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前編
だ、大丈夫かな。何度も何度も鏡の前で上下左右を確認する。
黒い真新しいスーツ。アイロンをかけたシャツに、ピカピカのパンプス。上にあがった睫毛を不自然なほどまたたかせ、花は姿見の前でくるりと回った。これでたぶん十八回目である。
何度も練習した化粧は、これでよいのだろうか。母親に評価を尋ねたけれど、うんうんいいんじゃない? と目玉焼きを作りながらの生返事しかもらえなかった。不安ばかりが募ってしまう。
朝の早い時間だが、ここから学校まで電車を入れて三十分はかかる。途中でなにかあってもいけないし、花は早めに家を出ることにした。そういう約束を幼馴染とかわしている。
緊張にこわばる顔でパンプスにつま先を入れた。こげ茶色の皮バッグを肩にかけ、見える範囲をもう一度確認した。襟よし、スーツよし、スカートよし、パンプスよし。あとは――
最後に乱れてもいない髪を整えようかと思ったが、いってらっしゃいと母親に送り出されてしまって、うやむやのまま玄関を出た。
外は快晴。桜はもう散り始めているが、麗らかな春の陽気である。
「――花?」
父親の車の横をとおって道路へ出ると、隣の家の玄関から驚いた声が聞こえた。振り返ると、幼馴染が目を丸くして花を見ていた。花は困ったように眉をさげてから、ぐっと唇を噛みしめる。
「純ちゃん、おはよう」
スーツ姿の純太は、普段は細い目をこれでもかというくらい見開いている。
花はうつむきたくなる顔を必死にあげて、純太が出てくるのを待った。
「おまえ、え? なんで? どうしたんだよ、それ」
足早に横に並んだ純太は、あんぐりした顔で花の頭からつま先までをながめる。化粧をした姿を純太が見るのは初めてだ。髪を切ったのも染めたのも、化粧を習ったのも先週のこと。少しでもかわいらしく見えているだろうか。花は顔が赤くなるのがわかった。風呂でのぼせたときのように熱い。
ぎゅっと鞄の肩ひもを握って、純太の横をとおりぬける。行こう、と純太に先をうながした。
「彼女にするなら、こう、化粧もばっちりでさ。かわいい子だろやっぱり」
花は扉からもれてきた言葉に固まった。ドアノブに伸ばした手は、Cの形を作ったまま空にとどまる。隣のクラスの男の子の声だ。
「あー、俺はきれい系がいい」
「俺、顔より胸とか尻がでかい子。エロいとなおいい」
「処女は面倒だしな。慣れてる女がいいよ。――な、純太。おまえもだろ?」
かわるがわる言い合う笑い含みの声が、知っている名前に同意を求めた。ごくりと花の咽喉が鳴る。心臓がうるさいくらいに騒いでいる花をよそに、知っている声が不機嫌にこたえた。
「……決まってんだろ。おれに聞くなよバーカ」
ドッと室内で笑いが起きた。げらげら腹を抱えている男子。そこに混ざっている純太の仏頂面までも、見えなくてもわかってしまう。さすが、純ちゃん! おまえのぶれなさを尊敬する! 純ちゃんかっこい~! はやし立てる声は、呼吸も危うくなってひいひいいっている。そんな、笑いに満たされている水泳部の部室の前を、花は音を立てずにそっと後ずさる。一歩、二歩、さがって。足音に気をつけながら駆けた。
校門をすぎたところでようやく息を整えた花。その頭のなかは、今聞いてしまった男子の会話がぐるぐると回っている。膝に手をつくと、純太に渡すはずだったプリントがくしゃりと音を立てた。手汗でゆがんだその紙は、もうまっすぐには戻ってくれないだろう。
大きなため息を真っ白に染めながら、花はとぼとぼと帰路をたどった。まだ、寒さも厳しい二月のことだ。
花は地味な女子であった。
制服を着崩すことも、髪を染めることも、化粧をすることもなく卒業を迎えた。おしゃれには興味があったけれど、仲のよい友達もあまりそういうことに頓着しないタイプだったこともあり、質素にしていても奇異の目を集めることはなかった。まわりがみんなして化粧バリバリ、パンツが見えるくらいスカートが短いなんてことだったら、花も浮かないようにそうしていただろう。けれども、そうせずにすんでしまった。
