ハンロンの法則
なんらかの行動によって不愉快にさせられた事象には「ハンロンの法則」が適用できて、つまり大抵の不愉快な事象について相手が明白な悪意を持ってやっているのは稀であり、ただ空気が読めなかったり、無能だということのが多い。ローカルルールなどに無関心が故の「限定的無能」という話もある。
この時に「関心を持つべきことに無関心である」のであればネグレクトなので「悪意」という解釈もできる。ただし「関心を持つべきこと」について、自分が思うことと他人が思うことは違うという前提があって、ここのすり合わせをショートカットされるとやれやれだ。対して興味がない問題に対していちいち態度を表明する必要性はない。
回路がくっついちゃった時のコミュニケーション
弟が5歳のころの話です。押し入れで遊んでいた弟が、突如、「おかあさん! うちってドロボウなの?!」と、客用布団を包んでいた唐草模様の大風呂敷を見つけ、泣きながら聞いてきました。ー『ほぼ日&こども』よりー [ほぼ日手帳・日々の言葉・2014年2月17日] #techo2014
— ほぼ日刊イトイ新聞 (@1101complus) February 17, 2014
そういう論理の飛躍というか「回路がくっついちゃった感」は微笑ましい部分もあれば、面倒になってくることもある。特に不愉快になったているであろう相手に「お前はこういう理由で嫌がらせをしてんだろ?」と全然違うロジックで言われると、そりゃ違うという話になってややこしくなる。限定的無能に対して謝るのはやぶさかでなくても、濡れ衣の悪意に対しては無理だ。
地下に潜らせた偏見
そんなわけで、他者の内心に忖度して怒るのは悪手なのだけど、その内心に忖度した独自ストーリーに勝手に納得して無言で切断処理をする方がもっとキツイことも多い。前者であれば誤解を解いたり、確信を深める機会もあるけれど、後者になると本質的には不定値のまま嫌な気分だけが残ってなんの学習機会にもならないまま離れられてしまう。もちろん、相手の内心に関わらず「今の状態で関わってもしょうがない」みたいな話は別問題としてあるのだけど。
それでも内心への忖度をする場合には自分の思考ロジックと相手の思考ロジックは違うことが殆んどであるという事を前提として意識したい。誰かに内心に忖度されたことがあれば「どう考えても違う」という経験があるわけで、こちらから忖度してもも同じ事が起こる可能性は高い。「他者の気持ちが分かる」なんて躊躇無く言えて、仮に否定されても「でも本心では」とやってるような人は鈍感なだけである。
内心の忖度をしあうエスパー対決
だからといって内心への忖度を勝手に納得して実際的な行動に移ってしまう方が危険であるとも考えていて、仮に的外れであっても本人からフィードバックを真摯に受け入れる方がよいし、そうでないにしても明文化して一定のツッコマレビリティを高めた方がマシであると思われる。内心に忖度した事を内心にとどめて、それを忖度してとやりあっていると、全員が違う夢を見ている夢遊病者同士で憎みあうようになる。それを俯瞰するのは愉快だけれども僕は巻き込まれたくない。
内心に抱えたままにして実際的な疎外に繋がるぐらいなら、あまり黙らせる方向にいくのはよくないように思われる。こういうのは念のためだけど「タバコは吸わないほうがよいんだけど、どうしても吸いたいのなら1mgのにしときなよ」って話であって、そうは言ってもやりたくなっちゃうんだから100%否定して地下に潜らせる方が危険な行為って色々あるよね。
黙らせるだけではむしろ事態を悪化させることもある
叩かれそうなことなら黙っておけという空気に厳格に適応するほどに内心に「危険に痛くない邪悪さ」を醸成する可能性も高い。その辺りは「精神分析の目的はあくまで治癒であって真実を探る事ではない」という話にも似ていて、安全な範囲で叩かれるというフィードバックがある方が、偏見が物理に表出するのを抑える良いのではないかとも思う。
反面、ヘイトスピーチになり得る言葉を受け取った側には、呪詛としての効果もあるから、あまりにタカをくくられるのもよくなくて、ネットナマハゲが必要だとか、そういう話は居酒屋でお友達と話すならOKってことになるんだけど、僕は友達が少ないからこんなと(ry