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信という少年
信という少年
彼が目覚めた場所は、白いベッドの上だった。
数日ぶりに入った自分の部屋、自分のベッド。まるで、今まで長い夢を見ていたような気分だ。
目覚まし時計の短い針は九の数字を指し、外からは眩い太陽の光が降り注ぐ。登校時刻はとうに過ぎていた。
「起こせよ……凛……」
あんな事があった後だ。彼女が顔を合わせてくれるはずがなかった。
信は人生で初めて、遅刻というものを経験することになる。
朝食は喉を通りそうもなく、料理をする気分でもない。彼は早々に顔を洗い、歯磨きを終える。そして、洗面台の鏡を見たとき、彼はあることに気づいた。
「髪……」
凛によって染めを落とされ、元の栗色に戻ってしまった髪。染め直さなければ、ずっとこのままだ。
信は隣の部屋の時計を見て、時間を確認する。やはり、短い針は九の数字を過ぎていた。
「染めている時間はないな……」
既に遅刻をしている今の状況で、時間の有無などない。髪を染めることなどいくらでも出来る。しかし、それをする意味を失ってしまった。
妹同じ、母親と同じ髪の色。この姿で外を歩くのは随分と久しい。今まで当たり前だったことが、たった一日で変わってしまった。胸に付けた委員長バッジも、今となっては不必要なものだろう。
信は家を後にし、学校までの道のりを進む。遅刻をしているのだから当然、彼以外の生徒は歩いていない。川沿いに散った桜の花びらは茶色く変わり、アスファルトの道を汚す。信は上の空で葉桜を見つめつつ、足を進めた。
そんな彼の視野に、一匹の生物が舞い降りる。空中を浮かぶ、凛の従者ミミスケだった。
「気になったんだ。シンくんの事……大丈夫?」
「お前は凛の心配をしていればいいだろ……」
妹の方も、精神的に傷を負っている。実の兄に裏切られ、罵倒されたのだから当然だ。今、ミミスケは彼女を支えるべきだった。
だが、彼は自らの主人に対して、絶対的な自信を持っている様子。慰めなくとも、凛は何とかすると信じているのだろう。
「リンは大丈夫だよ。強いから……」
「俺は弱いって言いたいのかよ……」
「ち……違うよ! そうじゃない!」
慌てるミミスケは、言い訳をする時の凛に似ていた。共に過ごすうちに、互いに似てきたのだろうか。
信は彼を無視し、足を進める。そんな信に向って、ミミスケは自棄のように叫んだ。
「と……友達になりたいんだ!! ボク、男同士の友達がいないから!!」
あまりにも意外な言葉に、信はただ呆然とする。まず、彼に性別があったということが、驚くべき事だ。
「お前……男なのか?」
「た、たぶん……」
やはり、彼は自分の性別すら曖昧な様子。どこで生まれ、どこで育ったかも分からない。
今分かる事は、自分の名前と使命だけ。それは、信にはとても想像出来ないものだった。
「自分で自分が分からないって、辛くないのか?」
「少し、不安かな。本当にボクは、この世界に必要とされているのかって思うんだ……」
ミミスケは俯き、言葉を続ける。
「でも、リンはそんなボクを認めてくれた。ボクにとって大切な友達なんだ……」
偽りのない。主人に対する忠誠。そんな彼の気持ちを裏切り、意地を張っている信。
だが、これは凛との意地の張り合いだ。先に自分の間違いを認めた方が負け。そう信は考えていた。
直接対決によって負けたのだ。これ以上無様になるのは、彼のプライドに反する。それでも、ミミスケは退かなかった。
「シンくん、今ならまだ間に合うよ! リンと仲直りしないと!」
「今更遅いよ……負けたことで、あいつに対する憎しみが消えたわけじゃないしな……」
今でもミャーを消されたことが許せない。親友だったのだ。割り切れるはずがなかった。
信にとって、魔法少女の使命も、この世界の平和も、どうでも良い。そのどうでもいい事に巻き込まれたのが、とにかく許せなかった。
彼はミミスケの言葉を聞き入れず、そのまま学校へと向かう。兄妹との絆など最初からなかったのだ。
★★★
教室に着いた信は、扉の前で躊躇する。委員長である自分が遅刻するなど、恥ずべきことだ。それでも彼は勇気を振り絞り、扉を開ける。第一声は挨拶と謝罪だった。
「おはようございます。遅刻をしてしまい、すいませんでした……」
しかしクラスメイトは、委員長が遅刻をしたことなど、どうでも良い様子。彼らの目線は信の頭。ただ、いつもとは違う髪色に騒然とするばかりだ。
「うわ、星川がグレたか!?」
「ばっかやろ、あれは地毛だぞ。今まで黒染めしてたんだよ。知らんかったのか」
予想通りの反応だが、心苦しい。やはり、この髪色を表に出すのは間違っていた。
