オレの名前は
戸田有希、中学3年生。
なんといってもオレの最大の不覚は、人間は自然に大人になるものだと思い込んでいた事だろう。
遊んでいても大きくなれば、自然に勉強ができるようになり、それなりの高校へ入り、それなりの大学へ入り、それなりの仕事に就く。そしてそれなりの家庭を築き、それなりに幸せに暮らしていく。
人生とはそういうものだと信じ切っていた。
もちろんそう思い込んだのにも理由はある。
オレの父、
有正は売れない小説家で、ずっと昔に芥河賞にノミネートされたこともあるらしいが、今はペンネームで三次元文庫に書いてるのが主な収入だ。
母の
麻希は空間デザイナーとかいって店舗の内装などをやっている。我家の家計はほとんど母の収入で成立っているらしい。
どちらも高卒で、母はデザイン関係の専門学校に通ったらしいが、父のことは良くわからない。両親とも勉強しろとか、ほとんど言わない人だったが、8つ離れた兄の
有友は成績優秀で、現在は国立の薬科大の大学院生だ。
そんなわけだから、オレもいつかは兄貴のように勉強が出来るようになるのだと、勝手に思い込んだまま今日まで生きて来た。
その結果、どうにもならない事態になっているのを実感したのは、事もあろうに中学3年も2学期になってからだった。
入学願書を出さねばならない期限が迫って、オレは担任の井原に呼び出された。
「おい戸田、お前こんな成績じゃ行ける高校なんかないぞ!」
「え?!」
「なんだこの成績は!国語はまあいいとして、英語と数学は赤点ギリギリじゃないか!」
「あ、でも理科と美術は5ですよ。」
体育はそんなに良くなかったが・・・
「お前なあ、ふざけてるのか?受験に出ない教科がどんなに良くても意味ないんだぞ!」
「なるほど・・・」
言われてみて初めてそんな事実にも気づく始末だった。
「先生、僕でも行ける高校って無いんですか?」
オレが聞くと、担任は渋い顔をしながらペラペラ資料をめくった。
「まあ・・・無いこともないんだが、俺は勧めんなぁ。」
「そ、それはどこですか?」
オレは藁にもすがる気持ちだった。中学浪人にはなりたくない。
「それは・・・白鴻女学園〈しらとり じょがくえん〉だ。」
オレは一瞬、担任が言った言葉を頭の中で反芻した。意味がわからなかった。
白鴻女学園といえば地元じゃ結構有名なお嬢様学校だった。清楚で伝統的なセーラー服が特徴の女子校だ。ここらではセーラー服の高校は珍しいから、オレたちの学校の女子とは違う大人っぽい雰囲気は遠目に見かけてもドキドキする。
「先生、僕男ですよ。なんで女学園なんですか?」
「あそこも来年から共学になるんだそうだ。だから積極的に男子学生を募集しているんだ。」
「はあ・・・そこは勉強が出来なくても行けるんですか?」
「推薦枠というのがあってな、向こうの条件に合えば多少のことは目をつむってくれるだろう。」
「条件があるんですか・・・」
「さすがに元が女子校だからな、がらの悪い生徒に来られては困るらしい。幸いお前は頭は悪いが不良じゃないし、受験すればまず受かるんじゃないか?」
「う〜ん・・・でも、女子校ってのは・・・」
さすがに悩むオレを不憫に思ったのか、井原は入学案内のパンフレットを差し出しながら
「まあ、提出期限は来週の月曜日だ。両親とも話し合って決めるんだな。」
そう言ってオレの頭をポンと叩いた。
オレは教室に帰るとすぐに、貰ったパンフレットをカバンの中に隠した。もし、女学校のパンフレットなんか持ってるのを見つかったら何を言われるかわかったものじゃない。
「おい、進路相談だったんだろう?お前どこ受けるか決めたのか?」
オレが戻ってきたのを目ざとく見つけて、仲が良い鈴木が声をかけてきた。
「いや、まだ決めてない。」
「そろそろ決めないとヤバいんじゃないか?」
「そうなんだけどな、どうもオレの成績じゃ行ける所は少ないらしい。」
オレはかなり控えめな表現をした。
「だろうな。お前ぜんぜん勉強してなかったからなぁ。」
どうやらヤバいことに気づいてなかったのはオレだけだったようだ。
「でも、まあ何とかなるんじゃないかなぁ。」
オレがそう言うと、鈴木は
「お前ほんとのんきだな。」
と言って笑った。
