2010年前後、コミュニケーション、コミュ症、質問術、会話術、ぼっち、友達がほしい系の話題がやたら多く、ネットではそういう情報が毎日溢れていたように記憶しています。実際どうなのかな私の印象論かもしれない。
何にせよそういった友達ほしい系の記事は、自分の話は後回しでまずは相手の話を聞け、否定である「いや」を使うな、空気を読め、察しろ、相手に期待するなといったものを各々が熱く語られていた。
知識を身に付け、技術を磨くことで、息苦しい対人関係を乗り越えようとしていたんでしょう。確かにそれで改善する人もいるかもしれません。多分。
コミュニケーションを円滑にし、荒立てず、愛想笑いをふりまき、欺瞞しつづける日々を獲得できるに違いありません。知っている人(知人)が増えたとしても、友達はひとりも出来ない感じに改善できるんでしょうね。やれやれ。
そうして好意を覚えていない人に消費される休日、会いたくもないのに付き合いであわなくてはいけない気苦労、LINEの重圧、溶ける自分の時間。それは果たして"友達"なのかな。
私は当時のネットに蔓延するこの雰囲気に相容れなかったし、好きじゃなかった。端的にいえば嫌いだった。
ぼっちから、ありのままの自分まで
ひとりぼっちな奴は甘んじてその「ぼっち環境」を受け入れてると思っていましたし、一人になりたくて一人になっているのに「友達がほしい」という叫びは「じゃあ友達作ればいいじゃん」というデリカシーのない心の声によって応答されます。
2015年の今の私でもここの気持ちはあまり変わっていません。誰かと深く関わるのが嫌で、そういった諸面倒を背負うのがかったるいから一人を選んだんじゃないの? 友達がほしいなら自分から作りにいけばいいじゃん、どうせ勇気がないんでしょ? 自分の内面を曝け出すのが辛いんでしょ? だから友達欲しくてもそれを口にできないんでしょと思ってしまう。
だから当時放映されていた『一期やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』のヒッキーを見てイライラしていたんでしょう。(ラノベ版ではなくアニメ版)では上述したような「友達ほしいけどでも俺はお前らとは違うからいらない」みたいな鼻につく態度が彼から(少なくとも私には)感じられ、むかむかしてた。
話は戻しますが、「人間関係を技術に落とし込む」ことそれ自体が嫌だった。この考え方の根本にあるのは「誰かを思い通りに操る」ことと大差ないです。
こうすれば相手はこう動くだろう、こう言えば相手は私に親密さを感じるに違い……うわもう最悪ありえない。他者をなんだと思っているんだろう。他者を自分の都合のいい道具だと思っているのかな。
人は人を自由自在にできない。他者は思い通りにならない。期待には応えるわけがない。もちろんそんな単純なものではなく範囲や深さ、人間は理屈どおりに動けないという複雑な諸要素が絡まってきますけど、でも基本線はここでしょ。
そうして技術で人間関係をつくりあげようとする人に、人はついていかない。(うまいくらい自然な人もいるけど、殆どはあーこいつそういう奴なんだなって見抜かれるもの)
偽りの興味で興味をもとうとして、偽りの関心で感心しようとする空っぽな人間にどうして友達になりたがろうと思うんだろう。コミュニケーションを技術で改善しようとする人はたいていそこを見落としてる。
自分のキッタナイ内側を晒さないと友達はできないし、本物にはならない。内蔵を晒すことでナイフで切り裂かれるような痛みを受け入れられないなら、ずっとひとりぼっちを貫くしかない。ならどちらか選ぶしかないんじゃないかな、ずっと孤独か、痛みを受け入れるか。
ってことを以前語りました。
んでこの時「自分は最低だからさらけだせば嫌われる」とコメントを貰ったんですが、おもしろいのが2014年から「嫌われていい」「ありのままの自分」というキーワードが流行り始めたこと。
『嫌われる勇気』というアドラー心理学を説いた書籍が大ヒットし、テレビでは毎度『アナと雪の女王』のLet It Goを取り上げられ、ちらほらと大衆は口ずさむ。
"ありのままの自分" を貫くリスクはあんまり語られていないけど、でもわりといい傾向な気もします。これって倫理を超えて、倫理を点検し、同調圧力を乗り越えようってことですから。
次に来そうなのは「夢がいいモノだと思っているなんてお花畑ね」という価値観でしょうか。実際社会に反映するかは分かりませんけど、前兆みたいなものは感じます。「夢」という概念を破壊する狼煙が。夢を持ち、夢を見ることは愚かだということを。夢を持っている人がどうこうではなく、「夢をいいモノ」だと教えてきている風潮に対してであり、私自身は夢を持ち叶えようとする生き様は素敵だと思えますが、ただ同時にそれを大勢の人間にそういうものだと刷り込むのはただの害悪です。
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