今年一人の日本人記者が国際サッカー連盟から最高の栄誉を受けた
賀川浩90歳
現役最高齢のサッカー記者だ
(賀川さん)90歳でこんなびっくりするような賞をもらったんですがこれは日本のサッカーが急速に発展したことに対してFIFAが考えてその中で一番年寄りを選んで…。
スイスで行われたFIFAの授賞式
世界のスター選手達と並んでステージの中央には会長賞を受けた賀川の姿があった
どこの国の選手でも一つのプレーで世界中をとりこにできるサッカーの魅力を書き続けて来た
今日本のサッカーでもそうだし世界のサッカーでも一番よく知っておられるのは賀川さんだと思いますよ。
恵まれない環境の中でサッカーっていうのを一生懸命皆さんがやって来られたわけなのでね。
しかし華やかな人生の裏側には語って来なかった過去がある
戦争でサッカーを諦め特攻隊として国のために死ぬ覚悟を決めた
(賀川さんの声)本物の軍隊入るわけやからまぁ俺らは死ななアカンやろな。
出征先は日本の支配下にあった朝鮮半島
そこには日の丸を背負った植民地出身のサッカー選手がたどる数奇な運命があった
(賀川さん)伝説はいくらでもありますから。
代表チームでは欠かすことができない1人だったでしょうね。
日本そして韓国へ
歴史の空白を埋めるため90歳のサッカー記者が宿命と向き合おうとしていた
賀川浩は90歳にして今も現役の記者だ
この日もスポーツ新聞社からワールドカップ予選の記事を依頼されていた
うわ〜!うわっこれも入らん。
賀川が書く記事の神髄は60年を超える取材で培った分析力
試合展開を細かく記録し記事のヤマをあぶり出す
長谷部がつっかけたからあそこで速いボールを出すんでなしに今度はちょっとやわらかいボールをポンっと横へ出せば本田が止めて中入ってシュートできるのを相手に当たってクロスが効かなかったわけですよ。
相手がうまく行くいうことはサッカーですからこっちはうまく行かないというわけですからね。
明日は日本中皆「何や何や」いう顔して…。
フフフ…。
翌朝勝ちを逃した試合の見出しは「選手同士で考えろ」
「言いなりになるだけではダメだ」
そこには選手を一番大切にして来たという信念がある
満州事変から日中戦争へと戦線が拡大していた時代に賀川はサッカーと出合った
母校の第一神戸中学は全国屈指の強豪校だった
全国大会ではいつも優勝して当然とばかりに練習漬けの毎日だったという
昭和5年はいい選手がそろった時や。
その時の優勝旗ですよ。
部員達の憧れは将来日の丸を付けて戦うこと
そんな思いをかき立てた昭和11年のベルリンオリンピック
国際舞台に初めて出場した日本のサッカーが初戦で優勝候補のスウェーデンに逆転勝利を収め世界中を驚かせたのだ
当時の日本代表イレブン
同点ゴールを決めたのは賀川の先輩…
その隣には日本統治下の朝鮮半島からたった一人代表に選ばれたキム・ヨンシクがいた
(賀川さん)朝鮮半島系の選手らしい非常に粘り気があってこの時のベルリンの代表チームでは欠かすことができない1人だったでしょうね。
しかし当時の朝鮮半島では日本の支配に対する反発も激しかった
朝鮮半島から全国大会に出て来る学校は賀川達にとって決勝戦でぶつかる最大のライバルだった
(賀川さん)日本本土に対する猛烈な対抗意識を持って来るチームやからね。
それに勝とうと思うたらそりゃ生半可なことでは子供の世界でもできませんからね。
グラウンドは軍事教練の場に変わり生徒達も戦争へと巻き込まれて行った
賀川は19歳で特攻隊に志願
出征先はくしくも朝鮮半島だった
まぁ俺らは死ななアカンやろなと言ったら「うんなぁ」とかって言いながらねレコード聴いてましたよ。
それは誰しもそう思いますよね。
僕らは体が丈夫やから嫌でも軍隊取られるに決まってたからね。
賀川です。
田中です。
(賀川さん)えっ?田中です。
(賀川さん)あっ田中さん。
どうもどうもご苦労さま。
終戦から70年
同期の戦友達と久しぶりに顔を合わせた
