国内外に大きな被害をもたらした太平洋戦争。
日本人だけで300万を超える人々が亡くなりました
大国アメリカに対して挑んだ総力戦。
日本はなぜどのように敗れたのか
NHKには当事者の証言や貴重な記録映像を基に太平洋戦争の敗因を検証した番組があります
午前7時30分。
第1次攻撃隊242機が発艦を開始した。
日本の敗戦をほぼ決定づけたマリアナ沖海戦。
勝敗を分けたのは科学技術と防御に対する日米の意識の差でした
アメリカ艦隊の旗艦空母レキシントンの最新鋭レーダーが日本軍の動きをいち早くキャッチ。
直ちに戦闘機450機が発進し日本軍機の上空で待ち伏せた。
アメリカは国を挙げて当時最新鋭のレーダーを開発。
万全の準備態勢で攻撃を待ち構えていました
一方日本の守りを支えていたのは兵士たちの見張りでした
更に戦闘機でもアメリカは防弾鋼板などを厳重に装備してパイロットの命を守ろうとしたのに対し日本は防御を軽視。
機体を軽くして飛行速度を上げる事を優先しました
玉砕と特攻の精神で戦う事を強いられた兵士たち
多くの若者が南の空と海に散っていきました
戦争終結から70年。
日本の敗因から今何を学び取ればよいのか考えます
こんにちは。
戦後70年の今年「NHKアーカイブス」では戦争をテーマにしたさまざまな番組をお送りしています。
今日は総力戦といわれた太平洋戦争で日本はなぜ敗れたのか日米の科学技術に焦点を当てた番組をご覧頂きます。
ゲストの方をご紹介致しましょう。
昭和史にお詳しいノンフィクション作家の保阪正康さんです。
戦後70年のシリーズには4月からご登場頂いていますが今日もどうぞよろしくお願い致します。
よろしくお願いします。
太平洋戦争というのは今の私たち日本人にとっての最良の教科書だと常々保阪さんはおっしゃっていますけれども今回のこの科学技術に焦点を当てた番組どのようにご覧になりますか?まあ不幸な事にと言うべきなんでしょうけど20世紀の科学技術はですね軍事という枠の中で大きく進むんですよね。
新しい技術もその枠の中で進むんですがその時にその科学技術が軍事に従属したという形で研究開発を進めて戦場にそれを生かしてくるっていうのがどちらかといえば日本だったんですね。
その科学技術というのを人間が使うんだと。
軍事の中でもやっぱり人間っていうものをかみ合わせながら考えていたのがどうもアメリカなんだなっていうのがこのフィルムはよく裏付けてるんですよね。
私はそういうのを見ながらですね科学技術っていうものの本来の意味は何なんだろうと。
この映像を見ながら問いかけがいっぱい私たちに来るように思うんです。
では番組をご覧頂きましょう。
昭和19年6月。
中部太平洋マリアナ沖の洋上を発進する日本の零式艦上戦闘機ゼロ戦。
太平洋戦争中最大の海と空の戦いとなったマリアナ沖海戦。
これに続くサイパン島の陥落により日本の敗戦がほぼ決定した。
この時日米決戦の勝敗を決めたのは戦後に至るまで日本がほとんど知る事がなかったアメリカのエレクトロニクスのその技術を結集した電子兵器である。
(山本)ここはサイパンの北の端太平洋に面したマッピ岬です。
50年前に私の後ろのあの高い崖の上から多くの日本人住民や兵士たちが飛び降りて自ら命を絶っていきました。
戦後この場所はバンザイ・クリフと名付けられました。
この小さな島全体で5万人を超える日本人が玉砕していったのです。
またサイパンの西の沖合で繰り広げられたマリアナ沖海戦でも日本海軍は一方的な敗北を喫して日本の敗戦を決定的なものにしました。
このサイパンを巡る攻防の裏に一体何があり何が敗北を決定づけたのでしょうか。
私たちは中でも当時の新兵器の開発に向けた日米の科学技術の戦いに注目しました。
その戦いからは単に国力とか技術力の差というだけでは済まない科学や人命に対する考え方思想の違いがはっきりと浮かび上がってきます。
それがサイパンの悲劇にどう結び付いていったのか。
今回はマリアナ沖海戦を舞台にこの戦争と科学技術の問題を探ってまいります。
なぜサイパンが太平洋戦争の決戦場となったのか。
開戦から既に2年半。
国民を総動員して戦線を拡大した日本も主導権は完全にアメリカの手に握られていた。
そしてとどまるところを知らない国力と戦力の格差は戦局に決定的な影響を及ぼした。
当時大本営は昭和18年9月御前会議において絶対国防圏の確立を決定していた。
戦線を縮小し北は千島からサイパンビルマに至る日本の防衛線を確保して連合軍の日本への反撃を阻止しようとしたのである。
東京からおよそ2,200キロ。
絶対国防圏の要衝となった日本の委任統治領サイパン。
ここでは陸海軍4万3,000人が島の防備を固めつつあった。
また島には日本人住民2万人余りが暮らしていた。
その同じ頃マリアナ諸島に注目した人物がいた。
ルーズベルトとチャーチルである。
1943年8月。
