洗脳戦隊


 

 
第十三話(B) Day Dream 〜School Days


 ・・・海の底にいるような感覚。
 自分の体が落ちているのか、ただ漂っているのか、それすらも良く分からない。
 何かにのしかかられているように身体は重苦しく、指を動かすのにも億劫だ。
 ものを考えようにも、頭は鉛のように重く痺れ、考えがまとまらない。
 ・・・だが、突然何かに引き上げられるように急速に意識は引き戻され・・・。




「・・・・・・・・・・・・!」
 

 目をしばたたかせる。
 まず視界に入ってくるのは星の光。
 そして、遠くの外灯から届く仄かな光。

 しかし、それだけ。
 さっきまで夕暮れだったはずなのに、いつの間にか辺りは闇に包まれている。
 小さな虫の声以外、何も聞こえない。耳が痛くなるほどの静寂。


 シモンは自分の記憶をまさぐる。
 確かローズにいきなり攻撃を受けて・・・意識を失って・・・。

 シモンはがばっと身体を起こし、緊張した面持ちで辺りを見渡した。





 しかし、ローズの姿は見えない。





 考えてみれば、辺りがこんなに暗くなっているということは、ローズから攻撃を受けて相当時間が経っているはずだ。ローズが正気に戻っているとすれば、今頃自分が五体満足なはずが無い。

「じゃあ、あれは夢か・・・」
 シモンは自分を納得させるかのように呟く。

 それにしても変な夢だった。
 なんで自分がニンゲンどもの学校に通わなくてはならんのだ?
 しかもカーネリアにルピア、サファイアまで揃っていた。ヴァルキリーの二人はともかく、サファイアが二人とお揃いの女生徒向けの制服を着ていた。ローズが自分の担任教師というのにも笑えるし、ベリル様までなぜか生物教師の役割だったわけで・・・。

 で、そこでも自分はうだつの上がらない一生徒だった。あんな夢の中でさえ、そんなポジションにおさまってしまう自分が、妙にいとおしい。

 それにしたって夢の中まで何でダリアにこき使われるんだか・・・・・・・。


「・・・ダリア?」

 そういえばダリアはどこへいった?
 シモンは持ち歩いているズタ袋から懐中電灯を取り出して辺りを照らし、慌てて彼女を探す。しかし、なかなか見つからない。
 シモンの身体からいやな汗が染み出してくる。生暖かな風が少し強く吹き始めた。木々が風にゆれざわめき、丈の長い草々が黒々とした闇の中で夜の海のようにうねる。

 と、その黒い草々の波間から、遠くにちらりと白いものが見えた。
「おい?ダリア、ダリア!」
 シモンは慌てて駆け寄る。夜風に揺れる青いススキの草叢の中、うつぶせになって倒れているダリアをシモンは抱き起こした。

 体が冷たい。

 慌ててシモンは彼女の首筋に手を当てた。
 もともと色の白い顔は一層血色が悪く、青白くなっている。が、その細い首筋からは、確かなぬくもりが感じられる。
「ダリア!ダリア!」
 シモンがペチペチと頬を叩くと、ダリアはゆっくり瞼を開く。
「・・・・・・ん・・・・・シモン・・・?」
 その緊張感の無い声は、ねぼけたときの彼女の声に近いものだった。
 シモンはふぃーっと息をつき、
「・・・ったく、焦らせるなよ。いくら夏だからってこんなところで寝込んでたら風邪を・・・」

 シモンの中で、さっき見ていた夢の中で、風邪で寝込んでいたダリアが思い出され――思わず言葉に詰まる。

 そんなシモンの様子に気づいたのか気づかないのか、ダリアは熱っぽい瞳でシモンを見上げ、
「・・・シモン・・・だよな?」
「・・・・・・他の誰だってんだ?」
「・・・いや・・・その・・・」
 ダリアはしばらくぼうっとシモンの顔を見ていたが、突然シモンを押しのけ、ばね仕掛けの人形のように跳ね起き、シモンを問い詰める。
「シモン、ローズはどうした?」
「・・・いや、起きたら姿が見えなくて・・・」
 ダリアはしばらくきょろきょろ辺りを見ていたがふと、地面に転がっている物体を拾い上げる。

 それはローズの武器のメイスだった。

「・・・それはローズの・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
 ダリアはしばらくそのメイスを真剣な面持ちで見つめていたが、やがて、シモンに向き直る。その目はどこか決然とした意志が込められていた。

「・・・シモン、悪いが急用が出来た。お前はとりあえず連中につかまらないように逃げ切れ」
「お、おい。ダリア、ちょっと待てって・・・ダリア!」
 呼びかけるシモンに振り向きもせず、ダリアは走り出し、茂る草叢を乗り越え、木々の間をすり抜け、闇にその姿を消した。



「何なんだあいつ・・・」
 そもそも自分たちはお尋ね者だろう。急用も何もあるものか。ダリアの行動はわけが分からない。



 だが、二つだけ、確実に分かってることがある。

 ローズが消えた。
 そしてそのローズは、自分とダリアが通じていることを知っている。



 そしてもう一つ。

 これは推測だが、ダリアは「何か」に気づいたらしい。



 それがさっき自分が見た夢と何か関係があるのかどうかはわからなかったが・・・何にせよ、ここの場に残っていることは好ましくなかった。
 シモンは髪の毛をひと掻きすると、ローズのメイスをズタ袋に突っ込み、ダリアが消えた方向に走り出す。

 だが、勢い良く走り出したのもつかの間、それから5分もしないうちに、シモンの足取りはふらつきはじめる。ローズに流された電流攻撃によるダメージは予想以上に大きかったようだ。背筋に痺れが走り、時折めまいに襲われる。ひどく悪い酒をちゃんぽんで飲んだ後の朝のような気だるさ。
「・・・くそ・・・・・・」
 シモンがよろよろと歩きながらかすれる目をこすっていると、ふと、人気の無い納屋が目に付いた。
「少しだけ、休むか・・・」
 ふらつく身体をおしてなんとかシモンはその納屋の扉を開ける。何かの荷物倉庫らしい。扉を閉めると、シモンはそのまま倒れこみ、その途端、彼の意識は急速に薄れていった。









 ・・・うす暗く、じめっとした部屋。
 季節としては梅雨も終わりに近づきつつあるこの時期、閉め切った部屋はただでさえ蒸し暑い。そこにガタイの良い男たちが四人、身を寄せるように向かい合っている。傍から見ても暑苦しいことこの上ない。

 彼らの前には四角い机が置かれ、その机を四人が取り囲む形になっている。その机には、指でつまめるくらいの大きさのプラスチックのブロックが、井桁状に伏せたまま、それも大量に積まれており、さらにその内側にはブロックが雑然と置かれている。

 揃いも揃って白いシャツ、黒いズボンに身を包んでいる彼らは、真剣な目つきで互いを牽制しながら、黙々と、ただ黙々と、ブロックを順番に拾い、検分してはその机の中央に捨てるという作業を繰り返す。

 一人の男が新たにブロックを拾い上げた。だが、それは彼の意にそうものではなかったのだろう。額に垂れる汗を不愉快そうにぬぐった後、気を紛らわせるかのようにその男は口を開く。

「でさー、そこんとこどうなのよ?」

 タン。
 乾いた音と共に、ブロックがフェルト地の机に叩きつけられる。

「・・・何が?」
 タン。話しかけられた右隣の男はつまらなそうに一瞥しながら、さっきの男と同様に机の上のブロックを拾い上げると、やはり同様に机に叩きつける。これが彼らの作業の作法のようだ。

「またまた、お前そういうとこで妙にそらとぼけるのな」
 タン。更にその右隣に座る茶髪の男が話を受ける。

「そうそう、お前のクラスに転入生が来たんだって?どんな感じなんだよ?」
 最後の男は今までの男とは違い、拾ったブロックを自分の目の前に並べられたブロックの列の一つと入れ替えた。どうやらそれは彼が求めていたものらしい。

「風のうわさでは、美少女だって話だが?」
 ここで再び手順は最初の男に戻る。男は再びブロックを拾い上げ、自分の目の前に並んだ列のブロックと入れ替えると、それを捨てた。

