世界の建築様式 8.ルネサンス編 物語は、深夜パリのホテルに宿泊していたハーバード大学の教授ロバート・ラングドンのもとに、パリ警察の警部補ジェローム・コレが訪ねてくるところから始まる。ロバート教授がジェローム警部補から同行を求められ到着した場所はルーヴル美術館だった。そこで、ロバート教授は、ルーヴル美術館長ジャック・ソニエールが死体で発見されたと伝えられる。その死体には不可解なコード(暗号)が残されていた。パリ警察はロバート教授に暗号解読の手助けを頼む・・・ これは、アメリカで2003年に出版されたダン・ブラウンの長編推理小説「ダ・ヴィンチ・コード」の書き出しの部分を筆者が要約したものである。「ダ・ヴィンチ・コード」は、ルネサンスを代表する芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチの作品に隠された暗号を解き明かし、事件の裏に秘められたキリスト教をめぐる人類史上最大の秘密に迫る世界的ベストセラーである。目的は、キリスト教そのものを根底からひっくり返すほどの秘密を、ダ・ヴィンチが作品の中に封印しているコード(暗号)で解明することだ。なお、「ダ・ヴィンチ・コード」は、歴史的な事実を独自の視点で解析してみせながら、登場人物を取り巻くミステリーも用意している。 小説は、コロンビア・ピクチャーズによって映画化され、2006年5月20日に全世界で公開された。上記の出だし部分の要約は小説に基づくもので、映画のストーリーとは若干異なる。 ルーヴル美術館長ジャック・ソニエールは、ダ・ヴィンチの作品「ウィトルウィウス的人体図」を模した形で殺害されていた。その死のメッセージを解読し、ダ・ヴィンチ自身の残した「岩窟の聖母」「モナ・リザ」「最後の晩餐」などの絵画に隠された暗号を解き明かすうちに、被害者が守っていたキリスト教に関する重大な秘密を知る。その秘密を奪うために被害者や他の秘密の守人を殺害した敬虔なカトリックの一派が、主人公たちを亡き者にする為に2人の主人公を追い始める・・・ ● ウィトルウィウス的人体図 ルネサンスは、中世のキリスト教が束縛していた人間の思考を開放し、リアルな人間を肯定することであった。人々は、人間中心の新しい生き方の手本を、自分たちと同様に都市生活を営み、しかもキリスト教の束縛に縛られないで自由に生きた古代ギリシア・ローマの人々の生活・考え方に求め、彼らの残した作品を深く研究し、復興することにより、新しい生き方を追求しようとした。 ルネサンスは、忘れられていた古典古代の文化(古代ギリシア・ローマの時代の文化)を復興する文化運動であり、建築の面ではそれまで主流であったゴシック建築の技法を否定し、古代ローマの建築を再生する活動であった。ルネサンスの芸術家は、建築を科学と芸術の領域として位置付け、古代の人びとが考案した建築のあるべき姿を復興しようと考えていた。従来の建築は職人の技とのみ考えられていたが、建築技術を数学的に体系化することで、幾何学・音楽・天文学と並ぶ学問と認められるようにしたのである。芸術家には数学は必須だった。ルネサンスの建築家は、建築に関わる考察を建築書として書物に著した。そして、建築を人体との類推で捉え、建築の人間化を行った。 「ウィトルウィウス的人体図」は、1492年にダ・ヴィンチがフィレンツェで描いたもので、紀元前25年頃、ローマの建築家マルクス・ウィトルウィウス・ポリオが書いた建築理論書「建築十書」の人体比例の部分を参考にしたものである。ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」は、ルネサンス期の芸術・建築・科学の基本ともいえる作品である。 「ダ・ヴィンチ・コード」の"コード" とは、スペルはcodeで、電気のコードcordではなく、記号・符号・暗号などの意味である。したがって、「ダ・ヴィンチ・コード」とは、レオナルド・ダ・ヴィンチが作品の中に秘めた暗号のことである。なお、スーパー等のレジで読み取らせる商品のバーコードなどのコードは、記号・符号という意味のcodeである。 小説「ダ・ヴィンチ・コード」には、ダ・ヴィンチの複数の作品について謎解きが書かれている。例えば、壁画「最後の晩餐」では、聖ヨハネをマグダラのマリヤとして描いているといったダ・ヴィンチのコードが登場する。しかし、ここでは、このブログのテーマに基づき建築と関連のある部分についてのみ記述することとする。 「ダ・ヴィンチ・コード」中巻P.84に、" 解読できる聡明さを備えた者だけに読む資格が与えられる!" と書かれている。ならば、解読してみよう。 