かといって、身嗜みをおろそかにしているのかというと、月に一度は美容院に通っているし、日焼け止めとリップクリームは常に使っていた。高校に入ったころからスキンケアには気をつかっているし、まったく野暮というわけではない。が、地味。地味女子である。
そんな花が立ち聞きしてしまったのは、幼馴染の純太と、水泳部の仲間たちの会話。卒業も近いから、空いた時間に集まってわいわいやっているのは知っていた。だから担任に頼まれたプリントも、そこへ行けば渡せると思っていたのだ。まさか、こんなことになるとは思わなかったけれど。
男の人に慣れた、かわいくて、きれいな女の子。
純太の好みがそんな子であると初めて知った。まったく自分とは逆じゃないか。十八年、あんなにたくさんの時間を共有していたのに、気づきもせず、思いつきもしなかった。これからも同じ大学に通えるのだから、今までと同じような距離で隣に並べたらいいなとのんきに思っていた。
純太は生まれたときから隣の家に住んでいた。小さなころから水泳をやっていて、毎日毎日プールに通い、今では大会で優勝を重ねるような実力者だ。背は飛びぬけて高くはないが、がっちりした肩幅と分厚い胸板のおかげで大きな体である。運動ができない花と並ぶと、丸太と小枝。大きいしごついから、知らない女子からは怖がられていたようだ。
たしかに、目つきの鋭い顔も、大きな体も怖いけれど。水泳には人一倍努力を重ねて打ち込んでいたし、話してみると気さくで、不器用ながらも優しさがある。幼いころから知っている花にとっては、自慢の幼馴染で、実は淡い思いを寄せ続けている相手であった。
花は部屋で自分の顔をじっとながめた。鏡に映る色白でひ弱な女子は、見慣れた自分の顔だ。睫毛は下向きで小さく見える目。頬に赤みはなく、ぽってりしすぎな唇。
これじゃあ、だめだ。どうすればいいんだろう。今のままでは、彼の視界に入ることさえ危うい。
悩んで、悩んで、花は一大決心をした。――がんばって、彼の好みの女性になろう。脱・地味子である。
手初めに、美容院でヘアカラーのことを聞いてみた。中学生になったときから通っているそこでは、担当の美容師がいつも楽しく会話をしながら髪を整えてくれる。
長身で目のぱっちりした美容師は、花に似合う髪型を提案して、アレンジの仕方まで教えてくれるすごい人だ。彼に聞けば間違いないだろう。思った花に、彼は大きな目をまたたかせてからにっこり笑む。及び腰の花にいくつか質問を重ねると、すっかり心得たらしくヘアカラーはもちろん、メイクについても専門家の知り合いに話をとおしておくよなんて言ってくれたのだ。
そんなに本格的な話になるとは思っていなかったから、花は思い切り怯んだ。でも、せっかくだからちゃんと教わるといいよ。と笑った美容師の言葉に後押しされ、お言葉にあまえることにした。
無事に高校を卒業したあと、大学の入学までの間にもう一度美容院へといった花。
そのときには、担当の美容師はもちろん、彼の呼んだメイクアップアーティストとカメラマンまでやってきた。この美容院はスタジオも併設されていて、モデルを使った撮影もしているそうだ。
この日に来てくれたふたりと美容師は、よく組んで仕事をするのだと言っていた。
お小遣いでしかやりくりできない花が、買える範囲での化粧品を選ぶところから始まり、スキンケアのやり方、メイクの仕方、道具の使い方など、細かいところまで面倒をみてくれる。
ちょこっと写真を撮って宣伝に使わせてもらえれば、花ちゃんが必要な化粧品と、ヘアカラーの薬剤代だけでいいよ。俺からの卒業と入学祝。なんて笑った美容師は、一回きりのカットモデルという扱いで花の負担を減らしてくれた。
化粧をして、やり方も教わった花の髪を、最後に彼が整える。今まで肩甲骨まであった長さを、一気に肩上まで切ってしまった。そこから彼が楽しげに鋏を使い、前さがりのボブを作りあげる。こんなに短くしたのは久しぶりだ。
呆気にとられた花に、鋏を持った彼は髪色変えるならこうしたかったんだよねえ、とご機嫌に笑った。それから薬剤を塗られ、時間を置いて、シャンプーとコンディショナーをすませた花。大きな手が丁寧にブローしている間、鏡に写った自分に花の目はまん丸のままだった。これが、わたし?