「ポン」
 さっきからはぐらかしてばかりいる男は、今しがた捨てられたブロックを摘み上げると、自分の目の前に並んでいるブロックの列からも二つ拾い上げ、自分の右側に並べ、
「・・・口が悪い。ちびっちゃい。目つきが悪い・・・」
 しかし、そんな男の発言は遮られ、
「大将!報告です!この男、その転入生の隣の席なんですぜ!!」
「なにぃ?許し難いな。なんだそれは!更なる報告を要求する!!」
「はは、実は某情報筋によれば・・・」

 3人の男たちは代わる代わる物体の検分作業を続けながら、その転入生の噂話を整理しはじめた。

 名はダリア・ペトロフスカ。ロシア系外国人。透き通るような白い肌、長いまつ毛、青みがかった瞳の色。そして小さな赤い唇が印象的な、美女というよりは美少女に属するその容姿。だが、その唇がひとたび開くと、ブロークンな日本語が飛び出し、生半可な気持ちで話しかけた連中の鼓膜と脳髄をえぐる。そのギャップがいいのか、マゾヒスティックな快感に悶えんが為に彼女に話しかけようとする連中もいるらしい。

「いや、あれはブロークンなんじゃなくてヘソと性格がひん曲がってるから口も曲がってるだけだって・・・」
 残る一人の男だけがネガティブな寸評を加えていくのだが、圧倒的に肯定的な評価が多く、その声はかきけされがちだ。
「・・・あの委員長、藤谷よりも成績がいいんじゃないかって話だぜ?」
「マジ?そんなことありえるのか?」
「だって飛び級してるんだろ?」
「うわ、すげぇ・・・まじ、惚れるかも・・・」
「・・・でも、いくらなんでも、年がアレだろ?手を出すのは犯罪じゃないのか?」
「・・・俺・・・自分はノーマルだと思ってたんだけど、・・・ちょっと自分が最近信じられなくなってきたかも・・・」
「・・・お、俺も一瞬あの娘ならいいかな、とか・・・いやいや、あれは魔が差しただけだ。・・・多分」
「おいおい、お前ら気をしっかり持て!・・・・・・・・・・・・・・・・・・俺だって・・・俺だって・・・」
「・・・・・・・・・雪山遭難でもしてるのか。お前ら」

 カミングアウトモードになっていく3人の言葉に、話題の転入生の隣に座っていると密告を受けた男が呆れたように言うと、3人は矛先をその男に向ける。

「お前のクラスはいいよなー。スポーツ万能、ちょっと抜けてるけどそこがまたチャームポイントのスラッガー松田朱美だろ?」
「秀才なのにナイスバディという天はニ物を与えまくりな委員長藤谷碧だろ?」
「滅茶苦茶冷たくてちょっとタカビーだけどたまーに見せる弱気な仕草がそそるお嬢様の青木遼子だろ?」
「しかも担任はモデル並のルックスで明るい英語の清水先生、副担任はちょっと翳りがあってエキセントリックなところに大人の雰囲気が漂う生物の石塚先生だろ??レベル高すぎだよ」
「で、ここにロリロリ天才少女、ダリアちゃんが加わったわけだ」
「正にこの由緒正しいミッションスクール、光世堂学園に咲いた花園・・・そんな羨ましい環境にこんな冴えない男がなんで・・・」
「「「・・・はぁ〜」」」

「・・・ひどい言われようだ・・・」
 ため息の三重奏を前に、一人論難され続ける男は付き合いきれないとばかりにぼやくのだが、それがかえって火に油を注ぐ結果となる。
「そうだ!なんでお前のクラスばっかりなんだ!説明を要求する!!」
「そんなこと知るか。麻雀じゃあるまいし、俺に積み込み(※1)なんかできるはずないだろ?」
「いやー、わからんな。シモン。お前のことだからな」
「そうだ、こないだのリーチドラ8は絶対積み込みだろ!」
「・・・・・・・・・知らないなぁ〜」
「・・・・・・・今、一瞬口ごもったな?」
 一人追及されていた男、シモンは黙って牌を切り出した。


 そう、ここは学校の男子更衣室。
 女子更衣室とは異なり、普段男子生徒は教室で着替えてしまうため、この部屋は本来の意図通り使われることはほとんどなく、もっぱら休み時間や放課後に男子学生の賭博場としての役割を果たしていた。
 賭け麻雀とはいえ、行き交う額は所詮ささやかなものだ。しかし学食のレベルを一つ上げるために百円玉を一枚余計に出すか否かで日々悩む青少年にとっては、その月のエンゲル係数を左右する重要なサバイバルイベントなのだ。
 その神聖なる戦いの場も佳境。今、卓を囲むは四人の男子生徒。どいつもこいつも今月の小遣いを消費し尽くした食い詰め者ばかり。
 その一角をシモンが占めていた。

「・・・やれやれ、流局か」
 シモンの右隣の男が牌を捨てる。結局この場はシモン以外の全員がリーチしたにも関わらず、誰もあがれずに終わった。
 
「シモン、お前はテンパってるのか?」
「まあね」
 シモンがバラっと牌を倒す。
「うわ、トイトイかよ、相変わらずコスい役ばっかだなあ・・・」
「やれやれ、運のいい奴だ。俺4面待ちだったんだぜ?」
 3人がバラバラと牌をかき混ぜ始めると、シモンがぬっと右手を突き出す。
「・・・なんだその手は。シモン。全員テンパイだから罰符はないぞ?」
「・・・流し満貫(※2)。親は四千、子は二千」
 シモンがもう片方の手で指差した先の捨牌の列は、見事一九字牌で埋まっている。
「・・・・・・・・最低だな。お前・・・」
 シモンの対面の男はつまらなそうに千点棒をばらばらと投げつけた。



 この得点が決め手となり、結局今日の勝負はシモンが逃げ切ることとなった。



 誰が決めたか、高校生は勉学にそしてスポーツに励むことが推奨されている。この光世堂学園においても大部分の学生は部活に入っているのだが、シモンは由緒正しい帰宅部だった。帰宅部、というのは気楽そうに見えて、その実、暇を潰すことにかけては高度な技術が要求される。勉強をガリガリやるのが趣味みたいな人間や、遊興費が潤沢で都市部に出て遊べる連中ならまだしも、金もなく大した趣味も無い人間にとっては、手持ち無沙汰になることがしばしばであった。

 シモンも大してやることもなく、時折こうやって麻雀をやったり本屋やCDショップに行ったりの日々だった。

 
 更衣室を出たシモンは自販機で買ったスポーツドリンクの缶を握りしめ、廊下を歩く。普段は蛇口の水で喉を潤すことがもっぱらの彼にとっては相当の贅沢だ。真剣勝負に勝った日は、これくらいの美酒は許されるであろう。

 日は傾き、廊下一面、朱色に染まりつつある。窓から校庭を見下ろすと、野球部だかサッカー部だかの連中が、長い影をその足元にまとわりつかせながら走り回っていた。

「・・・・・・帰るか」
 荷物を取りにシモンが教室に寄ると、普段ならとっくに誰もいないはずの教室に明かりがついており、話し声が聞こえてくる。

「・・・なんだ?」
 
 教室を覗くと、何人かの生徒が机をコの字型にして座り、何やら議論をしている。その中には朱美と委員長の碧の姿もあった。


「邪魔」
「うわぁぁ・・・なんだ、青木か」
「何だとは失礼ね」

 教室の戸口の陰からこっそり覗き見していたシモンが後ろを見ると、そこには青木が立っていた。不機嫌そうな口調と、しらっとした目つきは、別にシモンにだけではなく、この学園の、そしてこの世の全ての男性に分け隔てなく向けられるものだ。
 
 ただ、シモンの個人的な見解としては、二つに分けた彼女の髪型は、年齢の割には意外に可愛らしいのではないかと思っていたりする。もちろん、そんなこと真正面から言うことはない。第一、某財閥のお嬢様である彼女の機嫌を損ねると黒服の男の一個分隊に簀巻きにされて海底に沈められるというのがこの学園の都市伝説だ。

「・・・何やってるんだ?」
 シモンが小声で尋ねると、青木は『何言ってるのよ』という目をして髪の毛をいじりながら、
「交流会の出し物決めよ。帰りの会で碧が言ってたじゃない」


