北海道スペシャル「知床(シリエトク)映像史〜人と大自然の百年物語〜」 2015.07.19


はるかな水平線から押し寄せる黒い波は断崖に砕けまた海に押し返されます。
ここは知床半島。
そして海はオホーツク海です
どうも神田山陽でございます。
ご覧頂いておりますのは今から53年前に放送したNHKの番組です。
いや〜聞きほれちゃうようないい調子ですね。
知床はアイヌ語で地の涯を意味するといいます。
地の涯とは人間の光のさし込まない所でもあります。
知床で我が物顔に振る舞っているのは人間ではなく鳥であり波であり風なのです
はあ〜我が物顔ですか!いつの時代も知床の大自然は圧倒的だったんですね。
今年は世界自然遺産登録から10年。
私ちょっと調べてみたんです。
NHKに知床の映像がどれくらい残されてるかって。
そうしたらいや出るわ出るわ。
その数およそ3,400件!合計400時間の映像が保存されていたんです。
北の大地に夢を抱いた原野の開拓。
都会の若者たちであふれかえった…そして日本一の漁場を築いた魚田開発とは?アイヌの人たちがシリエトクと呼んだ地の涯知床。
膨大な映像から浮かび上がる人と自然の物語をお届け致します。
札幌にある北海道庁赤レンガ庁舎です。
この建物の地下にかつての知床に関する貴重な資料が眠っています。
これは明治以降に行われた北海道開拓の際国有地を誰に払い下げたのかを記した書類です。
その中に知床に入植した人たちの記録がありました。
チャシコツ原野は現在の斜里町ウトロにある開拓地です。
(取材者)これがチャシコツに入られた方の?台帳みたいですね。
知床に開墾の鍬が下ろされたのは大正の初め。
最初にやって来たのは福島県の開拓団でした。
その後も知床では戦後の緊急開拓の時期まで国策による入植が繰り返されてきたのです。
そうした開拓の様子がNHKに残されていました。
昭和33年に撮影された映像です。
風雪にさらされた開拓者の小屋。
何万年も前から人跡未踏のまま眠り続けてきたこの知床半島の背骨に終戦後開拓者が入った時にはみんなこのような草小屋を建てて厳しい冬を過ごしました。
夜は窓からクマがのぞくという山の中。
いまだに電灯もないへき地なのです
開拓地とはいうものの最近までこの岩尾別の人々は農作物よりはまき作りで生計を立てていました
この開拓地では今までに2回バッタの大群が襲ってきてせっかく開いた畑が全滅し住民全部が涙をのんで移住するという事件が起こっています。
この家族もその苦しい経験を越えてきた人々です
知床での開拓の様子をよく知る人物がいます。
開拓農家の三代目元斜里町長の午来昌さんです。
大正7年祖父の代に福島県から入植しました。
(取材者)じゃあこれおじいさんたちの代から?そうそう…。
だから…入植当初から厳しい生活を余儀なくされた知床の開拓。
それでも人々はたくましく生き続けました。
この開拓地と知床半島の本拠地ウトロ部落との間にトラックも通れる広い道路が開通したのは昨年の事です。
道路が出来てから開拓者の生活は一変しました
ほとんどの農家が牛を飼えるようになりました。
牧柵は冬のストーブに使うまきの山です
自家製のパンとジャム。
それに搾りたての牛乳の食事です。
ジャガイモに塩がやっとだった以前の事を考えればまさに雲泥の相違。
あとは電気さえつけば言うところはないと土地の人たちは言います
豊かな自然が広がる知床の大地。
実はそこには原野を切り開こうと挑み続けた開拓者の歴史が刻まれているのです。
知床半島周囲150キロを取り囲む広大な海。
知床の開拓はこの豊かな海にも及んでいた事皆さんはご存じだったでしょうか。
その名も魚田開発。
昭和22年斜里町のウトロに漁業基地を造る国の計画が始まったのです。
漁業を振興するには漁師が必要という事でまずは漁民住宅を200戸以上建設。
樺太現在のサハリンや千島また東北地方などからの移住者を受け入れました。
更に港や道路などのインフラの整備も行い戦前まで定住者がいなかったウトロは一躍1,000人が暮らす新漁村に生まれ変わったのです。
本格的な資源調査も始まりました。
北海道大学が昭和35年に開発したくろしお号。
海の中を肉眼で観察できる当時としては画期的な有人の潜水艇です。
くろしお号は母船とケーブルでつながれ水深200メートルまで潜る事ができました。
搭乗人数は6人。
ケーブルで供給される電気で動きました。
船内の窓からは海底の様子がご覧のとおり。
