです。

テロはテロとして対処し、犯罪は犯罪として対処するのは道理に適っていますが、
「テロと既存の世界宗教」を絡め考えるのは愚かです。

このような発想こそが「十字軍との戦い」と位置づけるテロリストとなんら
本質が変わらない扇動だということに、気がつくべきではないでしょうか。

菊川さんがナリスマシだと糾弾した人物:創価の森ウォッチ119

大河さんのブログに「いまり」さんがお礼のコメント投稿を
されていました。
「いまり」さんとは、菊川さんや一部「ブログ村創価カテ」の人気ブログ
上位の方々から「ナリスマシ」だと断定された「どら猫」氏の奥さんだそうです。

部分引用させていただきます。

//////////

※人として私とどら猫に対応して下さった方々の器の広さに、感謝しております。
 またその様な人になりたいとも思えます。
 今度は私が暖かく見守れる人に。
 (略)
 全ての無明は己の内包より生まれる。
 己が己を見ずして、無明を歓喜になど出来はしませんよね。

 う〜ん、解釈がおかしいでしょうか?
 何にせよ《入信四年目》の私ですので、理解も心許ないのです。

(2015-01-04 18:14)

/////////

別の投稿では、活動を停止したという「どら猫」さんと学会活動をはじめられた
との紹介がありました。
心配なさっていた方からすれば、まずは一安心といったところでしょうか。

もともと、どら猫さんはgooブログに
「創価学会の教義と本尊。建前と現実の創価学会」というブログ。
FC2に「創価学会の問題」というブログの二つを昨年の6月頃にはじめたようです。
サブタイトルに
「創価学会の活動を停止した壮年部です。脱会はしていません。」と
あったことから真正の学会アンチさんにも「これは内部攪乱のチャンスだ」と
注目されてしまったようです。
またブログ村の創価カテに登録され、ランキング上位になってしまった事も
他の学会員さんから「印象を悪く」したでしょう。
特に「創価学会の問題」での内容は記事はもとより、そこにコメントを入れて
学会批判を煽る輩もいたことで、ますます「どら猫」さんは「賛同を得た」と
ばかりに増長してしまいます。
(参考魚拓:創価学会の問題は、間違った日蓮一派を形成したこと)
http://megalodon.jp/2014-0612-1746-28/soukanomondai.blog.fc2.com/


他の学会員さんのブログでちょっとした話題になったこともあってか、
9月には「どら猫」さんのブログに「いまり」さんも登場されていました。
そういった中で、コメント欄を通じ「ちよ」さん、大河さん他の方が学会員
として対話を試みておられました。
(当時の「創価学会の問題」ブログの魚拓)
http://megalodon.jp/2014-0904-1524-17/soukanomondai.blog.fc2.com/blog-entry-83.html


拙は当時、内部の方が複数人以上で誹謗中傷していた「組織糾弾掲示版」
に、かかずらっていたので直接コメント投稿したことはありませんが
後に、まだ残っていたキャッシュを保存しておきました。

さて、9月3日に突然、菊川広幸さんが「創価学会の問題情報について」
という、どら猫さんのブログを意識した記事を掲載しました。
そこまでは記事に対する批判だったのですが、菊川さんもまたコメンターに
煽られる形になりました。

※役職も放棄してネットなんかで叫んでいるのは、単なる問題児
 (問題ジジイ?)だと言いたいっす。
(参照リンク)
http://megalodon.jp/2014-1017-1327-04/sokafree.exblog.jp/23312172/

さらに「創価学会の問題」ブログに対するレポート記事を短期で連続させ、
ついには

※リンク先からは、上記のアンチサイトを消去しています。
 リンク先を消去した上で、今度は、擁護する正当な学会員のブログを
 リンクして「私はナリスマシではない」と述べています。
 皆さん、騙されないようにしましょう!(ナリスマシを見抜く方法より抜粋)
http://megalodon.jp/2014-0909-1430-43/sokafree.exblog.jp/23345383/


※ニセ札も、精密なものほど罪が重いように、soukanomondaiが、もし仮に本物の
 地区部長だったとしたら、さらに罪は大きいと言わざるを得ません。
「soukanomondaiは反省したのだし、内部なんだから批判するのはオカシイ!」と
 騒いでいる人たちに問いたいと思います。
実在しないかも知れない内縁の妻のブログを盲目的に信じ、今回の根本問題を
棚上げしていいのでしょうか?

(追跡調査より抜粋)
http://megalodon.jp/2014-1017-1335-09/sokafree.exblog.jp/23382392/



と断定するに至ったのです。
創価の森に掲載された、これらの記事に流されれて、「ちよ」さんや他の方も、
与同されました。

で、本当に「どら猫」さんはいわゆる、学会員を装った「ナリスマシ」だった
のでしょうか。

以下のリンクは「創価学会の問題」ブログがFC2からライブドアに移転した
時の投稿を魚拓しておいたものです。ご確認ください。

soukanomondai〜妻の訴え
※写真がどこまで証明できるかわかりませんが、信じてくれた方々、ありがとうございました。
http://megalodon.jp/2014-0909-1814-17/blog.livedoor.jp/soukanomondai/?p=2


そこには、謝罪文を掲載されたこと、奥様(いまりさん)の
訴えでFC2のブログを削除されたという趣旨の投稿とともに
お二人の手に、広布部員申込書。
この投稿は2014/9/8日に投稿されたものであることが確認いただけるでしょう。
ブログが移転されたことを記事にしている菊川さんは
この投稿を必ずみています。