船はどこで…?沈められた口?うんもう…沈められて。
船首に乗っとったね特幹特別幹部候補生か。
あの連中がね20人ぐらい死んだよ。
(賀川さん)やっぱり…。
(賀川さん)「特別操縦見習士官」。
僕らはもう中型練習機で手っ取り早く突っ込めというふうに回されたわけや。
本土決戦が迫った戦争末期国は航空機の操縦士不足を補うため高等教育を受けた8000人もの大学生らを訓練しゼロ戦や特攻機に乗せた
学業やスポーツを諦め激戦の地に飛び立った若者達
多くが帰らぬ人となった
あのベルリンオリンピックの選手達
逆転勝利への口火を切るシュートを放った…
決勝点の…
そして賀川の先輩で同点ゴールを決めた右近徳太郎はパプアニューギニアのブーゲンビル島で命を落とした
(賀川さん)亡くなった先輩も含めたくさんの人が戦争のためにサッカーをやめてしまうことに。
弾が体に入ったまま帰って来てもうサッカーをやめた先輩もいますしビルマの敗走の小隊長で小隊全員を連れて帰るためにもう精も根も尽き果てて帰ってからはもうサッカーは君らのを見るだけだと言って。
まぁそういういろんな人の…まぁ言うたらステップの…積み石の上に立って今今日があるわけですけど。
賀川は戦争に行った日本代表選手達の足取りについてもこれまで多くの記事を書いて来た
しかし終戦後の混乱で十分な資料を集められていない選手もいる
日本の植民地だった朝鮮半島から来たキム・ヨンシクもその1人だ
ベルリンの世代の選手にサッカーを教えてもらったし戦後もそのベルリンの世代とまたもう一遍交流しながらサッカーの日本の進歩を考えてたわけですから。
しかも朝鮮半島という特異なサッカー地域でもあったわけですからね盛んな。
それから来た先輩として僕には非常に印象は強いですよね。
日本の敗戦でキム・ヨンシクはどうなったのか
歴史の空白を埋めるため賀川は再び海を渡ろうとしていた
70年前の8月15日日本の敗戦で朝鮮半島は解放された
軍事境界線の向こう側今の北朝鮮で賀川はその日も出撃の命令を待っていた
敗戦を告げる玉音放送を聞いた後背後に迫るソ連軍の気配を感じながら南へと逃れた
終戦後初めてこの地を訪れ戦争の記憶と向き合った
半年ここにいましたよ。
朝鮮半島へ来る敵艦船艇に行くという命令が出たらいつでもここの木浦の最前線へ行って…という状態にはあったわけです。
ふんどしまでさらくれて恩賜のたばこが一人3本ずつ菊の御紋章入りのたばこはもうちゃんとくれてね。
これやるから行って来いっちゅうもんですわな。
(スタッフ)死ぬという覚悟は…?それはまぁ当たり前のことですよね。
死ぬことが大事なんじゃなしに死ぬためにぶつかることが大事なことですからね。
戦争によって命をもてあそばれたのではないか
混乱の中で出会った一人の韓国人少年のことを今も忘れることができない
雨の日に子供が出て来てボール蹴ってるのを見てねそこで僕も上から下りて行ってねその子と2人でボール壁にポ〜ンと当てて返って来るボール当てていうのを2人で30分ぐらいやってて。
あの子はあとだから…韓国戦争というんですねこっちでは。
日本では朝鮮戦争…。
どうなんなったんでしょうかね。
韓国に来て植民地支配から解放された後のキム・ヨンシクの足取りが分かって来た
(賀川さん)ありがとうございます。
サッカー専門誌の編集者がキムの遺品を見せてくれた
1948年のはいはい。
終戦の3年後ロンドンオリンピックの選手団に名前があった
(イ・ジェヒョンさん)「金容植」。
(賀川さん)はいなるほど…。
キム・ヨンシクはサッカーの韓国代表選手になっていた
あ〜懐かしい。
(賀川さん)まだ若い時の顔や。
日本代表としてベルリンオリンピックで戦った12年後のことだった
そのスイスワールドカップ予選
朝鮮戦争が休戦した翌年日本と韓国は戦後初めて対決する
韓国代表チームを率いて日本にやって来たのはあのキム・ヨンシクだった
(賀川さん)これは賀川太郎私の兄です。
フフフ…ちょっと似てるでしょ?