「ダ・ヴィンチ・コード」に関連して、学術書「建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ 〜 ルネサンス期の理想都市像」(中公新書)を読んだので、それも参考にしながら、先ずは、ダ・ヴィンチが「ウィトルウィウス的人体図」の中に隠したルネサンス建築のコードを解明することとする。 ● 黄金比 さて、「ウィトルウィウス的人体図」は、一人の男の全裸像のスケッチだ。手を広げた男性の周囲に、"掌は指4本の幅と等しい。足の長さは掌の幅の4倍と等しい。肘から指先の長さは掌の幅の6倍と等しい" といった「人体の調和」について書かれている。 それは、「人体は円と正方形に内接する」という人体図のウィトルウィウス・ポリオの記述を引用していると言われている。「美しい人体のプロポーションは、幾何学と一致する」と。「建築十書」には、人体の調和に基づいて、神殿の円柱基部の直径を1モドゥルス、すなわち寸法の基本単位として、柱の高さや柱間など神殿各部の寸法を導く方法が詳述されている。「建築十書」の人体比例の部分で示していることは、「自然の神理図形」であり、いわゆる「黄金比」のことである。 ダ・ヴィンチのこの「ウィトルウィウス的人体図」は、人体比例を示すからといって、画家のための人物画の手引きとして掲げられたのではない。ウィトルウィウスがたとえば顔立ちの比例関係について述べている箇所があるが、それらを含めて、こうした論議はすべて建築設計のためのアナロジーとして述べているのである。美しい人体がみごとな比例関係に従っているように、建築もそうあるべきだというのである。 ダ・ヴィンチが活躍した頃のイタリアでは、キリスト教中心だった中世を否定して、古代ギリシアや古代ローマの文化を理想としてそれを再びよみがえらせようとする「ルネサンス」が生まれていた。ルネサンスは日本語で「再生」と訳されている。ルネサンスの動きは、商工業で豊かになった共和政の都市国家、中部イタリアのフィレンツェで興った。経済合理性の高い都市国家で育ち、深い教養を身につけるようになった人は、再生すべきものとして、ローマなど古典古代の文化を再発見していった。ルネサンスは、神と来世に向けた考え方から、人間と現世に向けた考え方への転換である。それは、古典古代に生まれた芸術の復活・再生ととらえているものである。ルネサンスは、古典古代文化から人間的なものを学び取り、現実世界により多くの関心を向けた古代ローマへの再生活動だったのである。建築でも、明快な数学的比例とオーダー(定式)など古代建築の規範に基づくものが求められることになった。 ウイトルウィウスの書いた「建築十書」は、古代ローマから伝わった唯一の建築理論書であり、人類最古の建築書である。ルネサンス期の建築家・芸術家の必読の書となっていた。ダ・ヴィンチもこれを読み、自分のデザイン創造のために役立てたものである。 「建築十書」が現在に伝わるのは、フランク王国の国王カール大帝によるカロリング朝ルネサンスの賜物である。他のラテン語著作と同様、このとき作られた多くの筆耕本によってこの本は伝えられた。ウィトルウィウスの理論は中世においても知られていたが、ルネサンス期の建築家に特に注目され、ロココ期の次に来る新古典主義建築に到るまで古典的建築の基準として影響を与えた。 ウイトルウィウスの「建築十書」そしてダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」に秘められた「黄金比」は、自然や美術作品の形態美を規定している各種の比例の中で古来もっとも理想的とされ、その意味で特に黄金の名を冠せられてきた比例法である。なお、黄金比を利用して線分を分割して構造物を構成することを「黄金分割」という。 ダ・ヴィンチの絵画の三部作は、「岩窟の聖母」「最後の晩餐」「モナ・リザ」であるが、ダ・ヴィンチは、それぞれに、この1:1.618 の黄金比を隠している。この比率はあらゆる美の基準となり得、顔の美しさを説明することもできる。 黄金比は、造形において最も美しいとされる短辺と長辺の比率で、エジプトの「ピラミッド」の底辺の長さと高さの比率やギリシアの「パルテノン神殿」も、この黄金比が使われている。黄金比でいう短辺と長辺の比率は1:(1+√5)/2 = 1: 1.618033988・・・ である。 (1+√5)/2 は無理数だが、 計算すると、だいたい1.618である。「ウィトルウィウス的人体図」において、頭から足先までの長さと、臍から足先までの長さの比率、肩から指先までの長さと肘から指先までの長さ、腰から足先までの長さと膝から足先までの長さはすべて1:1.618の比率で描かれていて、理想の人体図になっている。 