蔚山大のチェ・ジョンホ碩座(せきざ)教授(寄付金によって研究活動を行えるよう大学の指定を受けた教授)は「混迷していた旧韓末(朝鮮王朝時代末期から大韓帝国までの時期)、誰もが中国、日本、ロシアばかりを見ていたとき、青年だった李承晩は水平線の向こうに米国を見つけた。そのため、彼を『19世紀韓国のコロンブス』と呼ぶ」と説明。「われわれの数千年の歴史における今の繁栄は大韓民国を建国した李氏の功労の結果だが、今の韓国国民はこの偉大な指導者のことを知らなすぎる」と嘆いた。李承晩の功績を無視したりゆがめたりし、過ちばかりをほじくり返す行為は今も続いている。建国大統領の死から50年という節目を迎えても、われわれはいまだに彼に感謝するすべを知らない。
李大統領は1960年に下野した後、冬の暖房の燃料にも事欠くほどだった。ハワイでは同胞が用意してくれた30坪(約100平方メートル)ほどの古い家で貧しく暮らした。フランチェスカ夫人の実家から衣類を送ってもらったときの段ボールをたんす代わりに使った。同胞たちが少しずつ寄付してくれたカネで生き長らえ、祖国への旅費をためるため5ドル(現在のレートで約620円)の散髪代さえ惜しんだ。老夫婦はごく小さな食卓に向かい合って座り、韓国に戻る日だけを待ちわびた。そうして5年の月日が流れた。
李氏が韓国料理を恋しがると、妻はつたない韓国語で歌を作って歌ってくれたという。李氏も一緒に歌ったその歌を、作家イ・ドンウク氏が伝えている。「毎日、毎日、キムチチゲ(チゲ=鍋料理)、キムチグク(グク=スープ)/毎日、毎日、豆もやしグク、豆もやし/毎日、毎日、豆腐チゲ、豆腐グク/毎日、毎日、みそチゲ、みそグク」。誰もおらずひっそりとした彼の墓の前で、この歌を思い出すと胸が詰まった。