心にもない奴隷解放
イギリスにもフランスにも、アメリカが二つに割れることを望んでいる勢力がありました。大国となるポテンシャルを持つアメリカが二つになって欲しかったのです。軍事介入し、停戦を実現し、南部連合を国として承認したかったのです。奴隷制度を忌み嫌う英仏内の知識人リーダー層を刺激して、英仏両国に、奴隷制度維持の南部連合に軍事的肩入れをさせないことがリンカーン大統領とその右腕であったソワード国務長官の戦略でした。アメリカの政治家の本音は、黒人は白人と同等などと考えるものではなかったのです。
あの南北戦争は、保護貿易思想で国内産業を保護育成したい北部諸州と、イギリスとの自由貿易による利益を享受し続けたい南部諸州の関税政策を巡るいがみ合いがその根本原因であったことは、拙著『日米衝突の根源』(草思社)で詳述したからここでは語りません。心にもない奴隷解放を実施してしまったアメリカは、その後遺症に悩み続けるのです。
南部諸州を支持した民主党は南北戦争の敗北で壊滅的打撃を受けるのですが、戦後は一貫してかつての白人優位を回復する政策を標榜してその勢力の回復を図ってきました。彼らの進める「強固なる南部政策(Solid South)」では黒人隔離政策は当たり前でした。19世紀末から20世紀初頭のアメリカでは、南部民主党の勢いが盛んになってきた時期でした。その民主党にとって、1900年前後に始まったカリフォルニア州をはじめとする太平洋岸諸州の反日本人運動は、勢力拡大の絶好のチャンスだったのです。
19世紀後半のアメリカ知識人は概して日本に好意的でした。日本人は「アジアのヤンキー」であると本気で考え、日本の近代化を助けました。1901年にマッキンレー大統領の暗殺を受けて副大統領から大統領職についたセオドア・ルーズベルトはそうした知識人の一人でした。西海岸の日本人排斥の原因は日本人が帰化不可能人種であることだといち早く気づいたルーズベルトは、議会に日本人を帰化可能人種にすることを検討させました。しかしその提案は一蹴されてしまうのです。
1904年の大統領選挙でルーズベルトは勝利します。しかし南部諸州ではすべて敗北したのです。黒人隔離政策を推し進める民主党は、少なくとも南部諸州では復権したのです。民主党の真の復権は1912年の大統領選挙で達成されました。当選したのは民主党のウッドロウ・ウィルソンでした。彼は劣勢であったカリフォリニアの票を得るために、日本人排斥を主張する労働組合のリーダー連中にその支援を約束したのでした。
第一次大戦後の国際連盟設立にあたって、人種間の平等をその設立趣意に盛り込もうとする日本全権牧野伸顕の主張をウィルソンが一顧だにしなかったのは、彼の出身基盤である民主党の復権の歴史を顧みれば当然のことでした。
マックウィリアムスは日本人分析の中で日本人は粗末な衣服をまとい、わずかな所持金でやってきたが「日本文化という所持品」を持っていたことも日本人への差別の原因になったと述べています。またいつでもまとまって行動し、必要に応じて日本領事館に駆け込む態度があったことを日本人の負の特性として描写しています。
「彼らの文化が人々をあたかもモザイク画のようにしっかりと一体化したのだった。日本人移民にとっては仲間内の関係が極めて重要な意味を持っていた。彼らは家族そして共同体の価値観が個人のそれよりも重要と考えていた。伝統的な価値観に支えられた大きな擬似家族集団。カリフォルニアの地にあってはそれは特異な集団であった」
張本人は新聞メディア
そのことは確かに日本人集団を目立たせてはいましたが、そうした特異性も反日本人のプロが騒ぐまでは、ほとんど気にもならなかったことだったのです。すべての民族はそれぞれ一風変わった習慣や文化を持っています。アイルランド人もイタリア人もユダヤ人も、その意味では日本人と同じように特異な集団であることに変わりはありませんでした。
それにもかかわらずなぜ、日本人の特殊性だけが際立たせられることになったのか。マックウィリアムスは、反日本人勢力と結びついた新聞メディアがその張本人だとして厳しく断罪しています。
「一九四三年三月二十三日付けの『ロサンゼルス・イグザミナー』紙は『太平洋を巡る戦いは東洋人種と西洋人種の戦いである。どちらが世界の支配者になるかの戦いなのである』と主張していた」
カリフォルニアではメディアの世界でも反日本人の狂気が覆い尽くしていたのです。そんな病に侵された土地にあっては、日本人の一挙手一投足が嫌悪の対象に成り果てていったのです。
マックウィリアムスの著作の後半は日本人強制収容の実態の描写に費やされています。その描写で日本人移民が被った悲しみは十分すぎるほど伝わってきます。その事実を知ることは確かに重要ではありますが、私には彼が歴史的分析を通じて明らかにしたアメリカの人種差別の真因にこそ、この著作の本当の意義があると感じています。
マックウィリアムスが指摘する「カリフォルニアの対日戦争」は、もうひとつ重要な視点を提供してくれます。それは石油に象徴される日本のエネルギー供給元がカリフォルニアであったという事実と重ね合わせることでより明確になります。
1920年代にもロサンゼルス周辺に続々と大型油田が発見されていました。ハンティントン・ビーチ油田(1920年)、サンタフェ・スプリング油田(1920年)、シグナルヒル油田(1921年)。そして日本は次第にカリフォルニア産の石油に依存していくことになります。日本の石油の9割がアメリカからの輸入となり、その8割近くはカリフォルニアに産する石油だったのです。
反日本人のメッカである「カルフォルニア共和国」にエネルギーを極端なほどに依存していた戦前の日本人の恐怖を、私たちは忘れてならないでしょう。アメリカへのエネルギー依存度を何とかして下げたいと考えるのは、日本の安全保障を担う者にとっては当然の責務でした。
それにしても、アメリカは黒人差別に象徴される人種差別の呪縛からあの戦争を経ずして解放され得たのだろうかとつくづく思います。アメリカの最近の歴史研究では、なぜ日本は負けることがわかり切った戦争を決意したのかについての真摯な議論が出てきています。そうした研究では、日本の軍国主義化がその原因などとするような黴の生えた議論はありません。なぜ日本をそこまで追い込んだのかを自省的に分析する研究が増えているのです。人種差別問題もエネルギー問題もそうした研究に重要な材料を提供しています。
いつかそうした最新の研究を紹介することができたらとも考えています。
*1:Anti-Asian riot in Vancouver : 1907 URL:http://marcialalonde.weebly.com/uploads/9/3/8/2/9382401/anti-asian_riots.pdf
わたなべ・そうき 1954年、静岡県生まれ。77年東京大学経済学部卒業。日米近現代史研究家。米国・カナダで30年にわたりビジネスに従事。カナダ・バンクーバー在住。著書に『日本開国』『日米衝突の根源1858-1908』『TPP知財戦争の始まり』、訳書に『日本1852』『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省1944』(以上、草思社)などがある。