先人たちの底力 知恵泉「二代目はつらいよ 偉大な先代を持ったら 徳川秀忠」 2015.07.07


偉大すぎる先代を持つと二代目はほんとに苦労しますよね。
今日は私もお客さんと酔っ払いたいくらいです。
はぁ〜。
どうしたの?大将。
ため息つくとね幸せ逃げちゃうよ。
そうですかねぇ。
二代目を継いで1か月になるんですけどなかなか自信が持てなくて。
実はねこれうちの先代。
すてきな方でしたよね。
すてきでしょうそうなんですよ。
このお店のね礎を全部作って下さったんですよ。
いや〜ほんとねこの顔を見る度に思い出すんですよ。
独創的なメニューの数々低く渋い声高い身長…。
なぜ死んじゃったのかなと思って。
亡くなったわけじゃないでしょ!福岡にいるじゃないですか。
そうでしたね失礼しましたね。
今投げたでしょ。
投げてない!投げてないです。
でもね偉大な先代持つとなかなか苦労するなというのは三平さんもそうなんじゃないですか?それいつも悩んでますよ。
うちのおやじだってもうね「好きです好きです好きですヨシコさん」で一世風靡した。
みんなからは「昭和の爆笑王」って言われてるんですよ。
もうここで泣きたくなってくるよ。
泣かないで下さい。
まあまあ拭いて。
布巾ですいません。
ああ〜!返すよほんとにもう。
失礼しました。
そんな今日はですね偉大な先代に悩みを持つですね仲間をですね店に今日お呼びしているんですよ。
あ!山本さんいらっしゃい。
お待ちしてましたよ。
こちらどうぞ。
ありがとうございます。
和洋菓子店の社長さん山本昌仁さんです。
和洋菓子店!いつも食べてますよ。
これ頂戴いたします。
後でこちらで開けさせて頂いて皆さんで頂きましょう。
うれしい!山本さんも偉大な先代をお持ちだそうですね。
そこにすごく今プレッシャーを感じながらやっているっちゅうのが現状ですね。
そうですよね。
やっぱりね二代目はプレッシャーなんですよ。
そこでね今日はねこんなテーマを用意したんですよ。
こちら!「偉大な先代を持ったら」。
偉大な先代を持つ我々そして皆さんがですねどう行動すべきかどうあるべきかという知恵を今日はたっぷりと味わっていきたいと思います。
取り上げる歴史上の人物もこれもまたですねそれはそれは偉大すぎる先代を持って生涯苦労しましたこの人物です。
優秀な先代がやっとの思いで築き上げた家も二代目であっさり消えてしまう。
歴史上そんな例は数多くあります。
例えば天下統一を果たした豊臣秀吉。
これ以上ないほどの栄華を誇った豊臣家も秀頼の代になって滅亡。
武勇を誇った武田信玄。
戦国最強とうたわれた武田軍団も勝頼が後を継ぐとやがて崩壊。
二代目は難しい!しかし今回「知恵泉」ではすごい二代目を見つけたんです。
先代は言わずと知れたあの徳川家康です。
秀忠ってあまり優秀なイメージがない?彼自身も父ほどのカリスマ性はないと自覚していたようです。
ある時家康がこう問いかけると…。
秀忠…
(家康)それが分かっているならよい。
しかし皆さんこんなに冷静に自分を判断できる秀忠。
実はすごく賢い人物だと思いませんか?秀忠の立場ならば放とうしようと思えばできたはず。
しかし彼は父の業績をきちんと受け継いだだけでなく家康もできなかったような独自の政策を実現させているのです。
最近の研究では260年に及ぶ徳川幕府の礎を築いた人物として再評価が進んでいます。
偉大な先代を持ちながらそれに押し潰される事なくむしろ組織を強めた秀忠。
二代目に必要な知恵とは?今回秀忠の思いを読み解くのは菓子メーカー社長山本昌仁さん。
山本さんの会社は…現在洋菓子と和菓子を手がけ全国の百貨店に展開しています。
伝統と革新を調和させた菓子が人気です。
店を大きくした立て役者が先代社長父徳次さんでした。
例えば皮とあんを分けて販売するもなか。
今では他のメーカーでも出していますが実はこれ徳次さんが考案したもの。
バウムクーヘンに目をつけたのも徳次さん。
