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世界は今日も簡単そうに回る

理解されたいことのすべてが偽物で困ります。

誰もが孤独じゃなく 誰もが不幸じゃない

 昨日あたりからとても暑く、各所で猛暑日となっているらしい。
 今日は友達と海へ行く予定だったのだけれど、友達が暑さでバテてしまい行けないと連絡がきたので、一人で海へ行くことにした。

 横浜市に住んでいるから海は身近だ。職場も市内なので仕事帰りにいつでも山下公園やみなとみらいには寄ることができる。あえて「海へ行く」なんて言わなくてもいつでも側にあると言えばある。

 でも今日は横須賀まで足を伸ばした。京急で終点の三崎口までぼんやりと車窓から景色を眺め、BGMはミスチルの「REFLECTION」で。三崎口からさらにバスで30分。荒崎という土地へ。
  

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 普通の漁村。海辺の街並みはどこもそんなに変わらないなと思う。金沢の柴漁港や野島なんかを思い出す。普通の住宅があったり、船が停泊していたり、訳のわからないものが錆び付いてたり。

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 当然トンビも飛んでいて。

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 道路の側溝には蓋なんかしてないなくて、なぜかかぼちゃが落ちてて哀愁を誘う。かぼちゃ…

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 横須賀にも海はたくさんある。追浜野比海岸、久里浜、三浦海岸、観音崎、エトセトラエトセトラ。その中で荒崎海岸を選んだのは何も当てずっぽうではない。明確に意図を持って足を運んだ。
 前にこのブログでも触れたことがあるけれど、ツイッターのフォロワさんがこの5月に海に入って亡くなってしまった。その場所が荒崎海岸だったのだ。

 インターネット上の知り合いってすごく難しいなと思う。たとえアナウンスされても葬儀に参列する筋合いがあるのかとか考えてしまうし、当然お線香をあげることもできず。ネット上で知り合った方が亡くなってしまったのは二人目だけれど、どちらも区切りのつかない、収まりどころがない感じが拭えない。

 亡くなった場所である荒崎海岸へ行ったのは、そこで手を合わせることだけが目的だったわけじゃない。いったい最後にどんな景色を見たんだろう、見たかったんだろうっていう思いがあった。
 最後に見たものが美しい景色であったならばいいのにと願うような気持ちでバスに乗っていた。

 なんというか、わたしは彼のことがとても好きだったのだよね。彼のツイートも好きだったし、文章も好きだった。人柄とかは、まあインターネット上の人格の部分でしかわからないけれど。彼が亡くなってから何度もツイートを読み返したし、残した音楽も聴いたし、ブログもさながらストーカーのように隅々まで読んだ。
 それでますますわたしは彼のことが好きになったわけで。それはもちろん恋愛とかじゃなくて、でも友達でもなくて、うまい言葉が無いけれど、なんというか「ファン」に近いかもしれない。ずっと眺めていたかった、そんな感じのする人だったかな。
 もともとの性質とか、病気とか、随分生きにくいだろうなというのが分かる人だった。けれど最後まで絶望的ではなかったんだよ。みんなの幸せを願うような言葉を残して逝ってしまった。
 やはり一言でも止められていればと思う。結果は変わらなくても。まあ後悔してももう仕方ないのだ。わたしの後悔などご遺族の方に比べれば、小さくてお話にならない。

 
 荒崎海岸は砂浜ではなく岩場の海岸で、フナムシが嫌いすぎるわたしにはやや難易度が高かった。フナムシ、気持ち悪すぎる。

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 「荒」という名前にもあるとおり、また今日の強風も相まって、波は強くて高かった。
 フナムシを避け、少し離れた場所に腰掛けて、海と空だけの景色をしばらく眺めていた。

 彼は高いところから海に飛び込んだわけじゃない。岩場で処方されていた睡眠薬をたくさん飲んで眠って、そして海に落ちてそのまま亡くなってしまったそうだ。
 覚めない眠りにつく前に彼が見たのと同じではないのだろうけれど、まあ似たような景色の中で目を閉じたり開けたり耳を澄ましたりしながら、随分救いのある場所だなと思った。本当に人がいなくて、海と空しかなくて、聞こえる音は大きな波の音と少しの虫の音くらい。時間が止まったみたいに本当にそれだけで。
 よく波の音は母親の胎内にいたときの音だから安心するというような話を聞く。それが本当なのかどうかは胎児の記憶を持たぬ者としては分からないところだけれど、でも波音と景色に救われて、わたしは涙を止めることができなかった。だから結果としては一人できて正解だったかもしれないなとも思う。

 自ら死ぬことを美化する気はないし、否定も肯定もできないというのが自分の立場だけれど、少なくとも自分の知り合いには自殺してほしくないなと思う。一方的な気持ちだけれどね。誰が欠けたって寂しいし辛い。
 けれど亡くなってしまった人が、最後に見た光景が、こんな風に救いのある景色だったのなら。どんな気持ちでいたのかは分からないけれど。まあ、そう思う。

 ミスチルの「fantasy」という曲の中で「誰もが孤独じゃなく 誰もが不幸じゃない 誰もが今もよりよく進化してる 例えばそんな願いを 自信を 皮肉を 道連れにしてさあ旅立とう」という歌詞がある。その曲が今日海岸で思い浮かんだ。「誰もが孤独じゃなく 誰もが不幸じゃない」場所なんて無いのは多分大人だったらみんな分かってる。だからこそ切実に「誰もが孤独じゃなく 誰もが不幸じゃない」場所であったり瞬間であったりを願うわけで、今日の景色はそういう場所に近かったんじゃないかなと思う。

 人がいないし波は強いしある意味では孤独そのもののような感じもするのだけれど、だからこそ「孤独じゃなさ」みたいなものも内包されているというか。
 うまく説明できないんだけど、まあそういう感じ(投げた)。

 荒崎海岸は夕日の名所なんだそうだ。今日は夕日を見ることはできなかったけれど、今度来るときはもっと日の短いときにきて、その美しい景色を目に焼き付けたいと思う。