長辺と短辺の長さの比が、約1.618対1になっている矩形(長方形)、つまり黄金比を持つ矩形(長方形)は、古くから最も均整のとれた美しい形として今日に受け継がれている形であり、それを「黄金矩形」という。テレビのワイドスクリーンのサイズ、携帯電話のサイズ、名刺のサイズ、キャッシュカード、クレジットカード、各種ICカードなどのサイズも黄金矩形に近いものである。 黄金比の値は、数学の世界で有名な「フィボナッチ数列」から導き出される。「フィボナッチ数列」は、イタリアの数学者レオナルド・フィボナッチが、1202年に著わした「算術の書」の中で、「ウサギの出生率に関する数学的解法」として書いた比率である。ここに書かれている問題とは「一つがいの子兎がいる。子兎は一ヶ月経つと親兎になり、更に一ヵ月後から毎月一つがいの子兎を産むようになる。どの兎も死なないものとして、一年後には何つがいの兎になっているか?」というものである。各対の数をみてみると、フィボナッチ数列になる。 ある月のウサギのつがいの数(最初は1)と次の月のつがいの数(これも最初は1)を足せばその次のつがいの数になることがわかる。結果だけを書くと下記の通りとなる。 1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89,144 つまり、1年後には144のつがいになるというのが答である。ウサギだけではなく、自然界の現象に数多く出現する数列である。 「フィボナッチ数列」は、ダ・ヴィンチ・コードでパスワードに使われていた数列である。「フィボナッチ数列」とは「前の2つの数を加えると次の数になる」という数列である。その数列は、0,1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89,144,233・・・と続く。黄金比は、このフィボナッチ数列との間に隠された関係がある。 それは、フィボナッチ数列の2つの連続する数の比をとると、その比が次第に黄金比(約1:1.618または約0.618:1)に近づいてくる、という性質である。つまり "フィボナッチ数列の隣同士の数の比は、黄金比の近似的な値が並んでいる" ということだ。フィボナッチ数列から導き出された1.618033988・・・(約1.618)を、「黄金数φ(ファイ)」という。 また、「ダ・ヴィンチ・コード」の中に「五芒星」(ごぼうせい:ペンタクル"pentacle")が出てくる。五芒星は、単純ながらも黄金比を数多く含み、美しい図形の代表格とされた。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」で、イエス・キリストの右コメカミを中心に五芒星を置いて、黄金比展開をとっている。 「ダ・ヴィンチ・コード」には「黄金比」のことが詳しく書かれている。そして、このフィボナッチ数列が暗号として出てくる。また、五芒星の黄金比展開の話も登場する。ダ・ヴィンチ・コードの暗号を解明した値である黄金数φ(1.618)こそが、絵画、彫刻、建築、土木、人体、その他の科学技術に通じたルネサンスにおけるダ・ヴィンチ・コードの解読結果なのである。そして、それこそがルネサンス建築の真髄である。「ダ・ヴィンチ・コード」の物語の真相を解明する鍵は、以上のレオナルド・ダ・ヴィンチの絵とルネサンスの思想の中に隠されていた。 ● ルネサンスと発祥地フィレンツェ カトリック教会に支配された中世は、前述の通り、神と来世が思想の中心だった。ルネサンスはそれを再び人間と現世に向けた。そこでこの運動はヒューマニズム(人文主義)とも呼ばれ、人間性を真理や価値の基礎とする現代のヒューマニズムの端緒となっている。 ルネサンスの動きは、15世紀、商工業で豊かな富を蓄えた共和政の都市国家、中部イタリアのフィレンツェで始まった。フィレンツェは、現在のイタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県に属する人口36万人の都市である。 古代においてフィレンツェは、イタリア先住民族のエトルリア人によって街として建設され一大王国として発展したが、やがてローマ帝国のカエサルの時代にローマの植民都市となった。街の名前は、カエサルが退役軍人に与えた土地を兵士達が繁栄を願って、花の女神フローラと言う意味で「フローレンティア」(Florentia)と名付けたのが語源とされている。それが変化して「フィレンツェ」(Firenze)になった。 周辺国では、フィレンツェのことを Florence(英語読み:フローレンス.フランス語読み:フロランス)、Florenz(ドイツ語:フロレンツ)、Florencia(スペイン語:フロレンシア)と呼ぶことにもその名残が見られる。 