 ああ、幼稚園との交流会か。そんなイベントがあったなあ・・・。


 この学園には付属の幼稚園があって、そことの交流会が年に一回催される。クラス対抗で出し物やら出店をするのだが、幼稚園児の人気投票でグランプリに選ばれると、幼稚園の父母会から賞品――テーマパークの入場券だったり有名ホテルの食事券だったりと様々だが――がもらえるということもあり、単なる学内イベントの交流会の割には妙な盛り上がりを見せる。言うなれば学園祭の前哨戦の位置づけだ。
 生徒たちの力の入れようも大したものでクラスによっては泊りがけで準備をするほどだ。
 
 とりあえず、うちのクラスは有志で企画を練って、それを学級会にはかるという手順を踏むことになっている。ここにいるのは物欲にかられたお祭り好きな連中だろう。

「・・・シモン、聞こえてるわよ。誰が物欲にかられてるって?」
 いつのまにか、戸口の一番近くの椅子に座っていた朱美が振り返り、大きな目でシモンを睨む。
「・・・お前、部活は?」
「今日は休み」

 朱美はソフトボール部に所属している。鉄腕スラッガーとしてその筋では有名らしい。

「今年は負けるわけにはいかないからね。企画段階から参加しないと」

 去年隣のクラスにグランプリをかっさらわれて某有名テーマパークツアーに行かれたのが大層悔しかったらしい。腕まくりをして少し日焼けをした右腕に力こぶを作って見せる。

「ふぅん、今、どんな案が出てるんだ?」

 その場にいるクラスの男子が説明するには、今のところ劇か出店かの二つに絞られていて、女性陣はロマンティックな劇を希望しており、男性陣は出店でお茶を濁そうという腹らしい。

「・・・四門君、あなたは何か意見はないんですか?」
 碧の言葉にシモンは手を振って、
「いや、別に。強いて言えばめんどくさくない方がいいかな」
 シモンの意見を受けて、男性陣は『出店の方が楽だぞ!』といい、女性陣は『あんなめんどくさがりの意見なんか関係ないわよ』とのたまう。

 まあ自分は決まったことをやるだけだ。別に演劇の経験はないし、愛想のいい応対のできない自分にはウェイターの仕事は回ってこないだろう。どっちにころんでも大道具か小道具、荷物運びあたりが関の山だ。
 シモンは荷物をピックアップすると、侃々諤々の議論が再び始まったその場を後にした。
 
 



「・・・そもそも生体のたんぱく質はアミノ酸からできているわけですが、生体に用いられるアミノ酸は20種類しかありません。前にもお話したように、アミノ酸はアミノ基、カルボキシル基、側鎖、水素原子が一つの炭素に結合する形になることから、グリシン以外のアミノ酸は全て光学異性体を持つことになります。これをそれぞれD−アミノ酸、L−アミノ酸と言います。このDとLの語源はラテン語で・・・」

 チョークが小気味良く黒板を叩く音と共に、石塚先生の声が昼下がりの教室に響く。

 この学園では文系理系に関わらず生物は必修なので、全員が受講する。「生物学は現代人の必須教養」というのがうちの学園の理系教師陣のコンセンサスらしい。
 といいつつも、生物を理解するためには化学も物理も理解しなくてはいけないので、生徒にとってはえらく面倒な制度ではあった。

 弁当を食べた直後の授業は強烈に眠たくなるのが相場だが、石塚先生の生物の授業はリズミカルな上になかなか飽きさせない展開で、昼寝王シモンと並んで昼寝女王の異名を持つあの朱美でさえ寝ることもなくノートをとっている。
 
 しかし、シモンの隣に座っているダリアは、すやすやと寝ている。薄い茶色の髪の毛が風が吹くたびにそよいでいる。もっともこれは石塚先生の授業が悪いわけではない。彼女は授業の大半を寝ており、寝てないときは本を読んだり怪しげな書付けをしていたりと、おおよそ授業とは関係ない行動をとっているからだ。

「寝てるときはちょっとはかわいげがあるんだがなあ・・・ふわぁわぁ・・・」
 彼女の聞こえないように独り言を言うと、睡魔に襲われたシモンは、ついうとうとと船を漕ぎ出す。
 

 黒板がアミノ酸の化学式やら立体構造で埋め尽くされたところで、石塚先生は生徒の方に振り返った。

 石塚先生は白衣を着ており、そこからストッキングに包まれたすらりと長い足が伸びている。実験室のみならず、学内では常に白衣を着るのが石塚先生のポリシーだそうだ。スーツの上に白衣を着ている石塚先生は、学校教師というよりは、むしろ大学教授か企業の研究者のような雰囲気を醸し出していて、どちらかといえばスチュワーデスかアナウンサーといった風情の清水先生とは対照的だ。

「・・・さて、ここで問題です。この地球上で、すべての生物のたんぱく質を形成するアミノ酸はL−アミノ酸だけであり、D−アミノ酸は用いられていません。この理由はなぜでしょうか?」

 クラスが沈黙する。教科書をひっくり返してもそんな理由はどこにも書いていない。石塚先生はたまにこうやって超高校級の質問を生徒に投げてくる。
 先生に言わせれば、これは科学的な、論理的な思考ができるかどうかを試しているのだそうだ。もっとも、当てられた生徒にしてみれば嫌がらせを受けているようにしか思えないのも確かではあった。
 こういったとき、時間が経っても誰も手を上げない場合は碧がさりげなく手を上げて答えを言って場を進めてしまうのだが、その碧さえ手を上げない。彼女も知らないのだろう。考えている素振りを見せているが、思い当たらないらしい。


 先生は指を頬に当てて、名簿をめくる。
「どうしましょうか。折角だから誰か当てましょうか。今日の日付を足して、掛けて、引いて、割った出席番号は・・・・・・・・・・ヨツカド、イサオ君」
「げ」

 どういう計算をしたんだろうか、眠気が一気に吹き飛んで思わず立ち上がるシモン。しかし石塚先生はニコリともせず、
「・・・・・・答えは『ゲ』ではありません」
「いや、そりゃそうでしょうけど・・・」
「・・・言うまでもありませんが正確な答えを求めているわけではありません。この問題を解くためどのようなアプローチがあるのか、あなたの考えを述べてください」

 シモンは所在無さげに頬を掻く。わかりません、の一言で座ってしまってもいいが、そうなると先生はレポートを要求してくる。少しは調べるか考えて来い、ということらしい。

 仕方ない、とりあえず適当にしのぐか・・・。シモンは脳みその奥底から記憶をかき集めて再構成しながら、
「ええと、そもそも生物の体を構成するアミノ酸は、リ、リ、リソソーム・・・」
「・・・リボソーム」

 いつの間にか起きてきたダリアが、隣でボソッと呟いた。

「・・・ええと、生物の体を構成するアミノ酸は、リボソームにおいてメッセンジャーRNAからコドン表に基づいた翻訳によって作られるわけで・・・えーと、きっと、そういったアミノ酸を作る仕組みが全ての生物で一様で・・・これがアミノ酸がL型に偏ってる理由ではないでしょうか」

 おお、適当なわりにはナイスな答えではないか。シモンが内心自画自賛をすると、石塚先生は、軽く頷きながら、

「・・・なるほど。RNAとアミノ酸とを対応させるコドン表はミトコンドリアなどの例外はあるものの全ての生物でほとんど共通ですし、リボソームは原核生物と真核生物とで違いがあるものの、ほぼ共通ですね。・・・他に付け足すべきことはありませんか?今日の日付を二乗して、足して、割ってと・・・・・・ダリア・ペトロフスカさん」

 どうも先生は昼寝をしていた人間をあてているらしい。だが、ダリアは取り乱しもせず立ち上がると、

「・・・ヨツカドクンが言ったように、リボソームやコドン表もさることながら、地球上の生物は、レトロウィルスなどの例外を除き、その多くがDNAを遺伝子の構成物質として利用しています。また、その遺伝子を転写しアミノ酸に翻訳するシステムについても、一部の例外を除きほぼ共通です。この理由として、全ての地球上の生物がほぼ共通の祖先を有するか、あるいは仮に同時多発的に原始生物が発生したとしても、そのプロセスがほとんど同じであることが推測されます。実際、ユーリー・ミラーの実験など、いくつか生命の発生過程を示唆する実験結果や仮説はありますが、それほど多くの可能性があるとは今のところ考えられていません。仮に、生物の創造が限られた過程でしか起こりえないのであれば、なにかしらの物理的な制約条件によって、その発生過程で利用されたアミノ酸が片方の光学異性体のみに偏り、その結果、現在の地球上の生物が利用しているアミノ酸があまねく片方の光学異性体に偏っていることも、それほどおかしいことではありませんし、単一起源であるとすればなおのことです」