これはカレイかな?ヒラメかな?おっ動いた!研究者たちは魚の行動や生態を科学的に調べ漁具や漁法の開発に役立てました。
こうした魚田開発をきっかけに青森県からやって来た…昭和33年一足先に青森から移住してきた知り合いに誘われ知床にやって来ました。
大瀬さんが知床に来たのは23歳の時。
その当時の映像がNHKに残されていました。
サケ漁は知床の海に挑戦する人間のたくましさを感じさせます
沿岸漁業が次々と資源を失っていく中にあってここだけはまだサケやマスが取れるのです
ひとおこし1,000万円です。
「網がグンと手応えのある時は札束を引き上げるようなものです」と漁師は笑います
みるみるうちに船倉はいっぱいになります。
漁師たちにとっては一本一本が千円札に見えます
よくこの映像見つけたな。
(取材者)大瀬さんがいらした青森の場所とだいぶ違うんですか?あれから半世紀。
大瀬さんは今も変わらずサケ漁を続けています。
大漁大漁。
現在知床ウトロの港はサケの定置網漁日本一を誇ります。
その原点は戦後ここ知床で行われた魚田開発にあったんですね。
戦後の開拓期から20年余り。
知床は新たな段階を迎えました。
観光ブームです。
それまで全国的には無名だった地の涯知床に観光客がどっと押し寄せました。
きっかけは知床国立公園の誕生です。
斜里町の強い働きかけが功を奏し昭和39年に指定されました。
これを機に知床を観光地として売り出そうとする動きが加速します。
当時のパンフレットにはこんなキャッチフレーズがありました。
「生きている神秘境」。
そこに追い風が吹きました。
加藤登紀子さんが歌う「知床旅情」です。
昭和45年に発売され翌年ミリオンセラーを記録。
この歌の大ヒットが知床の観光ブームに火をつけたのです。

知床のもう一つの夏。
それは観光客と共に始まります
「皆様忙しいところにようこそいらっしゃいました。
お疲れさまでございましたでしょう」。
知床ブームという言葉も生まれました。
地元では去年の倍以上の観光客がやって来るとそろばんをはじいています
昔から旅人を泊めてきた大安寺の住職イイカワアンコウさん
最近はあまり大勢やって来るので実費だけは取るようになりました
数年前までは若者たちの登山靴しか見られなかったお寺の玄関に今では色とりどりの履物が並びます
イイカワさんは泊まり客の履物の手入れをお勤めの一つとしています
ここでちょっと豆知識。
知床ブームの火付け役となったあの名曲「知床旅情」の誕生秘話をご紹介しましょう。
歌が生まれたのは大ヒットのおよそ10年前。
昭和35年に森繁久彌さんが製作した映画がきっかけでした。
知床の厳しい自然と闘いながら生きる漁師を森繁さんが自ら演じた作品です。
撮影は知床で地元の人たちの協力の下進められました。
その撮影の最終日。
森繁さんは協力してくれた人たちへ感謝の歌を送りました。
曲名は「さらば羅臼よ」。
それが後に「知床旅情」として世に発表されたのです。
映画の撮影から25年。
再び知床を訪れた森繁さんの番組がありました。
(森繁)
極寒の季節。
雪と氷が人の道も海路も閉ざす知床が国立公園に制定されて20年。
過ぐる日私が作ったつたない歌が知床の名を高めるのにいささかのお役に立ったとかでお声をかけられ私もまた懐かしい方々にお目にかかりたく久しぶりに北の大地を踏んだ
ああ。
お〜北海道。
(森繁)
今私はなんと25年前に演じた老人と同じ年になった
何となく似てるんだね。
これは「さらば羅臼」っていう最初のね…。
直してあるところもあるんですよ。
「知床の岬にはまなすの咲く頃。
思い出しておくれおれたちの事を」。
この辺はずっとスッといったんだね。
「飲んで騒いで丘にのぼれば遥かクナシリに白夜はあける」。
いや今にしてね謝るけどねその歌がよほど嬉しかったんでね帰りに阿寒へ寄ったのよ。
あの帰りに?うん。
(笑い声)そりゃ初耳だ。
俺は初耳だ。
阿寒で?そしたら阿寒がいい歌だっていうんで。
(笑い声)ところで皆さん「知床旅情」にはもとになった歌があったんですよ。
「オホーツクの舟歌」です。
つまり「知床旅情」ももともとあった歌の替え歌だったんですね。
森繁久彌さんの歌が後押しした知床の観光ブーム。
しかし実はその裏側で知床は深刻な事態に直面していたのです。
知床の奥地で進められていたある開発工事。
知床半島の先端に向かって伸びる全長23キロの林道が造られていました。