最後にちょこっとだけ毛先を整えて、カットクロスをさらりとはずした美容師が、満足げに瞳を細める。とっても、かわいいよ。鏡越しにウインクした彼に、花の頬が赤く染まった。
それから慣れない撮影なんてものをして、三人には何度も何度もお礼を言って。
生まれ変わったみたいな自分に、足取りも軽く家へと帰る。やだあ! あんたどうしたの! 母親の喜びの悲鳴に出迎えられ、大きな一歩を踏み出したのだった。
メイクを教わっているとき、カメラマンが花のスマートフォンで動画を撮ってくれた。それを繰り返し見ながら、入学式までの間メイクの練習をした。大丈夫。美容師の彼が、メイクのお姉さんが、カメラマンのお兄さんが、花に持たせてくれた自信。かけてくれた魔法。
そんなものを携えて、今、花は入学の日を迎える。好きな彼に、魔法にかかった自分を見せる初めての日だ。
そして今、純太の驚き顔が目の前にある。
横からじっと見下ろす純太に、花の頬は勝手に赤くなってしまう。
「どうしたんだよ、急に。髪染めてるし、それ、化粧だってしてんだろ?」
大きな体を折って、花の顔を覗き込む純太。彼は心底、それはもうとっても、驚いているらしい。体に見合う大きさの声に、道行く人が驚いて視線を向けた。
ますます恥ずかしくなった花は、うつむきながら小さく口を開く。
「大学生だし、ちょっと、変わろうかと思って」
「ちょっとじゃねーだろ、変わりすぎだよおまえ。なんで? 大学生デビューなんて、今まで花は考えたこともなかったんじゃねーの?」
「……きょ、興味はあったもの」
さすがに一度にやりすぎたか。今回は髪の毛だけにして、徐々に化粧を覚えていく方がよかった? いや、でも、変わると決めたんだ。美容師たちだって、しっかり腕を振るって、花が覚えられるように力を貸してくれた。おかしなところなんて、ないはず。
真っ赤な顔の花から純太は目をそらさない。そんな答えでは納得できなかったのか、わずかに眉を寄せて食いさがる。
「でも、なんかあったんじゃないのか?」
絶対そうだろ、と譲らない純太に花はこっそりため息をこぼす。こうなると、純太は聞きだすまで折れることはない。
花は眉をさげて、迷いながら口を開いた。
「す、好きな人がいるんだけど」
「はあっ?!」
巣頓狂な大きな声に、道行く人が勢いよく振り返る。純ちゃんっ! 真っ赤になって咎める花の声も、周りの視線も、気にした様子のない純太は、がっしりと花の腕をつかんで詰め寄った。
「誰だよそれ」
ぐっと寄せた太い眉に、鋭くなった細い目。問い詰める低い声に、今度は花が驚いてしまう。純太のこんな顔は滅多に見ない。
しかも、誰だなんて。花は真っ赤な顔を純太からそらす。
「いくら純ちゃんでも、内緒だよそんなの」
ふいっと素っ気なさを装った花に、純太はぐっと言葉を飲みこんだ。花は視線を落として、おそるおそる先を続ける。
「……その人が、地味なのは嫌みたい。その、男の人に慣れている女の方がいいって、言ってたから、大学生になったし、がんばろうと思って」
こんなことを言ったらばれてしまうんじゃないか。ひやひやしながら、それでもきちんと言って、わたしだって純太の好みの範疇にいるのだと伝える。もう、地味だとか大人しそうだなんて言わせないもの。
頭を振ると、さらりと広がってすとんと整う髪の毛。上を向いた睫毛。自然な大きさでぱっちりとした目。ピンク色の頬に、透明感のある唇。
お姉さんが教えてくれたのは、花が思い描いていたがっつりした派手メイクではなく、どちらかというとナチュラルメイク。誰だかわからない、なんてことにはならないけれど、きちんと、化粧をしているとわかるものだった。
低くうなった純太は、ずっと前の方を睨んで口をへの字にしている。似合わなかっただろうか。それとも、彼の好みのきれいでかわいいとは違ったのだろうか。
「……おまえ、そいつと付き合いたいのかよ」
絞り出したかすれた声に、花の肩がびくりと跳ねる。付き合いたいか、どうか。
