まろまろ一笑懸命 実はスゴかった!戦後の昭和歌謡史4時間スペシャル 2015.07.12


そんな簡単な事じゃないんだなっていうのもわかったしでもそれと同時に楽しい事もいっぱいありそうだなと思います。
期待と不安の移住生活がいよいよ始まる。
きみまろ:「『まろまろ一笑懸命』4時間スペシャル」「中高年の皆さん今夜は若かったあの時代にタイムスリップです」しんまろ:こんばんは!しんまろ:ローラちゃん玉森君今日も素敵な格好だね。
ローラ:ありがとう。
きみまろ:私が綾小路きみまろでございます。
ようこそ、いらっしゃいました。
今夜のテーマは実はスゴかった!戦後の昭和歌謡史
玉森:1945年に終戦を迎え今年で70年という事でですね戦後の昭和を彩ったすごい歌手の皆様をお招きして日本歌謡界で起きたブームを振り返りながら今だから話せる驚きの裏話を聞いていきます。
しんまろ:さあ、本日、ゲストもたくさん来ます。
なんと…。
玉森:30名。
しんまろ:30名!玉森:そして合計年齢が2138歳。
ローラ:うわあ!しんまろ:年表の方見てみましょう。
1950年、假屋美尋さん誕生。
ローラ:誰?この人。
きみまろ:私の本名は假屋美尋っていうんですよ。
しんまろ:今回はね時代に沿って色んなファッションにもチャレンジしていくみたいなんで皆さん色んな師匠の姿が見れますんで。
色んな師匠のカツラ…あの…。
色んな…。
きみまろ:何を言ってるの?しんまろ:いやいや…いやあの…きみまろ:それでは参りましょう!綾小路きみまろと…。
綾小路しんまろが…。
きみまろ:笑わせます!しんまろ:聴かせます!一同:『まろまろ一笑懸命』!
この番組もおかげさまで今回で第4弾
超貴重映像と超貴重トーク満載でお送りする今夜は懐かしのスター歌手による奇跡の祭典!
ミッキー:多分50年…。
藤木:そうです。
半世紀ぶりの再会もあれば…
眞木:これ、最初で最後。
しんまろ:最初で最後ですか。
もう二度と見られない?夢の共演も
今夜はそんな時代の証人たちとともに戦後の歌謡史を彩った名曲を振り返ります
しんまろ:さあ、最初のゲストは50年代の歌姫ですね。
玉森:最初のゲストはペギー葉山さん初代コロムビア・ローズさん大津美子さんです。
しんまろ:皆さんの年齢合わせちゃったんですけど240歳。
芸歴は?
60年以上前の歌謡界で今では考えられない経験をされてきた皆さん
想像もつかないすごすぎる戦後まもない頃の歌謡界を語る
ペギー:赤ちゃん。
玉森:赤ちゃん…。
1945年終戦を迎えた日本
戦後の日本歌謡史は焼け野原から聞こえてきたこの1曲から始まった
並木:♪〜「赤いリンゴに唇よせて」
松竹映画『そよかぜ』の主題歌並木路子が歌う『リンゴの唄』である
並木:♪〜「リンゴは何んにも言わないけれど」♪〜「リンゴの気持はよく分る」♪〜「リンゴ可愛や可愛やリンゴ」藤山:♪〜「若くあかるい歌声に」♪〜「雪崩は消える花も咲く」きみまろ:「藤山一郎さん奈良光枝さんの『青い山脈』も当時を代表する歌でしたね」
そして、1949年あの昭和の歌姫が映画の主題歌でレコードデビュー
美空:♪〜「歌うはカッパ・ブギウギ」♪〜「パチャパチャパチャパチャパ」♪〜「きゅうりをポリポリポリポリキャーッ」♪〜「カッパ・ブギウギギャーッ」
天才少女歌手、美空ひばり
のちに517曲もの名曲を生み出す歌姫伝説が、この時始まった
時は1950年代に移り…
51年ラジオで『第1回紅白歌合戦』の放送が開始
ちなみに、この頃は1時間番組だった
そして、この年美空ひばりと人気を分けた2人の歌手がデビュー
江利:♪〜「さりにし夢あのテネシー・ワルツ」
美空ひばり以来の天才少女と言われた江利チエミ
さらに…
雪村:♪〜「TillIwaltzagain」♪〜「withyou」♪〜「Letnootherholdyour…」
デビューから最短でスターへと上り詰め世紀に1人のシンデレラと呼ばれた雪村いづみ
1955年には世間に注目されたこの3人が集まり三人娘が誕生
3人が出演する映画は三人娘シリーズと呼ばれヒット作を連発した
そして、三人娘に続くように本日の証言者たちもデビューしていくのだが…
玉森:こちらです。
こんなに大変!戦後まもない歌謡界という事ですね。
しんまろ:開いて。
玉森:はい、いきます。
こちら。
デビューは一筋縄じゃいかない!レコーディングに悪戦苦闘!
実は当時の歌手のデビュー方法は現代とは形が全く違った
ペギー:♪〜「燃ゆる口づけこのひととき」
1952年まずはペギー葉山が『火の接吻』でデビュー
のちに『南国土佐を後にして』でミリオンセラーを記録した彼女のデビューとは?
ペギー:それを何曲か私、歌えるようになって。
お友達のお兄様が、米軍のキャンプで歌ってくれない?歌ったのが一番最初の舞台なんです。
横浜なんですけどね。
しんまろ:へえー!ペギー:ビング・クロスビーやシナトラが歌ってるのと同じようにコピーしてラジオから流れてるのをマネしていわゆるマネの歌よね。
チエミさんも、やはり米軍で歌ってらしたんです。
彼女はもう大スターだったから。
きみまろ:もう、その時は?ペギー:はい。
私は、そのあとにデビューしたんですけど。
チエミさんは天才でしょ。
天才歌手のあとはどうやろうかっていうのでね私にディレクターがあなたは貧乏な歌姫ですってこう言ったの。
貧乏?って。
いや、貧乏じゃないです。
美ぼうの歌姫です。
それなら納得って。
ペギー葉山と同じ1952年初代コロムビア・ローズがデビュー
のちに『東京のバスガール』で一世をふうびする彼女だが…
ローラ:わあ〜、なんか…。
しんまろ:あれ、なんですか?覆面…覆面は、なんでですか?ローズ:そう。
きみまろ:会社の人の作戦だったんですか?ローズ:そう。
2人に遅れる事3年大津美子もデビューを果たすがそのデビューへの長い道のりが衝撃的
作曲家の渡久地政信先生のお宅に伺ってお稽古をしてそして帰ってくるという。
しんまろ:ええっ!ローラ:そんなに遠いんだ。
ローラ:そんなに長い移動。
しんまろ:そう。
だって行き帰りで14時間ぐらいって事ですよね。
大津:まあ、でも、本当にねやっぱり、夢がありましたのでね希望を持って頑張ってやりましたね、2年間。
1950年代から活躍する歌姫たち
戦後まもない頃のレコーディングの大変さはとんでもなかった
冷暖房もガスストーブでしょ。
ガスストーブの音で…。
ペギー:NGが出てね。
何回やり直した事か。
しんまろ:きみまろさんはもう、あれですよね。
大嵐の日だったのよ、あの日ね。
ローズ:そう。
裕次郎といえば石原裕次郎
歌に、演技と大活躍し今なお、愛され続ける伝説のスーパースターだが…
あの国民的スターの超貴重ダンスとは?
若かりし石原裕次郎とペギー葉山が共演した映画とは?