店頭で焼きたてを売るスタイルが評判になりました。
昭和59年徳次さんは東京の百貨店への進出を成功させます。
これをきっかけに全国規模で販売するメーカーに成長。
数々の業績から徳次さんは「カリスマ社長」と呼ばれました。
そんな父から昌仁さんが社長の座を継いだのは4年前41歳の時。
初めは大きなプレッシャーがあったといいます。
しかし有機栽培された素材にこだわるなど独自の路線を追求。
製造と販売を一体化させた大規模な拠点の建設など事業を拡大しています。
偉大な父から学んだ事は何か?その父を乗り越えるすべとは?今日のテーマは「偉大な先代を持ったら」。
山本さんと徳川秀忠息子たちの苦労たっぷり聞かせてもらいましょう。
山本さん秀忠にはどんなイメージをお持ちですか?あの方がいらっしゃったから家康と家光をつなぐ重大なそしてまた十五代続くというこのすばらしい成果をなされたと思うんですね。
そういう意味では私は憧れる方だなというふうにいつも思ってます。
ほ〜憧れの方。
三平さんはどうですか?やっぱりあのね奥さんが強くてお江の方。
NHK!大河ドラマでやりました。
奥さんが怖いとねもう男は大変ですよねぇ。
6歳年上で姉さん女房なんですよね。
当時としては珍しく側室もつくらなかった。
秀忠が真面目だとも江が嫉妬深かったとも言われているんですよね。
謹厳実直なんですかね?そうですねぇ。
あっ!こんばんは。
お待ちしていましたよ。
山本博文さんです。
東京大学の史料編纂所の。
先生こんばんはどうも。
今日秀忠ですよ。
ちょうど今ね話していたんですけれども二代目っていいますと歴史上それから一般的にもちょっとうまくいかないというイメージがあるかと思うんですがこれはどうしてなんですかね?先代が成し遂げた事を自分が後を継いで自分の実力で成し遂げたと思ってしまうんですね。
するとそれが過信になってですね好きな事をやっててもなかなかうまくいかない。
逆に一方では先代が成し遂げた事が大きすぎてそれがプレッシャーになってなかなか新しい方針が打ち出せない。
そういう事があるんですね。
そうですよね。
山本さんも先代が会社をぐ〜っと急成長させたという立場なんですよね。
若い頃っていうのは先代お父様っていうのは山本さんの目にはどのように映ってたんですか?親としてはちょっとありえないかなという事すごくありました。
よくね遊びに連れていってもらうんです。
それは遊びに連れていってもらういうのはあくまで仕事に行くのについていってたんですね。
でまあちょっとお前ここで待っとけと。
ず〜っと待ってるんですがいつまでたっても迎えに来ないんですね。
そしたら仕事で忘れてもう家帰ってしまってたんです。
心配されて連れて帰ってもらうというのがよくね日常茶飯事のようにありましたし。
それぐらい仕事にものすごいど真剣。
もう全力投球というその姿をず〜っと見てきたのでそれにほれたっちゅうのか憧れになって。
三平さんもプレッシャーですとかあるいはお父様への憧れっていうのはもちろんお持ちだったんですか?我々の世界でも「名人に二代なし」という言葉があるんですよ。
俺に言わないで下さいよ。
ちょっと誰かフォローしてよ!お願いしますよ〜。
「林家三平」という名前を一つの城と考えるといかに守っていくかというところがどうすればいいのか。
先代…まあ秀忠公にも聞きたいですよね。
そうですよね。
まずはですね秀忠がどんな人物だったのかもう少し詳しく味わって頂こうと思います。
二代将軍となる秀忠。
しかし初めからすんなり後継ぎと決まったわけではありませんでした。
秀忠は天正7年…家康は生涯で11人の息子に恵まれました。
長男信康。
優秀な跡取りとして期待されていましたが織田信長に謀反を疑われ切腹。
次男秀康は母親の身分が低いなどの理由から養子に出されていました。
三男の秀忠は小さい頃から冷静で落ち着いた子供でした。
