ファミリーヒストリー「鳥越俊太郎〜父との溝 見つかった真実の手紙〜」 2015.07.10


番組に届いた一通のメール。
このメールは鳥越俊太郎さんの長女が父にないしょで送ったものでした。
新聞記者を経てテレビ雑誌と幅広く活躍するジャーナリスト。
事件現場や紛争地帯に乗り込み真実と向き合ってきました。
「Thisiswar」だよ。
「これが戦争だ」みたいな感じですね。
しかし自分の父親とだけは生前正面から向き合う事を避けてきたといいます。
父俊雄さんの人生に一体何があったのか?番組では鳥越さんに代わり家族の歴史をたどりました。
郷土の資産家として名を残してきた鳥越家の一族。
今初めて明らかになった祖先の存在。
戦国時代を生き抜いた苦難とは。
130年前に始めた小さな米問屋。
いつしか大企業の製粉会社へ。
何不自由ない家に生まれ「神童」と呼ばれた俊太郎の父。
エリート街道が一転歯車が狂いだす。
生涯抱えた苦しみとは。
跡継ぎに生まれた兄と劣等感を抱えさまよう弟。
兄弟の深い亀裂がありました。
埋められなかった兄弟の溝。
しかし死の間際俊太郎の父が書いていた手紙を発見。
弟が兄に伝えたかった胸の内とは?取材の結果を伝える日鳥越俊太郎さんは自らのルーツと向き合う事になります。
福岡県うきは市。
穀倉地帯が広がるこの町が鳥越俊太郎さんのふるさとです。
実家があった吉井町は農作物の加工で財を成した商家が多く白壁の土蔵はその富の象徴です。
この町の中心に鳥越一族が経営する鳥越製粉の工場があります。
本社は福岡市に移転しましたが工場の一部は今もこの町で稼働しています。
三代目の社長が繁喜。
そして弟として社長を支えたのが俊雄。
俊太郎の父です。
社長を務めた繁喜が暮らしていた家を訪ねました。
(取材者)ごめん下さい。
は〜い。
(2人)こんにちは。
よろしくお願いいたします。
こちらこそよろしくお願いいたします。
話を伺ったのは…市治さんは繁喜からあるものを引き継いでいました。
繁喜は祖先の事を調べていたのです。
家系図に記された最も古い祖先は戦国時代を生きた人物。
名前は興膳と書かれています。
鳥越興膳とはどんな人物だったのでしょうか?地元の歴史書によると鳥越興膳は戦国武将大友宗麟の家臣。
豊臣秀吉の進める九州平定の戦で武勲をあげた事が記されています。
大友家から28の村を統治する大庄屋に抜てきされました。
しかし1600年関ヶ原の戦いで状況は一転。
豊臣方についていた鳥越家に不遇の時代が訪れます。
大庄屋だった鳥越久左衛門こと興膳は取り潰しの憂き目に遭ったと記されています。
犠牲者か…。
その後興膳と鳥越一族は地元の耳納連山の山奥に流されたといいます。
興膳が追いやられたといわれる場所に行ってみました。
そこは耳納連山のある山の頂上。
地元の方に案内してもらいました。
(取材者)ここは何という場所なんですか?この山には鳥越山という地名が付けられています。
それはよく分かりません。
その興膳の時代から下る事200年。
俊太郎の曽祖父彦三郎の時代に鳥越製粉の基礎が作られます。
三代目の社長を務めた繁喜の孫徳子さんに案内されたのは100年以上前からあるという古い蔵。
蔵の整理をしていた時徳子さんが偶然ある物を見つけました。
こちらが昔商売の時に使っていた法被です。
襟には「米穀問屋」と書かれています。
製粉の前が米問屋です。
彦三郎が米穀問屋を始めたのは明治10年17歳の時の事。
商売を始めた背景には吉井町の水路が関係しています。
動力を。
でこれだけ水が流れるから…彦三郎は町じゅうにある水車を巧みに利用。
精米した米を造り酒屋に卸し店を大きくしていきます。
町の資料館に彦三郎の意気込みを表す資料が残っていました。
「平家物語」の一場面が6色刷りで描かれています。
ここまで非常に繊細な描き方をされた引札っていうのはちょっと珍しい方ですね。
他に負けない引札を作って自分の店をPRしようという事をはっきり意志を持っておられたと。
一度は断絶の危機に瀕した鳥越家。
しかし苦境に耐え全国にも知られる製粉会社に成長していったのです。
う〜ん…。
すごいなこれは。
戦国時代まで遡った。
しかも関ヶ原で敗れた。
いや〜昔からあれだな。
天邪鬼っていうか権力側にはつかないというそういう気持ちがあったんだなという。
自分の身に引き換えて。
う〜ん。
徳川方につかなかったと。
