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 「マガジン航」に日比嘉高『いま、大学で何が起こっているのか』(ひつじ書房、2015)への疑問から発した「大学は《自由》だから息苦しい」を寄稿した。けれども、ここでの文章ではいいたいことをいくつかを削って綺麗に(?)整形してしまったので、言及すべきテーマがまだ少しばかり残っている。

 今回は追記として、私がどうしても脱力感を感じてしまった文章に対して、少しばかりコメントを加えてみたい。

 
・国立大ってそんなに偉かったんスか、はぁ…

 私は日比の本が「ツマラナイ」と感じたが、それ以上に、しばしばウンザリもさせられた。とりわけ、次のような文章だ。
 

「大学は研究機関であり同時に教育機関である。教員たちは自分たちの研究を学生たちに伝え、学生たちはそれを受けとめたりして社会に出て行く。私たちの子供が通う大学に、「社会的要請の高い分野」しか存在しないとしたら。私たちの子供が「社会的要請の高い分野」についてしか学ぶことができないとしたら。私は私たちの住む国で、子供たちの前にそんな選択肢しか残っていないということを、心の底から恐ろしく思う」(p.7)
 

 「研究機関であり同時に教育機関」とは、具体的には近代的大学を支えたフンボルト理念のことを指しているのだろうが、それが十分に脱構築可能なものである(藤田尚志「条件付きの大学――フランスにおける哲学と大学」、西山雄二編『哲学と大学』收、未来社、2009)とかいうことは、このさいどうでもいい。率直にいって、勝手に「恐ろし」がってて下さい、と感じてしまうわけだが、ここにはいくつものツッコミ処がある。

 第一に、どうして私たちの子供が通う大学に、「社会的要請の高い分野」しか存在しない」ことがただちに「私たちの子供が「社会的要請の高い分野」についてしか学ぶことができない」状態を招くのだろうか? 

 文系の知に接する機会は、今日、メディアの多様化とともに多チャンネル化している。図書館、本屋、古書店、テレビ&ラジオ、インターネット。大学で講義を聴くことだけが、文系学問に触れる唯一の道ではない。なぜ、日比は大学の危機(しかも多くの子供たちが直接通うわけでもない国立大学の危機)をただちに教育の危機として解釈するのか? 国立大から文学部がなくなると、センターの不在よろしく、そのような文化的な厚みが徐々になくなっていくと考えているのだろうか?

 もし、そう考えているならば、「国立大ってそんなに偉かったんスか、はぁ…」と感じざるをえない。

 私は残念ながら、学校の先生の授業が基本的には「ツマラナイ」と感じ続けてきた人間だ。彼らに比べて、有島武郎やゲオルク・ジンメルやヘンリー・デイヴィッド・ソローのテクストはなんと素晴らしいことか! 大体において私は授業中に授業と関係ない本を読んでいた(いわゆる内職というやつ)。その蓄積が文章を書く上でいまでも役立っている。思い返してみればジョルジュ・バタイユの原書を初めて開いたのは、大学で必修だった英語の時間だった。

 私の経験をただちに一般化したいとは思わない。ある先生の授業によって引き起こされた知的興奮で「感染」(宮台真司の好きな言葉)させられた学生が数多くいたこと、またいることを、直感的にだが私も信じる。ただ、現在、そのような運頼み――おそらく「いい先生」がいるのではなく「いい出会い」があるだけだ――のような方法だけが、人文知の教育ではないことも明らかだろう。

 そもそも、竹内洋が繰り返し述べるように、アカデミズムは出版ジャーナリズムとの共犯関係によってその権威性を増大させてきた(『教養主義の没落』、『丸山眞男の時代』、『大学という病』など)。このように考えると、日比の「恐ろし」さの裏側には、大学にしか学はないといったような大学中心主義があるのでは、と勘ぐりたくなってしまう。


・誰も文学研究を禁じていない

 これと並行してもうひとつ指摘したいのは、日比はお上の制度設計に対して人々の適応が余りに従順であると考えてはいないか、ということだ。たしかに、大学に所属する教員が今日「不自由」を感じる場面は多いだろう。そのことは否定しない。

 しかし、学生からしてみれば、おエライ連中が不自由を強いたからといって、そのまま不自由に振舞わなければならないという法はない。商学部や理学部に入ったからといって前田愛を読んではいけないというわけではないし、建築で学位を取ったからといって夏目漱石を研究してはいけないわけではない(若き漱石は建築家志望だった)。