家康は早くからこの秀忠を後継ぎと考えていたようです。
そんな秀忠が家康の期待を裏切ったのは20歳の時。
あの関ヶ原の戦いにおいてでした。
石田三成率いる西軍に対じした東軍の家康。
実は家康この戦いで秀忠に後継者として名をあげてほしいと考えていました。
そこで江戸の秀忠に3万8,000もの兵を与え参謀には徳川の名だたる武将をつけました。
大軍勢を率いて出発した秀忠。
しかし…。
関ヶ原で待つ家康のもとにいつまでたっても秀忠が来ないのです。
実は秀忠道中…足止めを食らっていたのです。
結局秀忠抜きで決戦が始まります。
そして僅か…秀忠軍が到着したのは戦いが終わった5日後でした。
家康は激怒し気分が悪いと言って秀忠に会わなかったといいます。
本当に…関ヶ原の戦いのあと家康は5人の家臣を集めて意見を聞きました。
候補に挙がったのは3人。
養子に出されていたものの武勇に優れ秀忠の失敗で改めて注目されていました。
家康の参謀役を長く務めた本多正信が秀康を推しました。
四男忠吉は関ヶ原で一番に飛び出し手柄をあげた人物。
忠吉を推したのは徳川四天王の井伊直政と本多忠勝。
そしてその関ヶ原に遅刻してしまった…秀忠を推したのはただ一人家康に40年仕えてきた大久保忠隣でした。
その理由は…。
「乱世においては武勇が肝要でしょうが…」。
「知勇と…」。
数日後。
家康は同じメンバーを集めこう告げます。
天下太平の世に必要な資質とは何か。
大久保に賛同した家康の結論でした。
何とか後継者に選ばれた秀忠。
その後も二代目としてまだまだ苦労が続きます。
関ヶ原の戦いというね大一番。
ここぞという時にちょっとしっかりしろよといいますかなぜ遅れてしまったんですか?初めて3万8,000もの大群を任されてですね関ヶ原の方に行くわけですよね。
そこで真田が抵抗してると。
ここを血祭りに上げてですねその成果をあげて父親に合流すると格好もいいし鼻が高いというんでついそこにかかずらったわけですよね。
功績を焦るのが空回りしたっていう感じですね。
弟がいるって事になるとこっちがいいんじゃないかっていう家来たちも出てくるわけですよね。
ただ家康はもう秀忠を一応跡取りには決めていてただそういう事もあったので家臣たちに議論をさせて秀忠しかいないというそういう形にしたかったんじゃないかと思ってるんですけどね。
皆さんも先代の後を継いで焦りだったりっていうのを感じた事っていうのは?ちょっと飲みましょうよねえ。
ちょっと一杯ね。
そりゃねありますよ。
ねえ社長。
ありますあります。
もうほんとに毎日毎日認めてもらういうか何とか抜かなあかんみたいな何か変なプレッシャーを持ちながらず〜っと20代を過ごしてきたっちゅうのがね。
父親の考え方がどんどんどんどんヒットしたっていうのにものすごく自分は不安で。
こんなんで後継ぐ言うたけどほんとできるかなというのがまず初めに仕事をしだして考えたっちゅうか不安不安。
だから不安だと何もできないでしょ。
だから…教わった事があります。
皆さんそれぞれプレッシャーを感じて先代の後を継いでらっしゃいますけれども秀忠がどんな思いでその二代将軍職に臨んだのか。
どう乗り越えていったのか。
その知恵を続いては味わって頂きます。
慶長10年秀忠は家康から征夷大将軍の地位を引き継ぎます。
しかしすぐにトップとして采配を振るえたわけではありません。
駿河の駿府城で家康が「大御所」と名乗り依然政治の実権を握っていたのです。
江戸城にいる秀忠は家康の指示を実行するだけでした。
当主の座を譲ってもなお君臨する父親。
それに反発したりやる気をなくしたりするのは二代目にありがちな事。
しかし秀忠は…。
家康の言う事を忠実に実行した秀忠。
しかしただ恐れて言いなりになっていたわけではありません。
家臣にこんな言葉をもらしています。
戦乱の世が終わろうとしている今権威が二つあるとまた天下を不安定にさせる。
自分は引いて家康を立てるべきだ。
