李炳注(イ・ビョンジュ)の小説『南労党』に、チョン・オクヒという女性が登場する。E大学英文科2年。左翼系学生同盟の責任者を務めている人物だ。南労党機関紙「解放日報」記者の主人公、朴甲東(パク・カプトン)は、チョン・オクヒと初めて会ったときの様子をこう描写した。「長い髪の間で蠱惑的な顔が彫刻のように輝いていた。大きな目の中で、黒真珠にも似た瞳の虹彩が神秘的にゆらめいていた」。さらには「華奢なチョン・オクヒが発言を始めると、鋼鉄の刃を連想させた」という記述もある。
『南労党』は朴甲東の証言と資料を土台にした実録小説だけあって、チョン・オクヒも実在の人物だった。本名は全玉淑(チョン・オクスク)。社会主義者だった全玉淑は6・25(朝鮮戦争)のとき、敗退する人民軍について北へ向かい、弥阿里付近で投降した。全玉淑は、このとき自分を助けてくれた憲兵隊長と結婚した。『豚が井戸に落ちた日』『カンウォンドの恋』などを手掛けた映画監督・洪尚秀(ホン・サンス)は、全玉淑の末っ子だ。昨日、全玉淑が86歳で死去したというニュースに接した。各紙は全玉淑を「文化界の女傑」と報じた。
「韓国のミューズ」「女王蜂」「文化界のゴッドマザー」…。全玉淑には多くの別名があった。1984年、韓日の文化人が大韓海峡(対馬海峡)で船上討論を行った。日本の映画監督・大島渚が討論中、韓国の参加者に向かって「ばかやろう」と叫んだことで有名なイベントだ。この行事の設計者が全玉淑だった。当時、日本メディアのソウル特派員が赴任して真っ先にやることは全玉淑訪問、といううわさがある。この人々の中には、全玉淑と爆弾酒(ウイスキーや焼酎のビール割り)を酌み交わし、知韓派になった人も多い。逆に、日本に行く韓国の文化芸術関係者の仲介をしたのも全玉淑だった。
全玉淑に、人を動かす公的な力があったわけではない。自らスターになって前面に出たこともなかった。にもかかわらず、ルー・ザロメの周囲にニーチェ、リルケ、フロイトがいたように、全玉淑の周囲には大勢の文化人・知識人が集まった。全玉淑は、相手の長所を見つけてほめてやり、困難なことがあれば人脈を動員して解決してやった。「抵抗歌謡」の象徴だった金敏基(キム・ミンギ)が80年代末、初めて外国に行ける道を開いてやったのも全玉淑だったと聞いている。
金玉淑は、韓国初の外注プロダクション「シネテル・ソウル」を運営する一方、人々と交われるよう、ソウル・汝矣島に「キロギ(ガン)」という居酒屋も構えていた。全玉淑を知る人々は口を揃えて、美貌と知性、親和力が全玉淑の力の源泉だと語った。全玉淑をよく知らない人には、時として「ベールの中の人」のようにも映った。身をもって現代史の激浪を経験し、文化をキーワードにして男女・左右や国境を乗り越えようとした点で、非凡な人生だった。