軍艦島の頂上は訪れる人がかなり少ない場所だ:ここは炭坑を取り仕切っていた上部の人間が住んでいた場所なのだ。ここから、全ての炭坑労働者とその家族の運命を操っていた。島の人口は1959年には5259名にも達した。その頃の軍艦島は、どんな様子だったのだろう?コンクリートで出来た楽園のような島だったのか、それとも幽霊が語っている地獄のようなところだったのか?
もし軍艦島が何なのか知らないなら、私がこの廃墟と化した島について書いた軍艦島のページを読んで欲しい 。
頂上への半ばで
韓国労働者
軍艦島での生活に関するほとんどの報告は、韓国労働者によるものだ。 第二次世界大戦の直接被害者と言える朝鮮人たちは、中国人捕虜とともに、ここの炭坑で働くために強制連行されてきた。防具等はほとんどない状態で働かされ、栄養失調(残り物の豆とイワシを玄米と煮たもの)と到底こなせない量の重労働に苦しんだ。
上る途中
これら労働者は地下1キロの深さに送られ、45度を超える温度の中、ほとんどしゃがんだ状態で危険なトンネルの中でぎゅうぎゅう詰めで働いた。死者は月に4−5人を軽く超えた。死体は近くの中ノ島に送られ埋められた。
三菱の地獄の目
労働後は、住居である島の南岸に並んで建っているビルに帰った。小さな部屋に7−8人が住まわされ、見えるのは海だけだった。
役員の部屋
妻や家族から引き離され(妻の多くは日本軍の慰安婦として連行された)、島から追放されるようにわざと怪我をしたり、近くの島に泳いで逃げたり(捕まって殴られるリスクを伴う)、中には窓から飛び降り自殺をする者もいた。彼らにとって、軍艦島はアルカトラズ刑務所のような所だったが、精神的にはアウシュビッツのほうが似ているだろう。
アパート
1939年から1945年の間に島で働かされた500人の朝鮮人のうち120人がここで死んだ。この時期、1941年には端島炭鉱は大きな軍事需要の結果として、最大量の石炭を産出した。
通路
何とかこのつらい年月を生き残った人々は、その後今度は長崎に送られ、原爆の残骸を片付けさせられた。この島から逃げ延びた人たちはラッキーだ。三菱はいまだにこの被害者たちに謝罪するのを拒んでいる。
台所
軍艦島のこのてっぺんには、三菱に任命された拷問者が住み、捕虜を山のように積み込んだ「地獄行きの船」が到着するのを心待ちにしていた。この地獄船ももちろん三菱製だ。朝鮮人労働者の惨い話を聞くと、島での暮らしは、我々が想像するような素敵なものでもロマンチックなものでもない。
長崎の海岸
住民のためのエデンの園
日本人側からは、そんなものすごい話はあまり聞かない。高齢者の多くは、島に帰ったり、その話をしたくはないようだ。1954年に島で生まれ、現在軍艦島を世界遺産に登録するための団体を主催している坂本道徳氏とは随分違う。
東京のラブホテルのみたいだ!
