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 豊臣秀吉(1537~98)が織田信長の家臣だった木下藤吉郎時代、領地の収穫高を厳密に調べるよう家臣に命じた書状が、京都市の民家で見つかった。所有者は兵庫県豊岡市出石(いずし)町の旧家出身で、鑑定した豊岡市教委が10日発表した。秀吉は後に統一的な基準・方法で「太閤(たいこう)検地」を実施したが、天下人になる前から収穫高の把握に力を入れていたことがうかがえるという。

 書状(縦12・2センチ、横77・5センチ)は1573年5月24日の日付。家臣とみられる篠田伝七郎に宛てて、7カ所の土地の収穫高をそれぞれ当時の通貨(貫)で示した後、「入念に調べ上げ、これ以上の収穫がある場合は親類縁者でも見逃してはならない」と厳命していた。

 秀吉は当時、浅井(あざい)・朝倉攻めを行っていた織田勢の一武将として、北近江(現・滋賀県北部)に陣を敷き、浅井勢と対峙(たいじ)していた。分析した東大史料編纂(へんさん)所の村井祐樹助教(日本中世史)は「家臣から上がって来た報告をうのみにせず、税収入を入念に調べるように指示している点が秀吉らしい」と話す。

 書状末尾には、木下藤吉郎の署名と秀吉の花押(かおう、サイン)があった。現存史料によると、戦功を上げた秀吉が羽柴姓を名乗り始めたのは73年7月で、今回の書状は木下姓が確認できる最後のものとみられる。

 所有者が保管していた経緯は不明で、公開予定は今のところないという。(藤本久格)