担任は生徒たちと同じように驚いているが、対応は冷静そのもの。落ち着いた様子で、信に問いただす。
「星川、染めを落としたのか?」
「……はい」
「一体、何があったんだ……?」
「何でもないです。ただ、染めに失敗して、遅刻してしまっただけです。本当に、すいませんでした……」
今の自分は、凛と同じことをしている。周りを欺いて、本当の事を隠して、自分一人で全てを背負っている。そう、信は思った。
それでも、話すことが出来ない。どうせ話しても誰にも信じられず、今まで積み重ねた信頼を失うだけだ。それにより、周りから見捨てられる事だけは、絶対に避けたかった。
朝の集会が終わり、授業前の準備時間となる。すると、信の髪色に興味を占めた生徒が一斉に群がってくる。特に食いついてきたのは女子だった。
「わあ、それ地毛なんだ。やっぱり、C組の凛さんと同じだね。双子っぽい」
「そう言えば顔つきも似てるよね。そっちの方が似合ってるよー」
いつもは楽しく会話できるのだが、今日ばかりは彼女らの言葉が憎くてたまらない。だが信は、怒りの感情を察視されたくはなかった。クラスメイトとの絆は、今の彼に残されたかけがえのないもの。それにひびが入ることは避けなければならない。
「ごめん……ちょっと……」
まるで逃げるように、信は人だかりから抜け出す。このままここにいては、余計な事を言ってしまうだろう。それによって絆を失いたくはなかった。
彼は教室を後にし、特に行くあてもなく廊下を歩く。ただ、苦痛な自由時間を潰すためだけの行動。あまりにも情けない。
そんな信の前に、一人の少女が立ちふさがる。上の空で歩く彼を偶然見つけたのだろうか。彼女はいつもと同じように、はっきりと言葉を放つ。
「惨めになっちゃったわね、信」
「蜜柑……」
日比野の顔を見た瞬間、信は目を伏せる。彼女の額に付けられたガーゼ。それは、僅かに赤く滲んでいた。
この少女を直視することが出来ない。見れば見るほどに、信の心は強く締め付けられた。
だが、日比野の方は堂々としている。彼女は真っ直ぐと信を見つめ、会話を続けた。
「部活後、自然公園の噴水前で待つわ」
それだけ言い残すと、彼女は早々に自分の教室へと戻っていく。
もう二度と、日比野からの呼び出しは受けたくないはずだった。しかし、こうして顔を合わせて、また会話をする機会を貰えたことに信は嬉しく思う。
魔法少女との関係。やり直すことが出来るなら、やり直したかった。
★★★
自然公園、そこは初めて日比野と出会った場所だ。
中央に飾られた芸術作品に花壇。それらより少々離れた場所に、小さな噴水が設置されていた。信と日比野はその縁に座り、先日の事について話す。時刻はすでに八時を過ぎており、空には月が浮かんでいた。
「あんたの事、少し分かったような気がする。ミャーだっけ、友達なんでしょ?」
「…………」
「その子の復讐でもするつもりだったの?」
「……分からない。頭がごちゃごちゃで、自分でも何がしたいか分からなかった。一時期の暴走。って言われても、否定できない」
信は遠い目をしつつ、空に浮かぶ星々を見つめる。
「ミャーが消えた時に思ったんだ。何で俺は、凛と一緒に生まれたんだろうなって……魔法少女と遂に生まれた俺。魔法少女の全てを知ってしまった俺。そんな俺に与えられた使命は、イルミネーターの屈辱を晴らすこと。お前らを倒す存在として俺は選ばれた……」
「違う! そんなの勝手な思い込みよ!!」
正気ではない彼の思想を日比野は強く否定をする。それを、信は素直に受け入れた。
「だよな……そうだよな……」
自分が異常という事など、彼はとっくに気づいている。しかし認めたくなかった。
認めてしまえば、自分がただの人間だと確信してしまう。魔法少女をぶっ倒すという夢から覚めてしまうからだ。
「あいつが特別なら、自分も特別だと思いたかった。でも違う、俺はただの人間だ。お前の言うとおり、今まではただの自分酔いさ。悔しかったんだ……特別なあいつに奪われ、振り回されて……特別じゃない自分が否定されている気がして……」
中二病というにはあまりにも酷だった。ありえないものを望んで、なりきっているわけではない。存在するものを否定し、憎み続けてきた。
「あいつに巻き込まれないためには、俺が巻き込むしかない! あの時、俺は確かに魔法少女を上回っていた! 全ての覇権は俺が握っていたはずなんだ!! はずなんだよ……」
全てを自分のペースに持っていきたかった。イルミネーターを救うという、自分の思想こそが正しいと証明したかった。
魔法少女には負けたくない。凛には負けたくない。ミャーの屈辱を晴らしたい。自らの屈辱を晴らしたい。
