2NHK高校講座 日本史「モンゴル襲来」 2015.07.10


歴史に対する憧れと深い知識を持ったアイドルの養成所。
それが日本史研究の殿堂高橋歴史女学館である。
歴史は暗記するものではなく推理するもの。
館長の高橋です。
今日は「モンゴル襲来」。
モンゴル襲来は日本が歴史上初めて…みんなはモンゴルといえばまずどんな事を思い浮かべますか?う〜ん遊牧民族?草原に羊を放牧して…。
テントみたいな所に住んで…。
お相撲さん!ああそうですね。
モンゴル出身の力士強いですよね。
モンゴル相撲といわれる格闘技があるんですね。
それに大草原を移動するための手段として乗馬の技術これもとても高いんです。
そんな彼らが今から約700年前鎌倉時代ですね日本に攻めてきたんです。
今日はその前後の話なんですね。
では今回学ぶべき重要ポイントを見てみよう。
今回の時代は…この時代大陸では大帝国が出現します。
モンゴル帝国です。
13世紀後半モンゴル帝国の支配拡大の波は日本にも押し寄せます。
その時日本はどのように対処したのでしょうか。
またこれによって社会はどのように変化していったのでしょうか。
今回押さえるべき「三つの要」は…歴史上初めて本格的な外国勢力の侵入を受けた日本の姿を見ます。
本格的な外国勢力との戦いは白村江の戦い以来ですね。
日本はどう対応したのか早く知りたいです。
私も早く知りたいです!まず相手の事を知らなければいけませんね。
それでは「三つの要」に沿って見ていこう。
その一。
中国大陸北部に広がる大草原地帯。
13世紀の初めここから遊牧狩猟民族の中の一つの部族が興ります。
1206年部族を統一しモンゴル帝国を築いたのが…その領土は最盛期には東アジアからヨーロッパ東部まで東西9,000kmにも及ぶ人類史上最大の規模でした。
1234年中国北部にあった金を滅ぼしたモンゴル帝国は1259年には朝鮮半島の高麗を支配下に置きます。
そしてチンギス・ハンの孫に当たるフビライ・ハンが1260年に5代目の皇帝になります。
フビライは現在の北京の地に大都という都を築き1271年には国号を中国風の元に改めます。
当時中国の南半分を支配し勢力を維持していたのが南宋です。
フビライはこの南宋の征服を推し進めようとしていました。
まず南宋と通商関係を持つ地域を支配下に置いていきます。
やがてその支配の波は日本にも押し寄せてきました。
1268年フビライの国書が支配下に置く高麗の使者を通して鎌倉幕府に届きます。
その内容は日本と友好関係を結んで交流したいというものでした。
しかしその最後には「兵力を用いるのは誰が望むだろう」とも書かれていました。
フビライが日本に対して送ってきた国書。
これをもう一度見てみましょう。
これはもちろん国書の写しなんですが末尾のこの一節を見て下さい。
「問を通じ好を結び以って相親睦せん」。
つまりこれは……という事が書いてあります。
でも最後のこの部分ですね。
「兵を用いるに至りては夫れ孰れか好む所ならん」。
こう結んでいます。
つまりこれ言いますと「親睦しましょうよ」って言ってきてるんですけど「しなかったら兵隊送りますよ」と。
「でも兵隊送るのはお互いあんまり望まないでしょう?」こういう言い方してるんですよ。
この国書の内容意味どう受け取りますか?ちょっと脅迫みたいですね。
うん。
うん。
友好的とは思えないです。
怖いです。
では一方日本はそれに対してどう対処したのでしょうか。
それでは「三つの要」その二を見てみよう。
フビライの国書に返書を送らないまま鎌倉幕府では北条時宗が18歳の若さで第八代執権に就任します。
一方フビライは合計5回にわたって国書と使者を送ってきました。
これに対し時宗はことごとく無視を続けました。
元と高麗の連合軍が軍船900隻兵士3万の規模で対馬沖に現れました。
文永の役と呼ばれる戦いの始まりです。
元軍は圧倒的な武力で対馬壱岐を次々と襲っていきました。
そしてついに博多湾に姿を現します。
幕府は九州の御家人たちを動員して襲来に備えていました。
元軍は一斉に上陸を開始。