没後28年
今も愛され続ける昭和の大スター、石原裕次郎
男らしい、ワイルド
そんなイメージで絶大な人気を誇った彼だが…
実は、若かりし頃ペギー葉山と共演した映画ですごい姿を見せていた
この映画の中で酒屋の青年役を熱演した裕次郎
そのエンディングで他では見せた事のないミュージカルダンスを踊っているというが…
そのすごい映像が、こちら
♪〜「黄色いマフラー小意気に巻いて」♪〜「恋を探しに」♪〜「ゴーゴーゴーゴーゴーゴー」♪〜「名誉もお金もいらないけれど」しんまろ:脚、長えな!♪〜「これが僕らの恋…」
こちらがドラマ『はぐれ刑事純情派』でのきみまろの演技シーン
ちなみに、悪い社長役のきみまろは、その後…
殺されてしまった
お話を戻しテレビの本放送が始まったのは1953年
多くの人々が街頭テレビに群がり…
1958年には当時世界一高い電波塔として東京タワーも完成
そんな50年代後半はゲストそれぞれが名曲を生み出した時代
まずは、56年。
大津美子の『ここに幸あり』
この曲は、日本より先にブラジルやハワイで、大ヒット
当時過酷な生活を強いられていた日本人移民たちが自分たちの境遇を歌詞に重ねて心の支えにしていたという
そして57年には初代コロムビア・ローズの『東京のバスガール』
当時、バスガールは女性にとって憧れの職業
初代コロムビア・ローズがバスガールに扮した映画も作られるほど、曲はヒット
一方、ペギー葉山は実は2千曲以上の持ち歌があるすごい歌手
中でも代表曲が2つ
まずは、59年の『南国土佐を後にして』
テレビなどのメディアも未発達の時代に100万枚を売り上げたすごい曲なのだが…
しんまろ:ペギーさん私が歌う曲じゃない!ペギー:これは、私が『南国土佐を後にして』を初めて歌うようにと言われた時にちょっと吐いた言葉なんです。
そんな彼女のもう1つのすごい曲が…
玉森:『ドレミの歌』はペギー葉山がアメリカから持ってきた。
しんまろ:せっかくだからね「かりやよしひろ」で…。
突然始まった2人の即興歌詞作り
「かりやよしひろ」の7文字でどんなドレミの歌が出来るのか
その人なりのキャラクターが出てて、いいんじゃない。
きみまろ:「そんなペギーさんにこのあと『南国土佐を後にして』を歌って頂きますがその前に、こちら」きみまろ:「私の漫談を穴埋めクイズにしました」「それでは1問目」きみまろ:若い頃は男と男の間を行ったり来たり。
さあ、今は何と何の間を行ったり来たり?ローズ:私もそうだった。
きみまろ:ちょっと違いますね私の感じとは。
大津:奥様と孫のところを行ったり来たり。
きみまろ:これも深いですね。
もうちょっと年老いてね。
きみまろ:「失礼しました。
続いて2問目」きみまろ:若い頃は若気の至りでよく羽目を外しました。
あれから40年!今、外しているのは何々だけです。
何を外してるんでしょうか?ペギー:はい。
きみまろ:はい、どうぞ。
きみまろ:「ペギーさん絶好調ですね」「どなたかライバルは現われるでしょうか?」きみまろ:友達にやせる下着を紹介されやせると信じた下着でどうなったんでしょう?それを着けたらどうなったでしょうか?っていう質問ですね。
ローラ:わかった!きみまろ:はい、どうぞ!ローラ:けいれんが起きた。
きみまろ:けいれんが起きた。
大津:湿疹が出来た。
きみまろ:湿疹が出来た。
だんだん近くなってきましたね。
はい、どうなったかです。
ローズ:ヘルペス。
きみまろ:ヘルペス!きみまろ:おめでとうございます!やせると信じた下着でみみず腫れ。
きみまろ:「ここまでペギーさんが3連勝」「全問正解出来るでしょうか?」きみまろ:お父さんかいて、後ろから。
お父さんってあなたの旦那様ですね。
かいてくださいと。
お父さんがいなくなったら誰がかいてくれるんだと。
しかないです。
家が倒れます。
きみまろ:ゾウじゃないんです。
大津:ワンちゃん?きみまろ:ワンちゃんじゃないんです。
しんまろ:シロクマ。
シロクマ。
きみまろ:シロクマじゃないんですよ。
きみまろ:ホワイトタイガー?あなたはね…。
ローズ:お地蔵さん。
きみまろ:お地蔵さん!家が倒れるっていうのはね…。
しんまろ:柱。
柱!きみまろ:おめでとうございます!自分の家の柱にこすりつけると。
きみまろ:「ついにペギーさんの連勝ストップです」「それでは5問目」きみまろ:きれいな人ばっかりです。
何が?これはね、非常に失礼な事です。
でも、これはね、漫談をやるとねみんなワアッと笑うんです。
きれいな人ばっかり、何々が。
ローズ:遠目が。
きみまろ:遠目が?きみまろ:おめでとうございます!きれいな人ばかりです首から下が。
それでは、持ち歌2千曲の中のナンバー1ヒット曲『南国土佐を後にして』を歌って頂きます
しんまろの前口上から
その当時、アメリカの方々の前で歌を披露していましたペギーさん。
しかし、本日のお客様はあっちもこっちも中高年。
きみまろ:ちょっと、それはお客様に失礼でしょう。
もう、じゃあ、私が一生懸命やります。
しんまろ:よろしくお願いします。
きみまろ:歌に込められたふるさとへの思い。
そのはかなき調べは日本人の心に強く刻まれました。
それでは歌って頂きましょう。
ペギー葉山さんで『南国土佐を後にして』。
ご一緒にどうぞ。
歌姫たちが活躍していた50年代後半
世界では、ある1人の男が音楽界に革命を起こしていた
その影響を受け、日本でもこんな音楽が大流行
しんまろ:ロカビリーですよね?きみまろ:ロカビリーでございます。
50年代に起きたロカビリーブームの特徴
それは、日本歌謡史上最も過激といわれるファンの熱狂ぶり。
そのすごさとは…
終戦から、まもなく10年を迎えようとしていた日本
復興は着実に進み娯楽を求める余裕が出てきたのはちょうど、この頃
日本でもコーラが発売されるとアメリカ文化がより浸透し始め…
1954年はアメリカのセックスシンボルマリリン・モンローが来日し熱烈な歓迎を受けた
街では『ローマの休日』が話題となりヘプバーンカットが流行
ビキニが生まれたのもこの頃
日本が海外文化を取り入れ始めた、そんな時現れたのが世界中の若者を熱狂させた男エルヴィス・プレスリーだった
彼の歌う曲は黒人の音楽、ロックと白人の音楽、カントリーが融合したロカビリーといわれる新しい音楽
エルヴィスのトレードマークにもなったリーゼントにポマードという不良スタイルが世を魅了
戦後の日本が、海外文化を取り入れだしたと同時に現れたエルヴィス
そんな奇跡的なタイミングの重なりによって生まれたのがロカビリーブームなのだ
ローラ:あっ!こんにちは!しんまろ:尾藤イサオさん藤木孝さんミッキー・カーチスさんです!ローラ:うわあ!きみまろ:へえ〜!
現在は俳優業がメインの3人
だが、実は歌謡界で一時代を築いたすごい人物たち
そして、今回、なんとバラエティ番組初出演の藤木が…
俳優ではなく、実はすごい歌手だった3人が語るロカビリーブームとは?
ローラ:ガラガラガラガラ…。
しんまろ:56年頃ブームのきっかけはエルヴィス・プレスリー。
当時はね、国際電話ったって大変なんだ。
今みたいにパッとiPhoneで繋がらないからね。
ローラ:ウワーオ!ミッキー:エルヴィスに、俺がお前、ジャズ歌えないのか?って言ったらいや、俺は譜面が読めねえから歌わねえんだとかって言って。
しんまろ:ほにゃらら登場と。
しんまろ:ロカビリー三人男。
日本のロカビリーブームの中で最も脚光を浴びロカビリー三人男と呼ばれた若者たちがいた
まずは和製エルヴィスといわれた平尾昌晃
現在は作曲家としても有名ですね
続いて、山下敬二郎
三人男の中では女性からの人気が一番高かったという
ミッキー:それは本人が言ってるだけ。
3人目は、この人でした
そう、今回のゲストミッキー・カーチス
魅惑のセクシーボイスで女性たちを虜にしたんです
しんまろ:うわ!ジャケットも、かっこいい!ローラ:オシャレ!しんまろ:超かっこいいよ。
ミッキーさん、3人のうちの1人じゃないですか。
ミッキー:みんな死んじゃってよ。
ローラ:えー!しんまろ:そんな事ないですよ。
御三家とか三人娘とかさ。
きみまろ:三人娘とか。
藤木:ミッキーさんは本当に雲の上の人で面と向かうとなんにも言葉が言えないほどなんかドキドキしちゃって…。
ミッキー:嘘つけ、お前。
藤木:本当です。
そんな覚えがあります。
尾藤:この前もねミッキーさんは、本当に、僕らの神様ですよって言ったらお前、いいからおさい銭あげろよって…。
別の名前で…川路美樹っていうんだけど。
ミッキー・カーチスのもじりなんだよね。
自分じゃなきゃ、嫌だっつって。
ローラ:ジャーン!しんまろ:ジャズ喫茶?
