川上量生氏の「コンテンツの秘密-ぼくがジブリで考えたこと」を読んでの感想というか苦情
を読みましたが,論法がいろいろ強引で納得し兼ねました。
P210あたりで,一流クリエイターの主張が,理屈と感性とどちらが主かというと感性と仰ったのは,一流クリエイターなる者が,実のところ所詮は世界を変えるような主張がないという根源に行き着いていると思います。
だって,”理屈”っていま一番問題となっていますが,憲法なり,”法治国家”の重要性(w)として何千年と人類から受け継がれてきたことです。
それよりも自分の感性が優れているなんて,一流クリエイター氏の思い上がりもいいところです。
感性よりも理屈の方が上なのです。
理屈が通っているからこそ人々から理解される。
例えば,宮崎駿の感性を世界の何パーセントが理解するかというと,半数に満たないと考えます。
そして,一流クリエイターでさえ例えようもない感性を理屈で説明できたとき,茂木健一郎(@kenichiromogi)が主張する”アハ体験”に結実すると私は考えます。
川上さんが仰る確たるヴィジョンがあってこそ,感性を理屈で説明できるだけの,カエサルの言う”持続する意思”を持てるのだと私は考えます。
この本からは,宮崎駿でさえも,感性を理屈で説明できるだけの”持続する意思”を持ってないことが暴露されただけと私は思います。
P213の,
”人間の脳は(略)新しいものを見て,良いか悪いかを判断するだけであれば得意です。”
この文章もダウト。
確かに人間は自分勝手に得意と思っているでしょうが,それが人類普遍の理屈に合うかどうかまで判断しているかというと違うと考えます。
一流クリエイターでさえ説明を放棄しているのですから。
けれども,人類にあまねく概念を理解してもらうためには,理屈を通すしかない。
逆にいえば,理屈を通せる人間こそがプロデューサーとも思います。
また,P213最後の,
”他人のアイデアを否定して,使えそうな部分のみを取り込み~”
という記載も,”宮崎駿でさえも,感性を理屈で説明できるだけの”持続する意思”を持ってないことが暴露されただけ”という私の考えの補強にしかなっていないと考えます。
さらに突っ込むと,P216最終行の天才の定義もダウト。
私が考える天才の定義は,
”自分のヴィジョンを表現して人々から理解されるまでのストーリーをシミュレーションし,理解されなくとも何度でも繰り返し,最後まで実行できる人”
です。
例えばカエサルのガリア戦記はコンテンツですか?
いやもちろん文学作品としてはコンテンツでもありますが,ある戦いでカエサルがどう動いたかとか,それはコンテンツではないですよね。
本当の天才はコンテンツに拘らず,自分の主張を世界に広めると考えます。
この本は,コンテンツについて記載したにも関わらず,天才について主張し出したことで,主張が一貫していないと感じます。
私から見るに,高畑勲も宮崎駿も,秀才でこそあれ天才ではありません。
だって,自分の考えを世界中あまねく広めることができなかったからです。
彼らが広められたのはあくまで”アニメーション”なり”映画”なりの世界に限定されます。
言い換えれば,彼らは自己主張をし尽くすことをせず,コンテンツの枠組みで褒められることに満足してしまったのです。
そう思いませんか?
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