■まなびCAN・子ども教室「屋島親子探検隊」から

強い日差しのもと探検隊出発

隊員が行方不明?…屋島寺四天門前

午後の部は、午後1時に屋島山上の駐車場横の売店前に集合することにしていましたが、午後1時になっても、2家族とも来られません。周辺を捜索すると、屋島寺本堂の南側の四天門前の日陰で6人が休んでいるのを発見!2家族とも生涯学習センターで講義を聞いた後、自転車で屋島に向かい、屋島小学校の表から屋島寺に通じる遍路道を利用して登山したとのこと。大汗をかきながらも全員元気な様子。思わず、今風言葉で「すごくやばい」と言ってしまいました。結局、午後の部は屋島寺四天門から南嶺の周遊道を時計回りに歩き、最後に屋島寺を探検することとしました。なお、四天門は、帝釈天の部下で、須弥山の四つの門を守る四人の護法神、持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王を祀り、本堂をお守りしているそうです。

隊員と源平屋島合戦供養碑 

四曲一双の屏風…源平屋島合戦供養碑

屋島寺前広場の奥に鎮座するのは高松市が源平800年祭に建立した石の屏風です。源平屋島合戦ハイライトを一枚岩の庵治石から切り出された屏風に刻んでいます。普通、屏風は六曲で一双なのですが、この屏風は四曲しかありません。予算が足りなかったのかな…、と隊員の声。隊員が触っているのは、平教経の強弓の矢面に立ち、義経の身代わりとなった佐藤継信、その首をとらんとかけよる教経の家来・弱冠十八歳の菊王丸、それを阻止しようと矢を構える継信の弟・忠信、のシーン。通りから少し離れているため近くまで見に行く人が少ないようですが、今後は脚光を浴びるかも…。

弘法大師が立った獅子の霊巌 

屋島の陽はまた昇る…獅子の霊巌

獅子の霊巌の展望台から少し下を覗き込むと、瀬戸内海に突き出た断崖に、海に向かって吼えているような獅子そっくりの岩がそそり立っているのが見えます。弘法大師が屋島寺を建立した時、朝から建て始めて夕方になっても終わらなかったので、空海はこの岩上に立って扇を持って夕日を招いたところ、太陽が再び空高く舞い上がったので、その日の内に完成することができたと言う伝説があります。弘法大師を巡る伝説は全国にありますが、1日で寺院を建立したり、地球の自転を自由に操ったりと、凄まじいパワーがあったようです。ここからは高松市街はもとより、こんぴらさんのある象頭山、五色台、瀬戸大橋、女木島、男木島などの多島美を誇る瀬戸内海を展望できます。

イルカショーを無料で見学

イルカショーを無料で見学…屋島山上水族館

1969年開業の歴史と伝統を誇るだけでなく、標高300m近い山頂にある全国的にも珍しい水族館。約280種3000匹の魚は世界中から集めているが、特に四国周辺にいる魚と南米アマゾンなど熱帯に住む大型魚の展示に力を入れているとのこと。この水族館に近付いたのが、ちょうど午後2時過ぎで、イルカのショーの真っ最中。ショーは屋外の大水槽で開催されており、吊り下げたボールに向かってハイジャンプするイルカの姿が、水族館の敷地外から見える場所があるとのこと。そこへ全員で移動し、しばし、みんなで見学。大水槽には観客席がなく、入館者は水槽周辺の思い思いの場所で見学しており、ジャンプする度に水しぶきが上がり、びしょ濡れになる見学者もいる様子。なかには、大声を出して泣き出す子どもも。希望すれば、ショーの前後に、イルカと一緒に泳ぐこともできるとか。

みんなでかわらけ投げに挑戦 

かわらけ投げに挑戦…旅館桃太郎前

屋島合戦に勝った源氏の将兵約300騎が一気に屋島を駆け上がり、血のついた刀や甲冑を血の池で洗った後、陣笠を山上から投げて勝どきをあげたという故事にならい、直径6cmほどの小さな素焼きのかわらけを投げて、飛距離を競うもので、屋島名物の一つとなっています。遠くへ投げるのではなく、風にうまく乗せるのがコツとか。勝ち戦にちなんで、受験の合格祈願にも霊験があるとも言われているそうです。観光客がかわらけを投げて、楽しそうにしているのを見た和田さんは、旅館・桃太郎のご主人と交渉し、無料でかわらけを調達。探検隊の隊員全員に配り、全員でかわらけ投げに挑戦したのでした。綺麗に飛んだら、願いが叶うと言い出す隊員もいて、みんなで一生懸命投げました。