1950年代に人気を博したジャズの生演奏を聞くジャズ喫茶
しかしロカビリーブームが来るとそのあまりの人気からロカビリーの演奏を聞かせるようになったという
ミッキー:銀座のACB…。
尾藤:銀座のACBっていう…。
しんまろ:回ってるよ、なんか。
銀座のACB有名だったんだ。
ミッキー:有名。
ローラ:今、お客様が、みんなACBねってうなずいてた。
う〜ん?ジャズ喫茶と不良になんの関係が?
その答えはロカビリーブームを象徴するあるイベントに隠されていた
それが日劇ウエスタンカーニバル
会場となる日本劇場は収容人数が、およそ4千人
そのステージにはロカビリー三人男を始め多くのミュージシャンたちが出演していたが…
何より、日本歌謡史上最も熱狂的といわれたファンのその過激ぶりがすさまじかった!
ロカビリーブームを象徴する日劇ウエスタンカーニバル
歌謡史上最も過激といわれるそのファンの熱狂ぶりがすごい
こちらはロカビリー男の平尾昌晃
さらに、山下敬二郎
三人男の中では女性からの人気が一番高かったそうです
そんな社会現象を巻き起こした日劇ウエスタンカーニバル
『悲しき願い』で知られる尾藤イサオもこのイベントをきっかけにデビューした1人
そんな尾藤だが実は意外な経歴が…
すると…
なんとも不自然なほど絶好の位置に置かれたウクレレを発見
しかし、ミッキーは気づかず尾藤のお話に夢中
彼を見たんだよ、寄席で。
寄席で見たんだよ。
そこで…
じゃあ、デビュー曲。
♪〜「Babyletmebe」♪〜「yourlovin’TeddyBear」♪〜「Putachainaroundmyneck」♪〜「andleadmeanywhere」♪〜「Idon’twannabeatiger」♪〜「tigersplaytoorough」♪〜「Idon’twannabealion」♪〜「lionsain’tthekindyou」♪〜「loveenough」♪〜「Justwannabe」♪〜「yourTeddyBear」♪〜「Ohletmebe」♪〜「yourTeddyBear」♪〜「Ijustwannabeyourteddybear」
そして日劇ウエスタンカーニバルでは多くのスターだけでなく現代にも通ずるある2つの文化も生まれていた
きみまろ・しんまろ:親衛隊。
ローラ:親衛隊?
さらに、もう1つウエスタンカーニバルで生まれていたものが…
きみまろ・しんまろ:紙テープ。
ローラ:ああ。
しんまろ:グッズ?ローラグッズだけでいいんだけど。
船橋さんのコレクションは他ではお目にかかれないお宝ばかり
中には驚きの値段がつくものも
ローラ:さらなるブームの到来。
めくります。
ジャン。
しんまろ:ツイストブーム。
ローラ:おお〜。
アメリカのチャビー・チェッカーという歌手がはやらせたと言われているのが腰をくねらせて踊るツイストダンス
60年代初頭に世界中で流行したこのツイストだが…
実は、ゲストの藤木孝が日本での第一人者
当時、ウエスタンカーニバルでデビューしたばかりだったにもかかわらず一躍スターの仲間入りを果たす
デビュー後、立て続けにツイストの曲を出しツイスト男の異名までとった藤木だが…
今夜、50年間仲間内だけの秘密にしていたある事実を初告白する
というのも…
というのも、その後、藤木は人気絶頂の中なぜか歌手を引退し、俳優に
そこにはどんな真意があったのか?
ローラ・しんまろ:でも実は…。
きみまろ:実は何かあるんですね。
藤木:ジャズボーカルが大好きで芸能界に入ったような経緯がありまして。
藤木:だけど歌う事は好きだったんでなんとかなったんじゃないかと思うんですけれども。
歌手引退から一度もツイストを踊っていない藤木
が、ここでわんぱくなローラが…
しんまろ:大丈夫かな?本当、皆さん、ちょっと大丈夫?ローラ:みんな塊で投げないように。
しんまろ:バーンってミッキーさんの目に当てないように。
しんまろ:かっこいい!尾藤:イエイ!しんまろ:かっこいいですね。
イエーイ!
そして、締めにこんな質問を
戦後の歌姫たちの活躍やロカビリーブームが起こった1950年代から時代は60年代に入る
戦後の復興から、次第に高度経済成長期を迎えた日本
地道に働いた成果がようやく形となり生活を楽しむ余裕も生まれてきた時代
国民は明るい未来に希望を抱き胸膨らませていた
そんな時代に、すごい勢いで一般家庭に広がったもの…
それが家庭用テレビ
所得倍増計画が池田内閣から発表された事を機にサラリーマンのお楽しみは自宅でくつろぎながら見る野球中継となった
ちょうどON砲を擁する巨人の全盛期
また、東京オリンピックを迎える頃にはテレビの普及はさらに勢いを増し…
1964年、ついに世帯普及率が90%を超えラジオにかわり、テレビがお茶の間の王座に君臨した
続いての証言者はそんなテレビが普及した時代に大活躍した方々
しんまろ:ナベプロ3人娘。
玉森:続いてのゲストは伊東ゆかりさん中尾ミエさん、園まりさんです。
中尾:なんて失礼な番組なんでしょう。
伊東:いっぺんに冷や汗が出てきた。
きみまろ:その世代ですね。
中尾:ありがとうございます。
中尾:なんだろう。
小顔?しんまろ:いや、違います。
あの…なんですかね?
そんな3人が語るのは今のアイドルとは、ひと味違うすごいエピソード
1960年代のテレビには渡辺プロダクションのタレントが数多く出演
その原点といえるのが日劇ウエスタンカーニバルの成功
その人気を支えていたのが渡辺プロダクション所属のスターたちだったのだ
そして、またしても渡辺プロに国民的歌手が誕生!
それが、双子のデュオザ・ピーナッツ
♪〜「私の胸に、今日もひらく」
抜群の歌唱力で歌って踊れる歌手として大人気に
この2人が歌うトータルレコード売上は1000万枚以上
1週間に20曲もの新曲を覚えなければならない事もあったが、何気ない顔で練習していたという
そんなザ・ピーナッツの後輩にあたるのがナベプロ3人娘
元気で、はつらつとした3人は主にダンサブルなカバーポップスを歌うアイドルグループ
実は、全く性格の違う3人なのだが十代の頃は、ほとんど毎日一緒に過ごしていたという
ちなみに、彼女たちもウエスタンカーニバルに出ていたらしく…
このあと、3人が語る先輩、ザ・ピーナッツの意外な秘密
きみまろ:え〜!
事務所の先輩だったザ・ピーナッツと3人はどんな関係だったのか?
こちらです。
ローラ:わあ、似てる。
玉森:姉のエミさんと妹のユミさん、双子ですが…。
ローラ:うん、わかった。
中尾:わかった?何?ほくろが、ここかここ。
中尾:あ、惜しいね。
ローラ:本当?初めて知った。
ビックリ!中尾:え〜!ええ〜!しんまろ:初めて?初めて知った!きみまろ:え〜!しんまろ:えっ!中尾:そうよ。
生まれた時から一緒だったザ・ピーナッツだが3人はというと…
中尾:♪〜「可愛いベイビーはいはい」♪〜「可愛いベイビーはいはい」
3人娘と呼ばれる以前にすでに『可愛いベイビー』で売れていた中尾ミエ
しかしあるテレビ番組がきっかけで3人娘になる事に
ローラ:あ〜、そうなんだ。
きみまろ:あ、そうなんですか。
中尾:うん。
しんまろ:ちなみにナベプロ3人娘の中の誰の事、応援してたとかってあるんですか?しんまろ:ちなみにナベプロ3人娘の中の誰の事、応援してたとかってあるんですか?
