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Ⅰ.最初は死んでいるのかと思いました
「……」
木の葉を通して太陽の輝きが見える。
光の角度からして、既に日は中天に昇っているようだった。
――天国って、あんまり地上と代わり映えしないんだな。
ふわふわとした雲の上を想像していただけに、少しばかり残念に思った。
ここで寝ていても仕方ない。ともかく移動しようと身を起こした瞬間、強烈な眩暈に目の前が真っ白になる。
――あ、あれ……?
失血死したせいで死後まで貧血気味なんだろうか。それにしては、随分感覚がリアルな気がする。
落ち着いて身の回りを見渡してみる。
下半身には誰かが掛けたと思われる使い古されたシーツ。
目前には焚き火の跡。
焚き火を挟んだ向かいには火を焚いた主のものと思われる荷物。
さらに奥には暗く生い茂った森。
「……ん?」
ひょっとして昨日の夜と同じ場所? ということは
「……生きてる……?」
いや、それはおかしい。あの時点で、もうおれは血を流しすぎていた。たとえあの後手当を受けたとしてももう手遅れだったはずだ。
――傷、そうだおれの右腕……!
目線を右肩に落とす。
昨日の朝までは当たり前のようにあったその場所に――やはり、腕は存在していなかった。しかし、薄汚れた布で乱暴に括ってあったはずの腕は、今は清潔な包帯で適切な止血処理を施されていた。
――誰が、こんな……
そう考えた瞬間、昨夜意識が落ちる寸前の出来事を思い出した。
こちらの顔を覗き込み、我が事のように痛切な表情を浮かべた彼女の事を。
――あの人……! そうだ、幻じゃなかったんだ!
どうやって助かったかはこの際置いておいて、まず、あの人にお礼を言わないと。荷物がここにあるんだから、いずれは戻ってくるはずだ。
『またあの人に会える』という若干の下心を持ちつつ、逸る気持ちを抑えて彼女の帰りを待った。
けれど、気持ちが落ち着くにつれ、徐々に現実的な思考が脳内を占めるようになっていく。すなわち、
――会って、お礼を言って。……その後、どうする?
もう昨日の時点でおれは死んだものと思っていたから、いざこの先の事を考えると頭の中が空っぽになってしまう。今のおれは目的意識というものがぽっかり抜け落ちた状態だった。
自分の目的が無いのであれば、せめて他人の為になる事をすべきか。そんな事を考えたとき、不意に家にいる弟たちの事が頭を過ぎった。
――そうだ、弟たちの面倒を見ないといけない。どうして今になるまで忘れていたんだろう。もう昼じゃないか。あいつらはおれがいなくてもちゃんと食事を摂れただろうか。
そう考えると、途端に焦りが生じてきた。
――ああ、すっぽかしてしまった事が沢山ある。怪我が治ったのなら早く戻らないと。親父からの説教で更に作業が遅れてしまう。でも、ここはどこだろう。これじゃあ帰り道が分からない。あの女の人ならこの辺りの地理にも明るいだろうか。早く戻って来て欲しい。あ、でも戻ったとしても片腕じゃ鍬が握れないな。今日は馬鈴薯を植える前の地均しがあるってのに、これじゃ農作業もままならない。それどころか、とんだ足手まといじゃないのか? おれって。おれの作業が出来ないのなら、誰が作業するんだ? あれ、前おれがいなかった時は誰が作業してたんだっけ。ああ、そうだ姉さんだ。姉さんがおれの分まで頑張ってくれていた。でも姉さんは今はもういないから、おれがやらないと。おれが頑張らないといけないのに。早く、早く帰らなきゃ。どうしよう。早く行かないとおれの次は弟が、おとうとが、ああ、あああ「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
……考え……るな……! ……考えるな……!!」
必死にその後に続く言葉を脳から追い出そうと、頭皮から血が噴き出す勢いで頭を掻き毟った。そうでもしないと、心が、潰れそうだった。
捨てられた道具が戻れる道理は無い。どんなに嘆いたってこの片腕では弟たちの助けになってやれない。だったら――おれはこの先どうやって生きていけばいい?
