二空団リポート

二空団リポート(1):白井田2佐着任 
「なんといっても千歳基地は最前線ですからね、飛行隊長を命じられた時は嬉しかったですよ。
ともかく、いざという時は、勇猛果敢にやってもらいたい。死なねばならんときは自分が先頭に立つ。
隊員にはそう言ってます。」白井田信吾二等空佐。大阪府出身。防大39年卒。40歳。防大で学生に「航空防衛学」「戦史」などを教えていたが、3月1日付で二空団203飛行隊長となった。
千歳基地には超音速戦闘機F-104J(単座)の203飛行隊と、ファントムの愛称で知られるF-4EJ(複座)の302飛行隊(隊長、杉下恭治2佐)の二戦闘機部隊が配備されている。保有機数は各20機。飛行時間3000時間、ベテランの戦闘機乗りと言っていい白井田が千歳基地に配属になったのは、これが初めてである。
以前は、石川県小松基地の部隊でF-104Jに乗っていた。「あそこは日本海を南下するソ連機の定期コースになっているんですね。」夜間、何度かスクランブルで飛び立った。レーダーに映った不明の飛行物体が突然、自分の方に変針して近づいてくる。周囲は真っ暗闇「このままでは衝突する」と観念しかけた時、相手がパーッと翼灯をつけてくれたので回避できた事もあった。
同僚のパイロットの一人は、小松名物の雷にレーダー・ドームを直撃されて、機体もろともまっさかさまに墜死した。
二空団リポート(2):初めてのソ連機(画像添付
 TU-16 バジャー

初めて接触したソ連機は、バジャーと呼ばれる偵察爆撃機だった。
尾翼にくっきりと浮かんでいる赤い星を見たときは、自分でも意気地のない話だが、心臓の鼓動が普段の3倍ぐらい速くなった。「尾部の30ミリ機関砲が二門とも上部を向いてロックされているから攻撃の意図はない!」 と落ち着いて観察できるようになったのはずっと後のことである。
もともと防衛意識に燃えて自衛隊に入ったわけではない。父親は予備役士官として第二次大戦で応召、戦後、中国に抑留され帰国したが、白井田自身にとっては、個人としての戦争体験はゼロといっていい。高校を出て、防大を受験したのは、根っからの飛行機好きで、パイロットになりたかったからと言う言葉につきる。「みんなそうじゃないですか。最初からまともに国を守ろうと思って戦闘機乗りになった、なんてのはあまり聞かんですよ。」 しかし、いまは考えが違う、と白井田は言う。
「国土が侵攻されたら身を挺してもそれを防ぐ。日本人としてあたり前の事じゃないですか。そのためには死ぬようなことがあっても仕方がないでしょう」。
大型民航機がひっきりなしに離着陸する千歳空港はいま、帰省客やレジャー客で華やかな彩りに包まれている。同じ空港の一角を占める航空自衛隊基地では、最前線意識に燃えてパイロットが日夜任務に励んでいる。
わが国最強といわれる戦闘機集団、二空団とはなにか、そこでは、どんな人間が何を考え、何をしているのか・・・・レポートをしてみたい。着任間もない白井田2佐が、部下の新敷2尉を訓練中の事故で失ったのは4月30日のことだった。
二空団リポート(3):新敷2尉の殉職(1) (画像添付
その日、昭和56年4月30日、千歳地方は朝から雲が低く垂れ込めていたが、航空機の発着に支障のあるような天候ではなかった。
203飛行隊の8機のF-104J戦闘機も、午前10時には積丹沖の訓練空域「C1」を目指して通常訓練に飛び立っていた。訓練空域までは片道30分。ドッグ・ファイトと呼ばれる戦闘機独特の格闘戦の訓練を終えた編隊は、11時には帰路についた。

飯牟礼芳比古2尉は、2機ずつ編成された四つ目の編隊長機だった。編隊長機には、リーダーとして、ウイングマンと呼ばれる列機を誘導する役目が課せられている。列機は新敷昌明2尉機。右後方にぴったりと追尾している。
「いやな天気だな」千歳周辺の厚い雲を見たとき、飯牟礼は一瞬こう思った。基地気象隊の報告では、基地上空の雲高は120メートル、着陸寸前まで滑走路は視認できない。
「いくぞ」とかけ声をかけると飯牟礼機は雲の中に突っ込んだ。管制の指示に従って、雲中でぐんぐん高度を下げ、着陸に備えて車輪も下げ、フラップもおろした。高度500メートル、滑走路まで15`、あと3分足らずで着陸だ、と思ったときである。
「ロスト!」という新敷2尉の声が飯牟田礼機のラジオに飛び込んできた。雲中でリーダー機を見失ったのである。

「プルアップ」(機首を上げろ!)
「ラジャー」(了解)

空中衝突を避けてリーダーは左にウイングマンは右に30度変針してお互いの位置を確認、改めて復航するのがこうした場合のパターンである。
F104J  ↓
二空団リポート(4) 新敷2尉の殉職(2)
左に変針した飯牟礼機は、ラジオで新敷機に呼びかけたが、それっきり交信は途絶えた。
「場外救難発生 F104J、新敷機不明」の警報が基地に流れたとき、隊長の白井田2佐の心境は複雑だった。機影はレーダーからとうに消えている。
とっさに思ったのは「民家の上にだけは落ちないでくれ」ということだった。かって白井田が小松基地にいたとき、金沢市内の民家に飛行機を落とした同僚がいた。幸い双方とも無事だったが、激高した世論を気にして基地内でさえ生還したパイロットを見る目は冷たかった。「ぎりぎりまでやったのに、みんなオレが生きて帰って来たのを悪いような目でみてやがる。助からなきゃよかったんだ」と嘆いたそのパイロットの暗い目を白井田はそのとき思い起こしていた。

