小論

ソマリアへの1つの視座

「国連の軍事介入から20年 ソマリアの平和と国際社会の介入」

~市民を犠牲とする国際社会の介入を超えることはできるのか?~

2013年8月

介入の20年 ソマリアで何が行われたのか?

1991年、長く続いていた軍事政権が国内各地の武装勢力の蜂起によって打倒された後、ソマリア南部で武装勢力間の内戦が始まった。それとともに旱魃が発生、多くの人々が死んでいった。このような状況に対して、米国が国連に協力し、ソマリアへの「人道的介入」を行った。しかし、その介入は次第に過剰となり、米軍を中心とした国連の平和維持活動の部隊や多国籍軍による武装勢力への攻撃によって市民の間で多くの死傷者を生んだ。そして、この介入は国連が武装勢力との戦闘に敗れ、撤退する結果となった。その後、ソマリアでは再び内戦が始まったが、ジブチやエチオピアなど周辺国が暫定政府を成立させるために武装勢力間の対話の場を提供した。そんな状況が続く中、2006年にソマリア南部をほぼ支配下に治める勢力としてイスラーム法廷連合が生まれた。これによって治安が劇的に回復し、内戦も終わったかに見えた。しかし、この法廷連合を脅威とみなした隣国エチオピアが軍事介入を行い、これまで支援していたソマリアの暫定政府を首都に据えた。その後、アフリカ連合の平和維持活動の部隊がエチオピア軍と交代する形で首都に展開。戦闘に敗れた法廷連合は瓦解し、軍事部門であったアルシャバーブが残り、暫定政府やアフリカ連合の部隊に対して自爆攻撃などを使い攻撃を続けた。エチオピアによる介入から五年経った2012年、内戦開始から約20年ぶりに正式な政府としてソマリア連邦共和国が南部に誕生した。2013年、首都とその周辺の治安はやっと回復してきている。

▼「人道的介入は市民を助けたのか?

1991年、前述のように軍事政権が打倒された後、武装勢力間で大統領の座を巡る衝突が首都を中心に繰り広げられた。これに追い討ちをかけるように、定期的に起こる旱魃が発生し、ソマリアの多くの市民が内戦と旱魃によって死んでいった。そこに、海外のNGOや国際機関などから支援物資が送られてきた。しかし、それらの物資は運ばれてくる途中で武装勢力に略奪され、直接市民の手元には届きにくかった。そこで、国連をはじめとした国際社会は武装勢力の間で停戦を結ばせ、UNITED NATIONS OPERATION IN SOMALIAⅠ(UNOSOMⅠ)という数百名規模の部隊を首都へ派遣し、支援物資が市民に届きやすい環境を作り出そうとした。しかし、小規模でかつ軽武装の部隊は、停戦合意後も断続的に衝突が起こる環境では効果的に活動することができなかった。そこで次に国連は、米軍指揮下の大規模で重武装のUnified Task Force(UNITAF)を送り込んだ。これにより、飢餓は治まってきた。ICRC(赤十字国際委員会)はソマリア全域に展開していた約900の給食センターのうち約700を閉鎖することを決めた。これによって、飢餓により苦しむ人々を支援するという国連の初期の目標は達成された。

しかし、国連はソマリアの再建のため、UNITAFをUNITED NATIONS OPERATION IN SOMALIAⅡ(UNOSOMⅡ)という形に変え、介入を強めた。その後、UNOSOMⅡとアイディード支持派の間で銃撃戦が起き、市民30人以上が死亡し、100人以上が負傷、UNOSOMⅡも数十人の死傷者を出す事件が生まれた。この事件で、現地の目撃者はUNOSOMⅡの部隊が事前警告なしに発砲したと証言。一方、国連は群衆の中にいた武装勢力が先に発砲し、それに応戦する形で群衆に発砲したと報告。この事件に関して独立した調査委員会の設置と事実関係の再調査を要望したアイディード派に対し、国連はその声を無視する形で軍事攻勢をしかけていく。この事件の後、再びUNOSOMⅡがデモ隊に対して発砲、女性や子供を含む市民20人以上が死亡、40人以上が負傷する事件が生まれた。このようなUNOSOMⅡの姿勢に対して、米国の大手NGOであるCAREはUNOSOMⅡによるアイディード派の拠点への攻撃や、パキスタン部隊の発砲を非難する声明を発表し、国連の軍事行動が首都で飢える10万の市民への食糧供給を妨げたと指摘した。また、イタリアの国防相やフランスの外務省もUNOSOMⅡによる市民の殺傷に対して非難と遺憾を示した。