秀忠はあえて忠実に行動する事を選んでいたのです。
そしてその中で人知れず…その事が明らかになったのは家康が亡くなったあと。
秀忠は家康の政策を改めて一つ一つ見直し継続するかしないか自分の価値観で決定していきます。
例えば貿易統制について。
家康は西国大名たちが外国と貿易する事を制限。
許可する場合は大名たちに朱印状を与えていました。
家康の意を受けて政策を実行に移していた秀忠。
貿易統制が幕府の安定や財源確保のために必要だと痛感していました。
そこでこの方針を更に推し進め…幕府による統制を強化します。
これが後に鎖国政策へと発展しました。
一方実践して疑問を感じていた政策はためらわず取りやめました。
その一つが側近政治です。
家康はごく限られた側近と共に政策を決定していました。
迅速に判断が下せるなど利点はありましたがこれは家康が絶対的なカリスマだったからこそ可能でした。
そこで秀忠は複数の家臣による合議制を採用します。
将軍の個人的な能力に頼るのではないためカリスマがいなくても安定した政権運営が可能です。
これは後に老中制度として整備されました。
賛成するにしても反対するにしてもまずは家康の方針を忠実に実行する。
こうして政策への理解を深めた秀忠。
家康亡きあとの幕藩体制をより堅固なものとしていったのです。
先生秀忠が家康の方針をそのまま受け入れたその解釈っていうのはどのように捉えていますか?秀忠にとってやっぱり家康っていうのはあまりに偉大な父親であり将軍であったのでそれをきちんと守っていく事が大切だというふうに考えたんでしょうね。
だから自分が新しく何か考えるよりは先代のやった事をきちんとやっていった方がいいだろうとそういうのが二代目の知恵だったんじゃないでしょうか。
まずはその先代の方法を実践せよという秀忠の知恵をどのようにご覧になりましたか?やっぱりカリスマでやってる以上はその父親というやってる姿はほんとにすばらしいと。
すばらしいんやったらまずそのすばらしいとこを学ぼういう事で社長は今こう考えてるやろなという事を常々考えながら専務常務の間はやってました。
将来自分が継がして頂けるんであれば自分一人ではできない。
そうしてくると内部を充実しようという事で内部充実を図っていきました。
自分の中に自信をつくっていくという事ですかね?そうですね。
でも仕事場に入ります。
そうすると役員会みたいにズラーッ並んで商品の事とかいろいろしゃべるんですね。
「これについてどう思う?」という事を営業部長から私に問いがあるんですね。
人前に立ってもあるいは人前じゃなくっても会議の中でものも言えない。
そして商品も開発できない。
その時父親言った事は「お前にはお前のいいとこがあるんやからそのお前のいいとこ自分を見つめ直せたらその時点で開かれる」っちゅう事を言われまして。
そこで何かものすごく自分の悩んでた父親を抜くとか父親が偉大とかそんなんじゃなくって自分の道を歩んでいったらいいんやっちゅうのでパーッと開かれた瞬間がありまして。
そこからが私のスタートになったかなという。
山本さんは今社長ですよね。
まさに征夷大将軍。
それでお父様は会長で駿府にいるわけじゃないですか。
言ってくる事ないんですか?引き継ぐまではすごく言われました。
社長になる前の日まではまあ見事に反対を最後までやり通してましたね。
で社長を引き継いだその日から一切何も言わなくなったんです。
もうすぐ次の日から?はい。
もうその代わった瞬間にすぐにやったのはお菓子の修正っちゅうのか自分の舌に合うお菓子にしようという事で全部見直しました。
全部見直したんですか?全部見直し。
そこでですね変わったお菓子をですね召し上がって頂こうと思います。
(林家)いいんですか?栗まんじゅうでございます。
いただきます。
うん!懐かしい味がする!でいて甘さが控えめですよね。
確かにそうですね。
おいしいですね。