基地から直線距離にして18`、空知管内長沼町の休耕田に新敷機が落ちたのは、それから間もなくである。「不明機発見」の報で基地を飛び立った航空救難隊(隊長、筑紫哲彦2佐)のバートル・ヘリから救難隊員の安山、小川2曹がパラシュートで現場近くの畑に降下したとき、すでに消防車やパトカーが到着、四散した機体から投げ出された新敷2尉の遺体には毛布がかぶされていた。
「ばかだなぁ。なんで最後まで飛び出さなかったんや」白井田は思わずこうつぶやいた。
F104Jの脱出装置は、接地寸前でも座席の下のレバーを引きさえすれば座席ごとゆっくりと空中に噴射され、パラシュートが開く仕組みになっていた。しかし、その装置を作動しようとした形跡はどこにもなかった。
※新敷2尉はなぜ脱出しなかったのか・・・・・。
二空団リポート(5) :新敷2尉の殉職(3)
「おとうさん」というのが、隊内での新敷2尉のあだ名だった。
防大52年卒、28歳。独身の若者に対しては、いささかふさわしくない気もするが、年齢の割には後退しかけた額の生えぎわと、大人風の落ち着いた雰囲気が隊員にそんな呼び方をさせていたらしい。

「新敷機不明」の場外救難警報が基地に流れたとき、302飛行隊の森田弘、山本康正2尉は、この日1回目のフライトを終わって、二人でコーヒーでも飲みに行こうか、と思っていたときだった。
F104Jとファントムと飛行隊は違っていたが、二人は新敷2尉と防大同期生、千歳基地に来るまでずっと同じ道を歩んできた仲間だった。
「ラジオ・アウト」かなんかで、なに事もなかったらいいんだけどなぁ」一瞬ドキッとした森田は、すぐそう思い返した。山本は前夜、いっしょに食事に出かけたときの新敷のようすを思い浮かべていた。

自衛隊では、幹部は原則として基地外居住だが、独身の3人は市内に部屋を借りるのも面倒くさいと、基地内の営舎で生活していた。機械マニアだった新敷は、営内のその自室でオーディオを組み立て、よくひとりで好きな音楽を聴いていた。
「基地の食事も飽きたし、たまに外に飯を食いに行こうか」と山本が誘いに行ったとき、新敷2尉は買ったばかりのイタリア製の真っ赤なスポーツカーの手入れをしていた。中古ながら130万円で手に入れた逸品である。
戦闘機は操縦できるが、山本はまだ車の運転免許は持っていなかった。千歳市内の自動車学校に通って、「こんなクランクも曲がれないのか」と教官に油をしぼられている最中である。「免許を取ったら貸してやろうか」と言われて「うん」とうなずいたものの、日ごろ、物静かな“おとうさん”に真っ赤なスポーツカーはなんとなく似合わないような気がしていた。 
二空団リポート(6) :新敷2尉の殉職(4)
鳥取県米子市に住む新敷敏美、キクエ夫妻にとっても、ひとり息子の昌明は、子供のころから口数の少ない落ち着いた少年だった。
「オヤ」と思ったのは、この正月、帰省した時だった。「万一のときは、どんなことがあっても飛行機は民家の上に落とさないよ。パイロットとしてそれだけの覚悟はできている」、と息子が問われもせぬのに口にしたときキクエは「自衛隊では、そんなふうに教育をしているンだな」とふっと思った。

長沼町の畑に落ちた新敷機は機首を東に向けて四散していた。墜落地点の近くには農家が点在していたが、機首の前方だけは一面の原野が広がっていた。
「息子は民家に飛行機を落とすまいとして、脱出が遅れて死んだのでしょうか」。遭難現場に立った父親の敏美は何度もその言葉を口にしたが、(そうだ)と答えられる者は誰もいなかった。