豊臣方についたと。
非常に面白いですね。
あっあれはびっくりしたな。
僕はずっと吉井に18年間住んでたわけだからあの辺の山に随分登ったりしてるからもちろん耳納連山もだいぶ登ってますから出会って不思議ではないんだけど知らなかったですね。
ずっと。
鳥越山というのがあるのは。
初耳。
びっくり。
へぇ〜。
(一同)こんにちは。
今回番組宛てにメールを送ったその胸の内を語ってくれました。
一番なんかさみしいだろうなと思ったのは…新しい一面が出てこなくても……というふうに思ったのかな多分。
俊太郎さんの父俊雄さんとはどんな人物だったのでしょう?福岡市に住む俊太郎さんのきょうだいを訪ねました。
(取材者)「ファミリーヒストリー」のスタッフのものです。
よろしくお願いします藤田です。
(取材者)鳥越俊太郎さんの…?妹です。
(取材者)わっすごい!たくさんあります。
絵里子さんは晩年の両親と一緒に暮らしていました。
これは父が日記を複写して残してたのとか昔の古い手紙類ですね。
これは父の母に宛てた手紙とか戦争時代の手紙だと思いますけど。
これですね。
あとこれが…。
これもそうですね。
すごくまめに…。
自分の親ながらびっくりしました。
これもね私全然知らなかったんですよ。
成績表をちゃんととってましたね。
父俊雄さんの小学校時代の成績表がありました。
(取材者)全部甲ですね。
(藤田)フフフフフ…。
そうですね。
成績はすごく優秀だったと聞いておりますけど。
やっぱり負けず嫌いで伯父の…兄に対する競争心ですかそういうのもあってなんか…とにかく自分は勉強さえしとけばいいと思ったって言ってました。
成績の良さは2つ離れた兄の繁喜にも共通していました。
運動や音楽の才能もずばぬけていました。
しかし長男の繁喜は家業の製粉会社を継ぐため進学を諦めます。
一方鳥越家の次男に生まれ家に居場所がなかった俊雄。
兄へのライバル心を胸に新天地を目指します。
昭和11年俊雄は京都帝国大学に合格。
ふるさとを離れ自由な青春をおう歌する俊雄。
部活動は大好きな音楽に携わりたいと迷わず合唱団に入部します。
今年創立84年を迎える京都大学合唱団。
俊雄が3年生になり部長を務めた時合唱団は京大生だけによる男声合唱。
部員が少なく廃部の危機にありました。
俊雄は部の存続のために男女混成合唱の実現に奔走。
ある声楽家を訪ね教え子の女学生たちを入部させてほしいと懇願します。
声楽家は承諾する代わりに条件を出します。
俊雄の努力が実り…しかし一番最初に約束を破ったのは俊雄。
俊雄が恋した女性とは後に俊太郎の母となる中川綾子でした。
京都の呉服問屋に生まれた綾子。
実家は東京や大阪にも店を出し何不自由なく暮らしていました。
女学校時代歌の才能を見いだされ卒業後は声楽家を目指し東京に進学する予定でした。
現在の鴨沂高校に綾子の歌の才能を表す資料が残っています。
「鴨沂會雑誌」という資料になります。
綾子は優秀な成績で学校で上位10人に与えられる賞を受賞。
この日の演奏会では有名なプッチーニのオペラの一曲を披露しています。
この学校自体が各諸学校の優秀な方を集めてる学校というのがありますのでそのうえでここまで優秀な賞がとれるという事は大変すばらしい方だと私は思います。
綾子の才能に魅了された俊雄。
いちずな性格は送ったラブレターに表れています。
「貴女を愛していく事はもはや僕の生命自体であるのです」。
「愛するだけ愛して死ぬのだったら僕は幸せだ」。
結婚を迫る俊雄に対して綾子は…。
「若いですしあせって考えるべきではない様です」とそっけない返事。
しかしある日の事綾子が学校から帰ると玄関に見慣れた靴。
そこにいたのは俊雄。
既に綾子の両親に結婚の挨拶を済ませていたのです。
両親は俊雄の学歴と米問屋という家柄から結婚に賛成。
戸惑う綾子を置き去りに学校の退学を決めてしまいました。
あれよあれよと言ううちにお互いの両親が集まって結婚の日取りも決まってうわ〜って決まってしまったって。
あとで「音楽捨てなきゃよかった」と言った事もありましたね。
でもなんか母もまんざらではなかったんですよね。
音楽を捨ててでも父のところにいこうと思ったからですね。
何にも知らない女学生が全く全然知らないところに自分で結婚しようと思って飛び込んだんだから好きじゃないとできないと思うんで好きは好きだったんですよね母もね。
