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Critical Life (期限付き)

2015-07-14 「切れ目」などについて

安保法制案の文言に即して綿密に検討すべきところだが、あくまで修辞的なレベルで、いましか書けない(書かない)であろうことを記しておきたい。

政府首脳の国会答弁に関心が向けられるようになったことはよいことである。その筋の研究者ならよく知るように、国会議事録はたいへんに面白い読み物である。私の経験からしても、過去の官僚による答弁にはきわめて優れたものがあり、それらは、凡百の研究書よりはるかに読むに値する。くだらない質疑応答が多いのもたしかであるが、それらにしても、歴史的な資料として読むなら、これまた凡百の書物より読みごたえがある。

では、現時点の質疑応答はどうであろうか。現首相の答弁に齟齬や居直りが多いのはたしかであるが、批判者が言うのとは違って、私は、現首相の答弁そのものはそれほど愚かしいものではないと捉えている。批判者が思う以上に、手強い答弁になっているとさえ思っている。現首相は、一度は政権運営で挫折した人間である。そこから彼なりに這い上がってきた人間である。そのためであろうが、その再登板時から、現首相の言辞は練られたものであることをうかがわせる雰囲気があった(アベノミクス支持者の多さを想起せよ。また、ここでは批評は控えるが、現首相は賃上げを要請してみせたのである)。やはり、人間は、とくに政治的人間は、挫折を潜らないと成長しないものである。要するに、現首相の答弁は、それなりに周到に練り上げられながらも、立て板に水のごとく論理的に整合的なものにはならず(なりえず)、あちこちに多くの瑕疵を抱えた言辞になっているのである。その言辞の有り様は、正確に安保法制の有り様を反映している。だからこそ、現政権の支持派には、法案は、いくつかの瑕疵を抱えながらあたかもギリギリの妥協をしているものであるかのように映じている。もっと言うなら、米国からの圧力と中国韓国朝鮮共和国との関係のなかで、いくつかの欠落を抱えながらも現状ではこれで行くしかないラインであるかのように映じているのである。現政権支持派は、批判者が言うように法案を危険なものとはいささかも考えていない。そうではなく、現政権支持派は、そこそこの危険を孕んでいる情勢のなかで、現首相が言い淀むこともあらざるをえない仕方で何とか一定のラインを引こうとしていると見なしてやることによって、その支持を続けているのである。別の言い方をしてみる。現政権支持派には、現首相の人となりを嫌いな人もいるようではあるが、決して安保法制案を嫌いにはなっていない。現政権支持派は、批判者が危機言説で煽れば煽るほど、仮に真の危機に対して断固とした対応をとれる体制にするには百歩進むことが必要になるはずであるとしておいて、この安保法制は十歩程度を進めるにすぎないと捉えているのである。批判者が言うほど、現政権は跳ね上がってはいないと踏んでいるのである。その見方は、ある意味で正しい。しかし、そのとき、あらためて問われるべきは、その十歩はどこに向かって何を目指してのものであるのかということになる。また、現政権支持派は、百歩進めたその位置を本当にわかっているのか、そもそも現政権の中に誰かわかっている者はいるのか、わかった上で支持している者はいるのかということになる。さらに、こうも指摘しておきたい。十歩程度のものにすぎないとして支持する者たちはといえば、真の保守がいるとして、また、真のナショナリストがいるとして、また、真の集団的/個別的自衛論者がいるとして、そうした人々と根本的に対立していることになるということをおそらくわかっていない。というより、そこを舐めてかかっている。

(以上のような現状分析は、社会評論を書いていた頃の戸坂潤であれば、はるかにうまく書けるだろうが、私にその筆力はないので、バラバラと書くのを続ける。)

■今次の法案では、自衛隊の後方支援先が「戦闘現場」になったら、「撤退」するものとされている。これをめぐって、後方支援は兵站と区別できないとか、現首相は海外訪問先では撤退は国際常識に反すると述べているのは矛盾であるとか、当然の批判がなされてきた。いまは、自衛隊派遣体制・根拠等は区別せず修辞のレベルだけで書いておくが、このような批判の仕方はあまり筋のよいものではない。というか、それでは支持派に対して打撃効果がなくなっている。話は簡単である。一般に、何処かに自衛隊が行っておきながら、そこで攻撃を受けたら逃げ出すというのは、どう考えても、誰が見ても、おかしな話なのだ。卑怯・臆病、ということだ。軍隊の任務は、何かの目的のために人を殺害することや物を破壊することであり、その際には殺される覚悟もするということである。軍隊の組織原理・行動原理は、非暴力主義や無抵抗主義であるはずがないし、そうでありようがないのだ。言うまでもなく、自衛隊軍隊である。その自衛隊が、何処かから銃を撃ち込まれて何の反撃もせずに逃げ出すなど、ましてその類のことを法律規定するなどどうかしている。狂っている。だからこそ、現政権の「切れ目のない」法制という当初の修辞は圧倒的に優れていたのである。ところが、ここにきて、追い込まれてきたためであろうが、政府答弁は「切れ目がある」ことを強調し出している。そして、「切れ目がある」ことをもって政権支持派は前項で述べたような仕方で安心しているのだ。欺瞞的である。事態は、二重三重に狂っている。私の観測では、反動的で右翼的な人々は、ここに苛立っている。