総飛行時間、598時間、うちF-104J機飛行時間、133時間。
航空自衛隊2等空尉、新敷昌明は、殉職した4月30日付で1等空尉に特別昇進した。そして、遺族補償金、特別弔慰金など国からの給付金3,200万円。民間の生命保険金4社50余口、6,000万円を父母に残した。
二空団レポート(7):防大受験の動機。
新敷2尉の殉職で、防大52年卒のパイロットは、2空団では山本康正、森田弘の両2尉となった。二人とも302飛行隊で、ファントムの後席に搭乗している。
戦闘機乗りとして教育訓練を終えて、千歳基地に配属になったのが昨年6月、パイロットとしてはまだ駆け出しだが、スクランブルでは、何度かソ連機にも対面している。ともに好きで選んだ道だが、素質と能力がなければ、ここまでは簡単にはたどりつけない。
山本康正は、パイロットになったのは自分では「瓢箪からコマ」だと思っている。熊本県の済済黌の出身。高校時代は水球の選手。スポーツに熱中していたので腕試しのつもりで受験時期の早い防大を受けたら合格した。「防大に入る力があるなら」と学校では有名大学への受験を勧めたが、なんとなく“もったいなくて”防大へ進んだ。
森田弘は青森県八戸高の出身。野球部のレギュラーだったので、3年生の2学期まで受験勉強をする暇がなかったが「防大なら」と教師にすすめられた。三沢基地が近くにあり、航空祭などで基地を見学していたので「パイロットなら自分に向いているのでは・・・」と受験した。
防大では1年目の夏、適性検査によって陸、海、空に分けられる。人気の順序からいえば空、海、陸である。二人とも「空」を目指し、首尾よく認められた。適正能力はいろいろあったろうが、ものを言ったのは「裸眼で1,5」の視力のせいだったろう、と二人は思っている。パイロットとして必要最小限の「1,5」の視力保持者が最近は、防大生のなかでも減ってきているからだ。
防大卒業後、操縦学生として飛行教育集団で訓練を受け、ジェット練習機の単独飛行課程を終えて、パイロットの資格である「ウイング・マーク」を胸にするまで順調にいって2年半かかる。所定のコースがマスターできなければ、訓練の途中で容赦なく「罷免」である。
ニ空団リポート(8) 基地司令:米川忠吉空将補
ニ空団司令:空将補、米川忠吉が初めて部下を失ったのは(昭和)35年浜松基地で、F--86F戦闘機の飛行教官をしている時だった。4機編隊の後続の2番機が突然、交信不能になったかと思うと、7,000mの高空からまっさかさまに落ちていった。地中にめり込んだ機体には、遺体のあとかたもなかった。パイロットは防大を出たばかりの若い操縦学生だった。仕方がないと思った。
「飛行機だから落ちることもあるわな。しかしなぁ、民家の上にだけは落とさんでくれ。関係のない人間を巻きぞえにして殺しておいて、自分が生き残ったってつまらんじゃねえか。そんなときは、潔く諦めろよ!」教官としての米川は、こんなべらんめえ調で学生たちを教育していたが、事故のあともこの言葉は変わらなかった。もともとは横浜育ちの“浜っ子”である。年代的には“焼け跡派”に属する。今年の夏は“戦後体験の証言”がさまざまな形でマスコミに登場したが、その例にならえば、36年前の夏、米川は中学1年生だった。住んでいた横浜のマチは、死者10万人を数えたと言われる(昭和)20年5月29日の大空襲で、ほとんど焼き払われ、焼け跡のあちこちには棒くいのような死体が転がっていた。母校の横浜一中も消失し、戦争が終わって登校した米川が級友たちと最初にしたのは、焼け跡の死体の後片づけだった。父親、忠四郎は5歳の時、中国大陸の戦いで一兵卒として戦死していたので記憶はほとんどない。
ニ空団リポート(9):アリゾナ州で戦闘機訓練。(画像添付
(昭和)30年、青山学院大を出た米川は、発足したばかりの自衛隊幹部候補生学校に入り、パイロットの道を歩んだ。自衛隊を選んだのはラグビーで鍛えた体を思いっきり、何かにぶっつけてみたかったこと、それと就職のためだった。
自衛隊に対する違和感が世間にはまだ残っている時期だったが、スポーツマンの米川にはそんなものは全く気にならなかった。33年、米川は米アリゾナ州ウイリアムス空軍基地で、戦後、航空自衛隊に初めて導入された戦闘機、F-86Fのパイロットとしての訓練を受けた。教官は朝鮮戦争生き残りのベテランパイロットたちだった。
「こんな強大な国を相手にしてよくも戦争をおっぱじめたもんだ」と思ったのは、食事の際出てきたステーキをながめたときである。大きさに驚いたのではない。肉には冷凍された時の刻印が残っていたが、その年号が1943年、太平洋戦争の最中のものだった。56年7月、米川はニ空団副司令から司令に昇任した。夏になると、基地には政治家や各種団体の視察や見学が急に増える。かっての仲間で、今は民間に移っている日航や全日空のパイロットたちが「おい、いま千歳に着いたところだ。お茶漬けでも食わせろ」と一人暮らしのマンションに押しかけてくる。地元の会合に付き合って、バーでカラオケのマイクを握る回数も多くなった。「まぁ、千歳で玄関番をしているんだから仕方ねえだろう」と米川は苦笑しているが、司令になったいまも、週に一度は時間を作って自分で操縦桿を握って大空に飛び立つ。(1987年第19代航空幕僚長となる)
F-86F ↓
二空団リポート(10):アラート・ハンガー (You Tube添付
千歳基地には、隊員でさえ自由に近づけない一角がある。
国籍不明機の領空侵犯に備える「アラート・ハンガー(緊急待機所)」である。
ここでは、いつでも発進できる完全装備の戦闘機4機と乗員が24時間態勢で待機している。
青森県三沢基地にある、航空自衛隊北部航空方面隊からスクランブルの指令を受けると、2機編隊で5分以内に飛び立つ。いつ命令が下るか分からず、おまけに正体不明機に接近するわけだから、アラート勤務につくパイロットは気の休まるヒマがない。3度の食事も基地の食堂から車で運ばれ、文字通り缶詰状態である。
飛行服を着用したまま交代で仮眠をとり、ただ”待つ事”だけが仕事である。
「時間つぶしにブリッジをやったり、雑誌を読んだり・・・、アラートにつくパイロットの平均年齢は28、29歳、半数近くは独身である。
「嵐や吹雪の夜など、スクランブルがかかったらイヤだなぁと思う事はありますよ。でも、任務ですから・・・・。何事もなく交代要員に引き継ぐ時はホッとします」 と。
アラート勤務は203飛行隊と302飛行隊が1週間交代で担当している。隊員は月平均3回、4〜5回に1回は緊急発進に出動する。
上空で国籍不明機と接触する、所謂、「ホットス・クランブル」は、3回に1回位である。
こちらをクリック → スクランブル発進の動画
ニ空団リポート(11): 2等空佐 杉下恭治(画像添付
ファントム戦闘機、302飛行隊長の杉下恭治2佐は、総飛行時間5千時間を超える千歳基地きってのベテラン・パイロットである。
44歳、広島県出身。防大出身者が主流を占める飛行隊長のなかで数少ない航空学生(高卒)の出である。「空戦でも航法でもあの隊長にはかなわない。勝てるのはマラソンぐらいかな」と言う若い隊員のボヤキに「マラソンだって若い者にはまだまだ負けないぞ!」と言う負けん気の持ち主でもある。その杉下も、アラート勤務だけは何度やっても緊張すると言う。
千歳基地は4度目の勤務という杉下は、これまでスクランブル回数は何10回になるのか、自分でも覚えていない。空に舞い上がって地上の警戒管制レーダーの誘導で、領空に接近する国籍不明機を追いかけても、目標地点に近づいた時には、相手機はとうに針路を変更して姿を消しているというケースがほとんどである。
上空で国籍不明機と接触するホット・スクランブルは三度に一度ぐらいである。それだけに不明機を発見したときは気負い立つ。利尻沖でソ連の魚群探知機と接触したときは、張り切り過ぎて墜落しかかったこともあった。雲高120メートルの雲の下をのんびり飛んでいるプロペラ機の相手を確認するのに、スピードを落として雲の中に入り、失速警報を無視して、あわや失速事故を起こしかけてしまったのである。「若気の至り・・・」と杉下は今も思い出すたびに苦笑するのだが、アラート勤務について、気になるのはそんなことではない。杉下は隊員に「スクランブルで上がっても武器は絶対に使用するな。万一の時は上部の指示を求めろ」と命令している。「有事」の時、これでいいのだろうか、という疑問である。
F-4E (ファントムU) ↓

