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【社会】

「この無惨、惨状、戦争は絶対いけない」 山崎豊子さん戦時下の日記

山崎豊子さんの1945年の日記。最初のページ=写真提供・山崎定樹/新潮社

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 「白い巨塔」「沈まぬ太陽」などで知られ一昨年、八十九歳で亡くなった作家の山崎豊子さんが、二十歳から二十一歳にかけてつけていた日記が堺市の旧宅で見つかった。太平洋戦争末期の一九四五年一月一日から約三カ月間の記録で、大阪大空襲の体験から「戦争は絶対いけないものだ」と書き、作家になる前の淡い恋もつづっている。 (中村陽子)

 山崎さんは大阪・船場(せんば)の老舗昆布商の家に生まれ、四四年に京都女子専門学校(現京都女子大)を繰り上げ卒業した。日記は卒業後に毎日新聞社で働き始めたころのもので、A5判のノート七十二ページ分。船場の商人たちを活写したデビュー作「暖簾(のれん)」の創作ノートや取材資料などと一緒に、段ボールに収められていた。

 山崎さんの担当編集者らが、三回忌に合わせた追悼展の準備のため資料を整理していて発見した。ペンで縦書きされ、表紙はちぎれていた。山崎さんの日記は他に残されておらず、デビュー前に書かれたものが見つかるのも初めて。

 大阪大空襲があった三月十三日からの日記には<忘れることの出来(でき)ない日>として自宅が焼失した様子を生々しく書き残してある。

 近くに焼夷(しょうい)弾が落とされ<もうここで遂(つい)にむしやきか>と観念しながらも、母をはげましながら火の海となった御堂筋を逃げる。しかし、自宅は焼失。一帯の焼け野原を見ながら<この無惨(むざん)、惨状、戦争は絶対いけないものだ。人類の不幸は戦争から始まるものだ><私の胸から一生忘れられない焼印だ>と実感を込める。

 数日後、安否の分からなくなっていた弟を捜しに行き<まさかと思っていた弟達にめぐりあえた時の幸福さには思わず声をあげて泣いた>とある。

 また、これまで知られていなかった恋の話も記されていた。相手のことを「N」というイニシャルにし、彼が出征してしまう前に<何とかしてもう一度会いたい>などと心の内を吐露している。

 おいで山崎豊子文化財団事務局長の山崎定樹(さだき)さんは「私の全く知らない叔母の一面。作家になる原点がここにあると感じる。あらためて知ることができてありがたい」と話す。日記の抄録は、新潮社が十五日に刊行する『山崎豊子スペシャル・ガイドブック』に収録される。

 同財団は日記発見の発表に合わせて、山崎さんの誕生日を訂正した。一九二四年十一月三日生まれとされていたが、実際は同年一月二日生まれだった。デビュー後に間違って記述されたものが広まり、訂正されないままだった。享年も八十八歳とされていたが八十九歳となる。

 

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