28/71
その27 「髪が伸びたので切りたいです」
美衣を部活に送り出した休日のある日。お母さんと二人でお昼ご飯を食べていると、ふと前髪が気になり出した。摘まんで引っ張ってみたら、毛先が鼻の頭にまで届いた。司になって一ヶ月。気付かぬうちに結構伸びたもんだ。
『前髪が邪魔だから切って』
前髪を触りながらボクが言うと、
『それなら美容院に行ってきなさい』
と、前もって用意していたかのように一枚の地図を渡された。中央に赤丸と『ココ!』という文字が描かれている。ヘアサロンヒットエンドラン。……なんで野球?
話を聞くと、お母さんの行きつけの美容院で、店名はともかく腕はたしからしい。なんでもそこの店主は以前大きな美容院で働いて、何かの賞を取ったのちに独立したのだとか。ボクとしては家にある梳きばさみでちょちょって切ってくれればそれで良かったのだが、「午後から空いてたから予約したわ」と、勝手に決められてしまった。お母さん行きつけの美容院に断りの電話を入れるのも忍びなかったので、渋々行くことにした。今日は家でゲームでもしてごろごろしようと思ってたのに……。
ショッピングセンターに行ったときと似たような服に着替えて家を出た。地図で見たところ、美容院はそれほど遠くはないが、徒歩では時間のかかるという距離。自転車で行くか。二ヶ月ぶりに車庫から自転車を引っ張り出した。一度目の高校生の時に買ってもらった緑色のマウンテンバイクは少しほこりを被っていたが、それ以外は特に変わった様子はなかった。タイヤの空気も充分で、そのまま走れそうだ。しかし、
「あ、足が届かない……」
ボクの方がいろいろと変わり過ぎていたせいで、試しにとサドルに跨がると足が宙ぶらりんになってしまった。つま先を伸ばせばとか、自転車を傾ければとか、そういう次元の話じゃなかった。完全に今のボクの体に合っていなかった。
さてどうしたものか……。腕を組んで思案する。隣に目をやれば、お母さんのママチャリが見える。車体全体がショッキングピンク色で前カゴがやけに大きい実用性重視のママチャリだ。お母さんは気に入っているらしいけど、あれは恥ずかしくて絶対に乗れない。
うーん……。そうだ。サドルを限界まで下げて、乗るときは縁石とか少し高い場所から、降りるときはひょいと飛び降りるようにすればなんとかいけるんじゃないか? ためしにそれで家の前を走ってみる。
「……うん。いける!」
かなり体勢がキツイけど、なんとか乗り降りが出来た。運転中は足が地面に届かなくて不安だが、ゆっくり進めば大丈夫だろう。たぶん。
それからすぐにボクは自転車に跨がって美容室を目指した……はずなのに、
「誰だよ、いけるなんて言ったのは!? 徒歩よりしんどいじゃないか!」
到着したのは家を出て一時間後だった。ぜぇーぜぇーと荒い息を吐きながら自転車から飛び降り、ヨロヨロと美容院の前に少し乱暴に止める。そして理不尽な怒りをタイヤにガシガシとぶつけた。まさかこれほど体に合わない自転車が漕ぎにくいものだとは思わなかった。絶対明日は筋肉痛だ。家にシップあったっけ……。
帰りは押して帰ることを心に誓い、美容院のガラス扉を開いた。個人営業ということで店内はこぢんまりとしていたが、壁にはギターがかかっていたり、熱帯魚が泳ぐ水槽があったりと凝った作りをしていた。ボク以外にお客はいないようで、受付で名前を伝えると、すぐに奥へと通して貰えた。
家の近所の理容室にしか行ったことのなかったボクは少し緊張していた。大きな鏡の前の椅子に座り、そわそわしながら待っていると、お母さんより少し若い女性がやってきた。
「今日はどのようになさいますか?」
お手本のような営業スマイルで鏡のボクに話しかける。ボクはと言えば誰がどう見ても顔を引きつらせていた。元大学生が美容室ごときでこの体たらく。美衣が見てたら間違いなく指をさして笑っている。
「えっと……。その、髪が伸びたので切りたいです」
言い方が子供っぽい気がしたが気にしない。
「カットですね。どのくらいカットしますか?」
どのくらい? どのくらいだろう……。目にかからないようにしてほしいんだから……一センチ、いや二センチくらい? そもそも一センチってどれくらいだ? 定規がないと分からない。……あ、そうか。今の靴のサイズが21センチだから、足の二十一分の一が一センチ……って分かるか!