これは具体的にどういうふうに山本さんが社長になって変えたんでしょうか?明治5年からこれはずっとやってるお菓子です。
砂糖ばっかりのあんこやったものをこうやって栗をふんだんに入れたものに変えさしてもらって砂糖の量を大幅に減らしました。
いや〜これはうれしいわ。
これが一番僕は緊張しました。
これでもしお客様にあの栗まんじゅう変わったなって言われた時点でダメになる。
今までと変わらず代々変わらずおいしいねって言ってもらえるのがお菓子屋の伝統だというふうに思ってまして。
でも昔の味をそのまんま今再現したら甘くて食べられないんです。
何が変わってるっていうと皆さんの人間の舌っていうのは時代とともに変わってるんです。
今すごくあっさりしてますよね。
わからないようにマイナーチェンジしていくっちゅうのがこの苦労というのをね…。
まあおかげさまで何とか「変わらないね」って言って頂いてるのでほっとしているという…。
これほんとおいしいですよ。
先生話聞いてないでしょうほとんど。
味一つ変えるのにそんなに苦労してるっていうか考えてるってのは初めて知りましたね。
更にもう一つですね秀忠の知恵をここで味わって頂こうと思います。
江戸城。
毎日秀忠のもとに通う4人の人物がいました。
いずれも現役を退いた年老いた大名たち。
しかしその名を聞けばみんなびっくり。
例えば日本一の勇将と秀吉から称賛された…築城の名手として知られた丹羽長重。
皆戦国の世を武勇と知略で生き残ってきた百戦錬磨のつわものたちです。
彼らは毎日秀忠に呼ばれその経験談や人生訓を語っていたのです。
彼らは「御咄衆」と呼ばれました。
戦や政において自分たちが成功した事失敗した事。
それはまさに知恵の宝庫でした。
秀忠はその話に謙虚に耳を傾けさまざまな事を学んでいたのです。
秀忠が御咄衆を置いたのはある危機感があったからです。
秀忠の言葉です。
「偉大な家康の息子である自分は高貴に見られ日々接するのは近臣ばかり。
厳しい忠告をしてくれる師や友がいない」。
しかし御咄衆の面々なら違います。
中には父家康と戦った武将さえいます。
秀忠に対しても臆する事なく意見できる人々でした。
秀忠は御咄衆をそばに置く事で自らを厳しく律したのです。
他にも秀忠は城を訪れた老大名たちをつかまえ積極的に話を聞きました。
信長秀吉家康に仕えた武将細川忠興にはこんな質問をしています。
「四角いものに丸い蓋をすると角がはみ出て中が見えてしまうではないか」。
「それが上に立つ者の余裕というもの。
ぴったりとした蓋をすれば中が窒息してしまいます」。
秀忠は家康亡きあと独自の政策を進める中でも老大名たちにアドバイスを求めています。
秀忠の言葉です。
「昔の歴史や世間の評判利害が分かる。
そうすれば知識も広くなり政治にも役立つ」。
謙虚に学び続けた秀忠。
多くの先人たちの底力を借りる事で偉大な父以上の知恵を自分のものにしていったのです。
諸先輩方の話を聞くっていうその心掛けが偉いですね。
すばらしい事ですよね。
私は聞くっていうその考え方っちゅうのか気持ちを持たないと独走してしまうんですね。
間違っててもそれがどうなのかただす事なく…。
社長になればなるほど誰からも言われる事がありませんのでね。
聞くためにはどういう場作りをするかっていう。
会議でこう座ってっていうたらなかなか言葉に出てこないんですね。
家に呼んだりしてみんなで御飯食べながら。
私も作ったりしますので。
御飯を食べながらポロッと出る言葉があるんですね。
それをすごく参考にしながら次の商品開発次の戦略というのを打っていけるのでそういう場作りっていうのが大事なん違うかなと。
それは同じですね。
将軍と家臣ですから江戸城で公式に対面する時には何も言えないわけですね平伏して。
ただ御咄衆は将軍の私室私の部屋の方にやって来て自由に話するんですよね。
だからその時にいろんな話が出てくるわけですよね。
今おっしゃったのと同じですね。