60年代テレビの普及とともに人々に愛されたのが…
NHKの『夢であいましょう』
この番組からはこんな名曲も
坂本:♪〜「雲の上に」♪〜「幸せは空の上に」♪〜「上を向いて歩こう」
61年には渡辺プロダクションが制作した『シャボン玉ホリデー』もスタート
次々とスターを生み出していく
こうして番組制作にも携わる事で文化を形成していく渡辺プロダクション
その社長、渡辺晋氏によって日本のエンターテインメントの礎が築かれていったのであった
今では、当たり前となっている給料制なんですけど実は、渡辺プロダクションが芸能事務所としては初めてしたそうなんですよ。
ローラ:そうなんだ
そんな彼女たち、実は3人で発売したレコードは1枚もないのだという
じゃあ、ナベプロ3人娘っていうレコードはないんですか?VTR、どうぞ。
ソロでヒットを飛ばしていたのは中尾ミエの『可愛いベイビー』だけだったが次第に、他の仲間も、ヒット曲を持つようになっていく
相手を、じっと見つめて語るような口調で歌う園まり節は世の男性を虜にした
さらに、伊東ゆかりも続く
伊東:♪〜「あなたが噛んだ小指が痛い」♪〜「きのうの夜の小指が痛い」
この『小指の想い出』は少しエッチな大人の歌
10代の少女だった3人もすっかり大人へと成長しそれぞれの道を歩んでゆくのである
伊東:♪〜「しのんでみるの」玉森:園さんなんですけれども1960年、1967年マルベル堂のプロマイド売り上げ女性歌手、第1位なんです。
しんまろ:出た、マルベル堂。
こうして一度は離れた3人だが2004年に、3人娘を再結成
30年以上の時を超えた再結成の裏には様々な思いが…
それぞれソロとなり一度は3人娘として活動しなくなった3人
園まりに至っては芸能活動を休止した時期も
しかし、30年以上の時を超えなぜ3人娘を再結成したのか?
ミエさんはどうなんですか?園まりさんに対して。
しんまろ:どういう事ですか?愛した人はあなただけの部分を自分だけのために歌ってくださいっていう事ですよね?
なんと!ここで、きみまろ憧れの園まりとの夢の時間が実現
ビシッとカツラも整えた
しんまろ:うわ〜!きみまろ:ドキドキした?私の方がもう。
一同:おお〜!
憧れの園まりに、きみまろはどんな漫談を見せるのか?
では、師匠恩返し漫談、お願いします!
中尾:あっという間ですよ。
きみまろ:月日の流れなんて。
きみまろ:新しい…。
伊東:すごいですね。
しんまろ:まりさんの方チラチラ、チラチラ。
60年代初頭3人娘が女性アイドルとして活躍する一方ある3人を筆頭にした男性のアイドル歌手が輝き始める新たな音楽史が幕を開けようとしていた
玉森:どうぞ。
玉森:続いてのゲストは森田健作さんそして三田明さん美樹克彦さんです。
三田:似合いますね。
きみまろ:そうですかね?三田:相撲部って感じ。
貫禄がある。
きみまろ:相撲部…。
1960年代半ば好景気により高校進学率は70%を超え多くの若者が高校生活を謳歌出来る時代に
若者たちは、夢や希望友情や恋愛が詰まった学園生活に憧れを抱くようになっていく
そんな気持ちを歌ったのが…
そして、御三家と言われる青春歌謡を代表するスターが登場しブームは加熱していく
舟木:♪〜「赤い夕陽が」
その象徴的存在といえば舟木一夫
デビュー曲の『高校三年生』は220万枚の大ヒットを記録
舟木:♪〜「ああ高校三年生」
レコードジャケットで着ている学ランは舟木が高校時代実際に着ていたもの
この学ラン、そして八重歯は舟木のトレードマークとなった
続いて3人の中では先輩格の橋幸夫
橋:♪〜「星よりひそかに雨よりやさしく」♪〜「あの娘はいつも」
吉永小百合とのデュエット曲『いつでも夢を』でレコード大賞を受賞
さらに、この人気は映画界をも巻き込み同じ名前の映画が作られていく
あんたの威勢のいいのには恐れ入ったよ。
日本映画の新たなジャンルとして映画界を盛り上げていった
そして、一番最後にデビューしたのが西郷輝彦
西郷:♪〜「君だけを」♪〜「夢にみているぼくなんだ」♪〜「星の光を」
特徴は、そのたくましい眉毛
彫りの深い顔立ちで女性たちのハートをつかんでいった
そんな御三家を中心に大スターが続々と誕生していく青春歌謡に迫っていくがその青春にかけた熱い情熱がみんな揃って、すごかった
そして御三家と同じ頃三田明もデビュー
御三家に三田を加え四天王とも呼ばれた
♪〜「美しい十代、あゝ十代」
しかし、ここで1つ疑問が
日本一の美少年とまで言われた三田だがなぜ、御三家には入れなかったのか?
こうやって。
ね?あれ、ただ曲げるんじゃないんですよ。
息を吸いながら曲げる。
ハッと、こう…。
♪〜「潮来の伊太郎ちょっと見なれば」こんばんは。
森進一です。
そして、美樹克彦は独特のパフォーマンスで注目を集める
美樹:♪〜「回転禁止の青春さ」
当時としては、ド派手な動き。
学生服を着て素朴な10代のイメージが強かった青春歌謡に新たな路線を取り入れた
美樹:なんかこう、歌が普通の青春歌謡とはちょっと違うんで。
だからなんかしなくちゃと思ってじゃあ、出来る事を。
じゃあ、踊りが出来るんだから動こうかって。
時代は移り青春の巨匠、森田健作が登場
森田:♪〜「さよならは誰に言う」
ドラマ『おれは男だ!』の主題歌にもなり森田健作イコール青春というイメージを決定づけた
こうして、青春歌謡は若者たちの心を駆け抜けていったのだ
♪〜「さらば涙と言おう」三田:イエーイ!
御三家に続き青春歌謡を盛り上げ羨望のまなざしを浴び続けてきた3人
だが、その栄光の裏には知られざる様々な苦労が…
ローラ:へえ〜、いい話。
しんまろ:へえ〜。
森田:だからそれを引きずってるせいかなかなか恋愛が出来なかった…。
最後は、捨てられるんじゃねえかと思って…。
きみまろ:42。
三田:え〜?
この「かおるちゃん」というフレーズが、一世をふうびした美樹克彦の『花はおそかった』
愛する人と別れ悲しみに暮れる青年の切ない気持ちがつづられた歌詞
涙を流しながら歌うという斬新な歌唱スタイルと歌の間に入れる台詞が話題になった
美樹:♪〜「僕はさがしていたんだよ」
そして何よりこの曲最大の特徴がなんともいえない表情で最後に叫ぶフレーズ
実は、このセリフにはこんな逸話が…
きみまろ:でも、その当時今の歌を泣きながらね美樹さんがいつも歌っていらしたのを記憶にあるんですけど。
しんまろ:人気のバロメーターは?玉森:人気のバロメーターはこちらです。
プロマイドの売り上げ。
と、ここで、ゲスト3人の当時のプロマイドが登場
玉森:そしてですね昭和39年から41年の売り上げのランキングが。
ローラ:三田さんも入ってる。
しんまろ:3年とも全部いる。
という事で、急きょ、別室できみまろブロマイド撮影!しかし…
見られているとも知らず撮影に入る、きみまろだがどんなポーズを決めるのか?
カメラマン:はい、いいですよ。
はい、せーの…はい。
きみまろ:小指が…立てちゃダメなの?カメラマン:いや、いいんですいいんです。
そして、撮影終了
意気揚々と帰ってきたきみまろだが…
ローラ:かっこいい!きみまろ:こういうポーズとか。
ローラ:いいね、いいね。
きみまろ:これでおしまいにしてください。
なんと、後日マルベル堂で本当にきみまろのプロマイドを1週間限定で販売
何枚売れたか?結果は番組後半で
では、話を戻し青春歌謡を駆け抜けたゲストたちの本当の青春時代
さらなる驚きのエピソードが浮き彫りに
美樹克彦は作曲家として活躍
小林:♪〜「もしかしてもしかして」
小林幸子の『もしかして』などヒット曲を持つ
そして、三田明
彼には信じられない3つの不幸が降りかかる
まずは、所属事務所が倒産し借金1億5千万円
さらに…
三田が東京から福岡へ向かう移動の最中たまたま乗った飛行機がなんとハイジャックされてしまった
なんとか犯人は捕まり事なきは得たがこの時、事件として報道陣が詰めかけたまたま乗り合わせていた三田は時の人として取材を受けていた
さらに、このあと日本一の美少年と言われた三田明にさらなる悲劇が襲う
ローラ:何?何?三田:大やけど。
知ってる?ローラ:やけど?ローラ:うわー!三田:僕もう、この業界に復帰出来ないかなって。
森田:顔は命だもんね。
三田:3日ぐらいしたらねおっ、いいじゃんっていって。
1週間したら、治ってるよって。
ローラ:そんなに早く治ったの?三田:どんだけ再生率がいいんだって言ってました。
本当にね、やっぱり、お金は使えばなくなりますけどね友情は、使えば使うほど増えますよ。
本当です。
ありがとうございます。
しんまろ:森田さんは奥様へのプロポーズも砂浜でされたと…。
森田健作、一世一代の砂浜でのプロポーズ
その熱い内容とは?