ニ空団リポート(12):戦闘機からの実弾発射!
緊急発進するファントム機には実弾を装備した20_機関砲と空対空ミサイル「ファルコン」が搭載してある。これを使用してもいい時は「正当防衛」か「緊急避難」の時だけである。
常識的に考えれば、正当防衛とは、相手機から攻撃された時だが航空自衛隊では現場のパイロットの判断を認めていない。上空では、攻撃されたかどうかの判断は難しい。状況を報告し上部の指示に従え、という命令である。
では、僚機が相手の攻撃で墜落された時はどうか。その場合も答えはノーである。落ちた飛行機が果たして撃墜されたのか、単なる事故で落ちたのか、機体を調査してみないとわからんではないか、と言う理屈である。
では、パイロットはどうすればいいのか。「逃げ」の一手である。F-104Jの203飛行隊の白井田隊長も、攻撃された時は「逃げ回れ」と部下に指示している。あまり勇ましくはないが、このへんが平和国家、日本の自衛隊のいいところかも知れない。白井田は言う。「まかり間違えば、戦争になるかも知れないようなことを、30歳にもならん若いパイロットの判断に任せられますか。これでいいんですよ」
7月9日午後0時25分、千歳基地からスクランブルした203飛行隊の高木1尉、竹中2尉の二機のF-104J機は、北方領土から南下するソ連のイリューシン18型偵察機と接触した。これがニ空団創設以来、2,000回目のスクランブルだった。