その後、国連はUNOSOMⅡと群衆が衝突した事件はアイディード将軍の指示による犯行であるとし、将軍の逮捕命令をUNOSOMⅡに出した。その結果、UNOSOMⅡはその姿勢をさらに強め、アイディード将軍が逃げたとされる病院をヘリコプターなどで攻撃。これにより患者の中から死傷者が出て、医療機器などが破壊された。この病院の院長をはじめ病院関係者は、アイディード将軍が逃げ込んだという国連の主張を否定した。院長は「仮にそうであっても、動けない重症患者が入院している病院を攻撃することが許されるのか。」「私は将軍が避難してきても治療目的でない限り入れるのを拒否した。国連は武力の使い方を間違えている」と、UNOSOMⅡを強く批判した。

このような攻勢によってもUNOSOMⅡはアイディード将軍を逮捕できないことから、ついに将軍の情報に対して賞金をかけアイディード派への攻勢を続けた。これに対して、イタリアの国防相は「UNOSOMⅡは紛争に長期的に巻き込まれかねない。世論も議会もそのような状況に賛成することはできない。我々は和平の達成と国民和解、人道援助という本来の目的とその手段をよく考え直さなければならない」とし、軍事力の行使ではない対話による武装解除を行うことを国連と米国に提案した(「朝日新聞」1993年7月14日)。米国では、米上院議会の民主、共和党の有力議員がソマリアからの米軍の即時撤退を求める立場を明らかにした。欧米に本部を置く26の民間の支援組織は、ガリ国連事務総長に対して一連の軍事行動に抗議した。

この国連の流れは、アイディード派の幹部の集まりを襲撃した米軍のブラックホークという戦闘ヘリコプターがアイディード派に撃墜され、乗っていた米兵の遺体が街中を引きずり回される映像が米国の大手メディアCNNを通じて流されたことによって、一変した。この映像はソマリアの飢餓に心を痛めていた米国民に直接届き、米国議会からクリントン政権への強い批判が生まれ、クリントン大統領はソマリアからの撤退を明言。これにより、主力部隊を米軍に頼っていた国連もソマリアから撤退を余儀なくされた。そしてこの一連の介入は、国連、米国にとって思い出したくない過去の物語となった。また、ソマリアに積極的に関わろうとする国もソマリア周辺国以外になくなっていった。

当初、ソマリアで飢餓に苦しむ人々を助けるために立ち上がった国連や国際社会は、初期の目標を達成した後、さらに武装勢力の強制的な武装解除を目指し、アイディード派との衝突に敗れ、撤退した。その中で、国連による攻撃や武装勢力との戦闘の間に死傷した市民に対して、何の謝罪も補償もないまま、自分たちの都合で去っていった。自国以外の市民が生命の危機に瀕したときに、国際社会が支援するということは歓迎すべき姿勢だと思う。しかし、このような一般市民の犠牲を是とする無責任な人道的介入は本当に歓迎すべきものなのだろうか。

ソマリアで内戦はなぜ生まれるのか?

