ゲーム機「ニンテンドーDSi」を手に笑顔を見せる任天堂の岩田聡社長=2008年10月、東京都内
withnews(ウィズニュース)

 任天堂社長の岩田聡さんが亡くなりました。55歳でした。もともとプログラマーだった岩田さん。その腕は「天才」と呼ばれるレベルでした。入社2年で社長に抜擢、今年3月にはスマホゲームの大手DeNAとの提携を決断するなど、型にはまらない異能のゲーム人生でした。

【動画】「これは任天堂のプラットフォームの再定義」DeNA提携の狙いを語る岩田さん

電卓でプログラミング
 岩田さんは、札幌の高校時代から、関数電卓を使ってゲームをプログラムしていました。新聞配達でためた金で、プログラムのできる電卓を買い、バレーボールやミサイル射撃のゲームを作ります。高校の授業中もゲーム作りに没頭。その完成度に級友は驚き、のめりこんだそうです。

 1978年に東工大に入ると、秋葉原に通い出します。昭和通り近くのマンションの一室。設立間もないゲーム会社が、プロ顔負けの技術を認め、アルバイトに雇います。当時、社員5人だったハル研究所です。父親の猛反対を押し切って入社し、後に社長にまでなります。

糸井重里さんが「神」と呼んだ腕前
 「救いの神が降りてきたようだった」。コピーライターの糸井重里さんは、一緒にファミコンゲームの名作「MOTHER」の続編を開発していたころの思い出を、そう語っています。開発が滞っていた1993年の暮れ。岩田さんは「いまのプログラムを生かして作ると3年かかる。一から作れば1年以内にできる」と断言。実際、その通りにやってのけました。

機能満載の「DS」、大ヒットに
 腕利きプログラマーだった岩田さんらしい商品が「ニンテンドー・ディーエス(DS)」です。二つの画面、タッチパネル、音声入力に無線機能など、てんこ盛りです。岩田さんは「DS」の狙いについて、こう語っていました。

 「ゲームが売れないのは少子化のせいでも、携帯電話のせいでも、不景気のせいでもない。作り手が手詰まりになっているから」

 言葉通り「DS」は大ヒットに。発売から4年3カ月で世界販売台数が1億台を突破しました。

入社2年で社長に抜擢
 岩田さんは、2002年6月、任天堂の社長に就任します。任天堂に移って2年足らず、42歳でした。経営難に陥ったハル研究所を、任天堂の支援を受けて立て直した手腕を買われての人事でした。創業家出身で半世紀余り社長を務めた故山内溥さんから、社長室で50年の歩みを2時間説かれ、後継を託されました。「えらいことだ」と思った岩田さん。でも「こんなやりがいのある仕事はない」と引き受けました。

 就任時、「ゲーム業界はわずか20年の歴史。私はだれにも教わらずゲームをつくってきた。必要なのは年齢ではなく、経験でしょう」と意気込みを語っていました。

プレイ動画容認、DeNAとの提携を決断
 2014年には、YouTubeやニコニコ動画へのプレイ動画の投稿を公認。ゲームの二次創作の重要性にいち早く、理解を示しました。そして2015年3月、DeNAとの業務・資本提携を発表。ゲーム専用機に注力してきた任天堂にとってはスマホ戦略もみすえた大きな転換となる決断を下しました。

 プログラマーとして、社長として、異彩を放った岩田さん。55歳での早すぎる死が惜しまれます。

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