2人はカナダのケベックで会談し早くもマリアナ諸島の占領作戦を決定した。
アメリカの大型長距離爆撃機B−29。
ルーズベルトとチャーチルの対日戦略の背景となったのはこの空飛ぶ超要塞の完成である。
航続距離6,000キロ。
サイパンを基地とすれば日本本土への戦略爆撃が可能となる。
連合軍はマリアナ作戦を44年6月15日と決定した。
昭和19年6月。
サイパン攻略を目指しアメリカ海軍第58機動部隊の大艦隊が出動した。
総指揮官はミッドウェー海戦の覇者スプルーアンス大将。
彼にはサイパン攻略と日本艦隊との決戦の2つの任務が与えられていた。
6月15日午前5時45分。
猛烈な艦砲射撃と呼応してアメリカ軍の侵攻作戦が開始された。
頑強に抵抗する日本軍との間にすさまじい水際の攻防戦が繰り広げられた。
だが兵力兵器ともに圧倒的に優れたアメリカ軍の前に形勢は決まりつつあった。
日本海軍はこの事態を受けて15日敵艦隊を撃滅する「あ」号作戦を発動した。
連合艦隊の決戦兵力は大和武蔵など戦艦5隻。
大鳳瑞鶴などの空母9隻から成る第一機動艦隊であった。
マリアナ沖海戦における日米の戦力比較。
日本海軍は持てる艦船と航空機の全てを投入してアメリカとの戦いに臨もうとしていた。
一方アメリカはこの時既に艦船航空機ともに日本を圧倒的にしのいでいた。
日本は乾坤一擲この戦いに戦局の挽回を懸けていたのである。
サイパンへの上陸が本格的になった6月17日と18日。
東條参謀総長と嶋田軍令部総長が参内し天皇に当面の作戦について奏上した。
この時天皇から東條へサイパン島を喪失の場合の東京空襲への懸念が伝えられた。
そして嶋田繁太郎軍令部総長に対してはこう激励があった。
「この度の作戦は国家の興隆に関する重大なるものなれば日本海海戦のごとく立派なる戦果を挙げるよう作戦部隊の奮励を望む」。
6月18日。
小沢中将率いる第一機動艦隊はアメリカ艦隊を目指していた。
この時小沢が秘めていた戦法はアウト・レンジ戦法というものであった。
これは日本の航空機の特性を生かした戦法であった。
日本の航空機はアメリカのそれより航続距離が長い。
そこで敵に発見される前にその手が届かない位置から先制攻撃をかければ必ず勝つ。
小沢も軍令部もそう信じていた。
しかしこの戦法には重大な誤算があった。
太平洋戦争中の全期間を通じ日本海軍の主力戦闘機となった…小型ながら航続力と運動性能に優れ当初は世界の水準を超えた日本の誇る戦闘機であった。
第一機動艦隊の先陣を務めた653航空隊。
アウト・レンジ戦法の成否はパイロットたちの肩に懸かっていた。
海軍は相次ぐ消耗戦で多くのベテランパイロットを失いこの時大部分が二十歳前後の兵士たちであった。
しかもパイロットたちは燃料不足などにより出動に際して空母の発着艦の訓練すら満足に受けていなかったのである。
6月19日早暁。
日本軍索敵機から旗艦大鳳に向け敵艦隊発見の報がもたらされた。
小沢はアウト・レンジ戦法の発動を命令。
第一機動艦隊は戦闘態勢に入った。
653航空隊では胴体に250キロ爆弾を抱えたゼロ戦も出撃準備を整えた。
午前7時30分。
第1次攻撃隊242機が発艦を開始した。
この瞬間第一機動艦隊の司令部も東京の軍令部もそして全海軍が喜びに包まれ戦果を待ちわびた。
しかしこの時日本の攻撃隊の行く手には予想もしない出来事が待ち受けていた。
アメリカ艦隊の旗艦空母レキシントンの最新鋭レーダーが日本軍の動きをいち早くキャッチしていた。
そして全軍で迎え撃つ態勢を整えていたのである。
レーダーは電波を使って敵の方向や距離を測る兵器である。
アメリカは太平洋戦争開戦前からレーダーの開発を進めていた。
アメリカは更にCIC集中戦闘情報室を作りレーダーの情報を一手にここに集め上空の戦闘機に無線で指令を伝える現代と同じ戦闘システムを完成させていた。
この中核となるのがPPIという表示画面である。
PPIは360度全方向の敵の位置を捉え戦術的に絶大な効果を発揮した。
この時空母レキシントンだけで100人のオペレーターが配置され日本の攻撃に備えて完全な防御態勢を整えていたのである。
第2次世界大戦の数年前から世界的に戦闘機の性能が上がりその攻撃力が戦艦や空母にとって大きな脅威となっていました。
海軍の上層部は航空機の時代となった今もはや水上艦艇は使い物にならないのではないかと不安を抱きました。
そこでレーダーをはじめとする新しい防御システムの開発が早急に進められたのです。
アメリカ海軍はレーダーを重要な防御兵器として位置づけその開発に力を入れた。
そして艦船には航空機の方向や距離だけではなくその高度を感知するレーダーも装備し日本との戦いに備えていた。
一方日本もマリアナ沖海戦に出動したおもだった艦船にレーダー電波探信儀を装備していた。