先の見えない絶望に視野が狭くなっていたおれは、すぐ後ろから人が近づいていることさえ気付けなくなっていた。だから、背後から掛けられた声にも咄嗟に反応する事が出来なかった。
「起きたか」
「え、えっ、……え?」
……聞き覚えの無い声だ。彼女のものじゃない。それ以前に、聞き返すまでもなく男の声だった。
声の主を確かめようと特に考えも無く後ろを振り向いたおれは――その姿にしばし絶句する羽目になった。
その男は2メートル近くあろうかという大柄な体格で、その身の丈に合った無骨な鎧を身に纏っていた。年の頃は30代中頃だろうか、無精ひげを生やしたいかつい顔立ちは、一睨みしただけで周囲を震え上がらせるような威圧感を放っていた。
ただ、それだけの特徴なら「ちょっと怖そうなオッサン」で済む話だ。しかし、それだけでは済まされない致命的な特徴がこの男にはあった。――髪だ。
よりにもよってその男はその風体と壊滅的に断絶した『真っピンク』な髪色の持ち主だったのだ。
しかも本人も気に入っているのか腰まで伸ばした挙句、一本の三つ編みに纏め結び目にリボンまで施している。はっきり言って狂気の沙汰としか思えなかった。やたら手入れが行き届いているのがまたその混沌さに拍車を掛けている。
圧倒的な違和感の塊を前にして、先程まで抱え込んでいた苦悩はここで良くも悪くも綺麗さっぱり吹き飛んでしまった。
振り返ったままの姿勢で固まったおれを一瞥すると、そのピンク髪のオッサンは特に何も言わずに荷物のあった位置――すなわちおれの向かいへと移動した。
目の前から彼が移動してやっと我に返ったおれは、慌てて焚き火跡の方へ向き直る。オッサンは何をしているかというと、手に抱えていた木の枝を脇に置き、それらを中央で組み上げて焚き火の準備を行っている。おれの視線に気づいたのか、オッサンは鞄を漁るとおれに何かを投げて寄越した。
「焼き上がるまでそれでも齧ってろ」
放り投げられたそれを受取ろうとして、右腕が無い事を思い出し「はっ」とする。
「とと、と、とっ」
左手にぶつかったそれは、幸い地面に落ちる事無く足に掛かったシーツの上に載った。見ると、鹿の干し肉だった。
「え、え――?」
まだ状況が掴めないおれを置き去りにして、オッサンは黙々と作業を続けている。仕方が無いので貰った干し肉を左手で掴み、おっかなびっくり感謝の言葉を述べた。
「あ、ありがとう……ございます」
オッサンはそんなおれをちらりと見た後、再び作業に没頭する。
本当に食べていいんだろうか。投げる物を間違ってやしないだろうか。オッサンと手の中の干し肉を何度も見比べるが、オッサンはそれ以上何も言ってこないし、取り返そうともしてこない。
――食べて、いいんだ。
それならば、せっかくの施し物を無碍には出来ない。おれは言われた通り干し肉を口に含むと、その身に思い切り歯を立てた。
「……固った……っ」
……ちょっとこれは噛み切れそうにない。作戦変更、肉が柔らかくなるまでしゃぶることにする。
これを口にするまで気付かなかったが、どうやらおれは大分腹が減っていたらしい。唾液が口の中からどんどん溢れ出してくる。もごもごと口の中で肉を動かすうち、舌の上に肉の旨みがじわりと広がっていくのを感じた。
――美味い。
思わず頬が弛む。肉を食べるなんてどのくらい振りだろう。こんなにも美味しいものだったろうかと感動すら覚える。
おれが干し肉の味に夢中になっている傍ら、オッサンは狩ってきたらしい兎の皮を手慣れた手つきで剥ぎ、解体した肉を枝に刺して薪の周りに配置していく。そして既に組み上げた薪の前に手をかざすと、何やらボソボソと呟き始めた。
「Func Molecular_Exercise TYPE_WOOD, 800, 500. GO.」
何かのお祈りだろうか。それにしては随分無機質な印象を受ける文言だと感じた次の瞬間、またも自分の目を疑う出来事が目の前で起こった。
組み上げられた薪が火種も伴わずに「全て」「一斉に」「発火」したのだ。
「んぐっ!?」
口に入れた干し肉を思わず吐き出しそうになり、慌てて飲み込む。くそ、もう少し味わっていたかったのに。
げほ、げほと何度か咳込んだ後、おれはさらりととんでもない事をやってのけたオッサンに食って掛かった。
「い、今のなに!?」
オッサンは「ん」とおれに目線を合わせると
「……ああ、坊主、『魔法』を見るのは初めてなのか」
と口にした。
「魔法――」
噂には聞いていたが、実際目にするのはこれが初めての事だった。
いわく、王都には人の身に不可能な奇跡を可能とする『魔法使い』がいるのだと。それを聞いた当時のおれは自分と縁遠い地域の話に実感が湧かず、その話も与太話程度にしか捉えていなかったのだが。
「本当に――あったんだ。おとぎ話だと思ってた」
