渡辺惣樹(日米近現代史研究家)
アジア人種への恐怖
アジア人排斥連盟(the Asiatic Exclusion League)のカナダ・ブリティッシュ・コロンビア州支部が結成されたのは1907年のことです。メンバーの中心は労働組合員で、彼らの標的は国際貿易港バンクーバーに流れ込む支那人や日本人労働者でした。低賃金を厭わない支那や日本からやってきた「奴隷」労働者は、炭鉱や魚の缶詰工場あるいは港湾作業場に溢れていました。
カナダにやってきたアジア人労働者は1907年だけでも1万1千に及んでいます。経営者層には重宝なアジアからの低賃金労働者は、白人の労働組合にとっては黄色い悪魔でした。彼らの恐怖が怒りに変わり爆発したのは1907年9月7日のことです。
「数千人の男たちがバンクーバーのダウンタウンにある市役所前に集まってきた。手に手に『カナダは白人の国(Keep Canada White)』、『カナダを黄色い人種から守れ(Stop the Yellow Peril)』と書いた横断幕を掲げ、鉱山王ダンズミュアの人形を焼いた。彼は支那人を積極的に雇っていた男だった」
「群集をアジっていた男が近くにあるチャイナタウンに向かえと叫んだ。そこにはリトルトーキョーもあった。群集は支那人や日本人の暮らす町で四時間にもわたって破壊行為の限りを尽くした。店の窓ガラスを割り商品を掠奪した」
「支那人たちは無抵抗であったが、日本人はこの暴徒に立ち向かった」(*1)
日本が日露戦争に勝利したことで、白人種のアジア人種への恐れはカナダ西海岸だけの現象ではなくなりました。この日にはワシントン州アベルディーンで、東インドからやってきたヒンズー教徒と白人労働者が衝突しています。似たような人種間衝突はサンフランシスコ(5月20、21日)、オレゴン州ボーリング(10月31日)、ワシントン州エヴェレット(11月2日)、カリフォルニア州ライブオーク(1908年1月27日)と連続しています。北米太平洋岸は反オリエンタルの憎悪に満ちていたのです。
ヨーロッパ諸国はアメリカと日本がもうすぐ戦争を始めると思っていました。余りの日本人排斥運動の過激さに、誇り高い民族の国日本が傍観するはずはないと考えたのです。
セオドア・ルーズベルト大統領が、万一日本との戦争が現実のものになった場合を想定し、メトカーフ海軍長官らと戦略会議を開いたのは、1907年6月27日。この会議でアメリカ大西洋艦隊を日本に派遣し、アメリカ海軍力を日本に誇示することを決めています。
10月には、日本との緊張関係を緩和するため、大統領はウィリアム・タフト陸軍長官を東京に派遣し、西園寺公望首相と会談させています。タフトの日本訪問は1905年に続いての訪問でした。アメリカは日本との衝突を回避する道を選択したのです。
1907年から08年は、日米の衝突は避けられないのではないかと思われていた時期でした。しかし戦後に教育を受けた者はこの時代の緊迫感を知りません。日米の緊張関係を学ぶのは1924年の排日移民法からです。
しかし日米の緊張はそのずっと以前から存在していたのでした。1907年当時、アメリカやカナダに移民した日本人は町を歩くことさえ怖かったに違いないし、日本は同胞がそうした扱いを受けることに我慢がならなかったのです。
本書の著者カレイ・マックウィリアムスは、カリフォルニア州の特異な歴史と人種観を分析し、1900年には既に、日本とカリフォルニアの間に人種戦争が勃発していたことを論じています。
太平洋がアジアとアメリカを分かつ障害物から、アジアとアメリカを繋ぐハイウェイとなったのは、太平洋汽船航路の開設(1867年)に続いて大陸横断鉄道が完成した1869年のことでした。爾来、カリフォルニアはアジア人やアジア文化と接する最前線となります。
しかし、カリフォルニアの白人種は黄色いアジア人種を受け入れるほどには成熟していなかった。異種のビールスを拒否するように、カリフォルニアはアジア人の排斥を始めたのです。
このカリフォルニアの人種偏見に、黒人隔離政策を墨守する南部諸州が加勢します。カリフォルニアでアジア人を平等に扱われたら、南部の黒人隔離政策に批判が及ぶのは避けられなかった。南部諸州にとってカリフォルニアにはアジア人を排斥し差別してもらわなければならなかったのです。
WASPを脅かした日本
そこに東部のWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)も加わってきます。WASPはアメリカ建国以来の支配民族でしたが、移民の流入で少数派に転落する恐怖感にさいなまれていました。ロシアに勝利した黄色人種日本人はWASPの人種的優秀さを脅かす象徴でした。
20世紀初頭のアメリカは、アジア人を受け入れるほどには成熟していなかったのです。マックウィリアムスはこの時代のアメリカを手厳しく自己批判しています。アメリカが人種偏見を止めない限りアメリカの将来は危ういと憂えるのです。
本書ではその多くのページが、真珠湾攻撃後に実施されていた日本人強制収容政策の批判に費やされています。しかしこの書の真骨頂は、カリフォルニアの歴史的な特異性を分析し、そこから不可避的に発生した人種偏見形成過程の考察(第一章 カリフォルニアの特異性及び第二章 カリフォルニア州の対日戦争一九〇〇年から一九四一年)です。
彼が本書を世に問うたのは、未だ日本との戦いが続いていた1944年のことです。読者は、この時期にこれほど日本人を好意的に、いやもっと正確に言えば公平な目で、分析する書物がアメリカ国内で出版されていることに驚きを覚えるに違いありません。
もちろん日本との戦いの進行中に出版されているだけに、著者はその表現に苦心しています。随所に日本の為政者を、そして日本人気質を批判する記述がありますが、それは日本や日本人を批判しながら、実はアメリカ本国の政治家に対する批判でもあることには注意しておく必要があるでしょう。1944年においてはやはり指桑罵槐による権力者批判が必要だったのです。
私たち日本人にとって、なぜあの戦争を戦わなければならなかったかを問い続ける作業はこれからも続くでしょう。あの時代をリードした政治家や軍人を批判するのはよい。しかし、私たち日本人同胞が、黄色い肌を忌み嫌う白人種の敵対の中で生きていた現実は忘れてはならないのです。
日本人の私がその恐怖を語る書を記すことはもちろんできるでしょう。しかし、日本人差別、アジア人差別が続いているその渦中にあった同時代人マックウィリアムスの語りには遠く及びはしないでしょう。
あの戦争以来、私たちの人種観は大きく変わりました。私はその変化の程度はアメリカにおいてこそ激しいものであったと信じています。多くの日本人は1861年から65年にかけて争われた南北戦争は奴隷解放の戦争であると教育されています。しかし当時の資料を丹念に読み解けば、南北戦争はけっして奴隷解放を目的としてはいないことがわかるのです。
南部諸州の離脱はリンカーンが大統領就任前に始まっていました。リンカーンが大統領選挙に当選しただけで南部諸州は連邦からの離脱を決めています。実はリンカーンは奴隷解放宣言(1863年)で示された過激な奴隷解放など考えてはいませんでした。大統領就任前のリンカーンの言葉は、彼自身も白人の優位性を疑ってはいなかったことや、彼の進めるだろう奴隷解放の政策は極めて緩やかなものになることを示唆していました。リンカーンの奴隷解放宣言の本質は、南部連合を支援するイギリスとフランスに軍事介入の口実を作らせない高等な外交政策と考えるのがより適切なのです。