 立て板に水を流すようなダリアの言葉に、石塚先生は頷いている。が、今の話をフォローできているのはクラスの中でもほとんどいない。碧とダリアを除き、全員ぽかんとしている。
「・・・・・・なるほど。共通の祖先を持っていれば、あるいは生物の発生過程がほとんど唯一であるならば、全ての生物は共通のアミノ酸を選択した可能性はありますね。しかし、アミノ酸が片方しか選択されていない理由については、実のところいまだに解明されていない生物学上の課題です」

 おいおい、まだ解明されてないことを一高校生に聞いたんかい、と内心で突っ込みをいれるシモンをおいて、さらに石塚先生は続ける。

「・・・さて、このように生物の世界では右と左で一方に大きな偏りが生まれている例がいくつかあります。例えばある種の巻貝の巻き方であったり、心臓の位置だったり、右利きと左利きの比率だったりですが、意外に理由がわかっていないことが多いわけです。さて、ヒトは右利きが圧倒的に多いわけですが、この理由としてどのようなことが考えられるでしょうか。・・・四門君」
「え”」

 まさかそこで再びお鉢が回ってくるとは。シモンが言葉に詰まっていると、タイミングよく、課業終了のチャイムが鳴った。

 思わぬ天佑にシモンが感謝していると、先生はさも当然と言わんばかりに、
「じゃあ、四門君。これについてレポートを提出すること」
「げ、俺?」
「他に誰がいるんです?」
 シモンは力いっぱいダリアを指さそうとしたが、ダリアはといえば、いつの間にか座ってそ知らぬ顔だ。
「はい、なんでヒトに右利きが多いのか、その理由とその事実がヒトの文明に与える影響について、A4、5ページ以上でレポートしてきてください」
「・・・あの、なんで文明論まで?」
「趣味です」
「・・・先生、その、もうすぐ期末試験だし、あんまりそういう課題出されると試験勉強に差しさわりが・・・」
「でも、今日もその前もその前の授業も眠ってたくらいだから、余裕があるのでしょう?」
 もはや反論の余地が無い。そのクールな風貌に似合わず意外と根に持つタイプだったらしい。石塚先生は一見与しやすそうに見えるが、冗談が利かない分こういう時には清水先生よりもよっぽど性質が悪いといえる。
「・・・了解しました。5ページ以内ですね」
「『以上』です」
「・・・あい」
 横でニヤニヤするダリアを、シモンは恨めしげに睨むながら着席した。






 放課後。シモンはぶつくさ言いながら、図書室にたどりつく。
「くそ、だいたい飛び級ちびっ子と勝負させようだなんて悪意丸出しだよ。あぁ、かったるい・・・」
 この光世堂学園の名物の一つはこの巨大な図書館だ。由緒正しいらしく、明治時代から蓄積されたおびただしい数の書籍がうずたかく積まれている。
 問題点は、あまりにも巨大すぎて、書庫管理すらままならないところだろう。この前もたまたま書庫を陰干ししていたら重要文化財クラスの資料が出てきたという話だ
 
「・・・生化学、発生学、遺伝学、物理化学、進化生態学・・・うーん、どこらへんなんだか・・・。そういえば文明に与える影響も書けとか言ってたよな・・・何を読めばいいのやら・・・比較人類学か?」
 殴れば熊でも倒せそうなくらい分厚い、亀の子タワシが異常繁殖した本の数々をうずたかく積み上げ、シモンはひぃひぃ言いながらレポートをまとめようと試みる。しかし、なかなかそれらしい記述が見つからない。 
 図書館を彷徨うシモンの目に、ふとある辞書が目にとまった。埃をかぶっていて誰も借りたことがないのが明らかだが、そんな辞書にシモンがひかれた理由は一つ、その表紙に書かれた見慣れない文字のせいだ。
「ロシア語かぁ・・・」
 シモンが本を引き出すと、何十年間動かされていなかったのか、あたりにもうもうと埃の煙が立つ。
「・・・やっぱりへんてこりんな字だなあ・・・」
 と自分の母国語のことは棚上げし、興味に任せてシモンはその本のぱらぱらとめくる。
「"Д"って"D"なのか。で"р"が"r"で"П"が"P"かぁ。謎だな。ロシア語・・・・・・・・・・」
 シモンはその辞書もついでに小脇に抱え、図書館の隅の机に陣取り、見回りの警備員に追い出されるまでレポートを作成し続けた。




「・・・随分分厚いものを作ってきたんですね」
 あくる日の放課後、ところは生物準備室。目にクマをつくったシモンからレポート用紙の束を手渡された石塚先生は、相変わらずそのクールな表情を変えることはなかったものの、その声には微妙な驚きの色が加わっていた。
「一応、5枚以上ということでしたので」
 と、いいつつ、そのレポートは優に50枚以上ある。読めるものなら読んでみろ、という半ば意趣返しでもあった。
 石塚先生はパラパラと2、3枚めくって、その内容を眺めていたが、
「・・・・・・あまり秩序だってないみたいだけど、面白そうですね。ゆっくり見させてもらいます」
「はぁ。それでは・・・」

 部屋から出ようとするシモンを先生は呼び止めた。
「あ、そうそう、四門君。先週締め切りだった進路希望調書、そろそろ出してもらえますか?」
「あ、忘れてました。すみません」
「特に希望があるのですか?」
「・・・いえ、特には・・・」
「まだ先のことだからわからないだろうけど、とりあえず書いて出してください」
「・・・あーい・・・」

 生返事をして、シモンが再び出ようとすると、再び石塚先生は、

「・・・そういえば、四門君、ペトロフスカさんの家に行ったんですって?」
「・・・ペトロ・・・ああ、ダリア・・・さんの家ですか。ええ、まあ・・・」
「清水先生に聞きました」

 清水先生もおしゃべりだ。ダリアの家に物を届けに一人で行って、しかもベッドルームまで入ったなんて言いふらされた日には、世間のシモンを見る目がまた一段と厳しくなることは必至だろう。

「・・・ところで、彼女の家にあがって、何か気になることはありませんでしたか?」
「え?」

 がらんどうの部屋。ろくに開けもしないダンボールの山。高級マンションで一人暮らしの女の子・・・。

 どこもかしこも気になることだらけではあったが、

「・・・いえ、別に・・・」
「・・・・・・そう」

 石塚先生の表情は相変わらず変わることがなく、シモンはその質問の意図を読み取ることはできなかった。




 その足で、シモンは屋上に出て寝転がる。
 ここはシモンのお気に入りの場所だ。あまり人も来ず、空気もいい。夏場でも比較的涼しい風が吹く。体と頭を休めるために、シモンはしばし目を瞑る。


「相変わらずだらけているな」
 その声のする方に視線を向けると、上下逆さまのダリアが立っていた。

 白いブラウスに胸元にはリボン。チェックのスカートという出で立ちは、確かにうちの高等部の夏服なのだが、その背格好と顔立ちから、どうみても初等部か中等部の生徒にしか見えない。

「馬鹿たれ。昨日まで連日レポートで徹夜だったんだからな。骨休めといってくれ」
「ふん。授業で寝てるから悪い」
「お前だって寝てたろうが!」
「私は内容を理解した上で寝ているからな。私にとっては睡眠は価値ある休息だが、アホが授業中寝ててもアホタレに進化するだけだぞ」
「お、俺だって頑張ってだな・・・」
「リボソームとリソソームを取り違える奴に人権は無い」
「うるさい、ミトコンダリア」
「・・・・・・・」
「・・・ちなみに今のはミトコンドリアとダリアをかけたウィットに富んだジョークでな・・・ぐぼぁ!!」
 ダリアのヒールキックがみぞおちをしたたかに食い込み、シモンは濁ったうめき声を上げて絶句する。
 