しばしその奇跡の業の証である焚き火を眺めていた……のだが。ここに至るまで、おれはろくにオッサンと意思疎通を行っていない事に今更ながら気付いた。
「あ、あのっ!」
腕組みをして肉の焼け具合を見ていたオッサンが顔を上げる。それにしても、強面といいその珍妙な髪と言い、改めて見てもすごいインパクトだ。色んな意味で声を掛け辛い。
「助けてくれたのはおっさ……じゃなくて、アンタなの?」
何故か「オッサン」と呼んではいけないような気がして咄嗟に言い繕う。
「そうだが。不服か?」
「い、いやそんな事ないよ!! ……ありがとう。おれ、アンタに助けて貰わなかったらもう死んでただろうから」
「不服か」と問われ、一瞬返答に迷った。果たして助かった事が幸運と言えるのか、今の自分には答えが出せなかったから。
「あのさ。アンタの連れに10代くらいの女の人いなかった? おれ、昨日の夜にその人と会ったんだ。……結局話す前に気を失っちゃったんだけど」
よくよく考えれば昨日会った彼女もピンク髪だった。それを鑑みれば、目の前の男が血縁関係にあると考える方が自然だ。
ところが、オッサンの答えは自分の考えを真っ向から否定するものだった。
「いや、俺は独り身だ。連れ添う者もいない」
「え……」
――それでは、昨日会った女の人は誰だったのか。
「じ、じゃあ、女の人に会わなかった? 昨日おれを初めて見つけてくれたのもその人なんだ。その人が、アンタに知らせてくれたんじゃないの?」
縋るように問いかけるおれに対し、
「知らんな。俺はたまたま今日の寝床を捜していた時にお前を見つけただけだ。逆に聞くが、こんな山奥に何故女がいるなんて思うんだ? お前は」
とあくまで現実的な意見をオッサンは述べる。
「そ、そうだよな……」
もっともな意見だ。そう言われれば昨日の光景は出来すぎている。死に際の自分の前に現れる光を帯びた美少女、なんて、おとぎ話じゃあるまいし都合が良すぎる。せいぜい運が良くてオッサンが関の山だ。
しかしそう考えると、
――オッサンを美少女に脳内変換してたのか、おれ……
と自分の都合の良い脳味噌に頭を抱えたくなる。それもこれもあんな髪型をしているオッサンが悪い、とおれは責任をオッサンに丸投げすることで溜飲を下げた。
会話が途切れ、火の爆ぜるパチパチとした音だけがそこに残る。もう随分焼き色の付いた兎肉からは香ばしい香りが立ち上ってきた。
――美味そう……
再び口の中に唾液が溢れる。食い入るように肉を見ていたおれを見てか、オッサンもそちらの方に意識を向けた。
「ん……もういい按配か」
そう言うと、オッサンは串の一つを地面から抜き、おれに差し出してきた。
「食え」
「え……いや、さっきも干し肉貰ってるしさ。いいよ。アンタのだろ? それ」
手当をしてもらった上ここまで至れり尽くせりでは相手に悪い。そう思ったのだが、口の中はよだれで決壊しそうな有様である。体は存外正直だ。
オッサンの方はと言うと、
「どれだけ血を流したと思ってるんだ。まずは肉を食って血を作れ」
と、自分の意見を曲げる気は更々無いようだ。正直、焚き火から漂う芳醇な香りには抗いがたい魔力がある。ここで意固地になる事に意味があるとも思えず、結局早々に折れて串を受け取る事にした。
「おお……」
串に刺さった兎肉は溶けた脂肪が艶々と輝き、おれにはまるで宝石の様に見えた。昨日の昼から碌にものを食べていなかった事もあり、一気に口の中に突っ込む。
口の中で一噛みした瞬間、
――う、美味え……ほんと美味え……!
まだ完全には火の通っていない内側から温かい肉汁が溢れ出す。至福が口の中から込み上げる。新鮮な肉を食べるとこうも味が違うのか……!
感動に打ち震えているおれの前に無言で次の串が差し出される。それを奪い取るように掴み、口の中に運んでいく。
3本目、食う。
4本目、まだ食う。
ついには口の中一杯に肉を詰め込み頬をパンパンに膨らませて咀嚼していると、「ふ」と上から失笑の声が上がった。
驚いて顔を上げると――静かに口角を上げたオッサンの姿がそこにあった。
「美味いものを食うと幸せになるだろう。気が沈んでるなら、まず飯を食わんとな」
その言葉を聞いて、おれはこの人がやたら物を食わせたがっていた真意に気付いた。
――そうだよな、あれだけデカい声で叫んでたんだ。気付かないはずがない。
オッサンの言う通り、どうやらおれは大分まいっていたらしい。でも、うまいモンを食った甲斐あってか、頭を掻き乱すような焦燥感はもう感じなくなっていた。
ここまで来て、おれはオッサンがどういう人物かようやく分かった気がする。
――この人、すげー優しいんだ。
そう結論が出た瞬間、おれは自然と膝をつき、身を乗り出してオッサンに申し出ていた。
「オッサン……頼む。アンタに付いていかせてくれ。アンタの力になりたいんだ」
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