しかしその探知能力はアメリカに比べて著しく劣りおおよその方向と距離が分かる程度であった。
しかも取り扱いも難しく兵器としての信頼性を欠いていた。
(山本)これが当時と非常に近い状態で再現された日本海軍のレーダーの画面です。
しかしアメリカのレーダーのように自動的に周囲360度をキャッチできる仕組みにはなっていませんでアンテナを手で動かしてその向けた方向の40〜50度の範囲でしか探知できませんでした。
画面を見て頂きますとこちらから向こうへと電波が発射されています。
上の方に小さな白い線が見えますけれどもこれが対象物に当たって跳ね返ってきた電波のエコーです。
このエコーの位置から当時は飛行機や船までの距離を読み取った訳です。
現在のこの出ているエコーはビルから跳ね返ってきた電波ですのではっきりしていますけれども飛行機や船のような小さな物体の場合には大変見分けにくく当時電測員と呼ばれた専門の技術者でも勘に頼ってなんとか読み取ったといいます。
では日本はこの程度のレーダーしかなぜどうして開発できなかったんでしょうか。
(山本)日本海軍は開戦当初の真珠湾攻撃などで多くの航空機を使ってアメリカやイギリスの艦隊を攻撃しました。
それは航空戦時代の本格的な幕を開けこれをきっかけにアメリカやイギリスの海軍は航空機の攻撃から戦艦や空母などを守る防御装備の研究開発に拍車をかけていきました。
しかし当の日本海軍はその方向には動きませんでした。
それには海軍の戦い方の基本を定めた「海戦要務令」が大きな影響を与えていました。
明治の日露戦争の前に骨格が作られたこの「海戦要務令」では依然艦隊を主力にした先制集中攻撃が第一とされて海軍軍人の多くがこれを金科玉条としていました。
このために航空機による攻撃さえ補助的なものとされてレーダーに至っては守りのための装備と位置づけられてその重要性はほとんど認識されませんでした。
(山本)それでも日本でもレーダーの開発研究は陸海軍それぞれに開戦前からひそかに進められていました。
このフィルムはマリアナ沖海戦の頃軍の管理の下に大学の研究者が行っていたレーダーの開発実験のもようを記録した珍しい映像です。
終戦までに実用化には至りませんでしたが飛行機の高度測定用のレーダーの開発でした。
しかし当時の日本では陸軍海軍ともその秘密主義とセクショナリズムで研究体制はバラバラでした。
従って民間の科学者の頭脳を結集する事ができず軍人の無理解の中で一部の科学者が細々と研究を進めていたにすぎません。
そして出来上がったレーダーも故障が多く戦艦などに装備されても邪魔物扱いされたといいます。
当時の日本の戦艦などは優秀な目を持った見張りの兵士に艦の防御が支えられていました。
遠くの目標を見分ける厳しい訓練で鍛え上げられその能力は名人芸とさえいわれましたがしょせん限界がありました。
(山本)戦艦や航空機など攻撃兵器には当時の科学技術力を動員した海軍も防御のためにそれを使う事はありませんでした。
ここは東京・霞が関の厚生省の敷地ですけれどもここに当時は海軍省と海軍の軍令部がありました。
ご覧頂きましたように電子技術を防御の面にまで活用したアメリカに対して日本の海軍はひたすら攻撃だけを重視して防御のためにレーダーを必要とするといった発想を持つ事ができませんでした。
こうした攻撃最優先の考え方は明治の日清日露の戦争を経て日本の軍部の中に深く浸透していました。
陸軍と比べればまだしも合理的な精神を重んじたといわれる海軍ですけれどもそれでも「海戦要務令」に見られますように艦隊同士の決戦で相手を打ち負かす事を第一に考える艦隊決戦主義から容易に脱却できませんでした。
それがレーダーをはじめとする防御のための装備の開発を後らせる大きな要因になったように思います。
しかもこの艦隊決戦主義は既にミッドウェーやソロモンの海戦で破綻していました。
それにもかかわらず海軍の指導部はその変化に対応できずにマリアナ沖海戦でもレーダーなど防御の装備で固めたアメリカの艦隊に向かって同じような決戦を挑んでいったのです。
日本の第1次攻撃隊の発進からおよそ2時間。
午前9時30分。
日本の編隊242機はアメリカ機動艦隊に接近しつつあった。
レーダーに影が映ったのは9時半でした。
200キロ前方から敵が来るのを捉えたのです。
影はかなり大きな集団を示していました。
幸いその時我々は最新鋭のレーダーを装備していたので敵の攻撃隊の位置と高度を正確に捉える事ができたのです。
アメリカは高度測定用のレーダーで日本軍機の高度3,500メートルをつかみ情報を戦闘機に伝えた。
直ちに戦闘機450機が発進し日本軍機の上空で待ち伏せた。
完璧なポジションでした。
どうぞ撃ち落として下さいと言わんばかりに敵がやって来ました。
向こうはまだこちらに気付いていない様子でした。
私はその時「これは夢ではないだろうか」とつぶやいた事をはっきりと覚えています。