森田:うちの父親が宮城県は仙台なんですよ。
しんまろ:仙台の砂浜で?森田:そうそう。
それでねちょうどね、朝日が海からグーッと上がってくるんですあそこは。
しんまろ:きたー!と?森田:きたー!と。
しんまろ:歌ったんですか?森田:当たり前じゃないか。
俺の歌なんだから。
しんまろ:当たり前じゃ…。
プロポーズですよね?森田:そう。
そうだよ。
だから俺と一緒に砂浜走ったんだからこれから、ずっと走らなきゃまずいだろ?っつって。
森田:ですからね、私は青春の気持ちを持ち続けたいとそういうふうに思ってます。
ローラ:素敵!
そんな生涯青春、森田健作が『さらば涙と言おう』を披露
ただ、久しぶりに歌うそうでちょっぴり緊張気味
どうも、皆さんありがとうございます。
森田:おっ、アクアライン!どうぞ、我が千葉県へお遊びに来てくださいませ。
お願いします。
きみまろ:どうぞ、皆さん大きな拍手をお願い致します。
森田:800円です!
さあ、お次は1960年代後半に流行した青春歌謡とは真反対のムーブメント
ちなみに衣装は?
しんまろ:ちょっと立って。
きみまろ:ちょっと立ってみて。
玉森:いらっしゃいました。
玉森:こちらです。
ゆっくりで…。
玉森:続いてのゲストはジャッキー吉川とブルー・コメッツさん。
玉森:元ジャガーズ沖津ひさゆきさん。
玉森:元パープル・シャドウズ今井久さん。
玉森:元ピンキーとキラーズ今陽子さんです。
玉森:ここですね。
すいません。
はい、こちらです。
♪〜「ティーリーリーリリリリー」
アメリカのエレキバンドザ・ベンチャーズ
日本の若者たちはそれまで見た事も聞いた事もない演奏と魅惑のサウンドに衝撃を受け…
さらにあの伝説のロックバンド来日でさらに、その熱が過熱!
世界中で愛されたザ・ビートルズが日本の音楽業界に革命を巻き起こす!
自ら演奏し、自ら歌うという新たな音楽のスタイルが確立し日本でもその先駆けともいえるジャッキー吉川とブルー・コメッツが登場
井上・三原:♪〜「旅路の果ての孤独な街で」♪〜「俺は悲しき恋を知ったのさ」
ビートルズが奏でるブリティッシュサウンドの流れをくんだ『青い瞳』をリリースしたところ50万枚のヒット!
これを機に、一気にグループサウンズブームに火がつく!
そして、ブルー・コメッツはなんとあの伝説の歌姫の演奏も担当する事に
美空:♪〜「まっかに燃えた太陽だから」♪〜「真夏の海は恋の季節なの」
美空ひばりと発表した『真赤な太陽』
そのレコード売り上げは驚異の140万枚超えを記録した
さらに、すごすぎるこんな伝説も
しんまろ:リハーサルっていうか音合わせも含めて3回…。
しんまろ:いい時代ですよ今は、ねえ。
玉森:ありがたい、助かります。
しんまろ:ありがたいよな今は、なあ!玉森:助かってます。
着実にキャリアを重ねていたジャッキー吉川とブルー・コメッツ
最大のヒット曲を発表したのが1967年。
それが…
1967年に発売された名曲『ブルー・シャトウ』は同年のレコード大賞を受賞。
その売り上げは、なんと…
玉森:はい!玉森:『ブルー・シャトウ』売上150万枚。
玉森:300万…!しんまろ:1人300万?三原:1つの部屋で、みんなでせーので300万をバーッとばらまいた事ある。
ローラ:映画みたい。
しんまろ:映画だ、映画。
ローラ:すごーい。
三原:その後の話がせこい。
一枚一枚拾って、またそれを…。
これは超貴重!
きみまろの熱い要望によりご本人が替え歌披露
当時、口ずさんだあの歌詞を覚えてらっしゃる方も多いのではないでしょうか?
あの名曲の替え歌ご本人が歌うとどうなるのか?
一同:♪〜「森とんかつ泉にんにく」♪〜「かこんにゃくまれてんぷら」♪〜「静かにんじん眠る」♪〜「ブルーブルーブルーシャツ」
貴重な替え歌ありがとうございました
ブルー・コメッツの人気を受け1967年に入ると次々と新しいグループが誕生し始める
全盛期にはグループが溢れこれをGSブームと呼ぶようになった
しんまろ:ジャッキーさん始まりなんですね。
吉川:一番最初がブルー・コメッツ。
日本で、なんせナンバー1になろうとそういう事で始めたんですよ。
そうしたら、うーとか、あーとかそういうの言い出して。
こりゃ歌った方が面白いんじゃないかっつう事できっかけはなあ、綱木、そうだったよな?三原:そうです、そうです。
当時のバンドっていうのは初見で譜面読めるのはブルー・コメッツだけだったんですよ。
ローラ:へえー。
三原:悪いね、悪いね、悪いね。
沖津:どういう意味よ?吉川:今井君、悪いね。
三原:だから、色んなタレント歌手の伴奏が出来たんですよ。
初見で譜面読めるから、全員が。
三原:当時はなんて言うんだろうグループ・サウンズって言ってないんですよ。
ザ・スパイダースとブルー・コメッツしかなかったの。
二大バンドしか。
で、それが何年か経ったらうわ〜っと増えた。
それでグループ・サウンズってなっちゃったの。
そんなGSブームの中現われたのが本日のゲスト、今井久のいたパープル・シャドウズ
パープル・シャドウズ:♪〜「僕が初めて」♪〜「君を見たのは」♪〜「白いとびらの小さなスナック」♪〜「一人ぼっちのうしろ姿の」
また、ワイルドな風ぼうで人気を博したジャガーズには沖津ひさゆきがいた
ジャガーズ:♪〜「よろこびよ」♪〜「帰れ僕のこの胸に」しんまろ:怖かった?きみまろ:何が怖かったんです?
さらに今井にはバンドマンらしからぬこんな話も
三原:僕らね、ギタリストここに3人いるけどもギタリストってのは結構、何本も何本も変えるわけですよ、ギターを。
買ったりして。
三原:普通は、なんか浮気するよね。
しんまろ:これかっこいいなとか。
三原:買うじゃないですか。
絶対買わないの。
一方、この当時に今なお破られていないすごいオリコン記録が誕生
グループサウンズブーム最盛期に最大のヒットを飛ばしたのが本日のゲスト、今陽子がいたピンキーとキラーズ
なんとオリコン17週1位という前人未到の大記録を打ち立てた
さらに、驚くべきはこの『恋の季節』デビュー曲にして売り上げは270万枚
また、この時なんと、今陽子はまだ弱冠16歳だったのだ
ローラ:えー!すごいハード。
今:移動しながら点滴打って点滴の針を抜いてステージに出て行ってハーッて歌ってまた帰ってくるとまた点滴、もう一回やり直して。
きみまろ:ええ、私の方が1つ。
きみまろ:その頃、だからねすごい、もちろんかわいくてね背が高くて、スタイルがよくて発声がこうね、よくてねすごいなとみんな、憧れの的でしたよね。
今:すみませんこんなになっちゃって。
きみまろ:いやいやいや…。
ローラ:きれい、きれい。
デビュー曲『恋の季節』でいきなり270万を売り上げ一躍スターとなったピンキーとキラーズ
しかし、実はその人気の裏で涙をのんだ方がスタジオにいるんです
玉森:こちらです。
しんまろ:今さんに物申す?玉森:物申す。
今:なんか怒られるんですか?玉森:こちらです。
しんまろ:今さんに物申す?玉森:物申す。
しんまろ:私です?今:何?今井さん。
今井:そう、急にねバーッて出てきて。
なんと不安は的中
日本レコード大賞グループ新人賞まであと一歩だったパープル・シャドウズだが勢いのあったピンキーとキラーズに新人賞を持っていかれてしまう
略がわかんなかった。
玉森:GSブーム。
はい。
しんまろ:わずか2年半で終了?ローラ:えぇ、早い!しんまろ:そうなんですか?