異業種の方とも積極的にお会いされているそうですね。
全然考えられないようなIT企業の社長さんとお会いする。
そういうのもまたいい勉強になりますし。
まあ芸能人の方々ってすごいですよね。
「本番!」って入った瞬間のあの切り替えのしかたっちゅうのがもうほんとに勉強させられますしその瞬間瞬間のそこに打ち込む力っていうものをすごく学ばさしてもらえますしそういうなのが非常に楽しいなというとこですね。
私は父は亡くなってますから相談するっていうと兄かもしくは母ですね。
うちの母海老名香葉子というんですけど別名ね北条政子とも言われておりまして。
まあ厳しい母ですね。
お父さんはこうだったよああだったよって事を教えてくれますよね。
例えば毎日勉強していたと。
全新聞を取って赤ペンを引いてネタになりそうなところは毎日のようにやっていたという事は語ってくれるんでじかに父とは面と向かっては話をしていませんがそういう事は聞いていますね。
最後はゆかりの地を訪ねる旅をご覧頂きます。
そこからは秀忠の意外なエピソード素顔が見えてきました。
主人公ゆかりの地から取って置きのネタを探し出す…子供の時から冷静沈着自分を抑えて不平不満を口にしなかった秀忠。
その心の奥底にはどんな本音が隠されていたのでしょうか?今日はこちら日光東照宮へとやってまいりました。
日光東照宮は家康を神として祀った場所
その後秀忠の息子三代将軍家光が壮麗な社殿に改築しています
豪華絢爛な建物や鮮やかな色彩の彫刻群。
家康の威光をこれでもかと伝えています
なぜ家康公はこの日光東照宮に神として祀られる事になったんですか?家康公の遺言に「関八州の鎮守になろう」という…。
関東の神様になって日本を守っていくんだという意志があったんじゃないかなと。
そこには大きな理想として日本の国を守る神になりたいといういつまでも平和であってほしいという願いを込めたいという形でこの日光に鎮座されてるんじゃないかな。
家康公様のお墓はこのちょうど真裏にございますので。
じゃあ秀忠公のお墓もこちらに?いや秀忠さんは江戸におります。
あ別の場所に。
東照宮を創建した秀忠が自分の墓はそこに置かなかった。
その訳は?後に秀忠が死の床に就いた時一人の僧がこう聞きます。
「あなたも…」
「いや私は先代に従ってきただけ…」
秀忠の墓があるのは東京増上寺。
徳川家の菩提寺です
寺の奥まった場所に徳川将軍家の墓所があります
うわ〜なんてすてきな…。
秀忠をはじめ6人の将軍その正室や側室子供たちが眠ります
こちらが台徳院二代将軍秀忠公のお墓です。
現在石の墓が残るばかりですが戦前はここに霊廟が建っていました。
昭和20年戦災で焼失したのです。
どんな霊廟だったのか模型で再現されています
こちらが徳川二代将軍秀忠公の霊廟のの模型でございます。
霊廟には秀忠の位牌が祀られていました。
歴代将軍も参拝した場所です
全体的に黒を基調としたシックな造り。
日光東照宮に比べれば質実剛健な雰囲気です
やはり初代将軍家康公は神としてご自身は武家としての格といいますかねそういうものが表れているんではないかと思うんですけどね。
現在秀忠は妻お江と同じ墓に眠っています。
霊廟が消失したのち一緒に祀られる事になったのです
奥様と一緒で安心してお休みになってらっしゃるんでしょうね。
神ではなく人として祀られたい。
ひっそりたたずむ墓はそんな秀忠の思いが実現したかのようです。
次に秀忠の本音を求めてやって来たのは東京大学。
案内人はこの方「知恵泉」の常連山本博文教授
今日はどうぞよろしくお願いいたします。
こんにちは。
よろしくお願いします。
秀忠公と東京大学って何か関係があるんですか?上屋敷でここに藩主がいたわけです。
そこに…
「御成」とは将軍が臣下を訪問する事。
室町時代に始まり戦乱の中で途絶えていたのを秀忠が復活させました。
そこには何か政治的な意図があったのでしょうか?