軍事介入をどのようにすれば超えることができるのか。国連の介入のときには、内戦という人的要因と旱魃という自然の要因が軍事介入を招く結果になった。そして、この内戦が起きていなかったならばこの旱魃についても国際社会の支援を得ながら、どうにか乗り越えることができた可能性はある。そのように考えていくと、人的要因である内戦がなぜ生まれてくるのかという疑問が、介入を超えるためのヒントとなってくる。なぜなら、国連の撤退の後にも十数年にわたる内戦が依然として残り続けたからである。では、なぜソマリアで内戦は生まれるのだろうか。

ソマリアの内戦をみていると、大きく二つの点が浮かび上がってくる。一つは、遊牧民であるソマリ族は生きていく上で何らかの紛争を常に起こしているということだ。それは時として家畜の水場を争う場合であったり、他の氏族の家畜を奪う場合であったりと紛争は身近に存在していた。

内戦の要因である二点目は、植民地時代に移植された国家という枠組みだ。一九世紀後半からの西欧列強による植民地化により、ソマリアの政治権力構造は大きく変化させられた。これまで各氏族が争って取り合っていたソマリ民族が点在する地域における水場や遊牧地は、中央政府の一握りの人々が独占的に管理する権限を持つことになった。つまり、国家というシステムが強制的に移植されたことによって、ソマリアにもともと存在した紛争の構造が大きく変化し、ソマリ族内の紛争の規模をさらに大きく、熾烈なものにしていった。

このような民族内で恒常的に繰り返される紛争と西欧的な国家という枠組みに強い影響を受け続けたのはソマリア南部であった。これに対して独自の解決方法で歩み続けているのが北西部のソマリランドである。その取り組みを学ぶことによって、ソマリア南部、ソマリア全域での介入、内戦を超えることができるヒントが得られるのではないだろうか。

内戦と介入を超えるソマリランド

強い陽射しと青空の下で行き来する人々、平屋建ての商店街の中にいくつか空に伸びるビル。道をゆっくりと通り抜けるミニバスには、「肝付町教育委員会」、「日当山温泉 国分荘」など鹿児島にある地名が書かれている。そのため、ここまで読むと鹿児島の一つの町に来たのかと思うかもしれない。しかし、ここは日本の外務省のホームページでは退避勧告、渡航延期と指定され、赤一色で塗られているソマリランドが首都とするハルゲイザだ。街中の車の9割以上は日本からの中古の輸入車である。2013年1月4日、筆者は約5年ぶりにハルゲイザを訪れた。

ソマリランドを知る人は日本や海外でも少ないだろう。むしろ、ソマリアは内戦で危険だという認識の中にソマリランドも入れられてしまっている。しかし、ソマリランドはアフリカでも珍しく外部からの手助けのない中で、自分たちの力で自分たちの住むソマリランドという地域を独立させている。これは、約20年間内戦が続き、度重なる国際社会からの軍事介入を招くソマリア南部とは正反対だ。ソマリランドは自らの力で内戦と介入を乗り越え、平和を作り出すことに成功している。

1991年、軍事政権が崩壊した後に内戦が始まったソマリア南部とは異なり、旧英国領ソマリランド(ソマリア北西部)では氏族の長老たちを中心として和解の道を探る動きが生まれていた。政権崩壊後の翌月には、ソマリランドの主要な3つの氏族が集まり、和平に合意し、ソマリアからの分離独立を宣言。暫定政府と初代大統領が決まり、これまでの紛争当事者間で賠償金(ディヤ)が支払われ、和解することとなった(高野、2013、437頁)。

しかし、このように順調に見えたソマリランドだが、翌92年2月に政府側の氏族間の戦闘やソマリランドの最大の収入源である北東部のベルベラ港をめぐる第一次内戦が生じた。このベルベラの紛争は半年間続き、2千人以上が死んだとされる。この内戦では主要な3つの氏族が関わっていたため、これらの氏族の長老は仲介することができなかった。そこで、内戦に関わっていなかった氏族が自発的に当事者に和平を呼びかけた(高野、2013、404-405)。同年10月には長老たちによる和平交渉が行われ、すべての空港及び港は政府の所有に帰すことが確認され、和平が成立。このときの内戦の解決方法としては、何千人も殺されているため従来の賠償金(ディヤ)の支払が不可能なため、当事者間の氏族で相互の娘を20人を差し出し、嫁に迎えた(高野、2013、447頁)。