京都帝国大学卒業。
好きな人との結婚。
順風満帆のはずだった俊雄にその後の人生を揺るがす出来事が起こります。
就職先は大手企業の住友本社。
しかし配属されたのは鉱山を管轄する札幌の事業所。
「大学出のお坊ちゃん」。
たたき上げの上司や鉱山労働者たちから相手にされない俊雄。
あからさまに無視される日々が続きました。
やがて対人恐怖症を発症。
その後の俊雄を苦しめる事になります。
会社を休職し俊雄は福岡に戻ります。
そのまま病院の精神科に入院。
そのころ同じ病院で二十歳になったばかりの綾子は男の子を出産します。
それが俊太郎でした。
対人恐怖症を克服しようと仏教に傾倒。
禅寺に入門したものの心の平安は得られずやがて会社を依願退職。
今度は母校の京大哲学科に再入学し生きるべき道を模索します。
一方綾子はさまよう夫が家族のもとに帰ってくる日を待ち続けました。
昭和18年俊雄27歳の時召集令状が届きます。
行き先は中国戦線。
皮肉な事に戦場という特殊な環境が俊雄を対人恐怖症から一時的に解放する事になりました。
生きるのに必死で悩む余裕すらなかったのです。
俊雄が戦地から出した手紙です。
書かれているのは俊太郎の事ばかり。
当時4歳だった息子が読めるようにと片仮名で記しています。
その中に俊太郎から父俊雄に宛てたあどけない絵手紙も残っています。
俊雄はそれを戦地から大切に持ち帰っていたのです。
まあ母のところちょっと涙が出ましたね。
母が若くして強引に…将来があったのに結婚してしまって。
その結果僕が生まれたんだから文句は言えないんだけど。
だけど…まあちょっとつらい母の状況に思わず涙が出ました。
父親には同情できないですね。
昭和21年俊雄は無事に戦地からふるさとに帰ってきました。
当時日本は戦後の食糧難。
米不足を補うため製粉業界は大忙し。
実家の製粉会社では兄の繁喜を中心に懸命の増産が続いていました。
俊雄は兄に説得されしかたなく家業を手伝う事に。
しかしやがて本業とは異なる場に生きがいを見いだしていきます。
地元に作られた…新しい文化を求めて農家や商売人教師などさまざまな職種の若い男女が参加し熱気にあふれていました。
劇団活動を一緒にしていた…仲間に心を許していた俊雄の姿を覚えています。
自宅の2階を開放し俊雄は大勢の若者たちとともに稽古に没頭。
俊雄は地位や立場を超え本音で語り合えるつきあいにこだわりました。
「早く!」。
更に俊雄は妻綾子とともに地域合唱団を結成。
うたごえ運動にものめり込んでいきます。
「小さな腕でスクラムを組み労働歌を合唱する女の子たち」。
俊雄の一直線な思いに巻き込まれたのは鳥越家の子供たちでした。
・「しあわせはおいらの願い」・「仕事はとっても苦しいが」覚えてますね。
労働歌ですよこれ多分。
・「みんなと歌おう」・「しあわせの歌を」・「ひびくこだまを追って行こう」覚えてますね。
(取材者)やっぱり俊雄さん…?そうです俊雄さんの影響です。
だってそういう事させられてましたもん私も。
信じられないでしょう。
何不自由なく育った家庭なのに労働歌を歌ったりとか信じられないでしょう。
もう大抵の事させられましたよ父に。
俊雄は仕事の場でも活動をエスカレートさせていきます。
当時政府の管理下にあった麦の割り当て量は大企業優先で小さな工場は原料の確保に苦しんでいました。
俊雄は全国の製粉工場を巻き込み抗議運動を展開。
政府と対立します。
事業拡大に乗り出していた兄は俊雄の行動を非難。
一方俊雄は自分の信念を曲げられず会社を辞めてしまいます。
兄弟のあつれきの始まりでした。
そんなやさき災難が襲います。
昭和27年製粉工場が火事で全焼。
会社は全てを失いました。
事件が再び兄弟を結び付けます。
俊雄は会社に復帰。
営業の中心となって全国を飛び回る事になりました。
しかしビジネスの一線に立つ事は俊雄にとって重荷でした。
あの対人恐怖症を再び発症。
人と会う恐怖心を抑えるためポケットにウイスキーの小瓶を忍ばせるようになっていました。
もうさらけ出してしまえば「こうなんだよ」ってさらけ出してしまえる性格だったらきっと楽だったと思うけど。
プライドもすごく高いもんですからそれを見せたくないしよくは見られたいというのがあるからいつもそれと闘ってて。
やっぱりよく飲んでましたね。
昼間から飲んでましたもんね。
仕事で家を空けがちになっていく俊雄。
