任天堂の岩田聡社長が週末に亡くなられたという報道が月曜日にあった。
この機会に任天堂がいかに特別な存在であり偉大な会社であり、日本の宝であり、この世に存在していること自体が奇跡であるとともに福音であり、いま、任天堂と同じ時代を生きていて、任天堂を生んだ国に住んでいる我々が幸運であるかを書いてみたい。
ファミコン以前の頃からのゲーマーとして、あるいは社会に出てからはゲーム業界の片隅で飯を食べていた業界人として、知っていることをつれづれなるままに書いてみたいと思う。
ゲーム業界最大のイベントである東京ゲームショーに任天堂は出展しないことはゲームファンなら常識だ。しかし、そもそもの原因は東京ゲームショーの主催者であるCESA(コンピュータエンターテイメント協会)という団体の成り立ちにあるということは、あまり知られていない。
CESAは強力すぎる家庭用ゲーム機メーカー(ようするに主に任天堂)に対抗して、ゲームソフト会社が集まって生まれた団体なのである。そしてプロモーション手段ぐらいゲーム機メーカーに依存しない手段も持たないと駄目だということで生まれたイベントが東京ゲームショーなのだ。だから東京ゲームショーに任天堂が出展しないのは当たり前といえば当たり前の話である。
そういうわけでCESAの正会員にはゲーム機メーカーの任天堂と当時のセガエンタープライゼスは入らず、特別賛助会員というゲーム機メーカーのために用意されたような別枠で参加することになった。
しかし、セガはゲーム機ビジネスの撤退とともに正会員に移り、SCE(ソニーコンピュータエンターテイメント)も正会員になりたいという申し入れがあって、CESA内部では設立の趣旨を忘れたのかという若干の異論があったようだが、結局、SCEも正会員となって、いまや特別賛助会員は任天堂専用の肩書きとなっている。
業界のルールをつくったガリバー企業という構図は日本の中には任天堂以外にもたくさんあるが、任天堂が凄いのは世界規模でそれを行ったことだ。
ゲーム本体を安く売り、ソフトで儲ける。また、自社だけでなくサードパーティのソフトからも儲けるという世界的な家庭用ゲーム機のビジネスモデルをつくったのは任天堂である、というのはぼくがいうまでもないだろう。
ぼくは巷でありがたい言葉としてベンチャー界隈で敬われている「ビジネスモデル」という単語がどうも嫌いだ。
なんだか、社会の中でだれも見つけていない盲点を探し出して、うまいこと儲けるための仕組みをつくれる素敵なアイデアというニュアンスを、「ビジネスモデル」という言葉から感じてしまうからだ。
しかし成功したビジネスモデルの多くというのはアイデアがすごいというよりは実行力がすごいのである。
妄想みたいなビジネスモデルを実現するという奇跡が偉大なのであって、思いついたビジネスモデルが偉大なのではない。
任天堂米国本社が存在するシアトルには、もうひとつ世界的なIT企業であるマイクロソフトが存在する。
ぼくにいわせるとマイクロソフトと任天堂は、いまや世界一の大企業となったアップルが産んだ双子の兄弟である。
アップル社には2回黄金期があり、いまは2回目の黄金期だ。そして最初の黄金期は創業してまもなく世の中に生みだされたApple IIという歴史的なコンピュータによって作り出された。Apple IIがいわゆるパソコンの原点であり、Apple IIによってパソコン業界が誕生したのである。
ワープロや表計算ソフトのようなビジネスソフト。シミュレーションゲームやロールプレイングゲームのようなゲームソフト。それらの原点となるソフトはすべてApple IIで最初に販売されてヒットしたものだ。
Apple IIによってはじめてコンピュータソフトを作ることを専業とするソフトハウスとか呼ばれる業態が誕生したのである。
そして世界のビジネスソフト市場は米国のソフトハウスが支配するようになり、世界のゲームソフト市場は日本のソフトハウスが席巻することとなる。それぞれのプラットフォームをアップルに代わって提供することとなったのが、ビジネスソフトの分野ではマイクソフトであり、ゲームソフトの分野では任天堂である。
マイクロソフトはハードウェアは作らないし、任天堂はハードウェアは作るけれども、ほとんどそこでは利益を取らない。
つまり、どちらもソフトウェアで儲けるというビジネスモデルだ。
いまから振り返るとソフトウェアで儲けるというのは合理的だし普通の話に聞こえるが、当時は画期的どころか不可能なことだと思われていたのである。
マイクロソフトはどんな革命をした会社だろうか、マイクロソフトBASICをつくったことなのか、MS-DOSをつくったことなのか、Windowsをつくったことなのか。大抵のひとはIT企業が為した革命とは技術か製品かを基準に考えると思う。
