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ブロンド美女と日本人――物語のヒロインたちを中心に
NHKの朝の連続ドラマ「花子とアン」が高視聴率を記録して終了した。
今更書くまでもないかもしれないが、モンゴメリーの「赤毛のアン」を翻訳した村岡花子の生涯を映像化したものだ。
オープニングでは、「赤毛のアン」の舞台となったプリンスエドワード島の風景をアニメーションの赤毛の少女が駆けていく映像が使われていた。
現在放映中の「マッサン」は、日本人男性と結ばれたブロンド美人の「エリー」がヒロインだ。
朝のヒロインは、戦前の日本に欧米文学を導入した束髪・袴姿の日本人女性から、戦前の日本に降り立った金髪の異邦人女性そのものへと代替わりにしたのである。
少し前まで、やはり金髪碧眼の綺麗な奥さんが「タオルの借りを、返しに来ました!」と真っ白なタオルを掲げて微笑む洗剤のコマーシャルがあった。
日本のありふれた街角にひょっこり顔を出す、金髪に青い目の美女。
手垢にまみれているようだが、やはり目を惹き付ける色鮮やかさを持ったイメージである。
「青い眼をしたお人形は/アメリカ生れのセルロイド」の歌い出しで有名な、戦前の代表的な童謡として、野口雨情の「青い眼の人形」がある。
この歌詞だと髪の色までは明らかにされていないが、モデルになった人形の多くが青い目と金色の髪を組み合わせた造りになっており、そもそも「金髪碧眼」と半ば四字熟語として定着した表現からも明らかなように、ブロンドの髪と青い目はほぼセットになっている感触がある。
同じ野口雨情による「赤い靴」が、外国人に連れられて異邦に渡り、恐らくは二度と日本の土を踏むことはなかったであろう幼い少女の儚さ、可憐さを象徴する小道具であるのに対し、「青い眼」と「金髪」は異邦から日本に贈られた舶来品の人形、転じて人形のような美男美女白人のステレオタイプとなった。
戦後に売り出され、女児向け人形の定番となった「バービー」や「ジェニー」は、名前からして欧米人の女性を模ったものだが、風貌としてはプラチナブロンドがデフォルトだ。
また、設定としては日本人少女である「リカちゃん」も、当初は焦げ茶色の髪に釣り上がった切れ長の目をした「和美人」的な風貌だったが、その後、徐々にモデルチェンジして金髪に近い色合いになった。
日本人形や日本人そのものを特徴付ける黒髪は、特に敗戦後の社会においては、ウエットな情念や戦前社会の旧弊を彷彿させ、そこから怪談じみた怨念のイメージが纏いつくものとして忌まれるようになり、「白人的な金髪こそ最も美しい」という感覚が根付いた結果と思われる。
金髪碧眼のゲルマン民族の優位性を主張したナチス・ドイツは、第二次世界大戦では日本共々、敗れ去ったが、ナチス的な審美観は、タンポポの綿毛のように戦後の同盟国の中に漂着して根を下ろしてしまったのだろうか。
しかし、戦前から戦後までの日本に紹介され、深く定着した児童文学の少女たちは、必ずしも「金髪碧眼」のステレオタイプに当てはまる姿をしていたわけではない。
カナダのプリンスエドワード島を舞台にした孤児の少女アンの成長を綴った「赤毛のアン」シリーズ。
アメリカを舞台にして開拓者一家の運命を次女のローラを中心に描いた「大草原の小さな家」シリーズ。
この二つはアニメや実写のテレビドラマとのメディアミックスを含めて、翻訳された児童文学の中では金字塔とも言える地位を占めている。
「赤毛のアン」は村岡花子による邦題からも明らかなように(原題は『Anne of Green Gables』、直訳すると『グリーンゲイブルズのアン』といったタイトルだ)、ヒロインは燃え上がるように赤い髪をしている。
「キリストを裏切ったユダは赤毛」という俗説に象徴されるように、赤毛はキリスト教圏においては忌まれる特徴であり、作中のアンは自分の髪の色とそばかすだらけの顔をコンプレックスにしている。
ちなみに、親友のダイアナは黒髪であり、こちらが物語の舞台となった当時のプリンスエドワード島というか欧米では、美しいとされた。
アンの夫となるギルバートも作中では、「長身、黒髪のハンサム」と描写されている。
一方、「大草原の小さな家」の主人公のローラは茶色の髪であり、金髪を持つ年子の姉メアリーと自分の容姿を比べて、しばしば劣等感を覚えている。