 その後、しばらくいつもの調子のバカなやり取りが続いたが、二人の間にふと沈黙が訪れた。

 間を埋めるために、シモンは何とはなしに、ダリアに問いかける。
「・・・ダリア。お前、やりたいことってある?」
「・・・何だ?藪から棒に」
「いや、進路調書出さなくちゃいけなくてさ・・・あの理系文系の選択とか、どんな大学にいきたいとか言う、アレ。お前は飛び級してるくらいだから、何かやりたいこととか目標とかがあって勉強してるんだろうな、と思ったから、参考にきいておこうと思って」
「・・・・・・」

 ダリアは屋上の網越しに建ち並ぶビルと家々を眺めながら、

「・・・・・・・別に」
 その声は、わずかに湿り気を帯びているようだった。

 妙に気まずい間。シモンはフォローするように、
「・・・・・・まあお前はその年で飛び級しまくりだったら、1年2年留年して多少遊んでてもバチは当たらんだろうよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・そんな暇は無い。私には、やらねばならないことがあるからな」
「・・・・・・・?」

 ダリアの言葉は、シモンには妙に矛盾しているように聞こえたが、ダリアはそのまま屋上から姿を消してしまったので、シモンの小さな疑問は解けることなく、そのままシモンの心の片隅に沈殿していった。








 期末テスト。夏休み前の最後の難関にして究極の障害。

 誰しもが(わずかな例外はいるものの)その存在を憎み、恨み、そしてそれを突破した後のバケーションを夢見て、ため息をつきながら今までろくに開いたことも無い教科書を開き、このときだけやたら増殖する『友人』のノートをコピーし、深夜ラジオを聴きながら一夜漬けをする日々。

 そんな苦行も今日で終わり。最後のテストの終わるを告げるチャイムが鳴り響くと、クラスは大きな解放感に包まれる。
 帰りの会が終わると、ある生徒は晴れやかな表情で、ある生徒は妙に思いつめた表情で、それぞれの日常へと散っていく。

 そんな中、思いっきり伸びをしながら席から朱美は立ち上がり、出し抜けに、
「おわたー!ばんざい、ばんざーい、ばんざーーーーい!!!」
「・・・そんなに出来が良かったんですか?朱美」
「ぜーんぜん♪。でもいいの。あの白い雲と青い空が私を呼んでるから。・・・・・・はぁ」

 碧の言葉に返事をするうちに、最初はハイテンションだった松田も、最後は燃え尽きたヘビ花火のように、くたん、と机に伏せてしまった。どうも出来が芳しくなかったらしい。

 碧はクスっと笑いながら、
「・・・だと思いました。いつものカラ元気ですね・・・」
「カラ元気言うなー!」
「・・・ケーキ食べに行きましょうか?いつものお店のケーキビュッフェコースの半額チケット、今日までが有効期限なんです」
「え?まぢ?・・・おお、これは正にプラチナチケット!」
 がばっと跳ね起きた朱美は碧が取り出したチケットを奪い取ると、一気に元気を取り戻す。
「素晴らしい!プチケーキ食べ放題じゃない!!ええと、一枚、二枚・・・四枚か。二人で行ってもまだチケット余っちゃうね」
「・・・誰か、誘いますか?」
「そうだねえ・・・」

 多くの生徒は既に帰ってしまい、教室は人影まばらだ。

 しばらく視線をさまよわせていた朱美だったが、

「あ、ダリアちゃん。ちょっと待って」

 かばんを持ち、今、正に教室を出ようとしていたダリアを呼び止める。

「ダリアちゃんもどう?このケーキ屋、すごく美味しいの。折角だから一緒に行かない?」
「・・・・・・ケーキ?」

 ダリアは小首をかしげる。

「ええと、発音まずかったかな?ケイク、ケイカー、ケイケスト。甘くてふわふわのお菓子。あーゆーおーけー?」

 なぜか碧の方が顔を赤くして恥ずかしそうにうつむいているが、そんな親友の心を知る由もなく、屈託なくダリアに話しかけてくる朱美に、ダリアは、

「甘くてふわふわ?クリームパンみたいなものか?」
「んー、クリームパンよりもっとデラックスでデリシャスでスゥイートでクリーミーでリッチテイストでチャーミーよ。どうかな?」

 朱美のボキャブラリー能力を全開させた説得は、内容はともかく熱意は伝わったのだろう。ダリアは少し考える素振りを見せていたが、

「・・・アレが行くなら」
 と、ぬっと人差し指を突き立てて答えた。

 その方向にはシモンがいる。

「アレ?えーと、別にいいけど、アレが何ていうかわからないわよ?」
「ヲイ、人をアレ呼わばりするなよ、失礼だな」
「なーんだ、聞いてたんだ、シモン。だったら話は早いわ。ついでだから貴方も来なさいよ」

 普通の人間が言えばカドも立つところだが、そう感じさせないところは朱美の得なところだろう。

 しかし、考えてみれば、女の子の集団とケーキを食べるなんてシモンにとっては生まれて初めての経験だった。
 こころなしか、周囲の視線が自分に集中している。女性陣は興味深そうなものを見るような目で、男性陣は嫉妬とやっかみの混じった視線で。

 妙な気恥ずかしさを感じたものの、そんなことを顔に出しては男の沽券に関わる、とばかりにシモンは平然と、
「いいさ。そのケイカーだかケイケストだかを食わせてもらう」
「ほいきた。でも割り勘だからね」
「あいよ」
「よっしゃ、これでさばけた!じゃあ、みんなで行ってみよう!」
 こうして、奇妙な組み合わせによる即席ケーキツアー団が結成されることになった。



 そのケーキ店は繁華街に面したビルの二階にあった。アンティーク風の内装でそろえられた室内は落ち着いた照明で照らされている。碧と朱美がが常連なこともあり、店員の計らいで、4人は特別に個室をあてがわれた。

 ケーキビュッフェなので、一口サイズのプチケーキは食べ放題、そしてレギュラーサイズのケーキは別途オーダーの形式だ。

「私、キャラメルプリンとアップルティー!」
「・・・チーズケーキとダージリン、お願いします・・・」
「じゃ、俺は抹茶ケーキとコーヒー、ブラックで」
「・・・・・・モンブランとアップルジュース」
「かしこまりました」

 真剣にメニューをみていたダリアが最後にオーダーを告げると、ウェイトレスのお姉さんはにこやかに返事をして厨房に向かっていった。


 やがて、全員の前に色とりどりのケーキが並べられる。
「あまーい、おいしー」
「・・・本当、美味しいですね」

 全員が思い思いの感想を述べながらケーキを食べる中、ダリアはモンブランの上にかかっているマロンクリームとマロンを興味深そうにつんつんとフォークでつついている。

「ダリアちゃん。モンブラン好きなの?」
「・・・いや、初めてだ」
「へぇ、あんまり外国向こうでは食べなかったの?ケーキとか」
「・・・ああ、食べたことが無い」
「おぉ、てりぶる。みぜらぶる。それは人生損してるよ、ダリアちゃん。ほら食べた食べた。ここのケーキはここら辺では一番美味しいんだから」

 ダリアは朱美の勧めに従い、最初はちょろっと舐めるように口をつけ、やがて、はぐはぐと食べ始める。

「おいしい?」
「・・・うむ。悪くない」
 唇にマロンクリームをつけたダリアは朱美の言葉に頷いた。
 朱美は自分が褒められたように得意満面の笑みだ。
「よかった。ここ、お茶も美味しいんだよ。えっと・・・あれ、ミルクは?」
「・・・これ」
「さんきゅー」
 ダリアから手渡されたミルクを朱美は自分と碧の紅茶に入れる。
「シモンはブラックなんだよね」
「ああ、面倒だからな。ミルクはいれない主義だ」
「・・・そんな胸を張って言うことではありません・・・」
「・・・ところで、その異形は何だ?スライムの丸焼きか?」

 ダリアは朱美の皿の上でふるふると震えるプリンを指差す。

「・・・イギョー?これはプリンだけど・・・」
「・・・食べられるのか?」
「もちろん!おいしいよ!」
「・・・・・・・」
「あ、う、そんなに見つめられると照れちゃうな・・・。いいよ、ダリアちゃん。半分あげるよ、プリン」