アメリカ軍機の不意打ちにゼロ戦は混乱に陥った。
ベテランパイロットの多くを欠いていた事も日本軍機の混乱に輪をかけた。
とりわけ653航空隊のパイロットたちには悲惨な戦いであった。
この時初めてゼロ戦に250キロ爆弾を装備したためにその重さで動きが封じられ格好の標的とされたのである。
アウト・レンジ戦法を打ち砕いたアメリカのレーダーの威力。
日本は小沢も軍令部もその現実を知る由もなかった。
マリアナ沖の上空でゼロ戦を待ち受けたアメリカの主力戦闘機グラマンF6Fヘルキャット。
その2年前アメリカ軍はゼロ戦の性能を徹底的に分析しスピードや上昇力などでゼロ戦を上回る性能を持つヘルキャットを完成していた。
ヘルキャットがゼロ戦と最も異なる点はその防御力にあった。
操縦席の後ろにパイロットを守るための防弾鋼板そして燃料タンクを守る特殊ゴムなど防御のための装備が厳重に施されている。
ゼロ戦は銃弾を受けるとすぐに燃えてバラバラになってしまうという報告がありました。
我々は何よりもパイロットの命だけは守ろうとヘルキャットを設計したのです。
ゼロ戦と同じ運命をたどらないためにも防御防弾の装置にはできる限りの力を尽くしました。
アメリカ海軍が防御防弾に配慮したのは戦力としてのパイロットの損失を最小限にとどめる事が目的だった。
一人のパイロットを育てるためにおよそ2年の歳月と7万5,000ドルの費用現在に換算するとおよそ2億円がかかるといわれていた。
アメリカはそれを冷静に判断していたのである。
このヘルキャットの登場によってゼロ戦の優位は崩れ日本の優秀なパイロットたちが次々と失われていった。
(山本)ではゼロ戦とはどんな構造の戦闘機だったのでしょうか。
私たちはカナダでゼロ戦の完全復元を進めている工場を訪ねました。
ソロモン諸島で見つけたゼロ戦の残骸などが置かれゼロ戦の内部構造を間近に見る事ができました。
その大きな特徴は機体を最大限軽くするための構造になっている点にあります。
これはゼロ戦の垂直尾翼の骨組みです。
アルミニウム合金で出来ているんですが至る所に穴がたくさん開いてましてこの穴が開いてるために大変軽くなっています。
ちょっと持ち上げてみますと私の左手の片手で持ち上げても簡単に持ち上がります。
部品の多くに開けられている穴これが機体を軽くし航続距離を延ばし運動性能を上げるというゼロ戦設計の大きな要素を形づくっています。
しかし軽さを追求するあまりパイロットの命を守るという発想は犠牲にされヘルキャットのような防御装備はありませんでした。
ゼロ戦の防御について実戦部隊から軍令部宛てに切実な要望が上げられた。
「戦闘機といえども防御を考慮すべきであり防弾タンクは絶対必要なり」。
昭和18年夏。
海軍と航空機の生産に携わる民間の技術者が集まりゼロ戦の防御について話し合った。
会議の流れを決めたのが軍令部の源田中佐。
源田は真珠湾攻撃の航空参謀で航空作戦に強い発言力を持っていた。
結局ゼロ戦には十分な防御が施されなかった。
優秀なパイロットによって支えられていたゼロ戦。
だが防御不足という大きな弱点によってそのパイロットを失い攻撃力をも弱めていった。
マリアナ沖海戦はそうした中での戦いであった。
午前9時45分。
ヘルキャットの迎撃をくぐり抜けた日本の攻撃機はようやくアメリカ艦隊に達した。
だがここで攻撃機を迎えたのはすさまじい対空砲火であった。
どの砲弾もかつてないほど正確に狙いが定まり攻撃機の間近でさく裂した。
アメリカはこの時VT信管と呼ばれる画期的な砲弾の起爆装置を初めて本格的に使用した。
電波によって目標を感知するこの新兵器が対空砲火の威力を飛躍的に高めたのである。
砲弾にセットされたVT信管は周囲15メートルの範囲で電波を出す。
発射されると電波を出し目標を感知する。
そして自動的に爆発し直接砲弾が当たらなくてもその破片と爆風で敵機を撃ち落とすのである。
このVT信管もレーダーと同じように戦艦や空母を敵機の攻撃から守るために開発された防御兵器であった。
アメリカは開戦前からこのエレクトロニクス兵器の開発を極秘に進めていた。
開戦の1年半前1940年6月。
ルーズベルトは科学者を国防のために動員する大統領令を出した。
全米の400に及ぶ大学と研究機関から3万人の科学者が集められエレクトロニクスを中心とする最新科学兵器の開発が進められた。
VT信管はこの民間の力を結集した政策から誕生した。
拠点となったのは民間の…海軍は航空機の攻撃に備え命中度の高い砲弾の開発を要求した。
それを受けて科学者たちはエレクトロニクスの利用を提案しVT信管の実用化に取り組んだ。
実用化の鍵は新しい真空管の開発にあった。
そのころ普通の真空管はこれぐらいの大きさでしたがこれでは大きすぎてVT信管には使えません。
