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永遠の世界の傍観者



「君は、永遠の世界に行ってみたいと思うかい?」


 それが、彼の口癖だった。


 街の外れにある、小さな図書館。
 階段をのぼって、さらにその先へ進んだ場所に、彼はいつもいた。
 大きな窓は晴れの日だけ開かれていて、風がクリーム色のカーテンを揺らす。
 今日は、晴れだった。


「…千歳 (ちとせ)。」


 名を呼ぶと、彼は顔を上げる。
 ふわり、風に弄ばれたのは雪で染めたような白い髪。
 日射しに透けて、透明に見えるほど色素の薄い色。


「やあ、刻。今日は久しぶりに晴れたね。窓を開けるのも久しぶりだ。」


 アメジスト色の瞳を細めて、千歳は呟いた。
 穏やかな声。
 俺は千歳が激しく感情を揺らしたところを見たことがない。


「ああ。今は梅雨の季節だからな。雨が続くのも仕方がない。」


 千歳の言葉に相槌を打ちながら、俺は彼の隣に腰を下ろした。


「君は、梅雨が嫌いなのかい?」


「いや…嫌いでもないが、好きでもない。空を覆う雲は、どうしても気分を重くするからな。」


 暗い灰色の雲が、空を覆うことの多いこの時期。
 雨が嫌いというわけではないが、やはり雨ばかりが続くこの時期は、好きになれない。
 しとしとと降り続ける雨を見ていると、何とも言えない憂鬱な気分になるのだ。


「…そうだね。僕も梅雨はあまり好きではないかもしれない。」


 不意に千歳が呟く。
 小さな独り言のような言葉。


「雨雲は【変わらないもの】と【変わってゆくもの】を引き離してしまうからね。」


 千歳の言葉は時に意味深だった。
 俺には理解出来ない言いまわしをよくした。
 そういう時、決まって千歳は遠い眼差しをする。
 ここではない、どこか遠くを見ているような瞳。
 ー 鳥籠に囚われた鳥。
 なぜか、そんな風景が目に浮かんだ。


 千歳と自分の関係が何なのか。
 そう聞かれても、俺は答えることが出来ないだろう。
 なぜなら俺自身、自分たちの関係が何なのか分かっていないからだ。


 俺が初めて千歳に会ったのは、二ヶ月ほど前のこと。
 薄紅色の桜の花が散り始めた、四月の上旬のことだった。
 もともと俺はひどく怠惰な性格で、休みの日に出かけることなどほとんどない。
 でも、その日は理由もなく散歩に出た。街の中をぶらぶらと歩き、いつの間にか街外れまで来てしまって。
 帰ろうと踵を返しかけた時、俺は千歳を見つけた。


 レンガ造りの建物の二階。
 大きく開かれた窓辺に純白の髪の男が見えたのだ。
 初めは老人かと思った。
 白い髪から白髪の老人を連想するのは無理もないはずだ。
 白い髪=白髪=老人という方式がこの世には根付いてしまっているのだから。
 しかしよく見ればその人物はかなり若かった。
 首元が大きく開いたVネックのセーターを着ていて、窓枠に肘をつきながら片手に持った本を読んでいる。
 美しい、と思った。
 芸能人のかっこいいとか綺麗とは次元が違う。
 思わず息を呑むような美しさ。
 俺が呆然とその男を見上げていた時、不意に強い風が吹いて彼が視線を上げた。


「…っ」


 アメジストの宝石を埋め込んだような瞳。
 珍しい色なのに、彼の美しい容姿にはこれ以外ない、といえるほど似合っていた。
 それからのことはあまり覚えていない。
 俺はいつの間にか小さな図書館へ足を踏み入れていて、窓辺に座る彼を今度は室内から見つめていた。