実は1967年に爆発的に火がついたと思ったら1969年の春には終えんを迎えてしまったグループサウンズブーム
しかし、なぜわずか2年半という短い期間で終わったのか?
玉森:仮説です。
番組で仮説を…。
過失じゃない、仮説です。
仮説ですね。
それでは、仮説マル1
GSが社会問題に!ローラ:えっ、どういう事?小田:ただねブルー・コメッツだけはね七三に分けてネクタイですからねブルー・コメッツだけは許されたの。
今:ブルー・コメッツは正統派。
しんまろ:正統派?やっぱり、50年代もさ…。
しんまろ:言ってたね、さっきねローラ:行っちゃいけない不良みたいな。
そんな厳しかったんだね。
しんまろ:しっかり歴史として結果的に残っているのにその当時は、もう、ダメだと。
そして、2つ目の仮説は?
しんまろ:急激に増えたGSグループ。
しんまろ:増えたんですか?どうぞ。
ローラ:わあ!しんまろ:何?これ。
今:すごい数!小田:すごいな、この数。
ローラ:やりたい人がいっぱいいたんだ。
全盛期には100組を超えるグループサウンズが出現
そんな中過激なパフォーマンスのグループが登場!それがオックス
なんと、オックスはステージでメンバーが失神するという過激なパフォーマンスで当時、話題となった
オックスが1部でピンキーとキラーズが2部だったんですよ。
で、1部でオックスのファンが半分以上、失神しちゃって2部、ピンキーとキラーズ幕開けたら半分以上いなんですよ。
しんまろ:お客さんが?きみまろ:へえ〜。
さあ、続いての仮説は?
しんまろ:実は演奏が…。
小田:自分たちが演奏してなかったんだよ。
しんまろ:自分たちで演奏しなかった。
小田:口パクで。
今:そう、口パク。
ひどい!こんなに口パクしてで、ギャラの話ばっかりして…。
ローラ:イメージが悪い。
きみまろ:イメージ悪いね。
ローラ:イエーイ!
なんと、今夜は今陽子が16歳にして270万枚を売り上げた往年の名曲あの『恋の季節』が特別バージョンで、よみがえる
必見です
ちょっと、ちょっとちょっと、ちょっと…。
それは、ちょっと大先輩に失礼でしょ。
しんまろ:師匠、お願いします。
きみまろ:わかりました。
今:オールライト!今:フウッ!オールライト!カモン!
さあ、ここまで様々な歌謡史の裏側を見てきたが実は50年代からひっそりと始まっていた音楽があった
それは、60年代にブームとなるのだがどんなジャンルなのか?
玉森:マヒナスターズから松平直樹さん、田代美代子さん。
敏いとうとハッピー&ブルーから敏いとうさん。
ロス・インディオスから棚橋静雄さんです。
ムード歌謡という名前にあまり、なじみがない方もいるかもしれないが…
なんと、この4人のレコードの売り上げ合わせて3千万枚以上
実は、とんでもなくすごい人たちばかり
さらに、4人の中には60年代に起こったその一大ブームのきっかけを作った人物が…
始まりは1950年代
戦後、米兵を相手に活動していたバンドが都会のナイトクラブに移り演奏を始めた事がきっかけとされている
銀座や赤坂などネオン街を舞台とした男女の恋愛模様を歌った歌詞で大人たちを魅了した音楽
それがムード歌謡
ハワイアンやジャズラテンなど海外の音楽に和の歌謡曲が融合し日本独自の音楽ともいわれるムード歌謡
実は、その中には誰もが知っている名曲もたくさん
原点とされるのは50年代に活躍したフランク永井
そんなムード歌謡をソロではなくコーラスで歌うグループが登場
それが和田弘とマヒナスターズ
和田弘をリーダーとし本日のゲスト松平直樹がボーカルを務めた
1958年に発売されたこの『泣かないで』が大ヒット
のちに、歌謡界を席巻するモンスターグループとなる和田弘とマヒナスターズだが…
その人気に火をつけたのが不思議な音色を奏でるこの楽器
果たしてこの楽器はなんなのか?
本日は、こちらの向坂さんにお持ち頂きました
一同:お〜!ローラ:すごい。
きみまろ:なるほど。
ローラ:お〜!玉森:お〜。
50年代から60年代にかけマヒナスターズはヒット曲を量産
その特徴が女性歌手をボーカルに招くデュエットスタイル
まずはムード歌謡の女王と呼ばれた松尾和子との『誰よりも君を愛す』
♪〜「誰よりも誰よりも君を愛す」
この曲で日本レコード大賞を受賞すると…
62年には吉永小百合とデュエット『寒い朝』
吉永:♪〜「北風吹きぬく寒い朝も」
そして最大のヒット曲が64年に松尾和子と歌った『お座敷小唄』
♪〜「富士の高嶺に降る雪も京都先斗町に降る雪も」♪〜「雪に変わりはないじゃなしとけて流れりゃ皆同じ」
この曲は、300万枚という驚異的な売り上げをたたき出した
また当時はまだ無名だった田代美代子と組んだ『愛して愛して愛しちゃったのよ』
田代:♪〜「もしもあなたが居なくなったらどうしよう」
この曲で田代美代子は1965年の日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞した
こうしてヒット曲を出し続けたマヒナスターズはムード歌謡界で完全な独走状態となった
しんまろ:ムードなし1点滴を打ちながら。
しんまろ:あんなにムードある中歌ってるのに。
でも、その裏では…。
松平:そう。
もう疲れちゃって。
しんまろ:もう忙しさのあまり。
営業先でも苦労が多かったそうで…
田代:地方に行きますでしょ。
そうするとねホールなんてねなかったところが多いんですよ。
松平:映画館かね小学校、中学校の講堂。
田代:講堂とかで歌ってるんです、私たち。
松平:僕らのバスが通り抜けるのに道が塞がれちゃってて何やってるのっつったら今日マヒナスターズが出るから道路直してるって。
ローラ:ワーオ!
さらに『愛して愛して愛しちゃったのよ』にもこんな裏話が…
しんまろ:名曲は思わぬ場所で…。
きみまろ:思わぬ場所でってどういう意味だろう?田代:廊下を歩いていたんですね。
そしたら、向こうから和田弘さんがいらしたのでマヒナスターズだと思いながらちょっと横目で見るぐらいの感じだったんですけど。
振り返りざまにちょっと待ってって。
『愛しちゃったのよ』が見つかったよっておっしゃったんですよ。
本当に。
しんまろ:本当の偶然その時そこにいたから。
田代:あの歌があったから私は今も、こうやって歌わせて頂けると思って。
もう、私の大切な名刺。
一枚の名刺ですよ、あれが。
松平:それがよかったのかもしれないよねテレビ見てる人は。
ムード歌謡人気にさらに火をつけたのが映画の主題歌にもなった石原裕次郎の『夜霧よ今夜も有難う』
1960年代後半になるとマヒナスターズに続けとばかりに数々のグループが現れ始め中でも、歌謡史に偉大な足跡を残した2組がいた
まずは…
黒沢明とロス・プリモス。
代表曲は『ラブユー東京』
実は、この曲…
玉森:オリコンチャート史上初の1位。
しんまろ:史上初の1位?きみまろ:この時オリコンが生まれたのかな?玉森:黒沢明とロス・プリモスの『ラブユー東京』は1968年1月にチャート誌が出来て初の1位の曲なんです。
ローラ:へえ〜、すごーい。
しんまろ:お客さんが随時来るから表で、こうやって売ってるんだ。
松平:『お座敷小唄』しか置いてない。
あるらしいのでお聞きください。
歌謡史に偉大な足跡を残したムード歌謡グループ
続いては、棚橋静雄が所属するロス・インディオス
さらに『別れても好きな人』もロス・インディオスが歌ったムード歌謡
♪〜「別れたときと同じ雨の夜だった」♪〜「傘もささずに原宿思い出語って赤坂」♪〜「恋人同士にかえってグラスかたむけた」♪〜「やっぱり忘れられない変わらぬやさしい言葉で私をつつんでしまうだめよ弱いから」♪〜「別れても好きな人別れても好きな人」
ミリオンセラーを記録したこの曲
実は、歌謡史にある功績を残していた
玉森:ロス・インディオスの『別れても好きな人』のB面が初のカラオケ音源。
そして、70年代に入りついに、あのマヒナスターズを脅かすグループが現れる
それが、敏いとうがリーダーを務めた敏いとうとハッピー&ブルー
この後、そんな敏いとうとマヒナスターズ松平のバトルが勃発
1970年代に入りついに、あのマヒナスターズを脅かすグループが現れる
敏いとうがリーダーを務めた敏いとうとハッピー&ブルー
まずヒットしたのがこの『わたし祈ってます』
その後もヒット曲を連発したハッピー&ブルーは「ムード歌謡の帝王」とまで呼ばれる
トップに君臨していたマヒナスターズとそれを追いかけた敏いとうだが当時は、お互いどう思っていたのか?