ぼくが思うにマイクロソフトがIT業界でおこなった最大の貢献とは、コンピュータプログラムのコピーにお金を払うという習慣を一般化させたことにあると思う。ソフトウェアはフリーであるべきというイデオロギーが一般的だったパソコンが最初に登場した時代から、マイクロソフトはパソコンユーザーから猛烈な非難を浴びながらも、ソフトウェアには対価が必要であることを先頭にたって主張しつづけた。
コンピュータプログラムは特許ではなく著作権で保護されるべきであり、ソフトウェアを売っているわけではなく、ユーザーと使用許諾契約を結んでいるのだ、ソフトの包装を破いて開封したことで使用許諾契約に同意したとみなすのだという、当時は前代未聞の解釈を世の中に広めたのは、まさにマイクロソフトがやったことだ。
ソフトウェアという形のないものにお金を支払わせるというのは当たり前のことではなかったし、とても難しかったことなのだ。
自分がつくったソフトウェアだけでなく他人がつくったソフトウェアからも利益を上げるというマイクロソフトにもできなかったビジネスモデルを成功させたのが任天堂だ。
マイクロソフトは開発ツールにしてもWindowsのようなOSについてもマイクロソフトがつくったソフトウェアへの使用料さえ払っていれば、他の会社もマイクロソフトのソフトウェアを利用して自由にビジネスをすることができるという方針をとっていた。ビジネスをするためにマイクロソフトの許可もとくに必要としない。
ところが任天堂は例えばファミコンのソフトを発売するためには任天堂の許可が必要だし、売るソフト一本ごとに任天堂にもお金を支払う必要があるというビジネスモデルだった。
任天堂のクローズドなプラットフォーム戦略に対して、マイクロソフトがオープンプラットフォーム戦略を取ったのは、マイクロソフトのイデオロギーが任天堂よりも崇高だったからではない。プラットフォームホルダーとしてのマイクロソフトが任天堂よりも立場が弱かったからだ。
任天堂は強かった。だから、世界で最強のビジネスモデルを作れた。
ファミコン時代のゲームメーカーはヒットゲームを作っても自社の利益よりも任天堂の利益のほうが大きかった。これは現在のコンテンツやアプリのマーケットを独占提供しているアップルやAmazonやグーグルさえも実現できていない利益配分だ。(Amazonはkindleを発表した最初に出版社3割でAmazon7割という売上配分を提案したが、すぐに撤回して出版社が7割でAmazonが3割という配分に変更した)
最適なビジネスモデルというのは天才ビジネスマンの発想力で決まるのではなく、たんに自社と他社と消費者との間の力関係が反映されて決まるものだ。力関係を反映したビジネスモデルを本当に実現できるかは、実行力の問題だ。
任天堂はゲームソフトが格納されているカートリッジが自社製のものしか動作を保証せず、他のゲーム会社がカートリッジをつくるためには任天堂に製造委託をしなければいけないというルールを作った。カートリッジの製造コストには任天堂のマージンが大きく上乗せされたので、ファミコン時代は任天堂と例外的にカートリッジの自社生産が認められていたナムコの2社のゲームだけが3000円台の定価で販売されることになり、他の会社のゲームは5000円前後というより高い定価で販売されることになった。
日本国内では任天堂のビジネスモデルは一般的な商慣行として定着したが、海外では必ずしもすんなりいったわけではない。海賊版があたりまえのアジア市場はしょうがないとして、米国市場では先行するゲーム機ATARIが自由にカートリッジをつくってもいい戦略をとっていて、他社のカートリッジについても動作保証しなければならないという裁判の判決もでたりしていた。
有名なEA(エレクトロニックアーツ)も米国でジェネシスと呼ばれたセガのメガドライブのゲームソフト開発で大きくなった会社だ。EAは自社でカートリッジをつくっていたので、利益率が高かった。セガはEAの独自カートリッジビジネスをどうしてもやめさせることが出来ず、1本あたり1ドルという屈辱的な低ロイヤリティを提示して、やっと解決できたという話だ。
日米のソフトウェアビジネスの違いとして面白い例はレンタルソフトだ。日本ではツタヤがゲオがいまだに元気だが、米国ではブロックバスターという有名なレンタルソフトチェーンが昔はあった。ところが日本のレンタルソフトチェーン店と米国のレンタルソフトチェーン店には取り扱っている商品構成に大きな違いあった。
日本ではゲームソフトのレンタルは違法とされて禁止されているが、米国ではゲームソフトのレンタルは合法だったのだ。代わりといってはなんだが、日本では音楽CDのレンタルは認められているが、米国では音楽CDのレンタルは禁止されていた。
