「李承晩、亡命ではなく韓国政府が帰国させなかっただけ」

 「李承晩(イ・スンマン)大統領はハワイに『亡命』したのではありません。他意による長期滞在と言いましょうか。韓国のパスポートの発給を受けて旅行に出かけた前職大統領を、当時の政府が逝去するまで(韓国に)戻れないようにしたのです」

 延世大・李承晩研究院の柳錫春(リュ・ソクチュン)院長(写真)は、李承晩が1960年に下野した後、ハワイに向かったことについて「2-3週間の休暇のつもりだった」と語った。「米国に亡命を申請したこともなく、自ら亡命だと考えてもいませんでした。亡命という言葉は当時のマスコミが作り出したものです」

 李承晩は60年5月29日、大統領権限を代行していた許政(ホ・ジョン)外務部長官からパスポートの発給を受けてハワイに旅行へ出かけたが、65年7月19日に逝去するまで政府の許可が下りず帰国できなかったという。

 「李承晩は留学や独立運動の期間を含めて41年を米国で過ごしましたが、米国の市民権を得たことはありません。国籍は常に韓国でした」。柳院長はそう続けた。独立運動家の中には活動しやすいように中国のパスポートを作る人もいたが、李承晩は世界を行き来する際に米国の国務省が発行した臨時証明書を使っていたとし、これは米国の上位層に話が通じる人がいたため可能だったと説明した。

 ハワイは、独立運動で国を樹立した李承晩が思想を熟成させた場所だ。李承晩は1913年2月3日からハワイに定住し、39年にワシントンに拠点を移すまで約25年にわたり同地で活動した。柳院長は、李承晩はハワイで韓国系住民のための学校を作り教育活動を行い、『太平洋雑誌』を発行し、論説文を書いて自由民主主義の思想を熟成させたと説明し「ハワイは自由民主主義を根幹とする大韓民国建国の産室だった」と強調した。

 柳院長は18日(現地時間)、ハワイのキリスト連合監理(メソジスト)教会で開かれた李承晩逝去50年の追悼行事に出席し「李承晩と南北の親日派清算」をテーマに講演。親日派の清算においても、李承晩政権下の韓国の方が金日成(キム・イルソン)主席率いる北朝鮮よりも徹底していたと説明した。柳院長は「李承晩初代内閣には『親日派』というほどの人がいなかったのに対し、北朝鮮には日本の占領期に道議員を務めた初代首相のカン・ヤンウクら、親日経歴者が多数存在した。李承晩の農地改革は、親日地主勢力の基盤を崩壊させた経済面での親日派清算だった」と述べた。

李漢洙(イ・ハンス)文化部記者
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