二空団203飛行隊は2010年現在F-15イーグルが配備されている。 ↓
http://dougakensaku.info/detail/nJJ34aw1WlE
二空団リポート(13): ベレンコ中尉函館に強行着陸(You Tube添付
昭和51年9月6日13時10分、日本海上空を北海道に向かって南下する国籍不明機を稚内、当別、奥尻、そして大湊のレーダーサイトが次々と捕えた。
高度7000メートル、時速800キロ。1分後、ニ空団千歳基地のアラートハンガーでは、三沢基地の北部航空方面隊からのスクランブルを指令する警報ベルが鳴り渡っていた。待機中の田村一夫一尉を編隊長とする二機のファントムが上空に上がったのはそれから5分後、13時16分だった。田村一尉の機上レーダーは、離陸後間もなく不明機を捕えたが、すぐに機影を見失った。到達距離の短い機上レーダーではそれも仕方なかった。田村機は管制レーダーの誘導で、不明機を追って積丹半島沖を南下した。
13時20分、奥尻レーダーサイトは、ガードチャンネル(国際緊急周波数)を使い、不明機に対してロシア語で「針路を変更せよ、そのままでは領空侵犯になる」と警告したが、相手は警告を無視、2分後には瀬棚沖12マイルの上空で日本領空を侵犯した。更に4分後、レーダーから完全に姿を消してしまった。ベレンコ中尉の操縦するミグ25が函館空港に強行着陸したのはそれから間もなくである。二空団司令米川忠吉は、当時、空幕運用二班長だった。旧軍で言えば作戦の中枢にあたる対領空侵犯、有事一般を担当していた。「領空侵犯機を見失った」という田村一尉機との交信が空幕に飛び込んできたとき、班内は騒然となった。「そんなバカな。沿岸の警戒管制レーダーはいったい何をしているんだ」と米川は一瞬思った。レーダーサイトは通常350キロから400キロまで到達するが、相手機の高度が1000メートルなら120キロ、300メートルなら70キロと極端に短くなる。さらに低高度になると海面に乱反射して、役に立たなくなることは、空幕内でもかねてから問題とされていた。このため、米海軍が使っているAFW(早期警戒機)で、低空をカバーする方法が検討されていたが、戦闘機優先の「ヤリの穂先論」で、これまで見送られていた。
ニ空団リポート(14): ミグ25による亡命
それからの情報はテレビの方が早かった。函館に着陸したミグが画面いっぱいに映ったとき、米川は思わず、我が目を疑った。
「ミグじゃないか。えらいものが転がりこんできた」と大声で叫ぶ者もいた。当時はミグ25といえば、世界の航空関係者にとっては「幻の戦闘機」だった。第4次中東戦争のさなかの48年、シナイ半島を高速で飛行する不明機をイスラエルのレーダーが発見、ファントムで追跡したがマッハ3.2で振り切られる、と言う事件があった。それがミグ25でないか、と推定されただけで、性能は一切ナゾに包まれていた。それが向こうから舞い込んで来たのである。興奮するのも無理はなかった。
それはまた千歳基地にとっても“一番長い日”の始まりでもあった。基地では緊急体制がとられ、出動可能な戦闘機は列線に整備、全隊員は基地内に待機した。しかし、北部航空方面隊からの正式命令はなにもなく、隊員たちはテレビや口コミでミグ25の亡命を耳にした。
二空団リポート(15):ミグ25戦闘機解体。(画像&You Tube
子供の頃から機戒いじりが好きな藤原は、秋田県の高校を出ると航空自衛隊の新隊員教育を終え、第一術科学校(浜松基地)に入った。その後、昭和33年から千歳基地でエンジン整備を一筋に歩んで来た。
二空団整備補給群エンジン小隊の藤原末四郎1等空曹はその日、「ミグが函館に降りたらしい」と言う情報を耳にした。
間もなく緊急配備命令が下り、理由も告げられず全隊員が基地内に足止めされた。
夜になって整備主任の中野2佐に呼ばれ、「これから函館に行ってもらうから用意しろ」と告げられた。各小隊からエンジン、機体、油圧、電気、レーダーなどの整備員が20人余りかき集められ、エプロンに待機していた「C1」輸送機に乗せられた。
陸上自衛隊函館駐屯地で一夜を過ごした藤原らは翌日、整備班の甲斐2尉に引率されて、函館空港で初めて「ミグ25」と対面した。
「でっかいな〜!」と言うのが最初の印象だった。日頃、スマートなF-104Jやファントムを見慣れた目には、ミグ25はものすごくゴツく見えた。エンジンの大きさだけでもファントムの優に2倍はあった。
「自爆装置があるはずだから、まず電源装置を切ること」。彼らに課せられた最初の仕事だった。自爆装置など日本の戦闘機にはついていない。どんな装置か?見た事のある者は一人もいなかった。機内の表示は当然ながら全てロシア語であり、これまた、読める者は一人もいなかった。
「ともかく、バッテリーを外してしまおう。そうすれば電源が働かないから自爆装置も働かないだろう」と言う事になり、バッテリーを外そうとしたが役に立つ工具がひとつもなかった。自衛隊の工具は単位が「インチ」なのに対し、ミグは「ミリ」であった。
自動車の工具をかき集め、2時間近くかかってなんとかバッテリーを外した。又、機体を移動するためにパンクした前輪も取替えなければならず、機体担当者は函館中を駆け回って、寸法の似たジープのタイヤを探し出しなんとか間に合わせた。
数日後、藤原は現場指揮官に呼ばれ「ミグを解隊して運ぶ事になったが、バラせるか?」と尋ねられた。

函館空港に強行着陸した「ミグ25」 ↓


ロシアによるミグ破壊工作(1)
二空団リポート(16):ミグ戦闘機移送。(ギャラクシーの画像添付
「函館の皆さんさようなら、大変ご迷惑をかけました」、と言う言葉を機体にかけて翼をもぎ取られたミグ25が、米空軍の巨大輸送機C5Aギャラクシーに積み込まれて函館を飛び立ったのは9月24日、強行着陸から19日目の事だった。
千歳基地から来た整備員20余人も一緒に乗り込んだ。藤原末四郎もその中にいた。油で汚れた作業着からは、近づくとプーンと異臭を放っていた。皆んな着替え用下着を持つ余裕もなく函館に来ていた。1日の作業が終わって駐屯地に戻ると、外出は禁止であった。
主翼を外したミグの機体を輸送機に積み込み、「これでやっと千歳に帰れる」とお互いに顔を見合わせてホッとした時、輸送機への同乗を命じられたのである。
行く先も告げられず、まるで学校の体育館のようなガランとしたギャラクシーの下部には、ミグ25が格納されていた。
離陸すると直ぐ食事が出た。米軍の一般食らしかったが、肉でも野菜でも自衛隊の2倍の量があった。
「こんなご馳走を食わせて、オレ達をアメリカまで連れて行くつもりではないか!」と誰かが言った。しかし、機は間もなく高度を下げ、滑走路の灯りが見えて来た。茨城県の百里基地だった。
藤原の仕事は巨大なミグのエンジンを機体からおろす事だった。事前に点検した米軍の将校が、首をかしげてしきりに舌打ちをしている。函館で主翼を外した時から藤原は、特殊な工具を使えばなんとかおろせるのではないかと思っていた。
百里基地の整備員に協力を求めて工具を作り、翌日、2時間ほどかけてエンジンをおろす事に成功した。前日、首をかしげていた米軍の将校が何やら大声をあげて握手を求めて来た。「ワンダフル!」と言っているらしかった。