 朱美がダリアの前にプリンの皿を押し出す。

「・・・・・・・・・・・・」

 ダリアはその"異形"をしばらくしげしげと観察したり、スプーンを手に取りつんつんといじくったりしていたが、やがて意を決したようにスプーンでプリンを削り取り、口に放り込む。

「・・・・・・んまい。このクニにはうまいものがたくさんあるな」

 そのままダリアはスプーンを一掻き、二掻きし、あっという間にスライム・プリンはまるまるダリアの胃袋の中に収まってしまった。
「あ・・・う・・・半分・・・だけのつもりだったのに・・・・・・・・・・」
 ご満悦のダリアに対し、一欠けしか食べられなかった朱美はひどく悲しげなうめき声をあげた。


 それから30分ほど、皆思い思いにケーキと飲み物をとり、歓談する。

 ダリアなどはさっきからケーキ食べ放題コーナーを何往復もして、ほとんど全てのプチケーキを平らげた。既に店のマネージャーの視線は悲しげな色を帯びはじめている。今後、この店で再びケーキビュッフェが企画されるかはかなり危ういと言えそうだ。

「ダリアちゃん・・・そんなに食べて大丈夫?」
「む・・・もふもふもふ・・・ごく・・・・・・食べ放題ではなかったのか?」

 朱美の言葉に、『ケーキを飲み干す』という表現があるのなら、正にプチケーキを四つほど立て続けに飲み干したダリアが、不思議そうな顔をする。

「あー、いや、食べ放題なんだけど・・・・・・・ううん、気にしなくてもいいよ、あはははは」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・羨ましいです・・・・・・」

 ロシア系の女の人は若い頃はそれはそれはそれはすらっとして美しいのに、年を取ると耐寒仕様というかマトリョーシカ体型になってしまう、という偏見がシモンにはあるのだが、ダリアもそうなってしまわないだろうか。

 次から次へとケーキやプチプリンにぱくつくダリアを見ながら、妙に爺くさい心配をするシモンだった。



 やがてさすがのダリアもお代わりを打ち止めにして、全員が満腹感に襲われ始めたころ、朱美が出し抜けにパン、と手を叩いて、

「さーて、じゃあ今日のメインイベント、ダリアちゃんの自己紹介コーナー、行ってみようか!」

「はぁ?」
 シモンが間の抜けた声を出し、ダリアは目をしばたたかせる。
「ダリアちゃんの歓迎会とか、クラスで開かなかったでしょ?・・・だから今日は私達で歓迎会、ってことで」

 ああ、なるほど、そういうことか。朱美が普段話しかけたことも無いダリアに話しかけたのは、そういうことだったわけか。

「・・・・・・・・・・・・」
 その主役のダリアは、なんとなくそわそわと落ち着かない。

「・・・あ、その、迷惑、だったかな」
「・・・いや、別に・・・」

 ダリアも少し戸惑っているようだ。普段構ってやらない野良猫を撫でたときのリアクションに似てるかもしれない。

「あ、別にそんなしゃちほこばらなくてもいいよー。じゃあ私達の方から紹介するね。改めまして、私、松田朱美。ソフトボール部でピッチャーやってまーす」
「・・・藤谷碧です。弓道部と生徒会の委員長をしてます。よろしくお願いします・・・」
「・・・・・・ヨツカドイサオ。帰宅部」
「シモンは麻雀部でしょ?」
「あれが部活じゃない。立派なビジネスだ」
「・・・胸を張っていうことではありません・・・」

 脱線しかかるシモンと碧の会話に割り込み、朱美が話を戻す。

「で、で、ダリアちゃん、何か趣味って無いの?好きなCDとか、漫画とか」
「・・・・・・・・・・・・無い」
「あぁー。ええっと、そいじゃそいじゃ・・・特技とか」
「・・・・・・・・・・・・」

 ダリアは首をかしげている。
 まあ、考えてみればこれだけスラング交じりの日本語ペラペラならそれだけで十分に『特技』と言えるものかもしれないが・・・。

 朱美が話題を変えようと口を開いたその時、ダリアはぽつりと、
「・・・占い」
「え、そうなんだ、すごーい。ね、ね、私のこと、占ってよ!」

 朱美の言葉に、ダリアは小さく頷くと、かばんから手のひらに載るくらいの小さな水晶玉とビロードの布を取り出した。
「うわ、本格的・・・」

 ビロードの上に置かれた水晶玉には、その場にいる4人の顔が歪んで映っている。

「・・・・・・何を、占って欲しい?」
 三人を見まわしながらそう言うと、ダリアは微かに笑った。





「・・・んー・・・そしたら今日のテストの点数!」
「・・・何もそんな自虐的なことを・・・」
 碧の言葉にシモンも頷く。
「何よ何よ二人して!確かに今日の数学はちょっとアレだったけど、英語は少し頑張ったんだからね!」
「・・・・・・じゃあ、この水晶をじぃっと見て・・・そう、水晶の中のキラキラ光ってる部分をずぅっと・・・」

 ダリアに言われるがまま、朱美は照明を受けて輝く水晶玉の中を凝視する。


 ダリアはしばらく真剣にその水晶を見ていたが、おもむろに重々しく宣託を告げる。

「・・・56点」
「・・・えー、それって前のテストより低くなってるよぅ・・・どうせ占いなんだから、もう少し景気のいい点言ってくれればいいのに・・・」
 ほっぺたを膨らませて抗議する朱美の言葉に、ダリアは、
「・・・確かに、前より8点下がってるな」
「・・・え・・・」

 朱美の声と表情が固まる。

「・・・同じく数学は52点で前より10点アップ、生物が67点で前より2点アップ、国語が・・・」
「ちょ、ちょ、ちょ、タンマタンマ!なんでダリアちゃん、そんなこと分かるの?今回のテストはともかく何で前のテストの点・・・」
「・・・・・・水晶玉に浮かんできたから」
 さも当然といわんばかりにダリアは言った。

 朱美の表情を見る限り、ダリアの言っていることはあてずっぽうではないようだ。
「・・・朱美・・・もう少し頑張った方がいいですよ。このままだと卒業できないかもしれません・・・」
「それどころか留年だな」
 他の二人の冷静なコメントに、
「もー、ひどいよ二人とも〜。私ばっかり・・・。じゃあさ、今度は碧のこと、占ってみてよ」
「碧のテストの点数なんて占わなくたってどうせどれも90点以上に決まってる。そんなのつまらんぞ」
 シモンの突っ込みに朱美はちっちっと指を振りながら、
「もちろんテストの点数なんかじゃないわよ。そうね。碧の今後の恋愛の展望ってのは、どう?」
「ちょ、ちょっと、何でいきなりそんな・・・」
 慌てる碧。だが、ダリアは、ゆらり、ゆらりと水晶玉の手をかざして、
「・・・心得た・・・じゃあ、水晶玉を見てもらおうか・・・」
「・・・え・・・」
 躊躇する碧に、
「だめだめ、私ばっかりずるいんだから。はい、碧」
 と、碧の顔を朱美は押え込んで水晶玉を見つめさせる。
 最初は抵抗していたものの、やがて諦めたのか、
「・・・所詮占い、ですから・・・」
 と言い訳がましく言うと、その透き通る水晶玉に碧は視点をあわせる。
「・・・そう・・・この透き通った水晶を、もっとじぃーーーっと見て・・・そう・・・そのまま・・・もっと深く・・・水晶の奥の奥まで・・・・・・」

 ダリアの声は低く、静かだが、聞くものを魅き付ける不思議な力を秘めている。

 しばらく水晶玉を見つめていたダリアだったが、おもむろに水晶玉から碧に視線を向け、
「・・・1年前に部活の先輩と別れてから、彼氏がいないんだな」
「え・・・」
 碧が絶句して、思わず朱美を見る。
 朱美が慌てて、
「わ、私、言って無いよ!誰にも・・・って、ああああああ!」
 朱美がぱにくって頭を抱えている。ダリアの言ってることが当たってることを自白したようなものだ。
「・・・この水晶玉の前には隠し事などできないからな」
 ダリアはそう言うと、いたずらっぽい目で碧を見つめて、