その上で「ニセ札も精密なものほど罪が重い」などと菊川広幸さんが強弁して
おられるわけです。
ちなみに「ニセ札」は造った時点で重い罪に問われます。精巧さは関係ありません。
まして、事実をまげ軽々に「ニセ札」だなどと吹聴する行為は言語道断と言わざるを
得ません。

お仕着せの善意:創価の森ウォッチ118

菊川広幸さんが、相変わらずネットで知り合った「視覚障がい者」さんの
「千早」さんに対してのメッセージを公開しておられます。

本来「千早」さんに成り代わって、個人的に始めたはずの「ひらがな御書」計画。
自分以外の学会員さん数名を「ボランティア」として参加してもらったうえで
原稿を送ってもらい、その原稿を都内の教学部員さんに推敲してもらったものを
菊川さんの個人的サイトにアップするという方式をとっているようです。

しかし、「ひらがな御書」HPを拝見するかぎり、昨年春に入稿された
「ひらがな下し文」の原稿が未だに放置されたままですし、新たな原稿は
“受信”すらされていないようです。
(スタッフ資料より)
http://hiraganagosho.web.fc2.com/g.html

その代わりにとういう事なのでしょうか。
菊川さんは、千早さんをネットに引き出す為に相手体調を気遣うことなく
『前略千早さま』シリーズの公開呼びかけをされています。
個人的な呼びかけなら、メールをつかうなり電話でもしてあげれば手っ取り
ばやいと思うのですが、菊川さんは「シリーズもの」に仕立て上げて第三者に
も、自己の善意の語り掛けをアピールします。
千早さんのやさしい性格上、「記事」として紹介されたからには「返信」がわりの
記事を書かれるでしょう。
反応をしなければ、他の「善意」の読者から心配されてメールや電話をよこされ
てしまいかねません。
仕事をするのもつらい、人に会うのもつらいという症状を訴えておられるにも
かかわらず、しずかに「影から見守る」ことができない「善意の応援者」さんたち。

2015/1/14付けの小説、新人間革命に「自分が喝采を浴びたいスタンドプレーヤー」
「ヒロイズム」や「自己陶酔」に陥った人の共通点が指摘されていました。

曰く

◎仏法で説く生命の因果の理法も、冥の照覧も、確信できずにいること
(広宣譜45 2015/1/14付 聖教新聞より引用)



たとえば「千早」さんを例にあげるますと、彼女が現場で困っていること
があるのなら、彼女自身で解決できることは、していかなくてはなりません。
他人は、一時的に助けることは出来ても本人が境涯革命することが信仰
のうえでは一番大事な目標です。
「病」にしても「悩み」にしても「経済的困難」にしても私なら肩代わり
できるとおもっているのなら、それは傲慢だとおもいます。
また「冥の照覧」・・つまり誰が見ていなくても御本尊様は見てくれているとの
確信がないからこそ、みずからをひけらかし、他人に好い評価して欲しいという
個人的欲望の底なし沼にハマってしまうのではないでしょうか。

「お仕着せ」は多くの場合善意から発するが,
  その善意はつぎのことを考えない独善である
(道具の押しつけ より引用~) http://m-ac.jp/internet/freedom/indifference/foist/index_j.phtml


というのは余所様のHPにあった格言ですが、まったく私も同感です。

このように書くと、「あべひ」さんの批判こそ善意の押しつけてではないか
との批判があるでしょう。
私のような場合、すくなくとも相手に「善意」だとはとらえられていません。
むしろ、拙の「悪意」であり「誹謗」であると感じている人がいるでしょう。
しかし、よく考えてみて下さい。

善・悪といっても、その場の感性で判断できるものではありません。

たとえば、学会を反逆し日顕宗に墜ちた山崎正友や原島嵩(いずれも故人)
も、いまだからこそ「悪人」だといいきれる根拠がありますが、両人とも
創価学会員であるときは「善」をなしている活動家だと、大方の学会員さん
また大幹部にも認識されていたでしょう。
このように「善人」のような「悪人」もいるのです。
大事なのは、しっかりと 「先のこと(影響)まで考えているか」だとおもうのです。

さて、ある非営利法人さんのサイトに、障害者ランニングを20年続けて
おられる方が「お仕着せの善意」について、このように指摘されていました。

◎「障害者のために何かいいことを」という気持が強い人ほど、むしろ、
 ボランティア伴走から離れて行くのも早い。
 「いいこと志向」の動機づけは、それはそれで尊ぶべきかもしれないけれど、
 あまり善意の思い込みが強いと、えてして、障害者の感性とかみ合わない。
 ついには、当人も伴走で組んだ相手の障害者も、共々に疲れてしまう。

(伴走の共生システム:NGOブラジル人労働者支援センターHPより抜粋引用)
 http://www.ongtrabras.org/jp/index.php?option=com_content&view=article&id=162&Itemid=152


上記のケースは「障がい者のために」という視点で書かれていますが、
これは「うつ病の人のために」「困っている学会員さんのために」等々
言い換えることができるとおもいます。
助ける者、助けられる者がお互いの気遣いで疲れ果てて憔悴していく。
はたしてこれは「善意」といえるのでしょうか。

一番大切なのは、「代わりに助けてあ・げ・る」ではなく、相手にとって
自分は「伴走者」に過ぎないということを心に刻んだ上で、出しゃばるの
ではなく「相手の変化」に常に留意するように訓練することだとおもいます。

これは「信心のありかた」についても同じ事がいえるのではないでしょうか。





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