険しい大自然の中での難工事。
山の斜面はえぐられ土砂は谷底へ捨てられました。
人々の知らないところで豊かな自然が傷つけられていったのです。
この開発工事に怒りの声を上げた人がいました。
あの開拓農家の三代目…
(午来)この現場見たらもう本当に…。
午来さんは林道建設に反対し工事の中止を訴えました。
しかしその言葉は聞き入れてもらえませんでした。
実は午来さんには自然保護にこだわる理由がありました。
15歳の時に父親を亡くし7人の幼い兄弟を養うために働きづめた少年時代。
つらい気持ちを紛らわそうと午来さんが足を運んだのが知床の山でした。
そこにある美しい自然が心を慰めてくれたのです。
知床の自然破壊がクローズアップされる一方知床の自然そのものの価値に目を向ける人が出てきました。
斜里町の100年を記念して建てられた知床博物館。
博物館のオープンに合わせ学芸員としてやって来た…実は博物館が開館した当時は知床の自然に関する詳しいデータはほとんど集められていませんでした。
そこで中川さんは自ら自然調査を行い資料の収集に力を入れ始めました。
間もなく中川さんにチャンスが訪れました。
本格的な知床の調査が道の事業として始まったのです。
プロジェクトには中川さんも加わる事になりました。
調査をきっかけに博物館は知床研究の拠点となり標本や論文など自然に関するデータが次々に集まるようになりました。
それらは後に世界遺産登録を決める重要なデータとして役立ったのです。
厳冬の知床。
男たちは流氷の海に船を乗り出します
海を覆う流氷の下にはスケソウダラの大群がいます。
この海に1年間の生活が懸かっているのです
昭和60年放送の「NHK特集」。
流氷の海に挑む男たちを描いたドキュメンタリーです。
スケソウを取るには深い海底に刺し網を仕掛けます。
底刺し網と呼ばれます。
185隻の船が幅13キロの海に長さ2キロの網を2か所ずつ張り巡らせます。
スケソウ漁は厳しい寒さの中での重労働。
乗組員は20代が中心です。
40を越したらもう務まらないといわれます
一番若い乗組員は火のついたたばこを配ります。
網を巻き始めたらもう手を休める事はできません
男たちが一獲千金を求めた流氷の海。
当時その海の豊かさに目をつけた人がいました。
ダイビングインストラクターの関勝則さんです。
(取材者)中どうですか?いいですね。
きれいですよ。
(取材者)水温どのくらいあります?水温ですか?う〜ん1度ぐらいかな。
(取材者)光は届いてるんですか?届いてます。
釧路のダイビングショップが始めた流氷ダイビングのツアー。
関さんはそのスタッフとして客を案内していました。
当初は流氷が見せる造形の美しさに目を奪われていたという関さん。
ところがある生き物との出会いが転機となりました。
関さんはそれ以来流氷の海に暮らす生き物たちの撮影に夢中になりました。
写真を通して知床の海の魅力を発信していったのです。
撮影を続けるうち貴重な発見もありました。
これがラウスカジカっていう和名が付いてます。
…で学名がイセルスセキイ。
僕の関っていう名前が付いてるカジカなんです。
関さんは魚たちの知られざる生態を次々に捉え知床の海の豊かさを解き明かしていきました。
知床はその後の運命を左右する重大な局面にさしかかりました。
自然保護を巡る対立が表面化したのです。
北見営林支局が国立公園での森林伐採の計画を発表。
樹齢200年を超えるミズナラなど10年間に1万本を切り出すというものでした。
これには地元で自然保護を訴える人たちが猛反発。
その抗議の様子が映像に残されていました。
従いまして目的は活力ある森林を育てるための伐採と…。
一体知床という森をどう考えているのか。
非常に我々としてはね申し訳ないけれども心配なんですよ。
それは我々プロにね任せて…。
いやプロじゃない!だからそういう私物化した考え方はよしなさいって言ってるんですよ。
知床の伐採は全国的な関心を呼びこんな人まで抗議に来ました。
北海道の貴重な動物の種類がほとんど全部そろって営巣して細々と命をつないでいるのは知床だけと言っていいと思います。
そこにどうして手をお加えになるんですか?例えば「教えてくれ」と「お前らどうなんだ?」と言われても今のような問題に対しては私どももですね明確にお答えするだけの調査もしておりませんし…。
あの午来昌さんは地元の自然保護協会会長として反対運動の先頭に立っていました。