C5Aギャラクシー  ↓
ニ空団リポート(17):空中戦
戦闘機同士の格闘戦はレスリングに似ている。相手機のバックに回って、機首の機関砲で連射をかけた方が勝ちである。戦闘機の性能は比べものにならないほど変っても、このスタイルは第二次大戦以来変っていない。このほかに、相手機に頭からミサイルをぶちかます「ヘッド・オン攻撃」というスタイルもあるが、これはミサイルの性能によって勝負が決まってしまうので、格闘戦の訓練にはもっぱら、レスリングスタイルが採用される。
「フォール勝ち」をするためには、機上のガン・カメラで相手機を0,5秒間は照準におさめなければならない。マッハを超えるスピードでの戦闘中に、ここまでやるのは至難のわざである。そこでモノを言うのは日ごろの訓練である。203飛行隊の飛行班長:森本益夫2佐はこの春、空幕教育課から転勤して来たばかりである。防大10期生37歳。F104J1500時間のキャリアを持っているが、空幕時代は年間90時間の技量維持訓練しかしていない。準備期間を終わって訓練飛行に移って3日目、2機編隊の格闘戦に飛び立った森本機は、飛行時間1000時間に満たない後輩の隊員のガン・カメラに見事に捕らえられ、あえなく“撃墜”されてしまった。空幕で事務屋をやっている間に、腕がすっかりなまってしまったのである。森本の名誉のために付け加えると、203飛行隊は、昨年、一昨年と2年連続「航空総隊戦技競技会」で優勝しているF-104Jの最強の飛行隊である。苦戦するのも無理はなかった。
ニ空団リポート(18):パイロットの適正とは?
中村嘉成、尾池茂2尉は、「戦技競技会」の昨年の代表選手である。これまでの競技会は、同じ性能の機種、つまり、F104J同士で優劣が競われたが、昨年の競技会で初めて「異機種間戦闘」−F104J対ファントムの格闘戦が行なわれた。と言っても単座、軽装で、しかもいささか時代遅れになったF104Jではファントムに勝ち目がない、せいぜい勝負なし、引き分けに持ち込めれば上出来と見られていたが、203飛行隊の代表選手は、ガン・カメラでファントムを撃破して見事に優勝してしまったのだ。「パイロットの6分頭と言ってね、あまり頭の良すぎるヤツは強くなれない」と解説したのは302飛行隊長杉下恭治である。6分頭とは、パイロットは高空でいつも酸素が不足気味だから、頭が6割ぐらいしか働かない、と言う冗談だが、集中力があり過ぎても困る、と言うのは本当である。戦闘機に限らず飛行機の操縦席に入ってみればよく分かるが、計器類は数え切れないほど多い。それらの計器に絶えず注意を払っていながら三次元の空間で格闘戦をやると言う行為は、集中力があるタイプより注意力散漫な方が適している、と言うのだ。多少、逆説めいているが、真実をついていると言えなくもない。杉下が暑寒別上空で、突っ込んできた僚機にぶつけられて墜落したのは、夜間射撃訓練中のことだった。
ニ空団リポート(19):同僚機との衝突事故。
42年4月26日19時52分、302飛行隊長、杉下恭治はその一瞬の事を今もはっきり覚えている。その日、杉下は夜間射撃演習の目標機として、T-33練習機の後席に乗っていた。前席は先任の田所1佐、高度15000フィート。標的を引っ張り、推測航法で暑寒別岳上空にさしかかった時だった。突然、足元から白煙が噴出し、機体はコントロールを失ってキリもみ状態となった。何が起こったのかわからなかった。「ベイル・アウト」と叫んだ杉下は、気が付いたら空中に投げ出された。
「田所1佐は?」とあたりを見回したとき、夜目にも白く、近くに二つのパラシュートが浮かんでいた。パラシュートの数がひとつ多い。「誰かの機にぶつけられたな」とその時、初めて気が付いた。上空は強烈に寒かった。落下のショックでヘルメットはどこかに飛んでいた。間もなく、ダテカンバの幹にしたたかに頭を打って、雪の中にもんどり打った。
暑寒別岳の中腹、雪はまだ胸まであった。
あたりを見回した杉下は、その一瞬「敵の陣地に落ちなくて助かった」と思った。自分では落ち着いていたつもりでも、やはり多少は動転していたのだろう。次にした事は雪穴を掘ることだった。「救援が来るまでなんとか体力を温存しておかなくちゃならん」当別の警戒管制レーダー・サイトは、衝突の瞬間、レーダー・スクリーンから消えた二つの機影を目撃していた。ラジオには衝突したF104J機のパイロットの「目標機をつかまえた。これから攻撃に移る・・・」ちょっと間を置いて「オットット」と言う悲鳴に似たボイスも入っていた。状況から、突っ込み過ぎて接触したことは明らかだった。
ニ空団リポート(20):救難隊員。
遭難機発生の救難報告で、待機中の千歳救難隊の捜索機T6、救難ヘリ62が飛び立ったのは20時16分だった。現場の上空に着くと三ヶ所から赤い信号弾があった。「三人とも生きている。急いで救出しなければ・・・」と思ったが、燃料を減らさなければホバーリングは難しい。尾根に近づき過ぎてローターで雪崩を起こす危険もある。照明弾を投下し、位置を確認しながらヘリは上空を何回も旋回していた。その頃、杉下は下でイライラしていた。「なんでさっさと救出しないんだ」。空中に静止したヘリからロープを伝って救出に来た隊員に、杉下はこう言った。
「オレにぶつけたヤツは一体だれだ」。ぶっつけた張本人、F2尉は頭に大ケガをしていたが、救助隊員が近づいたとき、救出を拒否して山中を逃げ回った。衝突のショックで一時的な錯乱状態になっていたのだ。救難隊員山口は、極限状態に置かれたパイロットの生態を数多く見て来た。山口自身も329回目のパラシュート降下の時、腰骨を折る重傷を負っている。そして得た結論は「この世の中に生まれながらの勇気のある者などは一人もいない。勇気は自分で作り出すものだ」。