フィレンツェの街は、紀元2世紀頃、一時絶頂期を迎えたが、その後の民族大移動により次々に支配者が替わり、再び活気を取り戻したのは神聖ローマ帝国のカール大帝、そしてオットー1世が支配する時代(9〜10世紀)になってからである。12世紀には自治体としての都市国家が誕生するまでに発展した。以降、内では神聖ローマ帝国皇帝派と法王派との抗争、外では領土拡張のために都市国家シエナ、ピサとの戦いに明け暮れることになったが、フィレンツェの街は金融、毛織物、絹織物の産地、貿易での発展を続け、15世紀から16世紀にかけては絶頂期を迎え、フィレンツェにおける金融業者であり支配者でもあったメディチ家の庇護のもとルネサンス運動の中心地としてイタリア、ヨーロッパ全土に多大な影響を与えた。 ● ルネサンスの3巨匠とフィレンツエ ルネサンスの三大巨匠に数えられる芸術家がいる。中世イタリアのルネサンス期に活躍した芸術家・建築家のうち後世に影響の大きい三人を指す。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの3人である。いずれもフィレンツェと深いつながりがある。
● ルネサンスの中心はローマへ ルネサンスの発祥地ともいえるフィレンツェでは、大富豪のメディチ家が市政を握り、同時に芸術家の後援者(パトロン)として支配していた。しかし、メディチ家最盛時の当主ロレンツォ・デ・メディチが43歳の若さで病死すると、息子のピエロが家督を継ぐが、1494年、イタリア戦争でフランス軍の侵攻に対する対処を誤り、市民の怒りを買ってしまう。メディチ家はフィレンツェを追放され、メディチ銀行も破綻した。メディチ家は失脚し、ルネサンスの中心はローマに移っていく。 実は、当時のローマ教皇レオ10世も、メディチ家の出身だった。レオ10世は、前教皇からサン・ピエトロ大聖堂の修築を受け継ぎ、ここにルネサンス精神とカトリック信仰を結合させた、壮麗な建築を完成に導く。レオ10世の命により、ミケランジェロとラファエロがこの事業に携わり、ルネサンス芸術の傑作を残した。 メディチ家崩壊後の、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロはどのようになったのであろうか。 ダ・ヴィンチ メディチ家崩壊前の1482年、ダ・ヴィンチは、新たな挑戦と生活のための資金を求めて、フィレンツェで製作中だった絵画「東方三賢者の礼拝」の任務を捨て、ミラノ大公の宮廷芸術家としてミラノへ移った。ダ・ヴィンチはミラノで、建築家ドナート・ブラマンテと出会う。この2人がミラノでともに過ごした時期は、2人の間でルネサンス建築の古典期のいくつかの根本的な原理が完熟していく時期であった。ダ・ヴィンチの芸術家および科学者としてのレベルは最高潮へと登りつめていく。ブラマンテが内陣部、交差部を建設していた「サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ聖堂付属修道院」の食堂に、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を描いたのも2人の協力関係の結晶であった。 ミケランジェロ ミケランジェロは、メディチ家・ローマ教皇に仕えた彫刻家・画家・建築家として天才を発揮し、詩人でもあった。フィレンツェでメディチ家が追放された後、1506年、ミケランジェロはローマ教皇ユリウス2世からローマに呼ばれた。そして1508年、システィーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられた。完成したのが、あの有名な「最後の審判」である。ミケランジェロの強い意志と個性、非凡な才能は、彫刻作品では「ピエタ」「ダヴィデ」「ロンダニーニのピエタ」、絵画では「ドーニ家のマドンナ」や、何といってもシスティナ礼拝堂の壁画「最後の審判」だ。 ラファエロ ラファエロは、盛期ルネサンス期を代表する画家、建築家である。建築家ドナート・ブラマンテの勧めで1508年にローマを訪れたラファエロは、ローマ教皇ユリウス2世に雇われ、1509年からヴァチカン宮殿の署名の間、ヘリオドロスの間を手がけた。署名の間に描いたルネサンス芸術屈指の名作「アテネの学堂(アテナイの学堂)」を初めとする壁画群は、その天分を遺憾なく発揮したものとして高い評価を得ている。ラファエロは、ローマで自らの様式を開花させ、1512年頃と推測される絵画「サン・シストの聖母」をはじめとする傑作を数多く作成した。聖母マリアと幼子イエスを描いた多くの作品により、聖母の画家としての異名を持つ。