しかし、とても素晴らしい旅行雑誌である「ジオ」(フランス版の「ナショナル・ジオグラフィック」)が最近、軍艦島に関する記事を書いた。その最初の行にはこう書かれていた。「この島は、炭坑であり、街であり、住人にとってはエデンの園であった。」私が無知なのかもしれないが、この「エデンの園」と言う言葉がしっくり来ず、この意味を調べてみようと思った。辞書にはこう書かれていた。「聖書に最初の人間夫婦が住んだと書かれている地球上の楽園」または「喜びの場所、特に自然が豊かで、無垢でシンプルな原始的に完璧な幸福の状態」と。この定義は北朝鮮にはぴったりだ(と思わないだろうか?絶対にキム氏はそう言うぞ)。しかし、軍艦島には緑などほとんど無いに等しかった。この島の別名「緑無き島」のほうが、もっと当てはまっている。
Block X
まあ、あまり固く考えず、島の古い住民や雑誌がなんと言っているか見てみよう。
坂本道徳氏の他に、4人の日本人がいた。ノモ・ヒデコ(鉱夫の妻)、この島で生まれ育ったカジ・ヒデオとキモト・タイチ、そして1939年に18歳で働き始めて島が閉鎖になってしまうまで働いていた福留氏だ。
日没時
福留氏は、高給とほとんどただに近い家賃に惹かれて軍艦島にやってきた。氏が島に33年もずっと住み続けたあと離島し、その後やっと30年ぶりに戻ってくることが出来たという事実を考えると、その口調に哀愁が漂っているのも納得出来る。生活はかなり危険だったが、当時は危険というのはかなり当たり前の時代だった。しょうがない!福留氏はさらに島での入浴時のとこも思い出して語った。「一番目の風呂には、ヘルメットや靴、服なんか全部を着たまま入って、それから次の二番目の風呂に入るんだ。」その後は端島銀座に繰り出して夜を締めくくる(ここにはほとんどの建物がある。私のもう1つの記事 軍艦島:迷路と地獄段では主にこのあたりのことを書いている)。
西海岸
主婦のノモ・ヒデコは、テレビ、冷蔵庫、洗濯機(道理でまずは服を着たまま風呂に入らなければならなかったはずだ)を持っていたと皆に語っている。生活は快適で、用事や家事をしたり、近所の人たちとお茶を飲んだりおしゃべりして、日々暮らしたと言っている。嵐になると、皆で島の岸壁に行き、海を見物したそうだ。とてものどかな感じだが、言ってみれば、普通の主婦の型にはまった単調な日常だ。
軍艦島灯台
例の雑誌には、閉鉱のことを聞いた鉱夫たちは、皆一様にショックを受け、悲しみで頭をうなだれたと書かれている。その後、皆はほんの身の回り品だけ持って、ほとんどのものを残したまま去ってしまった。またいつか鉱山が再開することを願っていたからだ。あの島のてっぺんに住んでいた、お偉い方の反応はその正反対だった。部屋は完全に空になり、後には何も残されていなかった。そしてこの役員たちからの話は、現在に至るまでどこにも見つからない。
端島銀座
端島に昔住んでいた人たちは、ここを「故郷」だと思っている。さらに、前出のノモ・ヒデコの美しい話に加えて、是非この、もう一人の軍艦島出身の方のイラストを見て欲しい。「 リトルスノー 」だ。
したがって、戦争捕虜には地獄のような島であった軍艦島も、日本人関係者やその家族にとっては、本物の楽園のようだった。
軍艦島の世界遺産への道
坂本道徳氏が代表を務める団体「軍艦島を世界遺産にする会 」はユネスコの世界遺産として、軍艦島を登録することを目的としている。雑誌ジオには、坂本氏のゴールは「ユネスコに端島が認定を受けることで、その歴史を伝え故郷としての地位を確実に出来る」ことであると、書かれている。驚くことでもないが、近年、これに対し韓国側は反対声明を出しており、特に日本が謝罪を拒否したということを指摘している(いつものこと)。それとは反対に、自国内で殺し合ったドイツは、アウシュビッツ強制収容所を何の問題も無くユネスコに世界遺産として登録済みだ!
光線が面白くなってきた。
軍艦島は良く知られ、認識もされている。その歴史も教えられ、保護も良くされていて、一般訪問者は少しだけしか入れない。廃墟探検家たちもここを何度も訪れ(だれも損傷を加えたりしないよう、気をつけている)、その上今ではジェームス・ボンドまでハイテク武器を持ってここを訪れたのだ。ここで疑問がわく:ユネスコに認められたからと言って何が変わるんだ?少し位の日本のプライドと、アジアの近隣諸国からの多くの軽蔑と憎しみくらいじゃないのか?
軍艦島のパノラマ風景。今回は西海岸。
残念ながら、坂本氏のウェブサイトは日本語だけなので、日本語が読めないと、氏の考えを本当に理解するのは難しい。しかし、とりあえず、近隣諸国と良好な友好関係を築くことが、軍艦島世界遺産登録への良い出発点ではないだろうか?皆はどう思うだろうか?