初めて外国兵士と戦う武士たちは大混乱に陥ります。
戦い方が全く違っていたからです。
やあやあ我こそは…。
武士たちは国内での戦のように名乗りを上げて1対1で戦おうとします。
一方元軍は名乗りもせず集団となって一斉に襲いかかってきました。
勝手の違う戦い方に武士たちは苦戦します。
更に武士たちを驚かせたのは元軍の使う武器でした。
「てつはう」という爆弾が次々と武士たちを襲います。
このてつはうは火薬が爆発すると鉄のかけらが飛び散る恐ろしい武器でした。
元軍の戦法に圧倒され武士たちは退却しました。
元軍の兵士が博多の町に突入し火を放ちます。
その日のうちに博多は陥落しました。
ところが翌朝退却していた武士たちは驚くべき光景を目にします。
元軍が博多の町からこつ然と姿を消していたのです。
なぜ勝利しながら撤退したのか元の歴史書にはこう記されています。
時宗は元軍が再び襲ってくる事に備えました。
まず博多湾沿岸などを御家人に警備させる異国警固番役を強化します。
更に元軍の上陸を阻止するため高さおよそ3mの石の防塁を20kmにわたって築きました。
また朝廷や有力寺社に従う御家人でない武士も幕府の指揮下に置きました。
1279年フビライは南宋を滅ぼし中国全土を支配下に収めました。
そして中国南部の貿易都市泉州などで日本を再び攻めるための軍船を造り始めます。
1281年5月高麗から東路軍4万中国の沿岸からは江南軍10万総兵力14万軍船4,400隻が日本へと出発しました。
900隻の軍船と共に東路軍が博多湾に姿を現します。
準備を進めてきた武士たちは射程距離の長い弓を使って水際で戦い上陸を阻止します。
また夜陰に乗じて小舟で忍び寄り奇襲攻撃をかけました。
行く手を阻まれた東路軍は一旦退き海上で態勢を立て直そうとします。
ようやく江南軍が到着。
東路軍と合流します。
ところが…。
その夜出撃しようとしていた元の艦隊を暴風雨が直撃したのです。
この大自然の猛威によって元軍の大半の船が沈み兵士たちの多くが溺死しました。
弘安の役と呼ばれる戦いはここに終わりました。
文永の役とこの弘安の役の2度のモンゴル襲来を元寇ともいいます。
こうして日本は危機を乗り越えたのです。
館長元は完全に諦めたんですか?元は3度目の遠征も計画していました。
でも元の支配に対する中国民衆の反乱とかあるいはベトナムの抵抗などがありましてこれが実現する事はありませんでした。
しかし2度のモンゴル襲来の影響というのは日本の社会を大きく変える事になります。
それでは「三つの要」その三を見てみよう。
これは鎌倉時代後期に描かれた「蒙古襲来絵詞」という絵巻物です。
肥後国現在の熊本県の御家人竹崎季長が元軍の兵士相手に奮戦する物語です。
季長は文永の役で手柄を立てれば所領を手に入れられると勇んで戦いました。
ところが手柄が鎌倉にきちんと報告されていない事が分かりました。
季長は文永の役の後自ら鎌倉に向かい直訴します。
そのかいあって故郷近くの地頭に任じられました。
しかし季長とは違い元軍と戦った西国の御家人の多くは重い負担にもかかわらず十分な恩賞をもらえず苦しみました。
3度目の襲来に備える北九州の警護は御家人にとって大きな負担でした。
小さな所領の武士の中には所領を質に入れたり売ったりする者が現れるようになりました。
一生懸命戦ったのに報われないなんて何か不公平じゃないですか?モンゴル襲来これは御家人たちが元の軍を食い止めただけでモンゴルから得たものは何にもありません。
つまり幕府は与えられる所領はなかったという事なんですね。
戦やその備えの費用というのは全て御家人の自前ですよ。
(3人)へえ〜。
そのため御家人たちは非常に困窮した訳ですよ。
その一方で幕府では得宗の力が強くなっていきます。
得宗というのはですね北条氏の本家つまり嫡流の事ですね。
こちらを是非見て下さい。
これはモンゴル襲来後の諸国に置かれた守護を務める一門の図です。
全国の守護職の半数以上を北条氏が占めております。
またモンゴル襲来に備えて設置した鎮西探題。
このトップにも北条氏の一族を送り込みました。