画家として多くの弟子や協力者を指導しながら、次々と大きな事業を手がける一方で、ヴァチカンの宮廷人としても活躍した。 ● ルネサンス様式について ここで、ルネサンス様式について概観してみる。 ルネサンスは14―15世紀のイタリアをはじめとするヨーロッパ世界に興った広範な文化革新の呼び名である。 本質的にルネッサンスはイタリアのものであるが、 15世紀、フィレンツエで起こったルネサンス運動は、たちまちアルプスを越え全ヨーロッパに広まった。 1400年代から1500年代にわたるイタリアのルネサンスは、大きく3つの時期に分けることができる。(1)フィレンツェを中心とする様式の勃興期である15世紀の初期ルネサンス、(2)ローマに各地から人が集まった16世紀初頭1530年頃までの盛期ルネサンス、(3)そしてそれ以降16世紀末までのマニエリスムの時代である。 建築面でも、古代建築を懐かしむような明るく単純明快な正円アーチと直線が尊重され、宮殿、城郭、商館、教会などに取り入れられた。 特に教会建築では、装飾過多で建築年数が長いゴシックに替って、大きい丸いドームに整然と調和のとれた明るいものが好まれ、ルネサンス様式と呼ばれた。 ゴシック様式がロマネスク様式の発展形態として生まれたのに対し、ルネサンス様式はゴシック様式を真っ向から否定するところから生まれた。装飾的になりすぎたゴシックに対して、正円アーチと直線による整然とした配置のルネサンス様式は、15世紀から16世紀にかけて流行した。造形において、透視図法等をはじめとする視覚の問題としての表現が強く現れている。 建築においては、ルネサンス様式では、装飾過多なゴシック様式の尖頭アーチに代わり、古代建築と同じ単純明快な正円アーチと直線が尊重されている。円頭アーチのうち、幾何学的に正確な半円になっているものは正円アーチと呼ばれ、ルネサンス様式の特徴の一つとなっている。 その代表的建物にフィレンツェにあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂がある。その後フランス・ルネサンス建築、イギリス・ルネサンス建築、スペイン、ポルトガルと広範囲に展開されている。 晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチを招聘し保護したフランソワ1世は、11世紀以来、王家の狩猟場として愛されたフォンテーヌブローの森に、16世紀前半、フランス初の本格的なルネサンス様式の豪華な宮殿「フォンテーヌブロー宮殿」を建築した。フランス屈指の広さと美しさを誇り、以後のフランスの歴代の王たちが最も愛した宮殿である。 日本での主なルネサンス様式の建築物に、日本銀行本店旧館、日本橋三越本店、日本橋高島屋などがある。 ルネサンス様式の延長線上に、17世紀のヨーロッパではバロック様式が発達する。また、バロック様式全盛期の18世紀、フランスでは、より夢幻的な、優雅さを重んじる室内装飾としてロココ様式が起り、宮殿、教会などに盛んに取り入れられた。これらについては、次のテーマとする。 ------------------------------------------------------------------------------- MyPage リンク: 世界の建築様式 7.ゴシック編 http://matiere.at.webry.info/201004/article_4.html ------------------------------------------------------------------------------- 参考サイト: (tabi-taro.com) ★ダ・ヴィンチ・コード http://tabi-taro.com/7books/davinci/davinci-codes-top.htm ★天使と悪魔 http://tabi-taro.com/record/italy/4.htm 参照資料/引用資料 詳説 世界史研究」 山川出版社 「西洋建築様式」 美術出版社 「西洋建築様式史(下)」鹿島出版会 「ダ・ヴィンチ・コード (上)(中)(下)」角川文庫 「建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ」中公新書 「西洋名画の謎」日本アート・センター ------------------------------------------------------------------------------- |
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