家族にも独特の形で絆を求めようとしました。
当時の家族の様子を伺うため鳥越家で働いていたお手伝いさんを訪ねました。
(取材者)八重子さんは何歳ぐらいの時に鳥越家にお手伝いに行ったんですか?私は13に…。
(取材者)それから何年ぐらい…?13年おりました。
(取材者)どんな印象ですか?綾子さん俊雄さんが子供たちに対してどんなふうに接してたんでしょう?お手伝いさんも参加した鳥越家の「家族会議」。
議長と書記を決め本音でぶつかり合う事を決めました。
議題は家事の分担兄妹げんかの仲裁。
時には両親への不平不満も。
ある日の議題では合唱の練習で不在がちな母親の事が取り上げられました。
「第九回家族会議。
父『なぜ母ちゃんは音楽の練習に行くのか』。
弟『田舎の人たちの望みをかなえるためだと思う』。
父『母ちゃんが出ていくと家の仕事が困るのか』。
お手伝いさん『またかとは思うけど今は気にしない』。
父『結論。
みんな母ちゃんがいないので寂しいかもしれないが少しぐらい我慢してもらいたい』」。
…と題されたノート。
俊雄は思春期になった俊太郎に不満を訴えています。
「君の心の中の世界をもっと出してほしい」。
「家族会議と家庭日記とが僕たち家庭の幸福と前進の両輪だ」。
俊太郎は父に潜む不安や弱さを鋭くつきます。
「僕ばかり責める。
父ちゃんだって悪いところあるじゃないか。
人を信用出来ないじゃないか」。
という気持ちはすごく強かったわけですね。
だから…昭和34年兄繁喜はヨーロッパから最新鋭の製粉機械を導入する事を検討。
営業担当の俊雄にヨーロッパの視察を命じました。
しかし各地を訪ねるはずだった俊雄の足は最初のフランスで止まってしまいます。
俊雄が注目したのは店先にあったフランスパン。
その魅力に取りつかれ残りの旅をキャンセルしてしまったのです。
当時日本では本場のフランスパンがまだ作られていなかった時代。
持ち前の情熱でフランスパン界の巨匠レイモン・カルベルを説得。
俊雄は本場のフランスパンの粉を分けてもらいます。
持ち帰った粉を研究し日本で初めてフランスパン専用の粉を発売。
業界の大きな注目を浴びました。
当時粉の開発を支えたカルベルの弟子が日本で今もパンを作り続けています。
フィリップ・ビゴさんはフランスパンに懸ける俊雄の情熱的な人柄を今でもよく覚えています。
会社の命令に背いてでも自分の信念や情熱を貫こうとする俊雄。
フランスパンでは結果を出したものの社長である兄の繁喜とはその後度々ぶつかるようになっていました。
俊太郎の弟英樹さんは父俊雄の当時の様子をよく覚えています。
父は要するに常識はずれの事をやろうとするんですよ。
前身が前身ですから。
普通の人だったらオーソドックスにこうこうこうですけども父はやっぱり発想がすごく…アイデアが満ちあふれてるんですよ。
だからどうしても製粉の方からいやそれは無理じゃないかとかそれにはお金は出せないとか。
鳥越製粉の方からはどうしてもブレーキがかかってきてたんですよ。
65歳で俊雄は会社を退職。
兄弟の関係は修復し難いものとなりました。
俊雄は息子英樹さんとともに新たな会社を立ち上げます。
フランスパンが売りのパン屋。
兄に負けない会社を作る事が俊雄の新たな目標となりました。
しかしその後俊雄は肝硬変で入院。
結局新会社からも身を引きました。
療養中の俊雄のもとに意外な相談が舞い込みます。
依頼主は障害者のための小さな共同作業所を営む人々。
当時ここは手弁当で運営していた無認可施設でした。
行政から認可が下りないと解散する危機にありました。
俊雄はこれまでの経験を買われボランティアの運営委員になってほしいと頼まれたのです。
病を押して俊雄は会議に参加します。
会議が難航する中大胆な打開策を口にしました。
日々のやりくりに苦しむ職員にはない発想でした。
私たちとかはやっぱり土地を買うとかお金をそこに投じるとかいうのはもうまさに無認可でねえもう毎月の運営費にっていうところではすごい事なんだけど…なんかこう…なんかありましたよね。
俊雄の掲げた理想が職員たちを動かします。
カンパを募り土地を購入。
諦めていた認可の見通しが立ち施設の存続が決まりました。
その3か月後…葬儀には共同作業所の職員と利用者たちが参列し俊雄に感謝の言葉をささげました。
