藤沢数希は「出来るだけ沢山のいい女の膣に射精することがオスとしての勝利」
二村ヒトシは「性的な相性のいい相手と最高のセックスをすることが人間の喜び」
と主張しているように見えて、最終目的地が余りにも違うから話が噛み合わないんだと思う。
これはもう、どっちが正しい間違ってるという話じゃなくて、セックスの趣味の話なんじゃないか?
コンプレックスというか、もっと切実な問題ですよね。とにかく目の前に、セックスできないという切実な問題があって、それをどう解決するか、みたいな。
二村さんは恋愛を語るにあたって、「自分とはなにか」「愛とはなにか」といった部分で悩まれていますよね。それが僕にはよくわからないんです。だって、お腹が空いたら食べ物を探しに行くじゃないですか。それと同じで、恋愛って、性欲が満たされなかったから、満たされるように活動する、というだけの話ではないでしょうか?
二村は昔から女性の主体性に固執していたが、藤沢にとって女は食品に近い。
食品が承認欲求ではなく食欲を充たすものであるように、女も承認欲求ではなく性欲を充たすものなのだろう。
『ぼく愛』を書くうえで、似たようなジャンルの本を調べていて、男性向けの恋愛マニュアル本もかなり読みました。すると、ほとんどが、女性と喋ることもできないし彼女なんて夢のまた夢みたいな人を想定読者とか、物語の主人公にしていて、この本に書いてあるテクを使えば、童貞が爆発的にモテるようになるという書き方をしているんですよね。
ヒットしたスポ根作品の主人公って、地力があるし才能もある、というキャラクターばかりなんですよ。『スラムダンク』でもなんでもそう。野球漫画だったら、主人公は、最初は粗削りで下手くそだけど、キャッチボールはできるし、もちろん野球のルールも知っている。それなのに男性向け恋愛マニュアルだと、「コミュニケーション能力が普通にある人のためのモテ本」というのが少ない。まあ、そういう経緯があって、『ぼく愛』の主人公であるわたなべも、設定が、童貞ではなかったわけなんです(笑)。恋愛マニュアルは完全に非モテのためのもの、という思い込みが世の中にはあるのかもしれませんが、「普通の人がモテるようになる」作品があったっていいはずです。
たしかに所得が高く異性にも不自由せず生きてきた男性にとって、コミュ力が破綻した貧乏ブサイク男性との接触頻度は低い。
学生時代の友人も、同僚たちも、そこそこの容姿と収入とコミュ力を持つ。だから彼女持ちの弁理士を「普通」としたのだろうが。
恋愛工学は、要領が悪くてスペックの割に損している男性を持ち上げるノウハウであって、スペックが死んでいる人には使えない。
二村はスペックが死んでいる人にも何かしらの希望を提示したいのかもしれないが、藤沢は無関心なのではないかと思う。
より上を目指す、より「いい女」を得るっていうだけではない、横道にそれた「いい恋愛」「いいセックス」の探し方も人それぞれあると僕は思うんですよ。ていうか僕はそっちのほうが人を幸せにすると思う。これは女性に関しても言えることなんですけど。女性向けの成人コンテンツも増加しているし、女性の世界にも男性の世界と同じことが起きてきていますよね。僕はもっと女性の性欲についても考えたいですね。
女性の場合、男性の視界に入らないのは下位のせいぜい2〜3割だと思うんですが、確かに、性欲を持て余している女性も多いかもしれませんね。
いや、そういう“階級”の話じゃないし、モテる男になって抱いてやればすむという問題でもない。僕が「人妻との五反田でのセックスは関係が対等だから、藤沢さんの小説の中で唯一エロい」、つまり、それ以外の場面はセクシーじゃないと言ったのは、セクシーさというのはコントロールが不能で、おたがい支配できないのに波長が合ったときだけ匂う空気だからです。
藤沢は、階級と勝ち負けにしか関心が無いのではないかと思う。ビジネスには向いた性質だ。
女の価値を、「自分にとっての良さ」ではなく、容姿のランクにして定量化するのもビジネス的だ。そこでは「誰もが理解できる価値」が重要になる。
もちろん藤沢は、男もランク付けされるものと思っていて、ランクが上がるよう努力しろという人間だ。そこが負け組ミソジニストと違う点。
負け組ミソジニストは自分の未来より女に関心があり女を傷つけようとするが、藤沢は女に関心が無く自分の未来に関心があるため、
二村は「自分にとっての幸せ」を重視しており、マゾヒスト男性などのマイノリティに関心があるからこそそうなるのだろう。
趣味がマジョリティであればあるほどスペック重視になり、マイノリティであればスペックよりも性的な相性がピッタリであることが重要になる。
藤沢は変態の真逆なのではないか。セックスの内容に微塵も興味が無いのではないか。
藤沢にとっては「やれた」という達成感が重要で、それは仕事における達成感と同じものであり、
次はもっと良い仕事をするぞ!のノリで、もっと良い女を抱くぞ!となっている、あまりにも天然で無邪気な男なのではないか。
とにかく二人のエロ観が全く違うのだ。
ここまで違われると同じ「男」と括って、「男とは~」と語るのもバカらしい。