こうして北条氏中でも得宗これが強大な権力を握るようになった訳ですよ。
モンゴルの脅威に対処するためもあって幕府つまり得宗が権力を集中させ支配を強めていこうとしたんですがそれによりまして幕府に対する御家人の不満が高まっていきます。
我が女学館の特別講師楠木先生です。
どうぞよろしくお願い致します。
(一同)よろしくお願いします。
先生今日はどんなお話なんでしょうか。
今日はモンゴル襲来後の政治と社会についてお話をしたいと思います。
お願いします。
これはモンゴル襲来の激戦地博多にある筥崎宮という神社です。
ちょうどこの辺りへん額というのがあるんですが何て書いてあると思いますか?は〜い。
「神社」って書いてあると思う。
アハハハ。
何て書いてあるんですかね。
では拡大してみましょう。
ジャジャン。
こちらです。
「敵国降伏」。
これって降参って意味ですか?だから相手の国を降伏させようという意思表示ですよね。
これは当時は多分「ごうぶく」と読んだんだと思いますが要するに神や仏の力で敵国を降参させるというようなそんな意味合いがあります。
筥崎宮では夜中神様の化身である白装束の人たちが突然現れて矢を一斉に放って海の上のモンゴル軍を撃退したそうです。
(3人)ええ〜!本当ですか?神仏を深く信じる当時の人々の感覚からいきますとこうした神々の活躍というのは説得力があったんでしょうね。
だからあの当時吹いた暴風雨の事を神風とかいいますもんね。
「神風によって日本が勝利した」という観念が広がっていく訳なんです。
(生徒一同)へえ。
ですから武士と同様お寺や神社の神様や仏様も戦いましたから当然幕府に対して恩賞を要求します。
ちょ…ちょっと待って下さい。
神様が恩賞を求めたんですか?そうなんです。
幕府も当然恩賞の要求があればこれに対応せざるをえません。
恩賞ってどうするんですか?そこが問題で結局は新しく得た領地がありませんよね。
その結果として…こういう形が多かったんです。
ですからその結果それまで権利を持っていた人たちこの人たちの権利が否定されてしまうという場合が出てきます。
当然権利を否定された人たちは自分たちの権利を主張しますね。
「冗談じゃないよ」と。
「あそこうちのものだよ」と。
お寺や神社からすると「こいつらは言う事聞かない悪いやつだ」という事で悪党といって訴え出るようなトラブルが激増するんです。
軍事警察の担当である幕府としては悪党だという事で訴えられたらこれを弾圧せざるをえません。
かわいそう。
ひどい。
うわ〜これ黙ってられないですね。
こうした…こういう事を考えますとモンゴル襲来は鎌倉幕府の滅亡にも大きな影響を与えたといえそうですね。
いやでもその時代っていうのが厳然とあったという事は…。
信じられないです。
すごいなと思いますね。
先生ありがとうございました。
ありがとうございました。
5代目の…2015/07/10(金) 14:00〜14:20
NHKEテレ1大阪
NHK高校講座 日本史「モンゴル襲来」[字]

日本の今は、誰が、どのように作り上げたのか? 日本史研究の殿堂、高橋歴史女学館がその謎に迫る。出演:高橋英樹・AKB48(向井地美音、土保瑞希、込山榛香)

詳細情報
番組内容
今回の舞台は鎌倉時代中期から後期にかけて。大陸では世界史上最大規模のモンゴル帝国が急成長していた。その支配の波は日本にも押し寄せ、ついに両者は激突する。文永・弘安の役である。北条時宗率いる鎌倉幕府軍はどのようにしてこの危機を乗り越えたのだろうか? また、元軍を撃退したものの、その後幕府は弱体化してしまう。それはなぜだったのだろうか? 日本が初めて経験した本格的な外国勢力との戦いの経緯を見つめる。
出演者
【司会】高橋英樹,【出演】土保瑞希,向井地美音,込山榛香,【講師】中学・高等学校教諭…楠木武,【語り】杉村理加

ジャンル :
趣味/教育 – 中学生・高校生
趣味/教育 – 大学生・受験
趣味/教育 – 生涯教育・資格

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