「…珍しいな。この図書館に人が訪れるなんて。」


 透明な薄紫色の瞳に俺が映っている。
 突然訪れたにも関わらず、彼は驚いた様子もなく言葉を紡いだ。
 まるで俺が来ることを知っていたかのように。


「俺、早世刻。あんたは?…」




「…き…刻?」


「…っ。あ、何だ?」


 千歳に名を呼ばれて、我に返る。


「どうしたんだい?ぼんやりとしていたようだけれど。」


 問いかけられて、俺は小さく笑った。


「思い出してた…千歳と初めて会った時のこと。」


 言ってから気恥ずかしさが自分を襲った。
 熱を感じる頬に気づかれないよう顔を背ける。
 ふふ、と千歳が笑う声がした。


「…そうだね。僕らが出会ってからもう二ヶ月も経つのか。」


 声色はいつもと同じように笑みを含んでいるのに、どこか淋しげで。
 胸の奥がざわめいた。


「千歳?」


 彼の方に視線を向けて、思わず名を呼ぶ。
 純白の髪が夕陽に透けて、淡く染まっていた。
 長い睫毛が影を落とすアメジストの瞳に、色が混ざり合って不思議な色に変わっている。
 もともと線の細い身体は、さらに儚く見えた。
 そう…今にも消えてしまいそうなほど。


「…っ」


 嫌な予感が頭を過る。
 嫌だ…まさか、そんなわけ…。


「ねえ、刻。」


 気づきたくなかった。


「僕と君は、関わりすぎてしまったのかな。」


 俺の心情をお構いなしに、千歳は穏やかな声で語る。


「…刻。もうここへ、来ては駄目だよ。」


 静かに別れを、彼は告げた。


「…こんなに人との別れは、辛かったのかな。
 何度も何度も繰り返して、感情はもう麻痺してしまったと思っていたのに。」


 千歳の頬には一筋の涙。
 彼の声は震えていた。
 初めて見た、千歳の感情の揺らぎ。
 それを喜ぶ余裕なんてなかった。


「離れたく、ないなあ…」


 ぽつりと、呟かれた言葉に俺も涙を零す。


「でも君は、時の支配するあちらへ帰らなくてはいけないね。
 これ以上、ここにいたら帰れなくなってしまうから。」


 彼に出会って、一週間が経った頃。
 俺は彼の【秘密】を知った。
 それは世界の常識を超えた内容で、すぐには理解出来なかったけれど。


「手に入ってしまえば、それは案外つまらないものだったりするんだよ。」


 住む世界が違うなんてことは、はじめから分かっていた。
 ずっと一緒にいられないことも理解していたはずなのに。


「…僕は、【傍観者】だからね。君と共には生きられない。」


 そう、彼は【傍観者】だった。
 この世界を、見守る者。
 永遠の時間を手に入れる代わりに、存在自体をこの世界から消される。
 孤独な世界の観察者。
 この図書館には【時】が存在しない。
 時間の狭間にこの図書館は存在しているのだ。
 俺があの日、千歳を見つけられたのは彼がそう仕向けたから。
 だから千歳は俺が図書館に足を踏み入れることを知っていたのだ。


「…もう俺は、染まりかけているのか?」


 震える声で千歳に言う。
【傍観者】は孤独であると決まっている。
 永遠を手に入れるのだから。
 それなりの代償が必要なのだそうだ。
 そんな時の止まった図書館に足を踏み入れた俺は、異質な存在。
 この世界に入り浸ると、その存在は染まり始める。
 この世界に相応しいよう、新たな【傍観者】へと。
 つまり帰れなくなるのだ。
 元の世界からは存在を消される。
 始めから【俺】という存在などなかったかのように。
 証拠一つ残さず消されるのだと、千歳は語った。


「そうだね、もうかなり危ないよ…。」


 …君にはそんな風になって欲しくない。


 千歳は前にそう言った。


 ふわり、風が俺たちの間を吹き抜ける。
 千歳の白が舞い上がる。
 揺れて、揺れて。
 滲んで行くのは、鮮やかな白。
 目に焼き付けた。
 無駄なこととは知りながら。
 これはきっと人間のサガなのだろう。
 仕方ない、と諦めるなんて出来ない。


