今から10年ほど前、米国のゲームソフト会社アクティビジョン・ブリザードのボビー・コティック最高経営責任者が、京都の任天堂本社を訪れた。通された一室にはテレビがあり、画面に泡の浮き立つ池が映っていた。任天堂の岩田聡社長が「魔法のつえ」だと言って、釣りざおを模したコントローラーをコティック氏に手渡した。そして、仮想の釣り糸を投げ入れるように手を添えた。
岩田氏とゲーム開発責任者の宮本茂氏が見守るなか、コティック氏がさおを引き上げると、画面の池から魚が飛び出した。「これで娯楽が様変わりすると感じ入った私の顔を見て喜んだ二人の笑顔を覚えている。まったく違う何かをする直感と勇気とビジョンを持つ二人だった」と、コティック氏は言う。
今週、55歳にしてがんで亡くなった岩田氏は、クリエイティブの天才に対するビジネス面のパートナーとして見られがちだった。宮本氏がウォルト・ディズニーなら岩田氏はロイ・ディズニー。グッチに見立てれば、宮本氏がトム・フォードで岩田氏はドメニコ・デ・ソーレだ。アップルならスティーブ・ジョブズがビジネスのほうに使っていた脳の片側ということになる。しかし、この見方では、2006年にゲーム機「Wii」を発売して任天堂を破格の大成功に導いた岩田氏の役割を十分に捉えきれない。
マイクロソフトの「Xbox 360」、ソニーの「プレイステーション3」という高精細の技術に対して、家庭向けにローテクの風変わりなゲーム機を出すというのは、F1レースにフィアット500で出るようなものだった。要するに「猛烈な処理能力」と「楽しさ、魔法、喜び」との争いだったと、英国のゲームソフト会社マインド・キャンディの創業者マイケル・アクトン・スミス氏は言う。
そして、「スーパーマリオブラザーズ」から「ゼルダの伝説」「Wiiスポーツ」に至るまで、任天堂の「楽しさ、魔法、喜び」が勝利を収めた。筆者は当時、米ロサンゼルスのゲーム見本市「E3」で宮本氏が魔法使いの扮装(ふんそう)で登壇したときの会場の興奮ぶりを目の当たりにした。「プレステ3」のマルチスレッドのCPUもかなわない芸当だった。
■マニアの趣味から家庭向けへ
ゲーム産業は重要に思われていないせいで、岩田氏の下での任天堂の復活劇は、アップルを救ったジョブズ氏やIBMを立ち直らせたルイス・ガースナー氏などと違って、見過ごされがちだ。しかし、革命的な勝利であったことに何の違いもない。10代から20代前半のマニアの趣味だったビデオゲームを家庭向けの娯楽へと変えたのだ。
ジョブズ氏と同じように、任天堂の二人も自らの直感と自社の遺産を信じ、他人の声はかたくなに無視して偉業を成し遂げた。「任天堂は常に我が道を進んだ。妥協することもライバル企業の動きを気にすることも、一切なかった」と、英国のゲームデザイナー・起業家でマイドキとプレイデミックの両社で会長を務めるイアン・リビングストン氏は言う。
米投資銀行のゴールドマン・サックスがマレーシアでの新規案件獲得に苦戦している。同社が資金調達に手を貸した同国の国営投資会社、1MDBの巨額債務を巡る怒りが噴出し続けているためだ。
米調査会社ディーロ…続き (7/16)
今から10年ほど前、米国のゲームソフト会社アクティビジョン・ブリザードのボビー・コティック最高経営責任者が、京都の任天堂本社を訪れた。…続き (7/16)
朱鎔基氏が上海市長だった当時、ポートフォリオの価値が暴落すると市庁舎の外で抗議活動を行うことのある民間投資家について、不満を漏らしたことがあったようだ。…続き (7/16)