できるだけ小さくてしかも砲弾が発射された時の激しいショックに耐えられる真空管の開発が要求されました。
そんな衝撃に耐えられる真空管を作るなんて当時は絶対に不可能だと思われていたのです。
研究スタッフは電波を作り出す真空管を強い衝撃から守るために特殊な樹脂やプラスチックなど新しい素材を使って数千種類にも上る試作品を作り出した。
試作品の一つ一つを砲弾に詰め耐震テストが繰り返された。
そして太平洋戦争開戦直後2万Gつまり地球の重力の2万倍の衝撃に耐えられる真空管を完成したのであった。
ここにあるのが当時実験に使われた真空管です。
カーネギー研究所に今も保管されています。
ちょっと分かりにくいかもしれませんがこの黄色い硬い樹脂の中に1つずつ真空管が入っています。
砲を発射した時の激しい衝撃から守るためのものなんですね。
中に入っている真空管がこれです。
長さ3センチぐらいの小さなものです。
この真空管が当時のVT信管の中に4つ使われていたんですが強いショックと激しい回転にも耐える事ができるようにとこの中の…真空管の中のフィラメントにバネを取り付けたりあるいは新しい素材を開発したりと当時のアメリカの最先端の科学技術がこの真空管に結集されていきました。
そしてこの真空管の完成がVT信管の実用化へとつながった訳です。
1942年4月。
VT信管の実用化テストがニューメキシコ州で行われた。
このテストでVT信管はこれまでの時限式信管に比べて20倍に命中率が上がりその破壊力が確認された。
飛行機の近くでさく裂した砲弾がその破片で機体に無数の穴を開けていた。
VT信管の開発はその後の戦争の姿を一変させアメリカでは原子爆弾に匹敵する新兵器と見なされた。
今日全てのミサイルに使用されているこのVT信管がマリアナ沖海戦で初めて全艦隊に装備された。
6月19日午前10時。
VT信管を装備したアメリカ艦隊の対空砲が一斉に火を噴いた。
日本軍はこのVT信管の存在を当時全く知らなかった。
それが明らかになったのは戦後の事だった。
レーダーヘルキャットそしてVT信管。
アメリカが幾重にも張り巡らせた防御兵器の前に日本の攻撃隊は壊滅したのである。
出撃から3時間。
第一機動艦隊の司令部には何の連絡も入ってこなかった。
この日出撃した攻撃機は328機。
その6割に及ぶ193機が帰還しなかった。
この653航空隊でもパイロット153人中93人がついに帰らなかった。
アウト・レンジ戦法は完全に失敗した。
明くる6月20日。
アメリカの機動部隊が日本艦隊の追撃に移った。
午後3時。
攻撃隊216機が次々に発艦した。
日本軍のレーダーがようやく敵機を捉えた。
しかしアメリカ攻撃隊は日本艦隊の目前に迫っていた。
午後5時。
アメリカの攻撃隊が日本艦隊を襲った。
前日の戦いで戦闘機を大量に失っていた日本軍には既にこれを迎え撃つ手だてはなかった。
日本海軍はその防御態勢の弱点をアメリカ軍の前にさらけ出したのである。
連合艦隊が存亡を懸けた2日間の戦いは終わった。
日本は空母3隻航空機300機を一挙に失い連合艦隊はここに壊滅的な打撃を受けたのである。
マリアナ沖の惨敗は軍令部の期待を打ち砕いた。
戦闘を終え第58機動部隊旗艦レキシントンはマリアナ沖海戦についてこう報告した。
「これほど被害の少ない戦いは太平洋戦争では初めてであった。
レーダーなどの開発に時間と費用をかけてきた事が決して無駄ではなかった事をこの戦いは証明した」。
一方日本の前線部隊からは軍令部に宛て高性能の対空レーダーの開発を求める訴えが相次いだ。
しかしもはや時ここに至って日本海軍には要望を満たす体制も物資も失われていたのである。
(山本)このマリアナ沖海戦での日本の敗北は既にアメリカ軍が上陸していたサイパンにも大きな悲劇をもたらす事になります。
上陸に成功したアメリカ軍は孤立した日本の陸軍と海軍の守備隊4万人を急速に島の北部へと追い詰めていきます。
武器弾薬食糧ともに消耗した日本軍はジャングルや洞窟の中に立てこもって抵抗を試みますが万歳突撃や自決で次々に玉砕し7月7日。
サイパンは3週間で陥落しました。
この間2万人以上いた日本人住民や島民の多くもこの戦闘に巻き込まれました。
特に日本人住民は兵隊と同じように投降する事は恥と教育されてアメリカ軍からの投降の呼びかけに応じる人も少なく多くの人が同じく玉砕の道を選んでいきました。
サイパンで戦死した日本兵は4万人。
そして日本人住民の死者も1万人に上りました。
日本の軍隊はここでも住民の命を守る事はしなかったのです。
B−29の第1陣がサイパンに到着した。
サイパンの陥落によって日本は2年9か月に及んだ東條内閣が倒れた。
そしてこのB−29による本土爆撃が日本の敗戦を決定的にしたのである。
終戦の直後アメリカ軍が提出した日本の科学技術についての調査報告書。
「日本の軍部は現代的な戦争兵器の中でレーダーがいかに重要であるかを早くに認識する事はなかった。