 ぐるぐるとよく分からない感情が俺を襲っていた。
 泣きたいような、笑いたいような。
 苦しいけど、幸せな。
 言葉にならない想い。


「…だから、さよならだ。」


 千歳がいつの間にか俺の前に立っていた。
 窓辺から離れたところなんて見たことなかったのに。
 手を伸ばして、千歳は俺に触れて。
 頬を冷たい指が滑る。
 外の夕陽はもう沈みかけていて、微かな光が俺たちを照らした。


「刻、ありがとう。僕はとても幸せだった。」


 そっと、千歳は微笑んだ。
 アメジストが俺だけを映して揺れる。
 俺もだ、と紡ごうとした言葉はもう声にならなかった。
 僅かな光が闇に塗り潰されていく。
 千歳の姿もだんだんと薄れて、最後の光と共に。


 ー…彼は、溶けて消えた。


 目を開けると、そこは街外れだった。
 黄昏時は終わりを迎え、夜が空を支配し始めていく。
 俺は戻って来たのだと、実感した。
 視線の先にレンガ造りの図書館は存在していない。
 始めからそんなものは存在していなかったのだというように、そこは何もない空き地だった。
 長い長い、夢を見ていた気分。
 全ては夢だったのではないかと思いそうになるほど、千歳の記憶はぼんやりとしている。


 ー…帰ったら君は、僕のことを覚えていられないよ。


 不意に千歳の言葉が蘇った。


 ー…僕は存在しない者だからね。だんだんと君は僕のことを忘れてしまうんだ。


 心が空っぽになってしまいそうな喪失感だった。


 ー…たとえ君が、忘れることを望まなくても。
 ー…仕方がないよ。それが、僕の望んだものの代償なのだから。


 千歳はもともと人間だった。
 俺と同じようにある日【傍観者】と出会った。
 違うのは結末だけ。
 千歳は染まりきってしまったのだ。
 向こうの世界に。
 気づいた時には遅かった。
 永遠の時間から【傍観者】が逃げられる方法はたった一つ。


『傍観者の素質がある人間を代わりにすること』


 千歳の出会った【傍観者】は永遠の時間から抜け出したかった。
 だから、千歳を世界に迷い込ませて代わりにした。
 そして千歳は戻れなくなった。
 元の世界に。
 永遠の世界に、染まりきってしまったから。


「でもその人を恨んではないよ。確かに彼は僕を代わりにしたけれど、僕もそうなることを望んでいたからね。」


 逃げたかったんだ、と千歳は言った。
 止まらない時の中をがむしゃらに生きていかなければいけないことが、堪らなく恐ろしかったのだ、と。


「後悔はしてないよ。でもね、この選択があっていたとも思わない。」


 千歳は笑った。


 ー…だから君は、時間がきたら帰るんだ。
 ー…僕は君に、【傍観者】にはなって欲しくない。


 千歳は俺に真実を告げないことも出来た。
 何も言わずに染まらせて、永遠の時間から逃げることも出来たのだ。
 でも千歳はそれをしなかった。
 彼はきっと、永遠の時間から抜け出したいと思っている。
 だけど、彼はそれをしないだろう。
 それをすることは、誰かが代わりになることを意味するから。


 千歳は優しすぎた。
 永遠の孤独を知って、誰にもそれを味わって欲しくないと願ってしまった。
 彼はこれからも誰かをあの世界に迷い込ませて、染まりきってしまう前に帰らせるのだろう。
 代わりには出来ないから。
 でも独りは淋しいから。
 刹那の幸せを求めて、何度も何度も。


 ー…永遠に。




 俺は静かに歩き出した。
 一歩前進むたびに薄れて行く千歳の姿に怯えながら。
 それでも、歩いた。
 彼が望んだことだから。
 つまらない、この世界で。
 何もする気が起きない、この世界で。
 もう少しだけ生きてみようかと、そう思って。


「君は、永遠の世界へ行ってみたいと思うかい?」


 ー…耳の奥に、いつか聞いたような気のする、誰かの声が響いた気がした。


 


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