先日、日本から届いた若杉洌『原発ホワイトアウト』(講談社、2013)を読み終えた。現役のキャリア官僚が原発をめぐる政財官の癒着を告発した小説、ということで話題になった。以下はネタバレである。
読後感はよろしくない。原発を早急に再稼働させようとする電力会社、官僚、政治家たちの巨大な権力の前に、脱原発を訴える人びとは潰されていく。組織の力は至るところに及んでおり、個々人の無力さが際立つ。もしかするとこの本は、原発に反対しても無駄だということを読者に印象づけようとする原発推進派のプロパガンダとしても使えるかもしれない。
たとえばこの本ではデモ潰しの手法なども述べられているが、折しも『北海道新聞』が反原発派の人たちに対する嫌がらせを記事にしており、反原発派に対する社会的圧力が存在することは否定し難いようにも思われる。
昨年8月と今年1月、東京新宿区立区民ギャラリーで「反原発への嫌がらせの歴史展」が開かれた。弁護士や市民運動家でつくる実行委員会(代表・海渡雄一元日本弁護士会連合会事務総長)が1980年代から今に至る、嫌がらせの実例を展示した。民主主義と表現の自由に対する犯罪だ。
例えば、原発の危険性を専門的に分析している民間団体、原子力資料情報室(新宿区)の女性スタッフが、子供と一緒に歩いている写真がある。誰かが、こっそり撮り、自宅に郵送してきた。「いつも見張っているぞ」とでも言いたいのか。
「コンビニで後ろにいたの気づかなかった?」という別の手紙もある。トイレで使ったような紙、たばこの吸い殻から昆虫まで、判明しているだけで反原発派68人に約4千通の郵便物が届いた。
反原発運動の支柱的存在だった故高木仁三郎元東京都立大助教授は1992年、地方講演の際、会場に知らない贈り主から花輪がずらり届いた。共産党の名前入りは豪華だった。全てニセ。「アカ」と印象づけたかったらしい。
(出典)『北海道新聞』2014年2月22日
このような圧力を前にすれば普通の人は腰が引けてしまうだろうし、先鋭的な人ばかりが運動に残り、結果として運動自体が世論と乖離していくということにもなりかねない。『原発ホワイトアウト』では、警察がこうした嫌がらせに直接に加担しているという記述があるが、それが事実だとすれば暗澹たる気持ちにならざるをえない。
ただし、この小説は「フィクション」である。小説という形態を取ることでより多くの読者にアピールできていることは否めないが、それだけにどこまでがフィクションでどこからがノンフィクションなのかの区别が付けづらい。基本的には架空の人物名で綴られている一方、実在の人名が出てくる箇所もあり、フィクションとノンフィクションとの境界がきわめて曖昧になっている。その点がこの作品の強みである一方で弱みもなっていることは否定できないだろう。
また、この小説に出てくる原発を維持、推進しようとする「システム」は、わりと属人的である。具体的には、小島という電力系業界団体の人物と日村という経産官僚の二人がシステムの要になっている。逆に言えば、この二人さえいなくなればシステムは立ち行かなくなるという印象も受ける。だが、システムの本当の怖さは、仮にこの二人がどこかでコケたとしても代わりはいくらでもいる、という点にある。個人とシステムが対立したときに前者が絶対に勝てないのもその点に起因している。そのあたりがもっと書かれていれば、システムの不気味さをもっと際立たせることができたように思う。
もっとも、システムという概念を社会分析にそのまま適用してしまうと別の危うさも出てくる。1990年代に話題になったカレル・ヴァン・ウォルフレンの日本社会分析が典型的なのだが(『日本 権力構造の謎』など)、システム概念を強調しすぎると、社会を構成する様々な組織や人物がシステムの駒としてのみ動いているように見えてしまい、その内部の対立やすれ違いが見えづらくなってしまうのだ。
『原発ホワイトアウト』では、電力会社、官僚、政治家のズレも描かれてはいるが、結局は電力会社に籠絡されていくという成り行きになっており、そこには危うさも含まれている。もちろん、実際にそうなのだから仕方がないと言われてしまうと、そこまでの話なのだが。
話は飛ぶが、ちょうど今、ぼくは冷戦期の米国によるプロパガンダ政策に関する本を二冊、並行的に読んでいる。そのうちの一冊は米国政府の巧妙かつ狡猾なプロパガンダ政策のもと、政府と研究者とが一体になって世論操作に関与していくという筋書きだ。他方の著作は、同じテーマを描いていながら印象は全く異なる。米国のプロパガンダ政策担当者がいかに官僚主義や政治的対立、予算の削減の前に苦しめられてきたかが延々と描かれている。まるでそれぞれに別の世界の出来事を論じているかのようだ。
どちらが「正しい」のかは分からないが、当事者目線で見れば後者のほうに軍配が上がりそうな気がする。後者の立場から見れば、「巧妙で狡猾なプロパガンダ政策」という話を聞かされれば、「そんなにスムーズに行くのなら誰もこんなに苦労しねええええええ」みたいな感想を持つのではないだろうか。
この話を敷衍すれば、『原発ホワイトアウト』で描かれているような「システム」の話も、当の電力会社や担当者からすれば「そんなに簡単にいくならいいよね…」という感想に落ち着くかもしれない。無論、そのような当事者の苦労があるからといって、システム的なものが存在しないというわけでもないとは思うけれども。
とりとめもなく書いてきたが、最後にこの小説が持つ最大の「危うさ」について書いておこう。上でも述べたように、この小説では原発の再稼働に反対する人たちや運動がどんどん潰されていく。他方で、原発再稼働に成功した高級官僚は、電力会社のカネによって高級ホテルで若いホステスとの一夜を楽しむ。多くの読者はここでフラストレーションを覚えることだろう。小説の力学はここから読者にカタルシスを与える方向に向かわせる。
それが「原発ホワイトアウト」だ。テロによって再び原発事故は起きる。ここに読者のカタルシスはある程度まで満たされる。「言わんこっちゃない」というわけだ。「賢明なる声」に耳を傾けず、電力会社や官僚、政治家の近視眼的な利益追求に沿って安易な原発再稼働にひた走った結果、日本は破滅の淵にまで追いやられる。もっとも、システムの要である二人は最後まで無傷なのだから、完全なるカタルシスが与えられるわけではないのだが。
これのどこが「危うさ」なのかと言えば、こうしたカタルシスを求める心理は、実際の運動にも反映されてしまうのではないかということだ。われわれの反対にもかかわらず原発が再稼働されてしまったのであれば、何らかの事故があればわれわれの「正しさ」が証明されたことになる。「脱原発」を願うあまり、原発事故の発生を願ってしまう、あるいは原発事故によって大きな被害が起きることを願ってしまう。
もちろんこれは極論だ。けれども、福島原発事故による「健康被害」を嬉しそうに(としか言いようがない)喧伝する人たちを見ると、それは必ずしも杞憂とは言い難いように思う。自分が反対する政策が実施されるとき、人は「自らの正しさ」を示すためにその政策が破滅的な結果をもたらすことを知らず知らずのうちに願うことがある。つまり、自らの正しさと破滅的な結果がもたらされないこと(=自分の心配が杞憂に終わること)を天秤にかけて前者を選んでしまうわけだ。
だがそれは脱原発を訴える人びとへの強い反発を招き、結果として運動の失速をさらに促す。『原発ホワイトアウト』の小説的カタルシスはその危うさを図らずしも示しているように思う。