屋島古道下山口の道標

「屋島古道」発見!…旅館桃太郎前

屋島西側の浦生地区から屋島山上に至る屋島古道は、1940年ごろまで、屋島山頂への生活道として地元の人々に活用されていたそうですが、その後、その存在すら忘れ去られていました。屋島の自然の魅力を再認識し、屋島活性化の一助にしてもらおうと、地元の愛好者らが、一昨年の秋から、地元の年配者らからの情報収集し、やぶに埋もれ、記憶から遠のいていた道探しを開始し、本年5月に「屋島古道」として復元整備されたものです。ルートは屋島西側の浦生のバス停から鵜羽神社、浦生川を横切り、中腹まで登り、その後、古道に入り、南嶺北西側の旅館・桃太郎付近の山頂までの全長約1.7km、高低差約280mのコース。所要時間は約40〜50分で、中腹以下は度重なる水害で道が流されているため、沢伝いに歩くルートとなっているとのこと。屋島への登山道は、?隊員達が登山した屋島小学校の表から屋島寺に通じる遍路道を利用した登山道、?長崎の鼻から北嶺の遊鶴亭に至る登山道、?屋島少年自然の家から南嶺に至る登山道、?屋島東町の旧遍路道、そして?大木がうっそうと生い茂り、植生豊かで、野鳥も多く、まるで屋久島のようなひんやりとした雰囲気を醸し出す、この度復元された登山道の5コースとなりました。

庵治町沖の大島、鎧島、兜島 

森繁久弥さんの島が見えた!…談古嶺

屋島三大展望の一つ、談古嶺は源平の古戦場「檀ノ浦」を展望する絶好のビューポイント。那須与一の扇の的、義経の弓流し、平家軍船の泊地「船隠し」など平家物語の屋島合戦の舞台が眼下に一望でき、色鮮やかな合戦絵巻を想いみるには絶好の地です。庵治町沖の一番大きな島が、大島。この島は島全体が病院になっていて、ハンセン氏病の治療を行っているそうです。ハンセン氏病は近年まで誤った偏見と誤解により悲しい歴史が刻まれてきましたが、一人でも多くの方が正しい理解により、患者さんの人権が早く回復されることを願って止みません。その右側に見えてくるのが鎧島。源平の頃逃れてきた平氏が源氏の追っ手に驚き鎧を忘れて逃げたので鎧島と名付けられたそうです。その奥にある、隣の兜島は、あわてて逃げるとき兜を忘れたので兜島だそうです。この島は以前、あの名優森繁久弥氏が島の西側半分を別荘として所有していて、夏になると、ヨットでよく遊びに来られ、庵治の漁師さんは森繁さんが島に滞在しているときには、度々遊びに行き、お酒を酌み交わし楽しく交わっていたそうです。

謎の寄墓 

謎の寄墓…ホテル甚五郎裏

ホテル甚五郎から血の池を目指し、更に探検。木々が繁り、周遊道はその日陰となっている上、涼しい風が通って心地よい。途中、舗装されてないものの怪しげな道を発見!なんだろうと思って、隊列から離れて、一人探検。20mほど前進すると、突如、茂みの中に立派な寄墓が出現。平家が源氏に敗れたときの公家の墓?だったら大発見だ!残念ながら、後で和田さんから、屋島寺の代々の住職や関係者の墓とのこと。屋島に住む太三郎狸は、住職が代わった時には、源平合戦の様子を演じて見せたと言われているが、墓の主はそれを見たのだろうか。墓の前で逡巡していると、隊員達の悲鳴が聞こえた。

毒蛇出現

屋島の毒蛇出現…血の池の東

一人で謎の寄墓を探検中に隊員達の悲鳴が聞こえたので、あわてて引き返すと、隊員達が周遊道の側溝の中を恐る恐る覗いている。溝の中には、赤褐色をした20cmほどの長さの蛇が、側溝から飛び出さんばかりに上下左右に激しく全身をくねらせている。近付こうとすると、毒をもった蛇で危険なので近付くなと和田さんに制止された。蛇といえば、屋島には次のような伝説があるそうです。農家の人が屋島から雑木を切り出して、ふもと近くまで下山したところ、疲れたので一服しようと荷をおろして、木にもたれかかろうとしたが、「はて、こんなところには木がなかった筈だ」と思い出したとたん、木が動くような感じがした。よく見ると、一升ビン位の太さの蛇が、岩穴からぶら下がっていたというお話。