「・・・じゃあこれからのことを占うぞ・・・さぁ・・・この水晶玉の中を、よーく見て・・・」
「・・・ってそんな・・・勝手に・・・・・・」

 口では抵抗していたが、自分の前の彼氏のことを見事言い当てられたため、警戒心より好奇心が勝ったのだろう。ダリアに言われるがまま、碧は水晶玉を見つめる。

 彼女の白い手がゆらゆらと揺れる。何か作法があるのだろうか。決して適当な動きではなく、独特な規則性とリズムを帯びたゆるやかな手の動きは、見ているものを思わず釣り込まれてしまう。
 そんな白い手の影が部屋の明かりとともに映り込み、水晶玉を見るとその中であたかも雪の精が乱舞しているかのように見える。 
 碧の顔から少しずつ緊張感が薄らぎ、さっきまで張っていた体の緊張も取れてきて、弛緩してきている。

「・・・これを見ていると、貴方の心もこの水晶と同じように澄みきってきます・・・・そう・・・心が落ち着いてきて・・・だんだん透き通ってきます・・・・・・心から濁りが取れて・・・・・・・透明・・・何の濁りもなく・・・余計なものが消えていきます・・・・・」

 普段のダリアのぶっきらぼうな言葉遣いは影を潜め、丁寧で耳当たりのいい言葉が、何かの詩篇を歌うかのようにダリアの口から紡がれていく。その言葉に耳を傾けたまま、碧は虚ろな表情でその水晶の中で踊るダリアの白い指を見つめている。決してクラスでは見せることの無い、無防備な彼女の表情に、シモンはごくりと唾を飲み込む。

「・・・そう、もっと奥まで見て・・・この水晶は貴方の心・・・・・・貴方の心はこの水晶・・・はい、もう目が離せない・・・離したくない・・・・・・・いつまでもいつまでも・・・この水晶玉を見つめていたい・・・見つめているだけで、貴方の心は幸せになってくる・・・」

 碧だけでなく、朱美もいつの間にか碧の顔を押さえることを忘れ、その水晶玉を見つめている。その表情は、碧と同じく虚ろだ。

「・・・さぁ、この水晶玉に手を伸ばしてみましょう。この水晶に触れると、貴方の心が全部この水晶に移ってしまいます・・・。でもそれは怖くありません・・・だって・・・この水晶玉は貴方の心なんだから・・・もともとあるべき場所に戻るだけです・・・当たり前のことです・・・」
「え・・・・・・」
 わずかな碧の抵抗。だが、
「・・・さわらないと・・・占いできませんよ・・・占ってほしいんでしょ?」
 ダリアの視線が彼女の目を射抜くと、
「・・・はい・・・」
 碧は人形のように頷いた。

 彼女の手がぴく、と動くと、緩慢にテーブルからその手が離れる。その右手はゆっくりと水晶玉に正に触れようとしたとき、
「・・・み、碧・・・」
 シモンが思わず声を出す。一瞬、彼女の表情にわずかに意志の光が戻りかけるが、その手をダリアは掴むと水晶に触れさせ、畳み込むように、
「はい!貴方の心はすぅーーーーーーーっとこっちの水晶に移ります・・・そう・・・移る・・・移る・・・もう貴方の心は貴方の身体にはありません・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この水晶玉の中に入ってしまいました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その証拠に・・・ほら・・・この水晶玉に貴方の顔が映ってるでしょう?」
 ダリアが水晶玉を捧げもち、碧の前に突きつけると、碧と、そして朱美は光を喪った瞳でその水晶玉を見つめ、こくんと頷く。

「では、二人とも眠りましょう。私が手を叩くとすぅっと意識が遠のいて、瞼が自然に閉じます・・・いち、にの・・・さん!」

 ダリアが手を叩くと、碧と朱美はそのまま目を閉じ、すっかり脱力してシートの背もたれによりかかり、すぅすぅ寝息を立て始めた。


 事態のあまりの急展開に、シモンは水をがぶっと一口飲んでカラカラになった喉を潤すと、しゃがれた声で、
「・・・・・・おい、ダリア。これは占いじゃなくて催眠術だろ」
「ほほう、よく知ってるな」
 ダリアはいたずらっぽく笑う。
「わかるさ。よくテレビかなんかでやってるやつだろ」
「・・・まあな。特技、と聞かれたから、実演したまでだ」

 シモンは眠りについた二人と水晶玉を見比べながら、しばらく考え込んだ後、

「・・・・・・なるほど、それなら合点もいくさ」
「・・・何の話だ?」
「占いだよ。朱美のテストの点数も然り、碧の彼氏の話も然り・・・。占いが当たってるようにみえるけど、どっちも過去の話だ。過去の事実を占いで当てるのは難しい話じゃない。その事実を何かしらの方法で掴んでればいいだけの話だ。過去の事実を言い当てて相手を信用させるのは占い師の常道、・・・そして相手の信用を得るのは催眠の常道だからな」
「ほほう・・・」

 ダリアが興味深そうな表情をする。

「・・・お前、前に朱美に催眠をかけたことがあるんじゃないか?それで朱美のテストの点数と、碧の彼氏の話を聞き出していた・・・。だとすれば、朱美のテストの点数も、碧が朱美にしか話していないはずの彼氏の話をお前が知ってることも、そしてお前に教えたことを朱美が覚えていないことも、筋が通る」
 ダリアは顔をほころばせる。あたかもできの悪い生徒を褒める教師のようだ。
「・・・くっくっく、思ったほど馬鹿じゃないな。シモン。なかなかいい読みだ。完璧ではないが、まあ及第点はやろう」
 褒めるともけなすともつかない言葉で論評しつつ、ダリアは氷が融けて薄まったジュースを飲む。
「朱美は前から私にいろいろと世話を焼いてきたからな。ついついいたずら半分で催眠にかけてこの学校のことをいろいろ聞いたことがある。それだけだ」
 悪びれもせずダリアは答えた。

 シモンは改めて二人を見つつ、
「二人とも本当に催眠にかかってるのか?」
「信用できないか?」
「いや。初めてナマで催眠を見るから・・・」
 シモンが碧と朱美をちらちら見ていると、ダリアはにやっと笑って、
「碧、朱美。よく聴くんだ・・・。今から私が手を叩くと、お前たちは目が開く。そして目が開くと、碧、朱美、お前ら二人は、シモンしか見えなくなる・・・そしてシモンにキスをしたくてたまらなくなる・・・」
「お、おい、ダリア・・・!」
「いち、にの・・・さん!!」
 ダリアがパァンと手を叩くと、朱美と碧は目をぱちん、と開く。
「あ・・・あれ・・・」
「・・・ここは・・・」
 二人はしばし目を瞬かせていたが、やがて、シモンをその視界に捉えると、その目にさっと霞がかかったような状態になる。二人の瞳は瞬く間に潤み、ゆらり、とシモンににじり寄る。
「お、おい、ちょ、ちょ・・・」
 慌てて逃げようにも、碧と朱美に挟まれたシモンには、逃げ場が無い。
「・・・シモン・・・」
「・・・・・・キス・・・」
 まず朱美がシモンの頬に唇を寄せ、顔を離そうとするシモンの唇を碧の唇が塞ぐ。その唇はケーキのクリームの味がした。
「ん・・・」
「・・・ちゅ・・・」
「・・・ぷはぁ・・・」
 二人の柔らかい身体に挟まれ、身体と頭を抱きしめられ、二人の唇がシモンの顔中に押し当てられる。虚ろな瞳をした二人は、うわごとのようにシモンにキスを求め、唇を奪い合う。碧の大きな胸がシモンの身体に押し当てられ、朱美のしなやかな腕がシモンの首筋に絡みつく。
 堪えきれず、思わずシモンが二人を抱きしめようとしたその時、ダリアがパチンと手をたたき、
「はい!二人とも眠る!・・・もう身体は動かない・・・すぅ・・・っと眠くなる・・・瞼が落ちる・・・そのまま眠ってしまう・・・」
 その途端、朱美と碧の体から力が抜け、そのままシモンにしなだれかかるように倒れこみ、すやすやと眠りこんでしまった。