ありとあらゆる感情が入り交わり、彼の理性は失われた。今までが異常だったのだ。
「本気でイルミネーターを含め、全てを救えると思っていた。皮肉なものだよな……夢と希望を与える魔法少女より、俺の方がよっぽど夢を見ていたんだからな……」
イルミネーターは容赦なく人を襲う。彼が心を通わせたのは何百、何千存在するかも分からない中のたった一匹。全てを救うなど、不可能だった。
勿論、信はその事も理解している。だが、頭で理解出来ても、行動は変わらなかった。その結果が、すべて失ったこの状況だ。
「でも結局、何も手に入らなかった。凛を傷つけ、お前を傷つけ、俺自身もボロボロだ……これで、俺の戦いは終わった。お前には迷惑をかけたな……」
おそらく日比野は、彼の口からこんな情けない言葉を聞きたくなかったのだろう。自分の使命など顧みず、彼女は少年に戦いを促す。
「本当にそれでいいの……魔法少女をぶっ倒すんじゃなかったの!」
「あいつに負けた今、お前らと関わるのが怖くて仕方がない。俺は弱い人間なんだよ……」
今までの彼は、不の感情によって暴走していただけに過ぎない。本来の彼は、普通の人間と変わりのないちっぽけな存在だ。
数年前まで、彼は泣き虫で気弱な少年だった。髪の色で虐められた時も、凛に助けてもらったぐらいだ。だが、その本来の性格を乗り越え、ここまで伸し上がってきた事実は変わらない。日比野にとっては、その事実の方が重要だった。
「だからこそ、今まで積み重ねてきたんでしょ! 本当はあんただって、こんな終わり方望んでない!!」
「知った風な口をきくな。お前に俺のことなんて分かるかよ……」
「分からないわよ!! でも、分かろうと努力してるつもり! それを拒んでるのはあんたの方じゃない!!」
彼女はいつも信に関わっていた。毎度毎度、お節介と言われようとも、対話をやめない。
日比野が本気で信を理解しようとしているのは、他ならぬ信自身が一番知っている事だ。
「じゃあ、お前は俺にどうしろって言うんだ!! 実の妹を貶め!! 無抵抗の女に暴力を振るう!! そんなゴミ屑は死ねば良いって言いたいのかよ!!」
そんな信の言葉を聞いた瞬間、日比野の中で何かが切れる。
「そんなこと言うわけないでしょ!! バカァ……!!」
彼女は拳を振りかぶり、それを彼の顔面に叩きつけた。
以前の手加減されたビンタとは違い、この拳は本気の一撃。あまりの痛さに、信は頬を抑え、愚痴るように言葉をこぼす。
「グーパンかよ。酷すぎやしないか……」
「愛の鉄拳よ」
「くそっ、なんて奴だ……」
言いたいことを全て吐き出したからか、彼は完全に委縮してしまっていた。
日比野に対し、怒ることもないし、いつものように煽ることもしない。ただ、小さく、情けなく、その場に蹲っていた。
そんな彼とは対照的に、日比野は堂々としている。自分を傷つけた少年を、決して軽蔑することなく、本気で向き合っていた。彼女は額の傷を指さし、強く言い放つ。
「これで、この傷はお相子。だから、うじうじしない! 眼を見て話す! 分かった?」
「また、余計なお節介を……」
日比野は強かった。ただのヒーロー気取りではない。ヒーローであるために、強く生きようと志している。そんな彼女が、信には眩しい太陽のように見えた。
太陽はただ我武者羅に輝く。日比野は突然その場から立ち上がると、信の手を掴み、引っ張り立たせた。
「あんたが私たちと関わらないならそれでいい。でも、最後に少し付き合ってもらうわ」
「……へえ、デートか?」
「ええ、最高のデートスポットに招待してあげる」
「眼が怖いぞ……」
デートのはずがない。不敵に笑う日比野の顔を見れば分かる。ろくでもない事に付き合わされるのが目に見えていた。
しかし、これは日比野なりの気遣い。甘んじて受け止めるのが、彼女に対する礼儀だ。たとえ、これから起こることが地獄であったとしても、信は受け入れるつもりだった。
日比野はステッキを取出し、それを天に掲げる。瞬間、眩い光が彼女を包み込み、その姿を和服の魔法少女へと変えた。
「一体、何を……」
少女は信の後ろに回ると、突然背後から抱きつく。だが、これは抱擁などではない。彼の腰をしっかりと掴み、固定したのがその証拠だ。
「まさか……お前……」
「そのまさか。空中散歩にご招待よ!」
日比野の足が地面から離れるのと同時に、信の足も空中へと浮き上がる。地上からの距離は見る見るうちに離れていき、あっという間に町全体を見渡せる高さになってしまった。
町の上空、星々の下。日比野はその世界を悠々と飛び回る。彼女に掴まれた信は、ただ慌てふためくばかりだった。
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