血の池の鯉 

緑色一色…血の池

正式には“瑠璃宝池(るりほういけ)”と呼ばれ、屋島寺創建の時、宝珠を本堂前に埋め、そのまわりに池を掘ったので、その名が付いたと言われています。源平合戦の時、源義経をはじめ源氏の武将たちが刀についた血をここで洗い、池が真っ赤に染まったため、血の池の別名がありますが、現在は、藻や水草が繁茂し、一面が緑色になっていました。和田さんが手を叩くと、大小様々の大きさの鯉が数十匹現れ、和田さんに向かって一斉に泳ぎ出し、かなり飼いならされている様子。ちなみに、鯉には胃がなく、食道からすぐに腸になるために、食いだめができないと言われています。口には歯がありませんが、喉の奥に3列に並んだ咽頭歯と呼ばれる臼状の歯があり、この歯でタニシの殻やザリガニなど硬いものを強い力で噛み砕いて食べるそうで、以前、神社の池の鯉を解剖したら、参拝客が投げ入れた硬貨が、折り曲がった状態で出てきたそうです。

葵の御紋の入った屋島寺の瓦

こんなところに葵の御紋が…屋島寺

東大門から屋島寺へ入ると、和田さんが屋島寺の瓦を見るようにとのガイドがありました。見ると、瓦に葵の御紋が…。なーぜー?屋島寺は、もとは、天平勝宝6年(754)唐からはるばる来日した鑑真和上が、難波に向かう途中、屋島の山上に瑞光(ずいこう:吉兆を表す光)が見えたので船をとめて屋島の北嶺に登り、現在の千間堂跡に、仏像や経典を納めて開基したのが始まりと言われており、四国霊場唯一鑑真和上が開基したお寺として有名なのだそうです。平安時代の始めに弘法大師が十一面観音像を刻んで本尊とし、現在の南嶺に移し、第八十四番の霊場に定められたそうで、室町時代の再建と伝わる朱塗りの本堂は、本尊の千手観音座像とともに国指定の重要文化財となっています。のち弟子の恵雲師がこの地に堂宇を建て初代の住職となりましたが、その後戦乱によって屋島寺は衰退したそうです。それを、寛永19年(1642)、高松城に入封した徳川家康の孫で水戸の徳川頼房の子、松平頼重(水戸光圀の兄)をはじめ、明治2年の版籍奉還まで続いたその子孫によって、屋島寺は大切に修復され、現在に至っています。屋島寺の瓦に葵の御紋は、その証なのです。

屋島の太三郎狸の勇姿

屋島の狸は超有名だった…蓑山大明神

屋島寺本道東側にある赤い鳥居の祠には、蓑山大明神として四国狸の総大将と言われた太三郎狸が祭られています。弘法大師が四国八十八カ所を開創される時に、霧深い屋島で道に迷われ、簑笠を着た老人に山上まで案内されたそうで、その時の老人が屋島の太三郎狸が化けた姿だと言われています。また、鑑真和尚が屋島に登っていた時にも道案内をしたとも言われています。この屋島の太三郎狸は、佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と共に、日本三大名狸に称せられ、ジブリ映画の”平成狸合戦ぽんぽこ”にも長老狸として登場していました。”太三郎狸”は数多くの善行を積んだため、土地の地主の神として本堂の横に大切に祀られ、四国狸の総大将とあがめられたのだそうです。日露戦争の時には、四国の狸を屋島に集めて、自らが総大将となり、南京袋に小豆を一杯詰めて持って出陣し、敵前で小豆をばらまくと、一粒一粒が一人一人の兵士に変身して、それぞれが敵陣へ突っ込んで行き、これにより日本軍は大勝利を収めたとの言伝えもあるそうです。“太三郎狸”は、一夫一婦の契りも固く、家庭円満、縁結びの神様でもあるそうで、独身の隊員はもとより、既婚者も熱心にお参りいたしました。
2時間半に及ぶ大探検でしたが、怪我もなく無事終了し、再会を祈って散会しました。和田さん、炎暑の中、ありがとうございました。


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