日本のレーダーの立ち遅れはこれが根本的な原因となっている。
優れた科学者を擁しながら人的資源を有効に生かせなかったのは全て軍部の独善と過信によるものであった」。
当時の日本の軍部の戦い方を見ますとひたすら攻撃優先で兵士などの命を守る防御のために科学の力を集めるといった発想は全くと言っていいほど見る事ができません。
そうした攻撃優先人命軽視と言える思想が玉砕や特攻隊を生む大きな源にもなりました。
戦後軍国主義から解放された日本は民間での科学技術の発展に力を注いで今ではアメリカをしのぐ技術大国になったとさえいわれています。
しかし本当にそうなんでしょうか。
確かに売れる商品を開発するための技術というのはすばらしく発達しているんですがその一方で生命とか安全環境といった分野での基礎的な科学研究は決して十分とは言えませんし優遇されてもいません。
かつての軍部がひたすら攻撃優先だったようにひたすら経済や企業を優先させる今の日本の精神構造が科学の本来の在り方をゆがめてはいないでしょうか。
また企業で働くサラリーマンたちの生活や命さえもそうした精神の犠牲になってはいないでしょうか。
このサイパンやマリアナ沖で散っていった多くの日本人の姿は私には決して遠い昔の姿であるようには見えません。
昭和19年10月マリアナ沖海戦の4か月後。
戦局の挽回いかんともしがたく日本は神風特別攻撃隊を編制した。
この作戦を決意したのは…大西は大本営にこう了解を求めた。
「最近敵は電波兵器を活用。
空中待機の戦闘機をもって我が攻撃機を捕捉し阻止する。
我が方はいたずらに犠牲も多くこの際将兵の殉国の至誠に訴え必死必殺の体当たり攻撃を敢行するほかに良策はない」。
マリアナ沖でレーダーに敗れた事が特攻隊誕生の引き金となったのである。
航空機による捨て身の戦法は一時アメリカ軍を恐怖に陥れた。
太平洋戦争中国に殉じた航空特攻の数2,406機3,863人。
昭和20年4月に始まったこの沖縄戦。
若者の多くは更に精度を増したVT信管による対空砲火のさく裂の中で南の空に散っていった。
20世紀の戦争で科学技術がいかに重要なのか認識をしていたかいなかったかその違いによって結果が大きく分かれたという事ですね。
そうですね。
科学技術をどう生かすかというのが大きな命題だったと思いますが日本はその点で欠けていたんですね。
やはりここにはいろんな問題が潜んでると思うんですけどもアメリカの側は科学技術というのは現場の意見とそれから研究者とそれを大きく抱えれば国がですね連携が極めて密にいく。
ところが日本はですね科学技術は科学技術それから軍は軍それからあの〜バラバラに技術者は技術者というんで連携がないんですね。
有機的関係がない。
だから科学技術が科学技術として生かされてないというのが今の映像のどうも率直な感想ですね。
従来どおりの戦い方では駄目だという認識がこの時点でなかったという事ですね。
そうですね。
日本はそういうとこに考えがいかないんでしょうね。
フィルムの中でもありましたけども例えばゼロ戦の弱さっていうのは具体的に分かってきた訳ですね。
じゃどういうふうに改造するのかという会議の時に精神論でですね突貫攻撃でという形で科学技術そのものの上に精神を載せてしまう。
でそのバランスそれが日本人の文化なのかどうかという事も問われなきゃいけませんけども科学技術を理解する根底がですねまだ近代の仕組みというものを持ち得てなかったんだなという感じがしました。
この番組の中を見ていますとそもそも科学技術を理解しようとしなかったという…。
私はこの戦争は政治とか思想で論じるのではなくてもっと常識的にそれから私たちの国の文化の領域で論じるとですねやっぱり反省点いっぱいあると思うんですよ。
でその中の一つがやはり軍事主導といいますか軍事があらゆる事をコントロールした。
でそのために…科学技術も軍事にコントロールされた訳ですけども。
そのためにですね軍事に役立たないものは存在価値なしゼロというような発想があったんですね。
軍事というのはいかに相手に勝つかという事ですね。
で日本の兵士あるいはパイロットもですね人命というよりもむしろ兵器の一部と考えられてたんじゃないかと。
つまり国民の生活を考える政府というものがそこには機能していないという事ですね。
政治がほとんど声がない政治が軍事に全くこう抑圧されて国民の生命財産生活というものをどのように保障していくかという事は軍事の枠でしか考えられなかったという事ですね。
しかしアメリカが急速に技術の開発を進めているその時に片や日本の戦闘における技術の状況科学技術はどんな状況だったんでしょうか?これはね私もある時調べた事があるんですがあんまり具体的に名前挙げたらあれですけど登戸研究所とか陸軍にあるんですね。