 とりわけ、テクスト論やカルスタを経た今日の文学研究は、〈文学研究〉という確固たる領野を守っているというよりも、他の学問との領域横断的な交流のなかで多くの知的発見を成し遂げている。日比が専門的に取り組んでいる〈移民と文学〉に対する関心などはその最たるものだろう。そのような前提を確認するならば、文学部の不在が即ち文学研究や文化的多様性の不在を招くという考え方は不適当であるばかりか、学生の自主的な学習意欲というものを全く信じていないのでは、と思えてしまう。

 意欲ある学生は機会さえあれば勝手に勉強する――だからこそ私は教員よりも図書館の機能やインターネット・アーカイブの充実といった知性のインフラの方が重要だと思っているのだが――。対して、どんなに就職に役立つカリキュラムを整えようと、意欲のない学生はやる気のないままに、様々な遊びに興じるだろう。

 どちらが良いとか悪いとかいう問題ではない。単にそうである、ということだけだ。そして、おそらく、どんな青春を送るかは――人生は大学時代ですべて決するわけではないので――、各々勝手にしたらいいというだけの話である。

 私にはたかが大学改革ていどの変化が、学生の行動規範を大きく変えるとは思えないのだ。相変わらずバカが新歓でイッキを勧める光景は続くだろう(本当に頭が悪い)。同じように、意欲があるのなら、「私たちの子供」も「社会的要請の高い分野」かどうかなど下らない基準は無視して、自分の勉強を始めるだろう。

 始めてもいいし、始めなくてもいい。憲法で保障されている自由が守られるのならば――逆にそれが脅かされるときにこそ我々は声を上げるべきだ――、人々はもう既に自由であり、誰も文学研究をすることを禁じていない。

 日比の大学中心主義は、大学という関数を極めて重く見るあまり、良くも悪くも若者を中心とした学生文化の自由奔放な性格を甘く見ているように見えるのだ。


・そんなにカネが嫌いならボランティアでやって下さい

 もうひとつ私がウンザリした文章を挙げたい。カネに関する議論だ。少し長くなるが二つの段落を引用する。


「現在の議論は「予算ありき」で進みすぎている。日本にはお金がない、大学に出すお金もない、だったらその範囲内でどうするのか。この観点が重要であることは当たり前すぎる程当たり前だが、この観点が大学改革の全面に展開されることは誤っている。なぜなら、大学の価値は金銭に置き換え難いからである。/大学には金銭的観点から計れない要素があまりに多い。国立大学の非常勤講師の時給が五〇〇〇円超だとして、そこで伝達された知識はこの金銭と等価なのだろうか。学生が在学期間中に大学で得たものは、入学金や授業料などの総額と対照して考えられるのだろうか。そもそも「学生が在学期間中に大学で得たもの」は卒業時点で測るのだろうか、それとも卒業数年後だろうか、数十年後だろうか。図書館に入っている一冊の本の定価が四〇〇〇円だったとして、その本の価値は四〇〇〇円なのだろうか。研究成果Aで特許収入が二〇〇〇万円得られたとし、研究成果Bは二万円、研究成果Cは0円だったとして、ABCの研究成果の価値の高下はA>>B>Cなのだろうか」(p.32-33)
 

 素朴に、どうして「予算」先行型議論の問題点を指摘するのに、「大学の価値は金銭に置き換え難い」というたぐいの大量の例示の列挙につながるのか、私にはよく分からない。

 そもそも、「金銭に置き換え難い」のは大学に限ったことだけではない。ブックオフの100円コーナーで買った森鴎外は当然108円以上の価値があるし、一万円したチケットのコンサートは一万円で買えない価値が宿ることがあるし、無名の美術家が開いた入場無料の展覧会で数万円支払ってもいいような感動をもらうことはままある。

 というよりも、高校卒業のとき友達と行ったディズニーランドや、一人で世界旅行に旅立ったあの日々、恋人と過ごした少しほろ苦い毎日、ブラックバイトで酷使された経験など、要するにこの世のすべての経験は根本的に「金銭に置き換え難い」。そして、我々はこのことを了解しており、実際、ほとんどの場合それに対価などを求めていない。

 ならば、大学が「金銭に置き換え難い」からといって、(予算など無視して)カネをよこせ、という議論は論理的にあまりにおかしなものである。もしこれを通したいのならば、大学での金銭交換不可能性は他の場所での不可能性に比べてトクベツである、という主張をしなければならない。

 日比のこのような議論は欺瞞的だと思う。もし本当に大学が「金銭に置き換え難い」のならば、神聖な学務を貨幣で査定されるべきではないのだから、無給で仕事に臨むべきである。しかし、彼はそのようなことは主張しない。無論、できもしないし、しなくていい。私が遺憾に思うのは、日比が「金銭に置き換え難い」性を強調すればするほど逆に浮かび上がってくる、この世界には金銭で置き換え可能なものが沢山あり「置き換え難い」性を維持するという目的のためならそこからカネを奪ってきても構わないという、恣意的な先入見である。私はこの操作には同意できない。少なくとも、もう少し丁寧に論述すべきだと思う。