その後、93年に北西部のボラマで三ヶ月以上にわたる和平会議が行われた。この会議には、ソマリランドに住む全氏族の代表150名の他、オブザーバーとして知識人、海外在住者なども加わり、計2000人以上が参加した。会議の結果、①政府の警察ができるまでは各氏族が責任を持ち、民兵や山賊などを取り締まること、②各氏族は民兵を解体し、武器を回収、その武器は政府のものとする、③ソマリランドの外部から侵攻があった場合は各氏族が一致して戦う、④グルティ(長老の特別和平会議)を常設する、ということが決まった。これらと同時に、長老150名が大統領を決める選挙を行い、第二代エガル大統領が決まった(高野、2013、405-406頁)。

またその後、94年に第二次内戦が発生。常設されていたグルティは政府の側に立っているとみなされたため、中立性を欠き仲介を行うことができなかった。そこで、このときは海外に住んでいるソマリ人が仲介者となった。この第二次内戦が起こる直前に国連がソマリランド全域に国連軍の派兵を当時のソマリランドのエガル大統領に打診したが、断わられている(高野、2013、440-441頁)。

同年10月にはハルゲイザで会議が行われ、ソマリランド憲法制定、複数政党制の導入、武装解除の完遂などが決定。また、同会議で行われた大統領選挙でエガル大統領が再選された。

ソマリランド内の氏族はその間で紛争が発生した場合、紛争に関わっていない中立の第三者を必要とする。これは遊牧民であるソマリ族が、日常の紛争を解決する独自の方法を伝統的に使用、維持していることからくる。

このようなソマリランドの平和への姿勢は、Association of Local Government Authority of Somaliland の Abdillahi M. Hersi 代表と話したときに感じた。会話の中でアブドッラーヒー代表は「ソマリランドにはノルウェーや中国などが石油の埋蔵調査に来ている。(ソマリランドに)石油があればそれはそれでいいことがだが、石油がなくともやっていける。例えば、石油があるだけだと食べては寝ての繰り返しで、サウジアラビアのようになる。石油の前に民主主義が先にあるべきで、そこが重要である。」と話した。戦後、民主主義国家として生まれ変わったはずの日本から来た私には、その言葉はとてもまぶしかった。

介入を超えるために私たち市民ができることは?

このような状況の中で、私たち市民が国際社会からの介入を超えて、ソマリアとどのように付き合うことができるのだろうか。ソマリア南部への国連の介入をみたように、その介入に市民が注文をつけたとしてもなかなか効果を出すことはできない。ましてや、自分たちの国の政策に注文をつけてもほとんど変わらないことが多いのではないだろうか。そのように考えると、私たちが簡単に連絡をとることができ、顔の見える関係を作れるとしたら、その相手は私たちと同じ市民だろう。マスメディアで報道されることを私たちはそのまま信じざるえないときがある。しかし、現地に友人がいた場合、その報道の是非を電話やメールで聞くことができる。また、現地にNGOのような市民団体がある場合は、そのNGOを支援する形もつながりを作りやすい。

そこで、私が訪問したソマリランドのハルゲイザ、ソマリア南部のモガディッシュで活動する現地のNGOを紹介するとともに、私たちに何ができるのかということを提示したい。

例えば、ソマリランドの自治体と何か行いたいときには、Association of Local Authority of Somaliland に話をしてみてはどうだろうか。この組織にはソマリランドの多くの自治体が加盟しており、それらの自治体に対してスタッフは少ないながらも政策アドバイスなどを行っている。また、ソマリランドでのソマリ人の専門家による平和や発展の研究を支援したい場合は、1999年に設立された Academy for Peace and Development がある。ここはソマリランドの紛争などを調査・研究し、いくつもの報告書を作成している。また、女性の権利向上をめざす団体として46の団体のネットワークをつなぐ Nagaad Network がある。なかなか女性の権利が認められないソマリ社会で諦めずに活動を続けている。他に、2001年に設立された Somaliland Youth Development Association は、犯罪を行った子どもたちの教育や、難民支援を行っている。これらのNGOは Insight on Conflict で紹介されている。