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家に帰ったオレは、すぐに父の書斎へ向かった。書斎と言っても納戸を改造した窓もない小さな部屋だが。オレは引き戸をノックした。
「とうさん、入っていい?」
「・・・いいぞ・・・」
部屋の中からくぐもった声で返事があった。
引き戸を開けて入ると、父は机に向かってキーボードを打っていた。口にはマスクをしている。
「なんか用か?」
「うん・・・」
この部屋は壁全体が本棚になっていて、床にも所狭しと本が積み上げられている。
「そこに座っていいぞ。」
そう言って指さしたのは積み上がった雑誌の上だった。
オレは雑誌を崩さないように注意して座った。
「なんだ?」
父は机から顔をあげるとオレの顔を見て言った。
「あの、今日進路相談があって、こんどの月曜までに願書を出さなきゃいけないって・・・」
「そりゃ遅れないようにしなきゃな。」
「でもオレ頭わるいじゃん。」
「そうなのか?」
父はまったく意に介さないようだ。
「それで、行ける高校がないんだ。」
「そりゃ困ったな。お前料理とか好きじゃないか、板前の修行とかしたらどうだ?中卒でもなれるんじゃないかな。」
たしかにオレは料理とか嫌いじゃないけど、中卒で板前の修行というのはちょっと抵抗があった。
「でも、ひとつだけ行けそうな所があって、それがここなんだけど・・・」
おれはそう言って父にパンフレットが入った封筒を手渡した。
父はしばらくパンフレットをパラパラめくっていたが、急に真面目な顔でオレの顔を見た。
「有希、お前女子高生になりたいのか?」
そう言ったが早いか、父は急いでメモ帳に何かを書きだした。
「男女子高生・・・ぼくは女学生・・・女学生なオレ・・・」
どうやら小説のネタでも思いついたらしい。
「とうさん!オレ女子高生になるんじゃないんだけど。」
父はやっと我に帰った。
「でもこれは女子校のパンフレットじゃないか。みんなセーラー服着てるし・・・セーラー服の男の子・・・セーラー服男子・・・」
またメモを書きだした。
「あのさ、そこは今は女子校だけど、来年から共学になるらしいんだ。」
「あー、そういう事か。で?」
父とはどうもまともに話が噛み合わない。まあ、いつもの事なのだが。
「だから、そこなら受かりそうだって話だよ!」
「ふ〜ん・・・別にいいんじゃないか?・・・女学生有希か・・・」
父に相談したオレがバカだったようだ。オレは父の手からパンフレットを受け取ると書斎を出た。とたんにオレは咳き込んだ。父が書斎でマスクをしているのは掃除するくらいならマスクをした方がラクという自堕落な考え方による。父はアレルギー体質なのだが、どうやらオレもその体質を受け継いでいるらしい。
「なんだお兄ちゃん帰ってたの?」
オレがダイニングのテーブルに置いた、パンフレットが入った封筒を前にどうしたものかと考えていると、妹の
麻衣がやってきて冷蔵庫からペットボトルを出し、ジュースをコップについで持って来るとオレの前に座った。
「なにそれ?」
妹はジュースを飲みながら封筒を指さした。
妹は小学校6年生、なぜかオレと違って勉強は出来る方だ。
「なんでもないよ。」
オレがそう言って隠そうとすると、妹は封筒の片方をつかんで引っ張った。
「コラ!大事な書類なんだぞ!」
オレが破れるのを心配して手を放したため、封筒は妹の手に渡ってしまった。
「しろ・・・じょがくえん?」
妹は封筒からパンフレットを出すと、そこに書いてある文字を声に出して読んだ。
「お兄ちゃん、この字なんて読むの?」
さすがに小学生では鴻という字は読めなかったらしい。もっともオレもあらかじめ学校名を知らなければ読めなかったが。
「とり、しらとりって読むんだ。」
「ふ〜ん、しらとりじょがくえんか、聞いたことあるかも。」
妹はパンフレットをしげしげとながめながら
「お兄ちゃん、この高校に行くの?」
「まだはっきりとは決めてないんだけどね。かあさんにも相談しないといけないし・・・」
「ふ〜ん・・・」
妹は何度もパンフレットとオレを見比べている。
「うん、お兄ちゃんこのセーラー服なら似合いそうだね!」
「な、バカなこと言うなよ!オレがセーラー服なんか着るわけないだろう!」
「な〜んだ・・・でも男子の制服なんかついてないよ。男子はどんな制服なの?」