「こ、このくらいで……」
結局原始的に、視覚的に示すことにした。人差し指を目の少し上に水平に当てる。
「目に髪がかからないくらいかしら……。そうですよね。目に髪がかかると邪魔ですよね」
「は、はい」
さすが受賞歴がある人は違う。髪の長さだけでボクがどうしたいのかが分かるなんて。
「後ろはどうしますか?」
後ろ? 後ろのことはまったく考えてなかった。前髪さえ切って貰えればそれで良かった。
「せっかくだから、バッサリいっちゃいますか? あなたならショートも似合いますよ」
ハサミをシャキシャキと動かしながら、営業スマイルとは別物の笑みを浮かべる。なんか楽しそうだ。長い髪をバッサリと切るのは気持ちいいのだろうか。と、そのとき名案を思いつく。
『適当に頷いて任せていたら、バッサリ切られてしまいました』
これだ! この長くて重い、椅子に座ったらお尻に敷いてしまいそうな、夏になったら大変事になりそうな髪を切るなら今しかない! これなら変な髪型になることもないし、切られたことは全てこの人のせいにできる。
……言うしかない。「はい」と。バッサリいっちゃってくださいと! そうすれば一時間後には軽くなった頭に歓喜するボクが――
「いえ結構です。後ろは少しだけ梳いて、痛んだところだけカットでお願いします」
突然の聞き慣れた声。思わず声の方に目を向けると、
「なんでお母さんがここにいるの!?」
いつの間にやらお母さんが隣の椅子に座って雑誌を広げていた。
「なんでって、髪を染めにきたのよ」
お母さんの頭にはヘアカーラーがたくさん巻き付き、頭上にはドーナツ型の物体がクルクルと回っている。その様子からして、僕が来るよりもかなり前からお店にいたようだ。さっき店内を見回したときには誰もいないと思ったのに……隅にでも隠れていていたのか?
「お母さんは一週間も前から予約していたのよ」
「だったら教えてくれれば良かったのに」
「司の『はじめての美容室』をこっそり覗きたかったのよ」
某小さなお子様が生まれて初めて一人でお使いに行く番組タイトル風に言わないでほしい。
「初々しくて良かったわ」
「初々しいって、まさか最初からずっと覗いてたの!?」
お母さんは頷き、どこからともかくデジカメを取り出す。
「写真もバッチリよ」
あとでフォーマットしとこう。美衣に見られる前に。ともかく、お母さんがいるんじゃ作戦は失敗だ。大人しく前髪だけ切られよう。
「本当は最後までこっそり見守るつもりだったけれど、司が髪を切ろうとするから止めに来たのよ」
「その状態でよく動けたね……」
お母さんの背後にいる店員さんが苦笑している。なるほど。ご愁傷様です。お母さんについたのが運の尽きです。「それでは切りますね」と一言断りを入れてから、店員さんはボクの前髪にはさみを入れ始めた。銀色の髪がシャキッという音と共にパラパラと落ちていく。髪が服に付かないようにと被せられた布から腕を出すのを躊躇って、雑誌も読まずに鏡に映る自分や店員さんを見つめたり、店内を鏡越しに物色する。たまに店員さんと視線が合ってはニコリと微笑まれ、慌てて目をそらすという作業を何度も繰り返す。時々「髪綺麗ですね」やら「中学生ですか?」と話題を振られるも、緊張からか話が続かない。とりあえず最低限「高校生です!」と力強く反論だけはしてやった。
後ろの方は傷んだ髪はないということで、軽くするために梳いてもらった。長い銀髪が床に落ちていき、その度に頭が少しずつ軽くなっていくような気がした。気がしただけ。
「ところでお母さんのそれって、しら――」
「ただの髪染めよ」
言葉を遮られた。そうか。お母さんも今年で四十路だからなぁ……。なんてことを考えてたら睨まれた。
髪を切り終えたらシャンプーをしてもらった。仰向けにされている間、「顔にかけられた布がなかったら、真正面から見つめ合うことになって、凄く気まずいんだろうな」とくだらないことを考える。あー、髪洗ってもらうのって気持ちがいい。
しかし、その後の肩もみはかなり痛かった。ボクの肩を外しにかかってるんじゃないかと思うほどに痛かった。店員さんに悪いから「痛い」とは言えず、引きつる笑顔でなんとか耐えたけど。
そうして散髪を終えた。……正直どこをどう切ったのかさっぱりだ。少しだけ前髪が短くなったかなという程度。これで数千円だというから驚きだ。このお金でウニが何皿食べられたことか……。
「……で、お母さんは何してるの?」
「見て分かるでしょ? 司の髪を集めているのよ」
「集めてどうするの?」
「持って帰るのよ」
「……」
お店から引きずり出しました。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。