玉森:敏いとうの目標。
玉森:マヒナスターズを潰す。
実は、2組には歌い方に大きな違いが
マヒナスターズの売りはメンバーそれぞれが違う音程を歌う事で生まれるハーモニー
一方敏いとうとハッピー&ブルーはリードボーカル以外は同じ音程を歌うユニゾンスタイル
ライバルだった2組がここで再びぶつかり合う
ユニゾンでもねワーッと言ってたら…。
しんまろ:トップだっておっしゃってますから。
その後も、しれつなトップ争いをしながらもこの2組は、ムード歌謡のブームを支え続けた
フランク・シナトラは『MyWay』などで知られるアメリカの大物歌手
1930年代から長年活躍した、この偉大な歌手と敏いとうとの関係とは?
敏:シナトラが着いた時にねサイン、色々、俺が出すからだから、みんな機敏な行動でさ…。
前後左右、ガードしてね。
11年前もね昭和49年7月の8日ですけどね10日間ボディーガードやったんです。
あの時ね、11年前だけどね僕ね200万ね「ヘイ、トシ」ポーンって、200万ですよ。
11年前、200万。
今回はいくらもらえるかと思ってるんですよ。
数々の名曲を生んだムード歌謡はこんな音楽ジャンルも生み出していた
玉森:ご当地ソングの誕生です。
しんまろ:ご当地ソングの誕生?
東京など都会を題材にする事が多かったムード歌謡はその舞台を全国に広げ生まれたのが、ご当地ソング
その代表曲が鶴岡雅義と東京ロマンチカが歌った『小樽のひとよ』
♪〜「粉雪まいちる小樽の駅に」♪〜「ああひちり残して来たけれど」
累計150万枚を売り上げた内山田洋とクール・ファイブの『長崎は今日も雨だった』もその一つ
♪〜「ああ長崎は今日も雨だった」
実はこのご当地ソングの流行は戦後の日本発展と強い関係にあった
我々の頃は瓦が多い時代でね。
赤坂なんかずっと瓦が多くて。
今、もう洋の世界でしょ?
ブームが落ち着き減ってしまったムード歌謡歌手だが今夜は、そのブームの火付け役となった歌声で懐かしの時代がよみがえる
しんまろ:お客様のね背中が、すごいよかった後ろから見てたら。
みんな、こうね、こうやって。
きみまろ:「ここからいよいよ70年代に突入します」「70年、大阪万博が開催され72年には上野動物園でパンダが公開されましたね」「札幌オリンピックがあったのもこの頃」「インベーダーゲームに夢中になった方もいらっしゃるのではないでしょうか?」
そんな時代、歌謡界では過去最大級のあるムーブメントが到来
今も最前線で活躍する歌手たちが次々と輩出される
きみまろ:「当時はやっていたのはこんな服装でしたね」ローラ:うん、あるし、なんか5年くらい前に、なんか撮影でヒッピーがすごいブームではやって。
だから、私はなんかヒッピー時代、知らないからその時に初めてヒッピーがはやったのかなって。
♪〜「この大空に翼を広げ飛んで行きたいよ」
音楽の教科書でもおなじみこの『翼をください』はフォークソングだという事をご存じだろうか?さらに…
♪〜「CountryRoads」♪〜「takemehome」♪〜「Green,green,」♪〜「it’sgreentheysay」ローラ:懐かしい。
全部フォークなんだ。
1960年代後半GSブームが去り始めた頃に大流行した音楽フォークソングは元々、アメリカの民謡から派生したジャンルの音楽
その始まりは1950年代末から1960年代初頭にかけてアメリカで活躍したシンガーたちだといわれその代表格がキングストン・トリオピーター・ポール&マリーそして…
♪〜「howmanydeaths」♪〜「willittaketillheknows」
ボブ・ディラン
では、話を日本に戻しここで問題
和製フォークシンガー第1号と呼ばれている歌手は誰でしょう
きみまろ:わかりますか?ローラ:えーっと…。
フォーク、フォーク…。
えっと、えっと、えっとあの人、あの人。
あの…。
きみまろ:誰?ローラ:えっと、あれ、あれ。
しんまろ:フォークの第1号の方ですかね?玉森:マイク眞木さん元ザ・ブロードサイド・フォーの黒澤久雄さんばんばひろふみさん杉田二郎さんトワ・エ・モワの白鳥英美子さん芥川澄夫さん高山厳さんです。
と、今なお現役の大物シンガーたちにお集まり頂いたが実は、今からひも解くフォークソング時代とにかく、歌手たちの生き残り競争がすごかった
きみまろ:なんかこうゾクゾクしますね。
しんまろ:第1号は?玉森:この方です。
マイク眞木さんです。
1966年和製フォーク第1号のマイク眞木がデビュー。
その曲が…
今や教科書にも載る『バラが咲いた』でデビューしたマイク眞木は、当時、大学生
そして同じく66年といえば…
♪〜「君の行く道は」
本日のゲスト、黒澤久雄がいたザ・ブロード・サイド・フォーの『若者たち』
♪〜「だのになぜ歯をくいしばり
同名のドラマの主題歌として大ヒット
さらに…
♪〜「この広い野原いっぱい咲く花を」
のちに「フォークの女王」と呼ばれる森山良子もこの時期にデビュー
こうして歩み出した日本のフォークソングの歴史
しかし、その始まりの裏には意外なストーリーが!
日本フォークソング界の先駆者マイク眞木と黒澤久雄の名曲に隠された秘密とは?
しんまろ:出た!『バラが咲いた』は実は…。
玉森:もう1枚いきます。
しんまろ:『若者たち』は実は…。
ローラ:気になる、気になる!
日本のフォークソング1曲目には、まさかの裏話が
しんまろ:えー!しんまろ:ラジオで聞いた時ビックリしました?眞木:ビックリした。
この間レコーディングしたの!あれ、俺の歌じゃん!みたいな。
下手くそだよなとか言いながら。
黒澤:うん、それは言える。
眞木:おい。
しんまろ:そして、もう一つ。
『若者たち』は実は…。
しんまろ:おい!
父親とは日本を代表するあの映画監督、黒澤明
で、黒澤久雄は、そのご子息
黒澤:ヒットしてた時は僕は、アメリカに住んでた。
しんまろ:へえ〜!
一方、フォークソングは空前の大ブームを迎え現在も歌い続けられる名曲がここから続々登場
マイク眞木黒澤久雄から始まった日本のフォークソングだが60年代後半に空前のブームが巻き起こる
まずはザ・フォーク・クルセダーズ
♪〜「おらは死んじまっただ」
この『帰って来たヨッパライ』は累計300万枚以上を売り上げ戦後最大のヒットを記録
そして杉田二郎の『戦争を知らない子供たち』も戦後生まれの世代を歌った曲として高く評価された
♪〜「僕等の名前を覚えてほしい」♪〜「戦争を知らない子供たちさ」
そして、大阪万博が開かれた1970年
人々がアポロ12号の持ち帰った月の石に大行列を作ったこの年
和製ボブ・ディランと呼ばれた吉田拓郎が鮮烈デビュー
吉田:♪〜「人間なんてラララ…」♪〜「人間なんてラララ…」♪〜「人間なんてラララ…」
そして、72年札幌冬季オリンピックのテーマ曲としてトワ・エ・モアが『虹と雪のバラード』を発表
この曲は60万枚の大ヒット
しかし、実はゲストの方々すら知らなかったある事実が…
しんまろ:めくりいってみましょうか。
しんまろ:『虹と雪のバラード』はトワ・エ・モワの曲じゃない?
