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カーリンの昼行灯(改訂)
「こんな朝から呼び出されるなんて……世の中は嫌なことばかりだ、本当に」
そんな世を嘆くようなことを言いながら築六十年の古びた市庁舎へと歩を進めていたのは、カーリン軍戦略部隊長という役職にあり、カーリンの昼行灯と呼ばれるユイ・イスターツその人であった。
ユイが王都であるエルトブールの遥か西にあるカーリン市に左遷されて、はや三年。彼はすっかりこの街が気に入っていた。
もちろんカーリンはエルトブールに比べ娯楽もなく飲み屋も少ないただの小さな都市である。しかしながらクロセオン山脈に代表される風光明媚な自然と純朴な市民たちの人柄は、王都であるエルトブールよりも遙かにユイに合っていた。
「おはようございます、イスターツ六位。珍しいですね、六位がこんな時間にご出勤なさるなんて」
ユイがちょうど市庁舎の入り口の門を通りすぎようとしたところ、突然左方から顔なじみの門番に声をかけられる。するとユイは意外そうな表情を浮かべながら、彼に向かって挨拶を返した。
「ああ、おはよう。しかし……そうかな。私がこの時間に来ることはそんなに珍しいかい?」
「はぁ、少なくともこの三ヶ月程の間につきましては記憶にございません。今日は一体どうなされたのですか?」
本当に珍しいものを見る目で自分が凝視されていることに気がつくと、ユイは苦笑いを浮かべながら二度頭を掻く。
「実はエルンスト軍務長から呼び出されてしまってね。貧乏暇なしというやつさ」
「いや、貧乏暇なしと言われるのでしたら、六位は凄まじく裕福ということになりますが……それはともかく、軍務長の呼び出しとはご愁傷さまです」
エルンストの呼び出しと耳にした門番の男は、ユイに向かって苦笑いを浮かべ返す。
クラリス王国において軍部の階級は、軍務省のトップたりえる一位から始まり、一般採用の新人兵及び戦時の召集兵に与えられる十位の階級までの十段階に別れている。ユイはまだ若手であり六位の階級でしかなかったが、このカーリンにおいてはたった一人の男を除き、彼が最も階位の高い士官であった。
そして唯一ユイより階位が上の男こそ、カーリン軍の軍務長を務める退役間近のエルンストという初老の男であった。
「本当にね。普段こんな時間に起きることはないから、どうにも体調が悪い。目もしばしばするしね」
「それは……しかし六位は王都におられた頃も、午後からいつも出勤されておられたのですか?」
「……どうだったかな。前の上司もあまり規律に厳しくない方だったからね。そんなだった気もするし、そうでもなかった気もするな」
左遷される前に、軍官僚として王都中枢で働いていた時代のことをぼんやりと思い出し、ユイは首をひねる。
ユイ・イスターツがどうして左遷されたのかに関しては様々な事情がからみ合っている。しかし左遷に至る一つの切欠となったものは、地方軍の編成に関して軍内部で問題の声が上がるようになったことにある。
クラリスにおいては地方軍の編成に関し、通常は王都より各都市に軍部を構成する三省となる陸軍省・魔法省・戦略省のそれぞれから士官が派遣する。そしてその下に現地採用の兵士が配属することが、一般的な地方統制のやり方とされていた。
しかしながらこのカーリンは山脈を背にする王都より大きく離れた田舎都市であり、他国との国境線もないことから戦略的価値も皆無に等しかった。そのためカーリンにおいては軍事力の必要性が著しく低く、これまでは全て現地採用した陸軍省の兵士によって都市警備をまかなっていたのである。
そんな中、中央の監督を行っていない事は専横を招く可能性があるとして、三年前に建国以来始めてこのカーリン軍の体制も問題視されることとなったのである。 もちろんそれは単純に放置されていた編成問題が明るみに出ただけではなく、同地のある貴族が現地兵の一部を私兵のように扱って、腐敗の温床となっているという報告があったためであった。
軍としては、さすがに問題が明るみになった以上これ以上放置するわけにいかず、カーリン軍への監査役として、軍部の陸軍省以外の二省から人材を現地に派遣することとなった。そして魔法省と戦略省の押し付け合いの末、戦略省から初めての駐在武官を出すことが正式に決まったのである。
もちろんカーリンは王都より遠く離れた土地であり、誰も行きたがるものなどおらずその人選は難航した。そして紆余曲折の上で白羽の矢が立ったのが、この魔法全盛の時代にほとんどの魔法を扱うことの出来ない『王都の穀潰し』ことユイ・イスターツだったのである。
名目上は左遷とならないようにユイは七位から六位へと昇進させられ、晴れてカーリン軍戦略省戦略部隊長という長い肩書きが与えられた。そうして人事の体裁が整えられることで、ユイは興味のない昇進と満足すべき左遷を同時に手に入れることとなったのである。
「ともかく、早く向かわれたほうがよろしいでしょう。六位はいつものんびりされておられますからね」
「はは、心配してくれてありがとう。それじゃあ、少し急いでみることにするよ」
ユイは門番の男性に対して礼を口にしながら笑いかけると、そのまま市庁舎へ向かって歩き出す。
そうして、ユイ・イスターツの運命が変わる一日が始まりを告げた。
この日に限り珍しく早朝に出勤したことが、後に彼の人生にどのような影響を与えることとなったのか、この時点で知るものは誰一人いなかった。
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