争点は、自衛隊の手足をどう縛るのかなどということではない。争点は、どこに自衛隊を出動させるべきであるのかということである。

実は私には、いうところの「地球儀俯瞰する」政策に従って、自衛隊をどこにでも派遣すればよい、シリアにもウクライナにもパレスチナにも派遣するがよい、そうして滅びるなり反乱が起こるなりすればよいという気分はなくはないが、困ったことに、保守反動にも国際政治論者にもそれほどの根性はないのである。たかだか米国軍の尻馬に乗るだけのことなのである。しかも、すでに指摘されているように、それは、東アジアの現状では政治的にも経済的に奴隷的な選択でしかない。

しばしば、日中戦争太平洋戦争の後、歴代自民党政権は、冷戦体制の中で、米国の軍事的な保護の下に大人しくおさまることで、まさにそのことによって高度経済成長を謳歌してきたと語られてきたし、それが通説・常識であるかのようになっているが、私はまったく疑わしいと思っている。歴史はそれほど単純なはずがないとだけ言っておくが、ここで気づかされるのは、いまの現政権支持派は、ひょっとするとその通説・常識にいまだに囚われて、安保法制についても沖縄軍事基地についても現代版吉田茂のつもりになっているのではないか。

以上のようにダラダラと書いているのは、私は、現政権支持派は大学人においても相当の多数であると見ているからである。おそらく、保留を許さない賛成・反対の二択で問うたなら、大学人の圧倒的多数は安保法制賛成・沖縄基地増設賛成に回ると私は見ている。だから、とりあえず、その現政権支持派の心情と論理を分析してみたいと思っているわけだが、それは、その能力のある識者に委ねておきたい。

■よく知らないのだが、世の中では、左翼のことを、非武装主義・非暴力主義と等置する向きが多いのだろうか。この点について書いておくが、私は、生来性左翼を自認する者であるが、生まれてこのかた、非武装・非暴力が無条件に正しいと思ったことは一度もない(ちなみに偶々ではあるが、寅さん映画を見たことがないし、ディズニーランドに行ったことがないし、朝日新聞を定期購読したことがない)。むしろ、左翼とは、必要があるなら武器をとるし、軍隊を創設もするし、戦争も仕掛けるものであると考えてきたし、いまでもそう考えている。実際、歴史的に見ても、非武装主義を掲げる左翼は一部であった。もちろん、私は、犠牲を甘受してでも断固として非武装・非暴力を貫く左翼を常にリスペクトしているが(社会党石橋政嗣は晩年になるほど頑固になって偉かった)、現在の状況では、どうしても武装と暴力を行使する左翼も必要不可欠であると考えてきたし、いまでもそう考えている。したがって、そのような立場からするなら、自衛隊は変えるべきものではあっても、当面は滅ぼすべきものではないということになる。そして、自衛隊は志操の高い人間で構成するべきであり、そうであるが故に、愚劣な人間も入ってくることになる徴兵制は駄目であるということになる。また、この間、表に出て来る自衛隊幹部の愚劣さを見ると、相当な人事刷新と政治教育が緊急に必要であるということになる。そして、言うまでもなく、自衛隊の本来の任務を考えるなら、安保法制案はどう考えても馬鹿げているということになる。左翼的な観点からするなら、自衛隊にしても自衛隊の行動を規定する法制にしても、それらは違憲だから間違っているというのではない(それなら改憲すればよいだけのことになる)。そうではなくて、この無明の世界にあって、必要悪としか言いようがない国家と軍隊、その存在の理念からして間違っているのである。こういう言い方をしてもよい。この無明の世界では、人を殺すことも殺されることも簡単には無くせない。必要悪として呑みこまざるをえない。そして、善良なる市民でさえも、善良なる市民こそが、中絶を容認し安楽死を容認し死刑を容認している。それと同じ訳合いでもって、戦争・戦闘・軍隊を容認するのである。ただし、左翼は、その善用の可能性を必死に考えているのである。以上、あえて書いたのは、左翼的なものの振り幅の広さがまったく理解されていないのではないかと思ったからである。ともかく、具体的細部については、その能力のある人々、あるいはむしろ、これからその能力を身につけていくであろう人々に委ねたい。

原発事故発生のときもSTAPのときもそうであったが、Twitterは、賛成や反対を表明するにしてもその表明の仕方において、また、無視するにしてもその流し方において、また、皮肉や弁明や留保の書き方において、また、ツイートを停止するその時間の取り方において、その立場がモロに手に取るように透けて見えてくるツールである。恐ろしいものである。