賀川の2歳年上の兄日本代表だった賀川太郎
因縁の試合に出場した
前の日に雪が降ってその雪を横へ積み上げたんだけどこの泥水でねその雪が解けた水でいっぱいで。
賀川太郎はね帰って来て言うのね韓国の選手はあの時靴の中に唐辛子を入れてたと。
足が温かくなるってね。
寒い所の選手は寒さの対応を知ってる。
キム・ヨンシクはあの時選手に何を諭していたのか
直筆の作戦メモが韓国代表のトレーニングセンターに残っている
強力な闘志と明晰な頭脳日々の進歩と構想する力を持て
どんな苦難があってもサッカー選手としてあるべき姿を忘れてはならないと
試合は泥まみれの死闘となった
先制点は日本だったが韓国が5点を奪い返して逆転
第2戦を引き分け韓国がワールドカップへの初出場を決めた
その後いくつもの激戦を重ねた日韓の選手達には友人としての交流も広がった
1960年代キム・ヨンシク監督の下で日本と対戦した1人だ
そうですか懐かしい。
キム・ヨンシクは晩年日韓の定期戦を実現させた後74歳の生涯を閉じた
チョさんが賀川をキム・ヨンシクの墓に案内してくれた
賀川の戦争が終わって70年
ようやくこの場所にたどり着いた
ふぅ…。
すごい立派なあれですね。
国と国の狭間で翻弄されてもサッカー人として生き抜いた人生
墓には日本代表選手だったという事実がしっかりと刻まれていた
フットボールの選手そのものは地域の代表でありローカルであり民族の代表でありそしてそのフットボールそのものが世界的なものだということをね自分で実践されて。
でもう何よりもヨーロッパのやり方やそういうものも日本や韓国が足踏みしないようにいつも先端のことを見て基本とスポーツマインドの大事さというのをねいつも説かれてたわけやから。
キムさんのベルリンの仲間の川本さんがお前今頃こんな所でキムさんのお墓へ来て何をしてるんやと言ってますよ上で。
早来い早来たら紹介したるよと言ってるんじゃないかな。
(賀川さん)乾杯!・乾杯!・
日本サッカーリーグが発足して今年で50年
世界各国の選手達が活躍できる場に育った
(賀川さん)ここまで長かったけどあっちゅう間でしたな。
ねぇホントに。
先人達は残した
平和の尊さとサッカーができる喜びを
戦争に行く前生きては帰れないと兄と2人で造った墓がある
これはあの僕らが一緒に入るように造ったこれがそうですね。
賀川太郎の代からはこっから入るわけです。
共に生き残り終戦の2か月後再びボールを蹴り始めた
(賀川さんの声)取りあえず西宮へバッグ持って来いというはがきが来てで行ったわけですわな。
うちの兄貴なんかはもうすぐやってたけど僕はあんまりすぐやる気にならなくてその日はスタンドで見てましたみんながやるのを。
僕はもうあんまり急にそんなもんサッカーうれしがってやるような気にもあんまりならなかったしね。
みんなやってましたよねずっと。
それが10月の中旬でねそれが最初の復活の試合でしたからね。
1945年12月4日
賀川達とほぼ同じ頃キム・ヨンシクも海の向こう側でサッカーを始めていたことが分かった
いよいよサッカーできるようになったという時に両方のキャプテンがまだ現役だったんですよね彼はね。
キムさんにしたらねうれしかったやろと思うわ。
しかも天下晴れてやれるというわけで。
タフでうまかったからなぁ。
書き続けなければならない先人達の遺志がある
命ある限りサッカーができる今を守り抜く覚悟だ
取りあえずまだ原稿を抱えてるから今晩すぐ1本書かないかんのがある。
ハハハ…。
昨日の晩も1つ1本小さいのを書いて今日はまた今晩1本書かないかん。
(スタッフ)そうですか。
はいそうです。
しょうがないですこれは宿命ですからね。
ありがとうございます。
少年は自ら余命告知を受けました
何か残したいんだと思うんですよね。
残された時を懸命に生きる17歳の物語です
2015/07/06(月) 00:55〜01:25
読売テレビ1
NNNドキュメント「90歳のサッカー記者 −日韓 歴史の宿命−」[字]
日本最高齢のサッカー記者、賀川浩氏90歳。今年、FIFA国際サッカー連盟会長賞を受賞した。戦後70年、韓国人の元日本代表選手の足跡を追い歴史の宿命を解き明かす。
詳細情報
番組内容
日本最高齢のサッカー記者、賀川浩氏90歳。長年にわたる国際取材が評価され今年、FIFA国際サッカー連盟会長賞を受賞した。神戸の強豪校で活躍した少年時代。全国大会のライバルは日本統治下の朝鮮半島代表校だった。その後戦争の激化で陸軍の特攻隊員として朝鮮半島に出征。数奇な運命をたどる。戦後70年、戦時下で日本代表選手となり戦後「韓国サッカーの父」と呼ばれた一人の韓国人。足跡を追い歴史の宿命を解き明かす。
出演者
【ナレーター】
安富史郎
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ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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