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長からむ心も知らず黒髪の 乱れて今朝は物をこそ思へ
艶やかな長い黒髪は、日本女性の美の象徴とされてきました。
日本人は染めずに伸ばせばたいがい黒に近い髪になりますが、それが本人の心に沿っているかは別の話です。
外見よりも中身が重視されるはずのサバイバル世界においても、外見の第一印象は容赦なく本人に牙をむき……ありのままって、一体何でしょうか。
まぶしい朝の光が、まぶたを通り抜けて私の意識を引きずり出す。
私は小さく呻いて寝返りを打ち、布団に手をついて一気に体を起こした。
「痛っ!?」
途端に頭の皮膚が引っ張られて、思わず顔をしかめる。
舌打ちして下を見ると、布団の上を這う黒髪の束がついた手の下敷きになっていた。
(あーあ、またやっちゃったよ……)
私は朝っぱらから頬をふくらませながら、その髪が束ごと抜けてしまわなかったことに心から感謝した。
顔を洗うために鏡の前に立つと、私はまた気分が萎える。
(何、この髪……ダサくなったなあ、私)
鏡の中にいるのは、腫れぼったいまぶたをこする華のない女。
地の色そのままの重たそうな黒髪が、蛇のようにうねって無造作に垂れている。そのうえ今日は起きる時にバカをやったせいで、うねりの中に余計なたるみと引きつれが加わっている。
これでは、ブラシでときつけるのも一苦労だ。
私は反射的に洗面台を見回したが、お目当ての物はない。
トリートメントもヘアスプレーも、熱で髪を伸ばすコテも、何もない。
当然だ、それらは今や全て旧時代の遺物となり果てたのだから。外を探せばまだ残っているかもしれないが、そんなものと命を引き換えにはできない。
(世界と一緒に私も変わった、か……)
かつての自分の姿を思い出し、私は軽く自嘲した。
世界が変わる前、私の髪は短くて、そのうえオレンジ色に染まっていた。
目の周りには濃いアイラインを引いてボーイッシュに見せ、露出で女であることをアピールしながらも媚びない自分を主張するパンクな女だった。
髪が短いせいで染める周期が短くてお金も手間もかかったけど、私はそれを無駄だとは思わなかった。
だって、これは私らしい私を見せるための必要経費だから。
奇抜なファッションで他の人と違う私になれることが、楽しくて仕方なかった。
だけど世界が変わってからは、私にそれをやる暇はなくなった。
突如として街を占拠し、人の群れをのみこんで急激に数を増やしながら迫ってくる、生ける屍から逃げなければならなかったからだ。
普段から人にあふれている大都会はみるみるうちに生ける屍の巣窟になり、逃げる以外の行為に神経を割けなくなった。
屍に追われて息が切れるまで走り、安全で閉ざされた場所に着くなりへたり込んで水と食べ物をお腹に入れ、少しでも回復したらまたそこからもっと安全なところに逃げる事を考えて……。
そんな生活を、一体どれくらい続けただろう。
逃げているうちに、周りの私を見る目が変わったのを感じた。
都会で似たような仲間とつるんでいた時は、私のような奇抜な外見は一種のステイタスのようだった。
他の興味のない人間も、特に気にせず通り過ぎていくだけだった。
でも、生き残るために力を合わせて信頼し合うとなると、そうはいかない。
周りの人たちは私の外見に、いろいろとあらぬ意味を見出して辛く当たった。
曰く、こんな派手な格好をしている奴は軽薄で信頼できないに違いない。不真面目で自分のことにしか興味がない奴だ。おしゃれと男の気を引くことしか頭になくて、自分勝手なトラブルメーカーになるに決まってる。
特に頭の固そうな年配の人は、私を見るなり不信の目を向けた。
私はそのたびに自分がそんな人間ではないと説明したが、第一印象を拭うのは難しかった。
人は初見で相手の七割を判断すると言うが、それは本当だ。
だけど私は、悔しくてたまらなかった。
見た目を飾りたてる事が価値を無くした世の中で、見た目で判断されてこんな目に遭うなんて、不条理でどうしても納得できなかった。
でも、ある時決定的な事件が起こった。
同い年くらいの男女数人で集まって行動していた時、生ける屍が何体も襲い掛かってきた。物陰からの不意打ちで、気づいた時には手が届きそうな距離だった。
皆が悲鳴を上げ、男のうち二人が女を助けに入り、それ以外は一目散に逃げ出す。逃げ出せなかった女は私を含めて二人、助けに来てくれた男も二人。
……でも、私は守られなかった。
もう一人の見るからに清楚で純朴な女の子が男二人に手を引かれ、私は何体もの屍が迫ってくるのを見ながら、必死で自分を掴んだ灰色の手を振り払って逃げ出した。
その夜、私は一人で泣いた。
男たちは問い詰めると、こんな答えを返してきた。
「いや、だって……自己主張の強い奴って、下手に助けると逆に嫌がられそうだし。
何つーか、とっつきにくいんだよ。自分飾って人と違う自分に酔ってる奴ってさ、俺らのことは理解できてんのかなーって思っちゃうよな」
何てくだらない思い込み、でも私はそれで死にかけた。
一人になってしばらく泣いて、私は鏡の前に立った。
そして、肩につくくらいまで伸びた髪の、下から5センチくらいのところに鈍く光る鋏を当てる。
あれから染めることもできず伸び放題になっている髪の……オレンジ色をした先端約5センチ。その後から伸びてきた、地の黒髪の始まり辺りに刃を入れ……。
「わああああ!!!」
己を断つように泣き叫びながら、私はがむしゃらに鋏を動かした。私らしさだと思っていたオレンジ色の部分が全て床に落ち、頭の全てが黒くなるまで……。
こうして私は、就職活動のモデルにでもなれそうな黒一色の頭になった。
次に出会った人たちは、もう私を不真面目だとかいう色眼鏡で見たりしなかった。私は初めから真面目で純朴な女の子として受け入れられ、今もこのコロニーで平和に暮らしている。
偏見に抗おうとしてあんなにもがいた日々が、嘘のようだ。
私は、いろいろな思い出を巡らせながら黒くうねる髪をとかす。
私はあれから、一度も髪を切っていない。伸び放題にされた髪は生来のクセを露わにして波打ち、背中の中ほどまで垂れ下がっている。
生活や逃亡の邪魔にならないように普段はきっちりまとめ、しかしほどくと女らしく長い黒髪が、今一番いい印象を与える髪型。
要はあまり手をかけず、かつ奥ゆかしさを感じさせる髪。
なかなか言う事を聞かない髪をとかす私を、一人の男が後ろから抱きしめた。
「そんなに神経質にならなくても、君はありのままが一番きれいだよ」
その言葉に、私は思わず含み笑いを漏らした。
ありのままとはその人の自由な心のままなのか、単にあまり飾らない素朴さだけを言うのか。生きるために私らしさを切り捨てたこの乱れた髪が、私のありのままなのか。
ありのままって、素直って、一体何なんだろう。
いくらといてもからまったままの髪のように、いくら考えてもこの問いの答えは出なかった。
(こいつにも、昔の写真は見せられないわね)
大事そうに私の黒髪を撫でる男を鏡越しに見上げ、私は心の中でそっとつぶやいた。
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