日本ではゲームソフトレンタルNGであり音楽CDレンタルOK。米国ではゲームソフトレンタルOKであり音楽CDレンタルNG。見事に逆になっているのはもちろん世界の音楽産業の本拠地が米国であり、他方、世界のゲームソフト産業の本拠地が日本であったことと関係ある。
結局、知的財産権とかを守るには正義だけじゃ不十分で努力であり力が必要であるということだ。
レンタルの有無はゲームの内容までに影響し、海外ゲームの難易度が高いのは、レンタル期間中にゲームをクリアさせないためだ。逆に日本ではゲームの難易度は初心者向けにどんどん下がり、また、RPGとか1回クリアしたら終わりというゲームも盛んに開発されるようになった。
日本でレンタルソフトの禁止やコピーツールの販売禁止など、ソフトの権利が守られるようになったのは任天堂の法務部の力が非常に大きい。いまでもサイバー犯罪とかの捜査にはよく京都府警の名前が登場する。京都府警が知財とかITまわりの犯罪捜査が得意になったのはもちろん京都に任天堂があったからだ。
任天堂のゲームビジネスには何度も危機が訪れた。最初の危機はもちろんソニーのプレイステーションの登場だ。
最初、ソニーはプレイステーションを任天堂と共同開発していたという話は有名だ。土壇場になって任天堂が一方的に共同開発を打ち切り、やむなくソニーは自社のゲーム機としてプレイステーションを発売したというのが定説だ。共同開発を破棄されたソニーは任天堂を訴えようとせず、自社のゲーム機としてプレイステーションを発売した。そして任天堂はNintendo 64がプレイステーションとの覇権争いに敗れ、ソニーにゲーム業界の盟主の座を奪われることになった。
あのとき、任天堂とソニーの間に本当はなにがあったのか、いまだにゲーム業界の歴史の大きな謎として残っている。
あれはソニーが任天堂を騙そうとしたんです、土壇場で任天堂の山内さんに見破られたんですよ、そう語る元ソニーの人にぼくは会ったことがある。真相は闇の中だが、どうも任天堂が判断ミスをしたという単純な失敗談とかでもなさそうだ。
新型ゲーム機のニンテンドー64は、結局、プレイステーションに奪われた市場を取り返すことはできなかった。ここで任天堂を救ったのはとっくにプラットフォームとしての寿命が尽きたと思われていたゲームボーイ用のゲームソフトであるポケットモンスターの大ヒットだ。しかし、たかが一本のタイトルが日本市場でヒットしただけ。大勢はくつがえらないとゲーム業界の多くは思っていたところポケモンブームはその後も続く。米国のゲーマーは好まないといわれていたのに米国進出まで大成功して少し流れが変わっていく。任天堂はトップシェアを奪われた据え置きゲーム機よりも携帯ゲーム機に力を入れるようになった。ゲームボーイを軸に任天堂は息を吹き返しはじめる。
しかしSCEもこの頃は余裕があり、ぼくが同席していた会議での携帯ゲーム機をSCEは出さないのかという質問に、いや、家庭用ゲーム機市場をつくった任天堂さんに対してそこまで追いつめるようなことはできないですよ、とある役員が答えていたことを覚えている。
任天堂は64の後継機のゲームキューブを発表するが、ライバルのプレイステーション2に勝てると思っているひとは少なかった。むしろ業界が注目したのはXBOXをひっさげて家庭用ゲーム機市場に参戦したマイクロソフトだ。
米国最大のゲームショーであるE3では、毎年、SCEとマイクロソフトがお互いをライバル視して火花を散らしていた。どちらのハードウェア性能が優れているか、3D描画能力が高いかがひとつの焦点だった。任天堂だけはゲーム機はハードウェア性能ではないと新しいゲームの遊び方を提案するんだという姿勢を崩さなかった。SCEとマイクロソフトの関係者は任天堂はハードウェア性能競争を戦う力を持っていなからだと断じて競争から脱落したといいはるのだが、どこか不安そうだった。ひょっとしたら任天堂が正しいのかもしれないという予感があったからだ。そして会場でユーザーに一番評判が良かったのは毎年任天堂のブースだった。でも、市場での勝者は圧倒的にプレイステーション2だった。
とはいえゲームボーイアドバンスも投入して携帯ゲーム機市場の拡大に成功した任天堂は健在だった。しかし、それもいつまで続くのか。
そんなときに大事件が起こる。任天堂の山内社長がついに引退し、後継者に最年少役員の岩田聡を指名したのだ。
ゲーム業界のもっぱらの噂では次期社長は山内社長の娘婿の荒川實氏が大本命だった。荒川氏は任天堂の米国法人であるNOAを立ち上げて成功した人物だ。いまの任天堂があるのもNOAの大成功があってのものだ。山内