このメアリーが少女期に失明して、生涯独身に終わり(テレビドラマでは結婚するが、実際には死ぬまで未婚だった)、ローラは富裕な青年アルマンゾと恋愛して結婚する展開は、事実とはいえ、何とも皮肉である。
あるいは、アンにせよ、ローラにせよ、ステレオタイプな金髪碧眼の美少女ではなく、むしろ容姿にどこかしらコンプレックスを抱きつつ、成長していく点に、ヒロインとして共感を持たれ、広く支持されるシリーズになったのかもしれない。
今や少女漫画の古典といった趣のある「キャンディ・キャンディ」だが、「孤児院から来たそばかすだらけの女の子」というヒロインの設定は、明らかに「赤毛のアン」を意識している。
舞台が厳然とした階級社会の成立したイギリス、ヒロインをいじめる意地悪な令嬢といった設定は、やはり児童文学の古典である「小公女」を連想させる。
ただし、「小公女」のセーラが父親の急死で経済的な後ろ盾を失ったために不遇に陥るのに対し、キャンディが周囲の上流階級の人々からしばしば心無い仕打ちを受けるのは、彼女がそもそも出自の不明な孤児であることに起因している。
風貌にもう少し着目すると、燃え上がるような赤毛の「アン・シャーリー」や品の良い黒髪の「セーラ・クルー」に対し、「キャンディ・ホワイト」とことさら「白人」の属性を強調した名を与えられたこのヒロインは、ふわふわした輝くばかりの金髪の巻き毛をリボンで結んだ愛らしい姿に描かれており、日本人の憧れる白人美少女の典型をなぞっている。
もちろん、これはアンやセーラのような先行作品のキャラクターとの差異化を図るためでもあろうが、漫画という表現の性格上、読者にとって視覚的に魅力ある容姿に描く必要性に駆られての措置に思える。
同じく少女漫画の古典となった「ベルサイユのばら」でも、ヒロインの男装の麗人オスカルは、波打つ金髪のロングヘアに描かれている。
日本人の中で、「ブロンドの美女」のイメージはなかなか強固なようである。
むろん、実際の欧米では、二〇〇一年にリーズ・ウィザースプーン主演で公開された「キューティ・ブロンド」のように「金髪の女性はセクシーだが頭は悪い」というネガティヴなレッテル貼りがしばしばなされる状況を皮肉った作品も制作されてはいる。
また、ミッチェルの「風と共に去りぬ」は、ヴィヴィアン・リー主演の映画と相まって、日本人にとっても大人の女性が読む古典という位置付けだが、「スカーレット(緋色)」と名付けられたヒロインは栗色の髪に緑色の目を持つ美女である。
小説中では喪服でパーティに出席した彼女が金髪の知り合いを遠巻きに眺め、「金髪で青目の女がどうして緑のドレスを着たがるのかしら」「あれはあたしにこそ一番合う色よ」と内心嘯く描写もある。
いわば、金髪碧眼に対する自分の優越性を主張しているのである。
しかし、「軽薄で頭は悪そうだ」という決め付けは、人目を引く華やかさや明るさへの嫉妬心を明らかに含んでいる。
また、わざわざ引き合いに出して、「自分の方が美しい」と強弁する行為も、金髪で青い目の容姿が美のスタンダードとしてもてはやされやすい状況を前提にしている。
実際、ディズニー作品のプリンセスたちを見ても、スカーレット的な栗色の髪を持つのは、「美女と野獣」のベルくらいしかいない。
黒髪の美女というと、白雪姫と「アラジン」のジャスミンがいるが、後者はアラビア系で、そもそもが白人がメインのディズニーキャラクターとしては異色の存在である。
ちなみに、赤毛のプリンセスは「リトル・マーメイド」のアリエル一人だが、劇中では悪役の魔女が黒髪の美女に化けて邪魔しようとする展開になっており、そこに白人にとってはエキゾチックな感触の強い黒髪に対する畏怖や不信も仄見える気もする(そもそも、ディズニーの悪役たちは概して黒と紫を基調にしたキャラクターデザインである)。
そして、金髪というと、まず、シンデレラと「眠れる森の美女」のオーロラ姫という、有名どころのおとぎ話のプリンセス二人がこれに該当する。
加えて、「ピノキオ」の女神や「ピーター・パン」のティンカー・ベルといった、人ならぬ美女たちもブロンドである。
こうしてみると、「金髪は美しい」という審美的感覚は、欧米においてもやはり普遍的なものと思わざるを得ない。
マリリン・モンローは本来黒だった髪を金に染め、エルヴィス・プレスリーは生来の金髪を黒く染めたという、アメリカの大衆文化の二大アイコンを巡る現実が示すように、金色に輝く髪は「純粋な白人」の記号なのだ。