いや〜…今日改めてこうやって描いて頂いてう〜ん父親のその等身大の父というのがある程度見えてきたという事では僕の心の中のなんか澱みたいにたまっていたものがこうちょっと清められて父親をもう一回見直すというかねすっきりしたというそういうとこありますよね。
いや〜あの父親がやっぱり弱い者の味方でどっちかというとレジスタンス抵抗の人だったわけですね。
なんと戦国時代の鳥越一族も強い方の徳川方につかないで負けた豊臣方について耳納山の山の中まで追いやられてしまったという歴史があったというのを見て「ああ遺伝子だなこれは」というふうに思いましたね。
ジャーナリストとして世界を飛び回り実家とは距離を置いていたという鳥越さん。
しかし社会の在り方や理想を熱く語る姿は父親に重なると妹の絵里子さんは言います。
兄の番組を全部見てると父そのものですものやっぱり。
ものの見方がですね。
自然とやっぱりそういうものって子供の心の中にきちんと残っていくもんですね。
どんなに自分が違うと否定してもですよ。
兄のどの話を聞いててもやっぱりちゃんと父のそういう気持ちが表れてるのを感じますからね。
俊雄さんは亡くなる直前に自伝を出版していました。
自分のこれまでの人生そして兄繁喜さんとの確執が赤裸々に描かれています。
「兄弟で一度胸を開いて話し合ってはどうか」。
絵里子さんは父俊雄さんを何度も説得しましたが実現する事はありませんでした。
そんなある日俊雄さんの書斎で兄に宛てた書きかけの手紙を見つけます。
結局ずっとそのまま出せないまま置いてあるのを見たもんですから。
「ああ父が迷ってるんだな」と思ってもうその事は言わなかったんです父に。
だから思いを遂げないまま父が亡くなってしまったかなって今思いますね。
心残りだったでしょうねきっとね。
俊雄さんの兄繁喜さんの自宅です。
今回の取材でかつて繁喜さんが使っていた本棚の中から俊雄さんの自伝が見つかりました。
本にはしっかり読み込んだ付箋のあと。
表紙の裏には兄に宛てた俊雄さんの直筆のサインがありました。
1989年に鳥越俊雄が贈っておりますね。
亡くなる1年前だな…。
本の間に手紙が挟んでありました。
2枚の便箋。
俊雄さんが兄に宛てた手紙でした。
是非絵里子さんに見てもらいたい…。
え〜っ。
初めてですこれ。
ドキドキするななんか…。
「私の感性を育てた人は外ならぬ兄のあなただった。
どんな場合でもあなたを見て育った」。
「ずいぶん兄さんを傷つけているかもしれません」。
「どうか非礼の段はおゆるしください」。
私が思ってたとおりですね。
(取材者)思いは伝えてたみたい…。
ですね。
よかった〜。
じゃああの手紙最後出したんですね。
ああよかった〜。
でもじゃあ伯父はちゃんと受け止めてくれたんですね。
もうありがたいです。
ありがとうございます。
見つけて頂いて。
兄繁喜さんが撮りためた8ミリフィルムも残っていました。
その中にこんなものが。
「俊雄家族」。
昭和30年代お正月の一コマをとらえた映像。
そこには笑い合っていた鳥越家の人々の姿がありました。
対立とか悲劇とかいろんなものを含みながらそれでも全体としては仲良く生きてきたんだろうなという事を改めて感じさせられましたね。
2015/07/10(金) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「鳥越俊太郎〜父との溝 見つかった真実の手紙〜」[字]

父の実家は福岡の製粉会社。ルーツは、戦国の武将だった。名門の家に生まれた父は、会社を継いだ兄と衝突、また、息子・俊太郎とも溝を作る。今回見つかった手紙に真実が。

詳細情報
番組内容
父の実家は福岡の製粉会社。ルーツは、戦国の武将、大友宗麟に仕えていた。名門の家に生まれた父。京都帝国大学を卒業後、大手企業に就職するも退職。自分の生きる道を探すようになる。その後、実家の会社に就職するが、ここでも社長の兄と衝突した。そんな父に、息子・俊太郎は反発するようになる。「父のような弱い人間になりたくない」。それが今回、見つかった手紙に、父の真実の姿が。鳥越さんは、父の人生をかみしめた。
出演者
【出演】鳥越俊太郎,【語り】余貴美子,大江戸よし々

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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