「・・・・・・」
 呆然とするシモンにダリアは、
「唇、よだれが垂れてるぞ」
 
 ダリアはくすっと笑った。





 シモンは服を整え、ダリアは二人をもとの席に戻して唇を綺麗に拭いた後、ダリアは出し抜けに、
「・・・さて、シモン。この二人をどうする?」
「は?」
「二人とも完全に催眠にかかってる。今から何が起きても、何も分からないくらい深い催眠に、な」
「・・・・・・」
「それにしても、二人ともなかなかの美人だな。せっかくだ。何ならもう少し遊ばせてやってもいいぞ?」

 二人の虚ろな瞳、そしてダリアに言われるがままに眠りにつき、自分にキスを求めてきた様が思い起こされる。下半身に血流が流れ込み、思わず勃ちそうになるのを自覚しつつ、

「あのな、いくらなんでも犯罪だぞそれは。そんなことできるか!」
「見かけによらず意外にモラリストだな」
 目を丸くして驚くダリア。
「当たり前だ!腐っても漢シモン、女を口説くときは正々堂々と口説いてみせる!」
 歌舞伎の役者張りに見栄をきったものの、ダリアは冷ややかに、
「・・・そう言い続けて彼女居ない歴=年齢というわけだ。悲しい奴だな。・・・まあそれも一つの生き方だ。好きにするがいい」
 シモンはぐうの音もでなかった。





「ありがとうございましたー」
 にこやかな店員の声に見送られ、一行は店を出る。

「あー美味しかった♪」
「・・・良かったです・・・」
「ダリアちゃん、どうだった?」
「うまかった・・・」
「よかったー。ダリアちゃんの話もいろいろきけたし、仲良くなれたし。たまにはこういうのもいいよね」
「・・・・・・・・・・」
「・・・あれ、シモン、顔赤いよ?風邪引いてるの?」
 朱美がシモンの顔を覗き込む。あまりに無防備な彼女の唇が目の前に来る。 
 シモンはずざざざざ、っと後ろに後ずさり、
「なんでもない、なんでもないから。あはははは・・・」
「・・・若いな・・・」
 ダリアの小さな呟きが、シモンの耳に届いた。



 やがて三人と別れ、シモンは一人駅に向かう。

 ・・・ダリアの言うとおりだった。
 占いから後のことを忘れるように暗示をかけられた二人は、本当に催眠に掛かってる間のことは何一つ覚えていなかった。

 ・・・く・・・やせ我慢せずにダリアの誘惑にのってもう少し楽しんでおけばよかっただろうか・・・。

「・・・もう、あんな経験二度とできないんだろうなあ・・・」

 朱美と碧の唇と体の柔らかさを思い起こしたせいで再び元気になった我が息子がズボンを圧迫するのを感じつつ、シモンは心持ち前かがみになりながら、とぼとぼと家路に着いた。










 それから平凡な日々が何日か過ぎた、あくる日。課業が終わった頃。

「シモン、どこにいくの?」
 朱美の言葉にシモンは手を振りながら、
「いや、ちょっとどうしても抜けられない用事があるんだ」
「って、例の幼稚園との交流会の出し物決め、放課後にやるんだよ?」
「他の連中だって部活があるやつは抜けていいんだろ?俺だっていいじゃないか」
「あんたは帰宅部でしょうが!」
「あ、松田、お前帰宅部を差別するのか?自分は由緒正しいソフトボール部だからって帰宅部を差別するのか?許しがたいぞ?」
「ねぇ、碧〜、この口から産まれた屁理屈野郎に何かいってやってよ〜」
 朱美の言葉に碧は、予想外に寛容で、
「・・・貴方の一票、誰かに託すならOKです。部活で抜けたほかの人にも、そうしてもらってます」
 と、いつの間に用意したのか『委任状』と書かれた紙を碧はシモンに手渡す。
「お、意外に理解が早いな、委員長。じゃあ、誰にしようかな・・・」
 と、その紙にサインをしたシモンが顔を上げると、ぬっと白く小さい手が突き出されている。

「・・・なんだ?ダリア」
「私が預かろう」
「・・・」
「不服か?」
「・・・・・・・・何か凄く激しくとてつもなく嫌な予感がするのだが・・・」
「気のせいだ」
 いや、絶対そんなことは無い。彼の第一感から第六感まで全てが危険を告げている。
「・・・いやいや、やっぱりこれはもっと信頼の置ける人間に・・・」
 ダリアはぼそっと、シモンにだけ聞こえるように小声で、
「・・・・・・この前のケーキ屋の件、みんなに話してもいいのかな?」
「・・・!」
 シモンは黙って彼女に委任状を渡す。
「大丈夫、大事に使ってやる」
 ダリアはにやっと笑う。
 しかし、シモンにとっては実印を悪徳金融に預けた気分である。一抹どころか山盛りの不安を感じながらも、時間がないシモンは、慌てて聖戦の舞台である男子更衣室に向かった。




 かぁ〜。

 夕暮れ時。カラスが鳴き、西日が差す屋上にはぬるい風が吹く。
「・・・今日はついてなかった・・・」
 今日はこの前とはうって変わってシモンはぼろぼろに負けてしまった。最近の勝負で浮いていた稼ぎを全てすっからかんにするくらいに。
 というわけで、傷心のシモンはいつものように屋上に来ているのだった。

 シモンが寝転がったままぼんやりしていると、突然目の前に黒い影が現れた。
「ぐぉ、赤鬼」
「・・・あんた、これでひっぱたくわよ?」
「・・・いや、それは勘弁してください」
 ぬっと出てきたのは朱美だ。部活帰りなのか、ソフトボール部の赤を基調にした運動着姿だ。白い太腿がむき出しになってるのが妙にまぶしいが、何よりも目を引くのはその右手に輝く金属バット。
 鬼に金棒、という言葉を飲み込み、シモンは、
「なんでここに居るって分かったんだよ」
「ダリアちゃんがどうせ屋上にいるからって。良く知ってるわね。あの子、あんたのこと」
「・・・・・・」
「まあ、そんなことはどうでもいいわ。はい、台本。ちゃんと台詞覚えてくるのよ?」
 朱美はそう言って、もう片方の手に持っていたホチ止めのコピー束を渡す。
「台詞?」
「結局劇に決まったのよ。で、もう時間が無いんで配役から小道具まで、みんな役割決めちゃったってわけ。・・・何よその顔。学級会エスケープしておいて、いまさら何か文句あるわけ?」
「いや、文句は別に無いが・・・」
 どうせ自分は大方大道具あたりだろう。なんの台詞があるというのだ?
 シモンはぺらぺらと台本の後ろからページをめくる。クラスの連中の役回りは主役から雑用までそっちに載っているはずだ。
 大道具、小道具、照明・・・しかし、そうした裏方リストに自分の名前は無い。
「そこじゃないよ。もっと前」
「前?」
 朱美の指示に従って、後ろからさかのぼっていく。
 通行人。やられ役の自衛官。逃げ惑う少女A。雑魚A、雑魚B、立ち木A、ナレーター・・・しかしそこにも自分の名前は無い。
「もー。一番前のページだって」
「なぬ?」
 シモンが配役表の最初のページにたどりつくと、そこにはこう書いてあった。















キャスト

カーネリア 松田 朱美
ルピア   藤谷 碧
ローズ   清水先生


サファイア 青木 遼子
ベリル   石塚先生


ダリア   ダリア ペトロフスカ
シモン   四門 勇雄







「なんだこりゃ?」
 シモンの素っ頓狂な声を受けて、朱美が意地悪そうに笑う。
「だから、今度の幼稚園との交流会でやる劇の台本よ。前にいったでしょ、今日の学級会で決めるって。よかったわねー、晴れて準主役クラスよ?」
「・・・・・・」
 シモンがあわてて表紙を見ると、そこには大きなゴシック体で、こう書かれていた。


















【部外秘】
幼稚園交流会用台本

『魔法戦士 ヴァルキリー〜悪のネメシスの野望を打ち砕け!』






















※1 積み込み・・・各人に配られる牌の山の中に特定の牌を仕込んでおいて、自分の初期配牌を良くしたり、意図的な牌をドラ(もっているだけで点数が増える牌のこと)にしたりすること。むろん、イカサマ。
※2 流し満貫・・・一、九、字牌だけしか捨てずにいて、誰もその局(ゲームの単位)にあがれない場合に成立するあがり役。実戦ではあまりお目にかからないし、狙うほどのものでもない。

 
 


 

 

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