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ザツログ

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【花燃ゆ】豊臣秀吉以来の大出世『伊藤博文』は苦労人で過激で女好きだった

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2015年NHK大河ドラマ『花燃ゆ』で劇団ひとりが演じる伊藤利助(後の伊藤博文)。

農民から政治のトップになったのは豊臣秀吉以来と言われた、彼のエピソードを辿ってみました。

 

『松下村塾』に入門

百姓の長男として生まれた伊藤利助は、家が貧しくて12歳から奉公(いわゆる召使い)に出され、その後、武家奉公人の養子になって足軽となります。

平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。

出典:足軽 - Wikipedia

 

16歳の時に隣家の、後に松下村塾四天王と呼ばれる吉田稔麿に誘われて吉田松陰主催の『松下村塾』に入門します。

 

ただ、時は士農工商といった身分制度がある江戸時代。

身分の低かった伊藤は塾内に入る事ができなかったために、塾の外から講義を立ち聞きしていました。

その後、松蔭に存在を知られた伊藤は、松蔭の指示で時々使いに行き、そして京都に派遣されるなど、徐々に顔が知られていきます。

 

時代が違えばテロリスト

革命が成功すれば英雄失敗すればテロリスト、とよく言われますが、伊藤も志士時代にはずいぶんとアレな事をやっていました。

 

イギリス公使館焼き討ち

文久2年(1862年)12月12日、伊藤高杉晋作松下村塾生とともに、攘夷(外国人を打ち払う)のいっかんとして、東京品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ちします。

この事件については下記の記事もご参照下さい。

塙次郎(はなわじろう)暗殺

文久2年(1862年)12月21日、伊藤山尾庸三と二人で、塙次郎を暗殺しました。

は国学者で、過去に外国人を国内で待遇した過去事例を調査していましたが、これが、当時の孝明天皇を廃位させるための調査だ、という噂が流れました。

結局は噂だけにとどまったのですが、当時20歳の伊藤は事の信憑性を確かめず、若気の至りでを暗殺してしまいます。

この暗殺が誤りだと知った伊藤は悔やんでも悔やみきれない思いが常に付きまとったようで、明治後に役人となった塙次郎の子をトントン拍子に出世させました。

自責の念から優遇したふしがあります。

 

桂小五郎によって表舞台へ登場

過激に尊皇攘夷活動をしていた伊藤ですが、この時点では身分上『長州藩士』と名乗る事ができず、他藩の志士との交際上弊害がありました。

そんな状況の中、(『花燃ゆ』では東山紀之演じる)桂小五郎と出会います。

伊藤を自分の従者にして身分を上げるよう藩に届出ました。

その後、『形式上は私の従者だが、私の事を同士と思ってほしい』という意味の事を伊藤に言いました。

身分関係なく、同士付き合いしようぜ、という事です。

兄さん、考え方が新時代人でステキです。

 

我ら『長州ファイブ』

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上段左から、遠藤謹助野村弥吉伊藤俊輔(博文)

下段左から、井上聞多山尾庸三

 

さて、『イギリス公使館焼き討ち』から半年経った文久3年(1863年)5月12日、伊藤達はちょんまげを切り、洋服を着て駐日イギリス領事などの協力でイギリス留学のため横浜を出航します。

イギリス公使館焼き討ち』を起こした半年後に、イギリス留学、攘夷家なのに外国へ留学・・・意味がわからないと思いますが、日本よりも進んだ外国を相手にするには、まずは相手を知り知識、技術を習得する事、という柔軟な考え方がこの藩にはあったのです。

藩命での留学ですが、当然、幕法では外国への渡航は禁止だったので、幕府には内緒の留学です。

 

上海の繁栄ぶりにショックを受ける

恥を忍んで西洋人の姿になった5人は、夜間に英国船に乗り込み、石炭庫に身を潜めました。

5日後に上海へ到着。

当時、アジアで最も大きな貿易拠点の上海を見た5人はあまりの繁栄ぶりに唖然とし、早くも『攘夷』はヤメだ、という考えになったのです。

 