秀忠からすると…そうですね中に入るという事でそういうふうに思われる事も多いんですが実際にはそういう事はなくてそこでごちそうが出て能を見て遊んでるという感じなんですね。
だから秀忠としてはできるだけ大名たちと親交を深めようっていうそういう意識があったんじゃないかと思いますね。
秀忠さん友達が欲しかったのかもしれませんね
御成は迎える大名たちにとっても名誉な事。
準備には力を入れました。
例えば寛永6年秀忠が前田家に御成を行った時。
前田家では屋敷を大規模に修繕します。
東大構内に残る三四郎池はその時に整備されたものです。
当時の三四郎池の様子です。
秀忠は池のそばの高楼で遊んだとか。
御成で使われたというおびただしい数の箸や皿などの食器も発掘されています。
さぞや豪華なもてなしを受けたんでしょうね
高楼に上って三筆の和歌を見たりですねそれからそのあと広間に移って能を見たりそれから七五三という膳も出てくるわけですね。
そういうのを延々と繰り返すという事なんですけどね。
そういう中でお互いにお酒のやり取りをするとかですね。
秀忠は歴代の将軍の中でも最も熱心に御成を行いました
大名たちと気楽に遊びたかったという秀忠。
墓の場所といい御成といい偉大な父を持ってしまった息子の本音少し分かったような気がします
いや〜びっくりしたなあ。
それにしても結構私が思ったよりもフレンドリーな将軍なんですね。
その素顔がありましたよね。
先生ねその御成を受け入れる側の大名たちそのうれしさと気を遣う部分はなかったんですかね?これはほんとに名誉な事なんでいいんですけどもしかし将軍が来るって事になると屋敷を新築するとかですねたくさんのごちそうを用意するとかほんと大変なんですね。
幕府の方からはわざわざ新築しなくていいよと言うんだけどやっぱり新築したりあるいは御成門といって将軍だけが入る門を造るとかそういう事が必要なんですね。
さあ今日のテーマこちらでありました。
「偉大な先代を持ったら」。
その極意山本さん改めて。
自分らしくっていう事が言えると思います。
私はやっぱり今まで「この人を抜かなあかん。
この人をこの人を」っていう事でやってきたものをそれを思ってる間はものすごく自分が小さい枠で物事を見てるんですね。
大きな枠で見ていけばやっぱりまず自分になる。
自分を知り尽くすという事が大事だなという事を感じましたのでやっぱしプレッシャーが皆さん二代目とかなってくるとあると思うんですね。
そういう事を関係なしにとにかく自分を持つ事によって一歩出るチャンスがどんどんどんどん出てくるんではないかなと思っています。
芸人っていうのは一代一代だと思ってるんですよ。
父の名前を継いだから二代目じゃなくオリジナルの三平だと思ってるんで自分は。
二代三代って言わないんですよ。
自分は「当代」って言うんです。
当たる代なんです。
だから当たったんです。
当たったからこそポジティブに考えていく。
当代!当代店主も頑張んないといけないですね。
そうですよ!是非お力を貸して頂いてもり立てていこうと思います。
今日はご来店ほんとにありがとうございました。
2015/07/07(火) 12:00〜12:45
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉「二代目はつらいよ 偉大な先代を持ったら 徳川秀忠」[解][字][再]

テーマは「偉大な先代を持ったら」。偉大な先代・家康の跡を継いだ二代将軍・徳川秀忠に注目。実は、幕府の礎を築いたと再評価が進んでいる。二代目に必要な知恵と行動は?

詳細情報
番組内容
テーマは「偉大な先代を持ったら」。優秀な先代がやっとの思いで築き上げた家も、二代目であっさりと消えてしまう。歴史上、そんな例は数多い。しかし、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠はちょっと違う!家康という偉大すぎる父に隠れがちだが、実はスゴい手腕の持ち主。父の業績をつぶすことなく、独自の政策も加えて組織を強化した。現代では、徳川幕府260年の礎を築いた人物と再評価が進んでいる。2代目に必要な知恵と行動とは?
出演者
【出演】たねやグループCEO…山本昌仁,東京大学史料編纂所教授…山本博文,落語家…林家三平,【司会】近田雄一

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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