ニ空団リポート(21):明大卒1等空佐中島敏行副司令
ニ空団のナンバー2、中島敏行副司令は、隊内では“不死身の男”として有名である。F86F戦闘機に乗っていた若いころ、墜落した機中から奇跡的に救出された。脱出せずに助かった例はほとんどない。「落ちたからもう、飛行機はこりごり!なんて言うパイロットは、まずいない。元気になったら飛ぶのは当たり前と言う空気でしたよ」 明大卒、一等空佐。航空自衛隊草分けのパイロットの一人である。この7月まで、中島は入間基地にある救難団司令をしていた。千歳救難隊はその下部組織になる。「救難活動は平時の時が"有事"なんです。どうしても気象状況の悪い時に出動するから危険性も高い。昨年は部下を一人殉職させています」と中島は語る。
2006.4.20 
ニ空団リポート(22):倶知安高卒のメディック
倶知安高卒の千葉富三郎1曹(44歳)は、昨年暮れでパラシュート降下500回を数えた。メディックを志願したのは、「ヘリにも乗れるし面白そうだったから」・・・。
衛生教育法を3カ月学んだあと、千葉県の陸上自衛隊第一空挺団でパラシュートの降下訓練を受けた。「パラシュートで怖いのは着地の時だけ。それさえ注意すれば特段の事はありません」。出動がない時でも月2回は訓練で降下、パラシュートを操って目標地点の十メートル以内に降下する。海上への降下は40回、着水する時、下手をするとパラシュートが頭の上にかぶさり、脱出するまで海中でもがかなければならない。基地飛行隊には、毎日、気象隊から報告される北海道周辺の海水温と海中での生存時間が掲示されている。摂氏3度で90分、16℃で6時間と言うのが平均的生存時間である。厳寒期になると、海中では通常30分未満で意識不明となる。救難活動はこの時間との戦いとなる。1970年12月8日、留萌港で座礁した「へいんず丸」の乗組員28人を全員救助、'71年11月9日、稚内市声問沖で漂流中の「第18幸徳丸」の船上に降下して生存者を確認した。メディックとして数多くの災害救助に出動してきた千葉は、自分の仕事は火事があれば飛んで行く消防士のようなものと思っている。救難隊では、出動要請があれば第一陣が15分、第二陣が30分以内に出動出来る体制をとっている。
ニ空団リポート(23):札幌西高卒のパイロット
302飛行隊では、杉下恭冶隊長ら4人のベイルアウト体験者がいる。その中の一人、松林一尉は、海上でソ連船に救助され、ナホトカに運ばれそうになった。高度8,000メートル、三陸沖の太平洋上を基地に向かって帰投中、突然エンジンが止まった。F104Jと異なり、ずんぐり型のF86Fは滑空時間が長い。高度は瞬く間に落ちるが、トラブルは直らない。「Bail outしかない」と思った時、はるか海上に浮かんでいる船影が目に入った。「あれだ!」、機首を船に向けた。やがて、空中にパラシュートが開き、ゆっくりと海上に着水した。
302飛行隊の松林誠吾一尉がエンジントラブルで墜落事故を起こしたのは、転属後間もない1970年5月の事だった。「すぐ救助してくれるはず!」と思った船の姿は、うねりが大きく、波に見え隠れして中々見つける事が出来なかった。更に、着水の衝撃でパラシュートが全身に絡みつき、救命ボートにあがる事が出来ない。片腕でボートにつかまり、冷たさで気が遠くなりかけたころ、波の間から大きなカッターが現れた。松林を救助したのは、横浜からナホトカに向かうソ連船「トルメニア号」だった。船上は、大阪の万博を見学した帰りの観光客でいっぱいだった。松林は、毛布と温かい飲み物を与えられ、風呂に入ってホッとひと息ついている所に、海上保安庁の巡視船「あぶくま」が迎えに来てくれた。救助してくれたのがソ連船だったのには松林はビックリしたが、頭の上に戦闘機が降って来たソ連船はもっと驚いた事だろう。九州、本州方面出身者が多いパイロットの中で松林は、数少ない道産子である。
ニ空団リポート(24): (F86の画像&T-4のYouTube
昭和37年、札幌西卒。
同級生の飛行機狂に誘われて、千歳基地で行われた「体験搭乗」を申し込んだが抽選に漏れてしまった。飛行機に乗れない事よりも、抽選に漏れた口惜しさから、第二航空団司令に直接手紙を書いた。「C-46輸送機でよければ乗せてやろう」と言う返事が来た。この団司令の粋な計らいが松林の一生を変えたと言っても過言ではない。
度胸だけでなく、素質とカンが抜群だったのだろう。航空学生として入隊した松林は昭和47年、浜松第一飛行隊教官として「戦技研究班」のメンバーとなった。戦技研究班、別名:ブルーインパルスである。F86F、4機編隊の4番機として、あるいはソロ飛行で、松林は大空に自由な弧を描いてきた。編隊飛行の際は、翼端を1メートルまで重ね合わせ、4機が精密機械のように一体となって飛ぶ。地上70メートルの超低空で背面飛行、そして90度急上昇をやる。それは極限との戦いである。地上を埋めた観衆の拍手と歓声は勿論、パイロットの耳には届かない。しかし、その栄光の日々にも別れを告げる時が来た。使用機材のF86Fの老朽化でブルーインパルスは解散する事になった。この春、全国各地で「サヨナラ飛行」を終えた松林は、ファントムのパイロットとして千歳基地に配属された。F86Fの超ベテラン・パイロット松林は今、302飛行隊でファントムへの機種転換教育を受けている。教官は、浜松時代に自分が教えた後輩達である。