「そりゃあ、まあ、お付き合いできたら、うれしいよ。す、好きな人だもん」
つっかえつっかえ言うと、純太が自分の短い髪をがしがしと混ぜ、不機嫌に花を見下ろす。
「今まで付き合ったこと、あったっけ?」
「……ないよ」
「男と出かけたことは?」
「……ないよ」
純ちゃんかお父さんならあるけど。ぼそぼそ付け足しても、彼の機嫌は変らない。むっつり押し黙って花を見つめ、純太はため息をこぼす。
「おまえ、男と話すのだって得意じゃないくせに。付き合うと、手ぇつなぐとか、キスとか、エッチだってするんだぞ」
「し、知ってるよ、そんなこと。がんばるから、いいんだもん」
明け透けな言葉に、ぼっと顔が真っ赤になった。こんな道端で、朝からなにを言い出すんだ。恨みがましく睨むと、純太の強い視線と絡んでしまった。どきんと心臓が跳ねる。自分ばかりが振り回されている状態に、花は泣きそうになる。そんなにダメだったのだろうか。唇をとがらせて、込みあげてくる思いと、痛む鼻の奥を必死におさえて、花は純太から目をそらした。真新しいスーツ。さらさらな髪。整った顔。地味な女の子から、一歩前に飛び出せたと思ったのに。
しょんと肩が落ちた。美容師たちのかけてくれた魔法は、純太を前にするとあっという間に解けてしまうのか。泣きたかった。けれども、ここで泣くのはあまりにみじめだ。必死で花は気持ちがあふれないように押し込める。
黙ったまま歩いていた純太が、ゆっくりと口を開いた。
「花」
低い、聞き慣れた声が呼ぶ。それだけで、身を揺さぶられてしまう。
足元ばかりながめていた目で、おそるおそる隣をうかがう。まっすぐな純太の視線が花を捕えた。
「おれと練習するか?」
「えっ?」
純太の目は、そらされない。花の息を止める強さで、花をがっちり捕えたままだ。
「おれと一緒に出かけて、嫌じゃなければキスもして、練習するか? そうすれば、その、おまえの好きなやつにだって、慣れてるって思われるだろ」
想像もしていなかった純太の言葉に、花は口をぱくぱくさせる。言葉がうまく出てこない。しどろもどろになって紡いでも、それはとても弱弱しく戸惑ったものだった。
「練習って……純ちゃん、そんなの、よくないよ」
眉を八の字にして見あげても、純太はすっかり持ち前の落ち着きを取り戻したらしい。威風堂々とした佇まいで、やんわりと首を振った。
「おれとなら普通に話せるし、おまえが自然にそういうことができるまで、付き合ってもいいよ。花ががんばるなら、手伝う。おまえ、ぶつけ本番でうまくできるのか? このままだと、告白するところでボロが出るだろ」
どうだ? 尋ねていながら、純太は花が断るとは思っていないのだろう。当然、そうするだろ? 純太はいつもそうだ。いっつも、困っているときに助けてくれる。そしてそれがまた強引なんだ。
練習という名目で、純太と付き合う。花はどうしてよいのかさっぱりわからなかった。純太と付き合えるのはうれしい。うれしいけれど、それは花が誰かと付き合うための練習。それって、まったく花のことを自分の恋人にするつもりがないと言っているようなものなんじゃないのか。
ぐるぐる頭のなかで考えてしまって、気持ち悪くなる。どうしよう。普通なら、断る。純太の厚意を無碍にするが、そんな不純な動機で、真似事だとしても付き合うのはおかしい。
断ろう。はっきり、気持ちはうれしいけれど大丈夫だって、にっこり笑ってやろう。そうしないと、純太はいつまでたっても花のことを心配する。
しかし、純太の方が口を開くのが早かった。花を見下ろして、低い声で言う。
「な。それなら安心だろ。花、そうしよう。それが一番いい」
「う、うん」
あああああ、わたしのバカー!! 不甲斐ない自分に、花は内心で涙をこぼした。
見た目をいくら取り繕っても、中身は変わらない。たしかに、練習は必要だ。魔法だけではだめなのだ。
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