千の証言・投稿:<残留孤児>母らの無念晴らすため生き抜いた=広島市西区・赤崎大さん(74)

2015年07月10日

 1940(昭和15)年、満州で生まれた私は、事業に成功していた父のおかげで、裕福な家庭環境で終戦を迎えた。その直前に父は召集されて、行方知らず。ソ連の参戦で母、兄弟姉妹の5人で逃避するも見つかり、難民収容所に入る。

 迎える冬は寒く、氷点下20度になっても毛布もなくムシロ1枚で家族(体を)寄せ合って暮らす。食べるものも満足になく劣悪な環境で、伝染病が蔓延(まんえん)して姉妹と、生まれたばかりの妹の3人が死ぬ。

 それでも日本に帰る夢を捨てずに頑張ったが、やがて母もやせ細って、異国の地で果てた。どんなことがあっても日本に帰り、母たちの無念を晴らそうと兄と2人で生き抜く。

 残留孤児となり、日本人であるとの証明もない中、1953(昭和28)年にやっと帰国したのは奇跡とも言える。そこで、父も朝鮮で病死していたことを知る。私は13歳(小学6年)、兄は17歳(中学1年)で、日本の教育を受けた。

 波瀾(はらん)万丈の中で、よくぞ生き続けたと思う。この貴重な体験を娘たち、孫に伝えたい。戦争とは何だ、守り愛すべき国とは何か、平和とは−−改めて考えてもらいたい。そんな思いで、中学時代から書き続けてきたものを大幅に書き直して出版した。「満州に輝く星」(文芸社刊)。読めば理解していただけると信じています。

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