松林1尉がブルーのメンバーだった頃はカラースモークだった。F86F↓


T-4による最近のブルーインパルス。
二空団リポート(25):パイロットの英会話力。
管制官との交信は勿論、飛行中のパイロットの会話は、官民を問わず原則として英語である。自衛隊のパイロットは訓練期間中、奈良の幹部候補生学校にある「英語教育課程」で3ヶ月から半年、英会話を徹底的に叩き込まれるが、成果の程は必ずしも万全とは言えないようである。幹部(将校)になると、米軍人との懇親パーティに出席する機会も多くなる。初め、ニコニコしながら「Nice to meet you !」などと話かけるも、後が続かず白ける場合が多い。パイロットの英会話能力は、もちろん個人差はあるが 「総じてカタコト」と言う
のが案外、大勢らしい。それでも訓練に支障がないのは、「管制官との交信は英語と言うより、記号にすぎない」からだ。もっとも米国で訓練を受けた初期のパイロットとなると話は別である。基地には3日に1回は在日米軍の幹部が表敬訪問などに訪れるが、幹部ともなると、ただ挨拶だけと言うわけにもいかない。日米協力のパイプは上にいくほど太くなるようである。
二空団リポート(26):世間から見た自衛隊。
さて、当時の自衛隊の社会的評価を反映した一説を紹介しよう。題して、「F3尉の疲れた札幌の半日」。制服で札幌の歯科医院に通院し、帰りがけに駐車場のオッサンが言いました。

駐車場係:「その制服はどこの警備会社ですか?」

F三尉:「ムッ、自衛隊です」

駐車場係:「あ〜、自衛隊、どうりで胸のマークが違うと思った。どこの自衛隊
ですか」

F三尉:「千歳です」

駐車場係:「あっ、千歳ね。自衛隊にもこう言う色の制服があるんですか・・・」

F三尉:「航空自衛隊です」

駐車場係:「なるほど、航空ね。所でこの階級章は昔の軍隊で言えば伍長
ぐらいですか」

F三尉:「いや!昔で言えば少尉です」

駐車場係「あっ、三尉ね!」

F三尉は、非常に疲れた気分で札幌から帰った。
二空団リポート(27):国防意識
「飛行機が好きだから」、「パイロットになりたかったから」。こんな動機で航空自衛隊を志望する隊員の多い中で、「中学生の頃から、国を守るために防大を志願した」、と言うのは防大10期の整備補給群検査小隊長。幸治昌秀三佐である。高校2年の時、「安保反対!」「岸内閣を倒せ!」と言うシュプレヒコールを耳にした孝治は、「何を言ってるんだ!」と世間への反発の思いを募らせていた。「誰かが反対だと言うと、それに安易に迎合して騒ぎ立てる。今の日本に欠けているのは節度と良識、それに規律ではないか」。防大で航空工学を専攻、パイロット志望者が多い中で、自分の能力を生かせるのは地上勤務だ!と整備の仕事を選んだ。自分でも多少ヘソ曲がりだと思っている孝治は、「いつ死んでもいいように」と遺書を書き残している。本人は口にしないが、サラリーマン化した周囲の隊員に対する反発がその底にあるのかも知れない。
二空団リポート(28):旭川東高出身のメディック山口2尉。(画像添付)
パラシュート降下410回の記録を持つメディックの山口博二尉の入隊の動機もはっきりしていた。「ソ連の強圧的態度が憎かった。スパイ事件や漁船の拿捕が起きるのは日本が弱いからソ連に侮られるんだ!このままでは日本はソ連に冷水を浴びせられっ放しだ!。旭川東高時代からの思いを実現させた熱血漢なのである。山口は外出する時は必ず制服を着用する。以前、山口は沖縄の基地に勤務した事がある。沖縄と言えば36年前、第二次大戦最後の決戦場となった地である。「反自衛隊感情」の最も強い所だ。山口は在任中、外出はすべて制服で通した。自衛隊の募集業務は扱わないと言う那覇市役所にも制服で出かけた。「そりゃ、県民の制服を見る目は決して温かくはなかったですよ。しかし、一度もイヤがらせや言いがかりを付けられた事もなかった。こちらに自信と誇りがあれば相手にも通じるものです」。しかし、若い隊員には異論もある。「自信とか誇りの有無ではなく、勤務が終わって街に遊びに行く時ぐらい私服でのんびりやりたいです」、と。
二空団リポート(29):戦闘機の値段と燃料費。(画像添付)
ファントム戦闘機のパイロット一人の養成費は本年度は3億8千47万7千円(航空学生の場合)である。パイロットには危険手当として最高本俸の7割加給があるので、同年代の民間のサラリーマンに比べても給与は高い。基地飛行隊のパイロットは自衛隊でも大変なエリート集団なのである。

戦闘機:「F104J」は1機4億7千万円。「ファントムU」は20〜40億円。
そして、「F-15イーグル」は70億円である。更に、空対空ミサイル等の装備には、一基数千万円から億単位が加算される。(1981年当時)
ファントムの燃料搭載量はドラム缶75本分である。これを2時間半で消費する。飛行前のアイドリング状態でもドラム缶3〜4本は消費してしまう。基地から訓練空域までの往復だけでも総燃料の40%を消費する。理想的には、パイロットの技量維持上、年間200時間の飛行時間が必要だが、現状では120時間程度である。因みに、ファントムのパイロットの養成費3億8千万円の殆どは燃料費である。
二空団リポート(30):隊員の国防意識。
国を守るためには金がかかるだけではない。
302飛行班長:小沢 武 三佐は、「パイロットの仕事は、敵と戦って勝つ!
ただそれだけです」。そして、「皆んな口には出さないが、仕事に100%命をかける覚悟は出来ている」、と。「国防とは、金銭のみならず国家に奉仕する若者の命をも必要とするのです!」と締めくくった。


トップへ
戻る