また、ソマリランドについては、このような市民団体と同時に、企業協力も勧めたい。ソマリランドに輸入される日本の中古車はドバイ経由でディーラーを通して輸入されてくる。そこで、これらのディーラーを通さず直接ソマリランドに持ってくると車も安くなるということを何人かの人から聞いた。ソマリ人は商機に敏感である。少しでも治安がよくなると、海外在住のソマリ人が投資を行い、新しい工場を作り、製品を街に送り出している。以前はなかったコカ・コーラに黄色いSBiと書かれたフタが付き、ハルゲイザでは売られていた。日本とソマリランドのビジネスマンが手を組むと、新しい商機が生まれるだろう。2013年6月、ソマリアでの支援活動も行っている日本紛争予防センター(JCCP)JCCP M株式会社という関連企業を設立した。この会社はアフリカをはじめ中東やアジアなどへ進出を考えている日本企業へのコンサルティング、視察先の提案や現地の販売網の調査を行っている。このような企業が日本とソマリアの経済・人的交流の架け橋になることが期待される。

他に、このような社会人組織ではない日本ソマリア青年機構という学生団体が日本国内外で活動を行っている。この団体は、ソマリアの隣国ケニアのソマリ人居住区におけるソマリ人ユースギャングを対象とした社会復帰の支援や、ソマリ人ユースの日本の大学への留学支援、スポーツを通じた日本とソマリアの市民社会の関係構築を目指すプロジェクトなど、ソマリア内外にいるソマリの若者とともに興味深い活動を行っている。

ソマリア南部のモガディッシュでは、2007年に設立された Somali Humanitarian Aid and Development Organization(SHADO) という団体が現地の難民キャンプなどで物資の支援などを行っている。私はモガディッシュではこの団体に助けてもらった。この団体が支援を行っている国会議事堂の裾野に広がる難民キャンプ、内戦で崩れた市街地、そして新しくオープンしたばかりのホテルなどを見ることができ、人々から話を聞くことができた。SHADOのスタッフは、治安がよくなってきているので、今ならどのような新しい支援であろうと行うことは可能だろうということを話していた。現在、海外のNGOや国連機関などに支援の申請を行っており、日本からの支援も探している。

ソマリランドは今勢いよく発展してきている。一方、ソマリア南部はこれからだ。双方、状況が違うので関わり方は異なるが、市民同士のつながりを続けていくことが、お互いの社会を見直すきっかけを生み出し、相互にこれからの平和を創っていくだろう。そして、それは今後の外からの介入、そして内部の内戦を退ける体力を育んでいくに違いない。

 

参考文献.

遠藤貢「機能する「崩壊国家」と国家形成の問題系」『紛争と国家形成』アジア経済研究所、2012。

クレール・マゴン、ミカエル・ノイマン・ファブリス・ワイズマン『人道的交渉の現場から』小学館スクウェア、2012。

黒岩揺光『僕は、七輪でみんなをハッピーにしたい』ユーキャン自由国民社、2013。

高野秀行『謎の独立国家ソマリランド』本の雑誌社、2013。

中西(和田)杏実「ソマリアにおけるイスラーム原理主義の動向」『防衛研究所紀要』2012。

西川由紀子『小型武器に挑む国際協力』創成社、2013。

吉川元・矢澤達宏共編『世界の中のアフリカ』上智大学出版、2013。

Kinfe Abraham,”Somalia Calling,” Ethiopian International Institute for Peace and Development,2002.

日本語によるソマリア紹介   since 2014-10-18

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