伐採を容認していた町長に掛け合うものの訴えは聞き入れてもらえませんでした。
あれはあくまでも午来さん石井さんを中心とした会を私たちとしてお話の相手という事で昨日もした訳でございますから。
いやそれはちょっと違いますよ。
この問題斜里町だけの問題じゃないよというこの事がですね町長になぜ分かってもらえないのか。
なぜその事が分かんないのか。
そういう町長を持ったこの斜里町民の一人としてですね僕は恥ずかしい。
昭和62年4月。
北見営林支局は伐採を強行しました。
知床の森はものものしい空気に包まれました。
無謀じゃありませんか!やめて下さい!やめて下さい!木を切るなら私を先に切って下さいという事です。
伐採に支障あります。
危険です。
出て下さい。
木に抱きついている皆さんもテープの外出て下さい。
自然保護団体の抵抗もむなしく3日間で530本が伐採されました。
その直後に行われた斜里町長選挙。
午来さんはマイクを握りしめていました。
自ら町長となり国に訴えるしかないと決心したのです。
私はなぜ知床の森を切る事を反対してきたかというとそれはまさに斜里の経済の原点であり文化の原点でありそして何よりも我が町の宝だと思うからであります。
選挙の結果午来さんの当選が決まりました。
そして平成17年7月。
知床の世界自然遺産への登録が決定。
町長の午来さんもこの涙です。
希少な野生動物が数多く生息する事。
陸と海の生態系が深く結び付いている事などが高く評価され知床は世界の宝に選ばれました。
実はその時もう一つ評価された事がありました。
魚田開発が縁で知床に来た漁師の大瀬さんです。
大瀬さんは世界でも珍しい野生のヒグマとの共生を実践していました。
近くにヒグマがいても漁師たちは知らん顔。
ヒグマも人を襲う事はありません。
普通の人にはまねのできない特別な関係を築いています。
ほれここにもいたよ。
このクマ。
クマの親子。
お〜いお〜い。
(大瀬)ハマボウフウという草なんだけれどもこれを食べておったのさ。
今食べたとこ。
そんな大瀬さんも知床に来たばかりの頃はヒグマに恐怖を感じハンターを呼んだ事もありました。
ところがじっくり観察するうちヒグマはただ食べ物を探しているだけで人を襲う気持ちはないと気が付いたのです。
大瀬さんたちはヒグマが寄りつかないよう外に生ゴミを置くのをやめました。
また近くに来てもむやみに刺激しないようにしました。
こうして世界でも類を見ない人とヒグマの関係が奇跡的に築かれていきました。
知床の人と自然との関係を見つめてきた「知床映像史」。
いかがでしたでしょうか。
原野に開墾の鍬が下ろされてから1世紀。
知床は開発と保護の間を揺れ動きそして共生の道へと歩んできました。
この先私たちは知床とどう向き合っていけばよいのでしょうか。
知床の大自然に価値を見いだしてきた3人の方に未来へのヒントを伺いました。
地域の博物館から知床の価値を世界に発信した…それからもう一つは…海の中から知床の豊かさを発信する…そして開拓農家に生まれふるさと知床の自然保護に半生をささげた…北海道知床はこれからも人と自然が共に歩む未来を目指します。
2015/07/19(日) 03:00〜03:45
NHK総合1・神戸
北海道スペシャル「知床(シリエトク)映像史〜人と大自然の百年物語〜」[字]

決定版!世界自然遺産「知床」の歩み。400時間にも及ぶ貴重なアーカイブスを厳選!開拓、そして開発、そして自然との共生へ。「知床」百年の歴史、丸わかりの43分。

詳細情報
番組内容
百年前から続けられた“知床開拓”とは、一体、どんなモノだったのか。戦後、斜里町ウトロで進められた“魚田開発”とは、何だったのか。さらに、森繁久彌さん本人が語る、あの大ヒット曲『知床旅情』誕生の秘話とは。NHKに保存される貴重な映像と、知床の歴史をつぶさに見てきた人々の証言。世界自然遺産登録10年の節目に、改めて、北海道・知床の歩みを総ざらいする。
出演者
【語り】神田山陽

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 自然・動物・環境
音楽 – 歌謡曲・演歌

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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