・先ずは図書館職員や非常勤講師を食える職にして下さい

 勿論、政府に適切な金勘定の能力がないことは私も完全に同意する。新国立競技場に2500億円をかけるなどという話を聞けば、そんなカネがあるんなら文学部くらい維持させてやれよ、と思わなくもない。

 けれども、日比の〈金銭には置き換え難い価値があるんだ論〉には依然として同意できない。少なくとも、「金銭に置き換え難い」などというのなら、学生が負担する学費はもっと下げるべき(と主張すべき)だ。200万程度(国立文系)かかる学費を要求しておいて、「大学に対価を求める考え方の方は、大学で教えられていることの内容を金銭に置き換えようとして、「高い!」「割に合わない!」と言っているのだろう」、「大学在学中に支払う金銭に対応するものは、はたして授業の内容だけなのだろうか」(p.68)などという言辞は、ほとんど壺を買わせようとする宗教商法の語法に等しい。

 他人には「対価」の要求を禁じるが、自分はある程度の年収はもらいますよ、という主張は私からみると通らない――これは私が内田樹の大学論に同意できない所以でもある――。

 いや、無論、大学教員は無給でなくていい。「やりがいの搾取」(本田由紀)が蔓延する社会などゴメンである。日比が指摘するように、「過去を引継ぎ、それを現在の我々が利用できる「豊かな泉」する〔ママ〕ためには、過去の言語芸術の蓄積に容易に到達できるようにするためのインフラの整備(たとえば図書館や選集や注釈)が必要」(p.80)であることは本当だ。

 教員がその役割を担う重要な職種であることを私も否定しない。けれども、日比自身が明言している通り、知のインフラを支えてきたのは正規の教員だけではない。

 たとえば図書館員に対しては果たして十分な救済策が宛てられてきただろうか。彼らの多くが年収300万円未満で働いているといわれている。そのような状況を放置して、ただ漫然と文学部の存続を訴えることはやはり空語に響く。少なくとも私の勉強の役に立ったのは、教壇で語られる言葉よりも図書館員さんたちの日々の業務であった。

 百歩譲って教員の仕事が重要なものであったとしても、現在大学の教育をかなりの程度実際に担っているのは、やはり年収200~300万円程度の非常勤講師たちである。彼らの現状を無視して〈金銭には置き換え難い価値があるんだ論〉を唱えられても市民的共感を得ることはできないのではないか。

 文学部を擁護するのは構わないが、それが力をもつには、彼らの救済策とセットで主張する必要があると思うのだ。


・実のところ日比嘉高はどうでもいい

 実のところ、私はこのような文章で日比を説得しようとは思わない(し、実際に成功しもしないだろう)。日比は好きなことを好きに書けばいいし、その訴えの多くが無駄なあがきに終わったとしても、当たり前のことだが無駄なあがきをしてはいけないわけではない。

 むしろ、私が念頭においているのは、日比の敗北を目の当たりにするかもしれない次世代の研究者のタマゴたちであり、私が伝えたいのは、文学部が危機に瀕したのだとしても、それで君たちが絶望する必要はなく、もし志があるのならば誰がなんといおうと文学研究をやってはいけないことはない、ということだ。

 こんな時代だからこそ自分を信じなくてはならない。たとえ世界中の人間が全員反対しようと、自分が感じる楽しさや面白さを否定してはならない。最近、G・H・ミードを読んでつくづく思うが、「自分」とは社会的に構成されるものであり、その楽しさや面白さは即ち社会的な豊かさのひとつの表出でもあるからだ。食えなくなったら胸を張って生活保護でも頼ればいい。十分(社会的に!)働いているのだから、そんなことでグダグダ言われる筋合いはない。

 文学研究は楽しい。そして、楽しさは強い。カネの計算に終始する経営者も大学の理念を後生大事に守る大学教授も、楽しさの前には抗えない、と私は思う。その楽しさをパフォーマティブに示すことができたのなら、文学が勝つことなんて正直ヨユーじゃね? と思う私は楽観的すぎるだろうか?? いずれにせよ、その楽しさは、現在と未来を悲観するだけのお手軽なブックレットなどではなく、自分が得たオモシロをぎゅうぎゅうに詰め込んだ、これからの研究者の論文からにじみ出てくるものであろう。

  以上である。失礼なことも書いてしまったかもしれない。申し訳ない。