話は変わって、「不思議の国のアリス」の世界をモチーフにした雑貨店「水曜日のアリス」の三号店が原宿にオープンしたとのニュースを最近、テレビで目にした。
大阪と名古屋にある一号店と二号店は今も入場規制をかけるほどの盛況ぶりだという。
報道を見る限り、「水曜日のアリス」は原版のジョン・テニエルの挿絵を基にした内装になっている。
このジョン・テニエルの挿絵のアリスは、軽くウエーヴした金髪を長く垂らした、端正な美少女である。
ディズニーがアニメ化したバージョンでも、アリスはやはりたっぷりした金髪にヘアバンドを着け、水色のワンピースに白いエプロンを纏った姿で描かれている。
だが、この物語のモデルとなったアリス・リデルの写真を見ると、セピア色の画像に収まった彼女の髪は明らかに黒く、しかも、少女時代はおかっぱ頭にしている。
作中のアリスを長い金髪を垂らした姿に描いたのは、挿絵を担当したテニエルによる改変と思われる。
おかっぱ頭ではなく長く垂らした髪にしたのは少年と紛らわしくないようにするためと考えられる。
いわば、長い髪は「少女」という性別を記号化したものだ。
しかし、髪の色をわざわざ金に変えたのは何故だろう。
異世界に入り込む少女の無垢さには、どこか重たい黒より光り輝く金の方が相応しいと判断したのだろうか。
月の女神ディアナは処女神だが、容姿としては金髪に青い目を持つとされている伝承が思い出される。
「セーラームーン」で月を司るヒロインの月野うさぎが、設定上は日本人であるにも関わらず、アニメでは黄色い髪に青紫の瞳を持たされているのは、この伝承を踏まえていると思われる。
ここでも、黒髪や栗色の髪をした他の美少女たちを抑えて、金髪碧眼の少女がヒロインである。
さて、ディズニーの最新作「アナと雪の女王」は、「ありのままで(let it go)」という主題歌も含めて日本でも話題を呼んだが、この作品は二人のヒロインを姉妹の設定で登場させている。
姉ヒロインはプラチナブロンドの髪に水色のドレスを着たキャラクターデザインであり、これはシンデレラや「ピノキオ」の女神、アリスにも通じる、典型的なディズニー美女の容姿である。
これに対し妹ヒロインは明るい栗色のお下げ髪(設定上は『赤毛』のようだが、3Dの映像だと『明るい栗色』に見える)に赤紫のケープを羽織った個性的な風貌を与えられている。
「アナ(Anna)」と名付けられたこの妹ヒロインは、その名前の響きといい、三つ編みのお下げにした赤毛の容姿といい、「赤毛のアン」を彷彿させる。
この映画の原題は「Frozen」で「凍り付いた」といった意味合いであり、ストーリーとしてはアンデルセンの「雪の女王」を翻案したものだ。
しかし、邦題では敢えて「アナと雪の女王」と妹の名を先頭に入れており、劇中で「エルサ」と固有の名を与えられている姉の「雪の女王」よりも、この赤毛の妹こそが物語の真の主人公だと印象付けるタイトルになっている。
「アナと雪の女王」の日本での記録的なヒットは、むろん、ディズニーブランドの集客力が根底にあるが、プラチナブロンドに水色のドレスを纏った古典的なディズニー美女と「赤毛のアン」風の少女の組み合わせが、幼い子を持つ親の世代に強いノスタルジーを引き起こしたからではないかと思う。
むろん、今は黒人(正確には白人と黒人のハーフ)のオバマ氏がアメリカの大統領に選ばれる時代であり、日本人の中でも「欧米的、白人的な美が必ずしも最上ではない」という意見が主流だ。
だが、「赤毛のアン」シリーズや「不思議の国のアリス」がリバイバルブーム的に再び注目され、金髪の「エリー」が朝のヒロインを務める風潮は、手軽に海外旅行が出来る時代になってもなお日本人の深層意識に残る「海の向こう」への憧憬を強く現しているように思う。
いや、気軽な海外旅行が可能になり、また、インターネットで現地の情報が容易に得られる時代だからこそ、もはや舞台となった土地でも失われてしまった「アン」や「アリス」の世界に惹き付けられるのかもしれない。
携帯電話でいつでもカラーの写真を撮って保存できる時勢だからこそ、自分が生まれるより前に撮影されたセピア色の写真に不思議な魅惑と郷愁を覚えるようにだ。
「赤毛のアン」や「不思議の国のアリス」が再注目されることで、日本人にとって新たな発見があれば良いと思う。
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