そういうとこでどういう研究をしたのかという事を研究者に聞いた事があります。
でその時の研究にはですね「殺人光線をやってたんだ」と。
あるいは「超短波の兵器を…そういった電波兵器を作るんだ」とかって言ってました。
しかし「じゃそれは誰が…国があるいはシステムとしてやってたんですか?」と言ったら「いやそうじゃなくて誰々がやってたんだよ個人的に」というような感じなんですね。
根拠のないものなんですね。
全部…。
それからもっとひどいのはですねもう最後になるとですね「町の発明家に似たようなテーマを持ってくる人がいる」と。
例えば「水の上をですね絶対歩く時に沈まない靴を考えるんだ。
それを研究してるんだ」と。
そういう人がいて僕にその研究者が言ってたんですが「君それに上の方はお金出してたんだ。
研究費出してたんだよ。
僕らなんか知らない間に」ってね。
だから逆に言えば研究するテーマそれから研究をするシステムそれがですねかなり恣意的にそれから思いつきだったんではないかなというふうに思います。
戦後アメリカ軍の報告書の中で「日本には優れた科学者を擁していたにもかかわらずその人的資源を生かす事ができなかったのは軍部の独善と過信だ」というような事が書かれている訳ですけれども。
という事は優れた科学者もいた訳ですよね。
昭和20年の秋から何千人ものアメリカの研究者が来てあるいはスタッフが来て日本に我々が勝ったという理由をいろんな局面で調べていくんですね。
その中で彼らは日本の兵器研究についても調べます。
科学技術についても調べます。
その時彼らが一様に驚いたのは日本の技術者のレベルの高さ。
それはですね実は昭和の6年7年…まあ昭和8年に日本は国際連盟脱退するんですがそれまでですね日本は国際社会での理論というのを学会誌世界の学会誌に発表するんですがかなり注目される論文いっぱいあったんですね。
それをアメリカも知ってた訳です。
だけど逆に言えばそれが戦時下の中でどうしてそれが兵器化しなかったのかという事は逆に言えばアメリカの側は驚いたというか兵器化しなくてよかったという事なんでしょうけど軍が全くそれを考えるだけの頭脳を持てなかった。
だから自分たちの考える事を…つまり軍事で網張ってますからねその軍事の事だけで科学技術を見てるから技術者個々人が優秀だとかどうかっていうのはあんまり考える事もなかったという事を指摘したんですね。
科学技術に関するこの報告はかなり的確だと思いますね。
その日本の技術力を示す一例としまして電波研究の分野で当時世界的に高い評価を受けていたものがあります。
戦前から戦中にかけて工学博士として活躍した八木秀次氏が発明し今も世界中でテレビアンテナとしても使われているいわゆる八木アンテナです。
その研究開発を伝えた番組を4分ほどにまとめていますのでご覧頂きましょう。
八木秀次の業績の中で最も有名なものはいわゆる八木アンテナの発明です。
八木アンテナは簡単な構造でありながらこれに代わるものはなく今も世界中でテレビの受信や通信に使われています。
大正8年。
東北大学に新設された電気工学科の初代教授に八木秀次が迎えられた時八木は無線通信が波長の長い電波から短い電波の利用へ進む事を予測し超短波の研究に着手しました。
その結果大正14年に電波の指向性を発見八木アンテナを発明しました。
アンテナの研究を資金の面から援助したのは仙台の素封家…当時21万円という研究費を電気工学科へ寄付し研究を助けました。
この無線電話も斎藤の援助により作られています。
この装置は昭和5年ベルギーのブリュッセル万国博覧会に出品され世界から注目されました。
しかし日本でこの装置を注目する人はなく誰もその重要性に気付きませんでした。
日本が八木アンテナの重要性に気付いたのは意外な事からでした。
それは太平洋戦争の始まった翌年の出来事でした。
「将兵等しく夢に描き幻に思う」。
昭和17年2月。
日本がシンガポールを占領した時陸軍の秋元砲兵中佐はゴルフ場のゴミ捨て場から一冊のノートを拾いました。
それは「ニューマン」というイギリス軍のレーダー手が書いた技術メモでイギリス軍レーダーの構造や取扱法が詳しく書かれていました。
そしてページのところどころに「YAGI」の文字を読み取る事ができました。
意外にも八木アンテナはイギリスのレーダーに使われていたのです。
戦時中日本がレーダーの開発に本腰を入れた時期は海軍が昭和16年ごろ陸軍が昭和18年ごろであったといわれます。
イギリスやアメリカに比べ日本のレーダー開発はなぜ後れたのでしょうか。
電探なんていうのはですね自分で電波を出してその電波の返りでもって敵を知るというのはですねあたかも暗闇にですね物を探すのに提灯をつけて物を探すようなものであると。
そういうものは日本海軍にはあまり役立たないという世相がございましたね。