そういえばどんな制服になるのか聞いてなかった。
「たぶん女子がセーラー服なんだから、男子は詰め襟じゃないのかな?」
「あたしも来年からセーラー服なんだよ!」
妹は嬉しそうに言ったが、そんな事は知っている。
「当たり前だろう。オレと同じ中学に行くんだから。」
「あ、そっか。でもつまんないなぁ。一緒にセーラー服着れるのかと思ったのに。」
「やめてくれよ!男がセーラー服なんか着たら気持ち悪いだけだろう。」
「そうかなぁ〜」
妹は何故か納得しないようだった。
「だってさぁ、お兄ちゃん女の子の服着るの好きなんじゃないの?」
「はあ?!ゲホゲホッ・・・」
オレはいきなり妹にそんな事を言われて咳き込んだ。まだホコリの影響もあるのかもしれない。
「な、なんでそんなこと考えたんだ?」
「だって、お兄ちゃん小さいころの写真で女の子の恰好してるじゃない。」
「あ、あれは・・・」
たしかにオレが小さいころの写真は女の子の服を着たものばかりだった。
「あれは、かあさんが勝手に着せてただけだろう。」
母は兄の次は女の子が欲しかったらしく、8年後に産まれたオレに女の子の服を着せていたのだ。それは3年後に妹が産まれるまで続いたから、3才のころの事はなんとなく憶えている。
「別に好きで着てたわけじゃないぞ!」
「ふ〜ん、そうなんだぁ。」
妹はなぜか残念そうにパンフを見ながら
「ほんとに似合うと思うんだけどなぁ。」
「もうやめてくれよ!」
おれは妹の手からパンフを奪い取った。
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「かあさん、ちょっといいかな。」
母が帰ってくるとすぐに両親の部屋に行った。母はまだ化粧を落としている最中だった。
「あ、ごめん・・・後でいいや。」
オレが部屋を出ようとすると
「気にしなくていいわよ。なに?」
オレは部屋に入ってドアを閉めた。
「ちょっと高校の事で相談があるんだけど・・・」
母は手を止めて振り向いた。もう化粧はほとんど落としていた。
「もうそんな時期なのねぇ。」
母はのんきなことを言った。
「そんな、時期なんてもんじゃないよ。来週の月曜日までに願書を出さなきゃいけないのに・・・」
「そうなの?で、どこ受けるか決めた?」
「それがさぁ・・・ここしか受かりそうな高校ないらしいんだ。」
オレがそう言ってパンフレットを渡すと
「あら?ここ、かあさんの母校よ。」
と嬉しそうに言った。そんな話は聞いた事がなかった。
「でも、ここ女子校よ。」
「あ、来年から共学になるらしい。」
「へ〜、そうなんだ。それでここに決めたの?」
「いや・・・どうしようかと思って・・・」
「でも他に行けそうな高校ないんでしょう?」
「うん・・・」
「じゃあ、ここにすれば良いんじゃない?かあさんは有希が行きたいとこなら何処でもいいわよ。」
「いや・・・行きたいって訳でもないんだけど・・・」
母が息子の自主性を重んじてくれるのは嬉しかったが、オレは行きたくもない高校しか行けないのが情けなかった。しかし母の思いは少し違うようだった。
「ここなら、かあさんも良く知ってるし、いいんじゃないかな。校風もいいわよ。」
なぜか母は嬉しそうだった。
だがオレはとてもそんな気分にはなれなかった。ただ女子校に行くだけでも気持ちが落ち込むというのに、母親と同じ女子校に通うとは何とも複雑な気分だ。
「かあさんここのセーラー服すきだったなあ。実は今でも持ってるのよ。」
「え?!」
オレは初めて聞くことばかりで驚きっぱなしだ。
「有希は身長どれくらいだっけ。」
「163cmだけど?なんで・・・」
「かあさんより少し大きいけど、有希は細身だから着れるかもしれないわよ。着てみる?かあさんが着てた白鴻女学園の制服。」
「ち、ちょっと待ってよ。オレそこに行くとしてもセーラー服着て通うわけじゃないんだけど。」
「あ、そっか・・・そりゃそうよね・・・有希は似合うと思うけど、他の子は似合わなかったら可哀相だもんね。」
「いや・・・そういう事でもないと思うけど・・・」
今まであまり考えたことは無かったが、うちの家族はみんなどこか普通じゃないようだ。
結局オレは他に行ける高校もなく、白鴻女学園を受験することになってしまった。