矢澤豊氏がアゴラに「「七人の侍」という日本の寓話」という記事を寄稿した。
映画批評としては興味深い点もあるが、『七人の侍』で描かれる戦国時代の村と、
現実のそれとでは大きな隔たりがあることを指摘しておきたい。


『七人の侍』に登場する百姓たちは、侍たちの指導の下、竹やりの稽古をする。
けれども、戦国時代の百姓たちは刀も槍も弓矢も持っていた。
だから竹やりで戦う必要はない。
拙著『一揆の原理』にも書いたが、
農民が竹やりを武器として戦ったのは、明治初期の新政反対一揆だけである。

また、『七人の侍』の百姓たちは盗賊たちにおびえるばかりで、
士気が低く戦闘経験もなさそうだが、戦国時代の村は始終戦っていた。
それも盗賊の襲撃に対する自衛の戦いではない。
近隣の村と土地や用水をめぐって殺し合いをしていたのである。

琵琶湖北岸に菅浦(長浜市西浅井町)という集落がある(筆者撮影)。IMG_2134

1445年、菅浦は日差・諸河という場所の耕地をめぐって、
隣村の大浦と大きな争いを起こした。
菅浦方には八木公文殿・安養寺殿という侍と河道北南・西野・柳野・塩津・
春浦・海津西浜という村が、
大浦方には海津東浜・今津・堅田・八木浜という村が加勢した。
菅浦と大浦という2つの村の争いが、琵琶湖岸全域を巻き込む大規模な争いに
発展したのである。
この戦いの顛末を記した菅浦惣荘置文はこの争いを「合戦」と表現している。
動員兵力や戦死者数で見れば、侍同士の合戦と比べても遜色のない激しさで
ある。

菅浦では70〜80歳の老人も弓矢を取って戦い、女性も水くみという形で戦いに
参加し、勝利を得た。まさに総動員体制である。菅浦がこの戦いを文書に書き
記したのは、菅浦の栄光の歴史を語り継ぐためだけではなく、
将来に同様の合戦が生じた時の参考に供するためだろう。
いわば“戦争マニュアル”である。
そこには、「お侍さま〜」とすがりつく『七人の侍』の無力な百姓たちの姿はない。

もっとも、この戦いで大浦はよそ者を金銭で雇っている。
この辺り、『七人の侍』を彷彿とさせる。
だが『七人の侍』の百姓たちが盗賊から村を守る用心棒を雇ったのに対し、
大浦が雇ったのは刺客である。
菅浦が他村への援軍要請のために派遣した使者4名を、刺客は道中で殺害した。
菅浦が大浦の八郎三郎・藤九郎を路次で殺害したことへの報復だった。


戦後歴史学は惣村の自治を礼賛してきたが、防衛力=軍事力を背景に
自治を達成した点も見逃すべきではない。
隣村との喧嘩に参加しない者には罰金を科し、払わなければ村から追放する
という規定を持つ村もあった。
一方で、紛争で命を失った者の遺族には補償を行った。
渡辺京二氏は「このような他村とのなわばり争いにおける村民の働きを賞罰し、
犠牲者を補償する方式は、近代国民国家の遂行する他国との戦争における戦
功への勲章の授与、徴兵忌避者の処罰、負傷者・戦死者遺族への補償という
周知の方式とどこが違うのだろうか」と指摘している(『日本近世の起源』)。
自治の“影”の部分から目をそむけてきた学界への厳しい批判と言えよう。

近年、日本中世史研究においても「戦争」が社会に与えた影響を正面から
見据えようという潮流が強まっているが、その試みが一般の読者にまで
届いているかどうか心許ない。
及ばずながら筆者も、中世戦争論の普及に努めていきたい。

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