それで私は昭和11年にそれを言いだした訳なんですけどもそれは否決された訳なんですが。
アメリカもまた八木アンテナを軍事用に使いました。
ダグラス爆撃機やB17爆撃機など主に爆撃機の方向探知機やレーダーのアンテナに利用されました。
更に原爆にも八木アンテナは使われました。
原子爆弾には小さいアンテナが取り付けられていますがこれは紛れもなく八木アンテナだと専門家は証言しています。
原爆投下後地上550メーターに達した時爆発させるための近接信管レーダーアンテナとして八木アンテナは利用されたのです。
これだけの技術のある八木アンテナ。
しかし当時は日本では重視されずまた生かされもしなかった。
日本のシステムの上では全く気付かなかったという事ですね。
とても持っている研究の意味を知らなかったという。
ここのところでいえばこれはまあやっぱり能力的に科学技術を考え出すでそれを今度運用に至るまでのプロセスのとこの考え出すという事には先駆性持っていたけどもそれを運用する使うという…現実に一つの兵器化していくという事に関しては全くシステムが出来てないんだなと。
ここのところにやはり日本的な問題があるというような事かなと。
それには日本的な問題っていうのは資金の問題がありますね。
国力がそこまでいってないという事があります。
それから指導者たちの考えがそこまで及んでないっていう事。
それがゆえにこういったせっかくのですね発明っていうか考え方も生かされないんだなと。
問題はやはり国家的プロジェクトを作りえないという弱さにあったんだなという事じゃないかなと思いますね。
しかしそれが結果的に対戦国に軍事利用されて大きな被害を受ける事になった訳ですよね。
私はねやっぱり私たちの国は一つのこう…縦割り…全て縦割りになっていて研究者は研究者しかもその研究者はある大学ある大学とそれぞれ陸軍海軍陸軍海軍にも研究施設があって研究所があってそこに予算がバラバラ下りていく訳ですね。
それは縦割り組織が独自に自分たちで競争して新しい発見をしていくというのであればそれはそれで意味がありますけどお互いに隠し合う。
そしてお互いに何をどこまでいろんな事が分かってるかという事も話し合わない。
それは今にもつながってると思いますけどね。
技術大国といわれてきた日本も新興国はじめ諸外国のスピーディーな激しい追い上げにもあっていますよね。
そんな今の日本に今回の番組どんな教訓があるでしょうか。
結局欠けているもの何かっていうと例えば戦争の時のものを平時に当てはめても感じるんですがユーザーの声ですね。
戦争の時はパイロットたちの苦衷の声でしたね。
しかし平時の時はユーザーの声ですねそれをどういうふうに受けてフィードバックさせて自分たちが更にその製品をレベルの高いものに持っていくか。
それからもう一つはですね国の目標としてテーマを立てるあるいはある事をするという時にですね連携をよくする。
やはり大きなプロジェクト国家的なプロジェクトとして連携を強めてやっていくと。
そうですね。
具体的にどういう事かという事ですけどもユーザーそれから技術者それからそういった技術者のバックにいる企業といいますかそういう企業それからそれを含めて国ですねこの4者のですね連携のよさこのよさをですね保たないとどこかが欠けるとプロジェクトは機能しない。
そういった枠組みを作りながら科学技術を進めていく推進していくというのが結論かなと。
そうやってこそ私たちの国の科学技術は国際社会での信頼性を増すのじゃないかと思いましたね。
今日はどうもありがとうございました。
どうも失礼しました。
2015/07/12(日) 13:50〜15:00
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「戦後70年 総力戦なぜ敗れたのか〜防御を軽視した技術開発」[字]
戦後70年、なぜ日本が総力戦に敗れたのか検証するシリーズ。日本が精神力ばかり追い求め防御のための技術開発を怠っていた。科学技術の側面から現代への教訓を読み解く。
詳細情報
番組内容
1993年のNHKスペシャル「ドキュメント太平洋戦争」から総力戦に日本がいかに敗れたかを見るシリーズ。舞台は、日本の敗戦をほぼ決定づけたと言われるマリアナ沖海戦。全方向を探索できるレーダー、防御鋼板を備えた戦闘機など最新技術を駆使して万全の準備で決戦に臨んだ米に対し、日本は精神主義ばかりを掲げ防御装備の開発を軽視、なすすべなく敗れ去った。科学技術に対する考え方という側面から現代への教訓を読み解く。
出演者
【ゲスト】ノンフィクション作家…保阪正康,【キャスター】森田美由紀
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
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