水夫になってしまう

上海で彼らは世話役の船会社の上海支社長に洋行の目的を聞かれますが、5人とも英語が話せません。

戸惑いながらも海軍研究、という意味で『ネイビー』と言わなければいけないところを誤って『ネビゲーション』と言ってしまいます。

ネビゲーション』は『航海術』という意味です。

支社長は『航海術の修行をしたいのだな』と親切心で、彼らを帆船に乗せ実地訓練させたのです。

ロンドンまで水夫として働きながら行く事になったのです。

水夫からは『ジャーニー』と蔑称で呼ばれ、こき使われ、食事もまともにとれず、トイレも無く、相当辛い思いをしたようです。

便所は船体から張り出した横木につかまって用をたす方式であったから、嵐の時には身体を縄で縛って危険から保護した。さらに伊藤は下痢で苦しんだため、「実にその困難の状は筆舌の能く尽す所でなかった」という。

出典:長州五傑 - Wikipedia

 

ロンドン到着

なぜか4ヶ月も水夫として働かされながらも、4ヶ月後にようやくロンドンに到着。

高層建造物、汽車、工場などを見て、ただただ驚くしかなかった彼らは完全に開国論者になります。

ロンドンではユニバーシティカレッジに通って勉強していました。

ユニバーシティカレッジには『長州ファイブ』の碑が建てられています。

 

伊藤、井上の緊急帰国、そしてポルトガル人になる

翌年の元治元年(1864年)6月10日、伊藤井上は横浜港にいました。

ロンドン留学中にイギリスの新聞『タイムズ』を読んで愕然とします。

そこには、長州藩が外国船を砲撃したニュースが書かれていたのです。

すでに外国の先進性を目の当たりにしていた彼らは、無謀な攘夷行動は無意味で、このまま突き進むと日本が滅びてしまう、と悟り、長州藩の攘夷行動をやめさせるべくこっそり帰国していたのです。

 

駐日イギリス公使より、長州藩に攻撃された他の3ヶ国と対応協議中の為、『数日間は外国人のふりをして日本語を話さず、居留地のホテルで身を潜めておくように』言われます。

 

2人とも、どうみても純日本人の顔ですが、伊藤はポルトガル人『デボナ』を名乗ってなんとかやり過ごしました。

2人に対してホテルのボーイ等は「今回ホテルに来たポルトガル人の顔付きは日本人に似ている、けちで金銭を使わぬには驚いた、金銭を使う道を知らぬのではあろうが、彼ら2人の風貌から見てもポルトガル人の中でも最下等の貧乏野郎」など、言葉が分からないものと思って勝手なことを話していた。

出典:長州五傑 - Wikipedia

 

藩を説得するも・・・

元治元年(1864年)6月24日、イギリス船に乗って長州藩到着。

井上は藩の重役達に向かって、攘夷を捨て開国すべき、と意見します。

その理由として、例えば西欧には電信というものがある事を説明するも、藩の重役達はおとぎ話としか思えず、井上をホラ吹き呼ばわりします。

藩の重役達の前で西洋事情を話しても理解されず、西洋文明を説明しても「ホラを吹くにもほどがある」と嘲笑される。攘夷論者からは命を狙われるほどの意識のギャップに、井上と伊藤は隔靴掻痒の思いであった。

出典:長州五傑 - Wikipedia

 

結局、説得は失敗し、船を攻撃された4ヶ国は長州藩に報復します。

その後、高杉晋作の活躍により、長州藩は何とか危機を脱します。

詳しくは下記の記事をどうぞ。

 

女遊びが激しくて明治天皇に叱られる

伊藤といえば、女好きで芸者と遊ぶ事だけが道楽、と言っていたほどですが、芸者の選び方が変わっています。

一流ではなく、二流以下の芸者と遊ぶのです。

理由は、一流の芸者には必ず裏に有力者がいて、そういう人間と揉め事を起こしたくない、という事です。

 

芸者(プロ)だけではなく、素人にも手を出してしまいます。

その中でも岩倉具視の三女である人妻戸田極子をパーティーの席上、庭に誘い出し関係を持とうとします。

これを各新聞が面白おかしく三面記事に取り上げた事で大スキャンダルとなり、伊藤は総理大臣を辞任してしまいます。

 

このように、女遊びが激しい伊藤明治天皇は叱りつけますが、『恐れながら、皆はこっそりやってるだけであります。博文は堂々とやっているだけ潔いといえます』と反論しました。

 

伊藤博文については、教科書上では初代内閣総理大臣大日本帝国憲法の作成の中心的人物、韓国のテロリストに暗殺される、といったお堅い内容がほとんどでしたが、このように意外と面白味のある人物なんです。

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