ちなみにこの曲を歌っていた歌手の中にはグループサウンズで登場したピンキーとキラーズもいた
トワ・エ・モワっていえばさ2人がデキあがってると思わなかった?最初。
1973年オイルショックによりインフレが起こり日本経済は不況に陥っていく
そんな世の中を映し出すようこの頃、大流行したのが四畳半フォークや叙情フォークと言われる生き方を見つめる歌
♪〜「いつも私が待たされた」♪〜「洗い髪が芯まで冷えて」♪〜「小さな石鹸カタカタ鳴った」♪〜「貴方は私の身体を抱いて」♪〜「冷たいねって言ったのよ」♪〜「若かったあの頃何も怖くなかった」♪〜「ただ貴方のやさしさが」♪〜「ああだから今夜だけは君を抱いていたい」♪〜「二人でこさえたおそろいの」♪〜「浴衣も今夜は一人で着ます」
1975年にはイルカの『なごり雪』
♪〜「さみしそうに君はつぶやく」♪〜「なごり雪も降るときを知りふざけすぎた季節のあとで」♪〜「今春が来て君はきれいになった」♪〜「去年よりずっときれいになった」
さらに、本日のゲストばんばひろふみのバンバンが発表した『「いちご白書」をもう一度』大ヒット
ばんば:♪〜「二人だけのメモリー」♪〜「どこかでもう一度」
実はこの名曲が生まれた背景には今だから笑って話せるすごく切ない人間模様が…
しんまろ:『「いちご白書」をもう一度』の直前で脱退。
ばんば:後ろにいる高山厳君と、僕ともう1人、今井ひろしと3人でやり出したんですけどなかなか売れなくて。
しんまろ:あれなんですね。
そんなに、こうお前ら、もうやってられねえぜっていう事ではなかった…?高山:全然そうじゃなかった。
ばんば:交流はあった。
しんまろ:じゃあ『いちご白書』のレコーディングに行ったんですか?高山:そう。
しんまろ:うわー!高山:まさかヒットするとは思ってなかったから。
きみまろ:思ってなかったんですか?高山:うん。
堀内さんと帰りにダメだな、次も。
この曲もヒットしないよなって言って帰ったんです。
しんまろ:うわー、最悪!しんまろ:もう、ちょっと…。
ばんば:彼はね本当に頑張ったんですよ。
それで18年経って『心凍らせて』をヒットさせた。
僕も、彼が授賞式に行って泣きましたもん、嬉しくて。
その『心凍らせて』がこちら
玉森:高山さんは、あの『心凍らせて』が出るまで何をされてたんですか?高山:一応、音楽をやってましたずっと、頑張って。
しんまろ:92年ですよ。
92年まで高山さんは心を凍らせてたんです。
ローラ:なんかそんな感じがする。
しんまろ:すごいですよね。
わからない。
ローラ:なんか、みんな偶然がいっぱい重なってる。
しんまろ:だって黒澤さんと眞木さんとかは、もう気づいたらえっ、ヒット?みたいな。
黒澤:だって学生バンドだもん俺たち。
しんまろ:っていう方もいればばんばさんは最後の思いだ。
高山さんは、もう諦めた。
もう無理無理無理って言ったら大ヒット。
高山:諦めてないない。
5年ぐらい経って僕が30ぐらいになってから音楽だけでは食っていけないから家族を守るためにアルバイトをしないとダメだなと思って。
力仕事をして、二足のわらじ。
その半分は音楽の活動を続けてずーっと頑張ってようやく『心凍らせて』。
…と、生き残りが難しいフォークソングだが実は東西で大きく分かれていた事をご存じだろうか?
関東で広まっていたのがマイク眞木、黒澤久雄といった大学生によるカレッジフォーク
一方、関西で主流だったのがプロテストフォーク
プロテストフォークの背景にあったのは長く続いていたベトナム戦争や日本政府への反対運動
そう、関西の歌手たちは戦争に対する反対メッセージや社会への不満を歌詞に込めたのだ
このように、東西で大きく違いがあったフォークだがお互いをどう思っていたのか?
きみまろ:種類が違いますよね。
黒澤:種類が違う。
きみまろ:じゃあモテたっていう事ですよね?眞木:モテないからいまだにやってんだよ。
きみまろ:大変失礼ですけど生活はかかってないですよね?音楽にね。
眞木:かかってんだけど見せてないだけで…。
しんまろ:一つの音楽のジャンルの中でもそうやって違うジャンルが細かくあるんですね。
しんまろ:お二人は、もう好き勝手ですよ。
ローラ:あっ、ありがとう。
フォークソングの方々はみんなバラバラ!
という事で、マイク眞木に歌って頂くのだが…
黒澤:フォークっていう言葉が出てくるとも思っていない時代から僕たち、やってるんで今、こんなところでフォークの事を喋ってるっていう事自体が変。
きみまろ:へえ〜。
ギター1本あれば話した事もない人でもねなんかこう笑顔でクッと、こう向き合う事が出来るというのは魅力ですよね。
世代をね、超えて集まって。
でもね、僕今、ふと思うんですけどこの歳になって、みんなまだ現役でねやれてるじゃないですか。
若い時ね、もう、そんなこの歳になってやってるなんて思ってなかったもん。
だから、すごいうれしい。
白鳥:♪〜「ウ〜ウ〜ウ〜」眞木・白鳥:♪〜「ウ〜ウ〜ウ〜ウ〜」眞木:じゃあ、皆さんもひとつ一緒に。
さん、はい…。
そのお孫さんにさっきの映像とか見せたりするの?あのね、家に帰ったらね娘がピアノ弾いて『若者たち』やってたんだよ。
それで、それパパの曲なんだけどっつったらへえ〜、知らなかったって言われて。
そういう感じ。
ローラ:そうなんだ。
すごい!知らないで、娘さんが…。
だって、誰が『若者たち』歌う?この歳になって。
黒澤:70のジジイが「バラが咲いた」って…。
バラなんてとっくに散っちゃってるよな。
あれしかないんだからね、俺は。
黒澤:お互いさまだよ。
しんまろ:その言い合いもういいです。
さあ、このあとは…
やめたけど、もう一回グループ結成したりとか強い、みんな絆みたいな、そういうの…。
それでは、気になるきみまろブロマイドの売り上げ結果を発表
意外と売れてるんじゃないかな?150枚。
スタッフ:1枚です。
2015/07/12(日) 18:57〜23:10
ABCテレビ1
まろまろ一笑懸命 実はスゴかった!戦後の昭和歌謡史4時間スペシャル[字]

SMAP香取慎吾が“きみまろ”1番弟子に変身!あれから40年!綾小路きみまろと司会者になって、キスマイ玉森裕太とローラも一緒に昭和スター歌手大集合スペシャル!

詳細情報
◇番組内容
司会の綾小路きみまろ&SMAP香取慎吾、キスマイ玉森裕太、ローラの4人が、昭和の日本歌謡界を築いた偉大な歌手の方々をグループ分けして、当時の貴重な映像とともにトークで振り返ります。歌姫…ロカビリー…青春歌謡…3人娘…ムード歌謡…グループサウンズ…フォーク…続々。若い皆さんが知らない昭和のスター歌手が続々登場してスタジオがスゴいことに。
◇番組内容2
ゲスト平均年齢71歳、出演者の合計年齢2000歳以上で、キスマイ玉森裕太もローラも大興奮!!恒例!きみまろ漫談穴埋めクイズも。
◇出演者
綾小路きみまろ、香取慎吾(SMAP)
玉森裕太(Kis−My−Ft2)、ローラ
歌姫…ペギー葉山、初代コロムビア・ローズ、大津美子
ロカビリー…ミッキー・カーチス、藤木孝、尾藤イサオ
3人娘…中尾ミエ、園まり、伊東ゆかり
青春歌謡…三田明、美樹克彦、森田健作
◇出演者2
グループサウンズ…ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、沖津ひさゆき(ザ・ジャガーズ)、今井久(パープル・シャドウズ)、今陽子(ピンキーとキラーズ)
フォーク…マイク眞木、黒澤久雄(ザ・ブロードサイド・フォー)、杉田二郎、白鳥英美子(トワ・エ・モア)、芥川澄夫(トワ・エ・モア)、ばんばひろふみ(バンバン)、高山厳(バンバン)
◇おしらせ
☆番組HP
 http://www.tv-asahi.co.jp/maromaro/

ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
バラエティ – お笑い・コメディ
バラエティ – その他

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
映像
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz

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