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創価学会の現実

創価学会の現実を現役学会員が語ります

注目の反創価ブログ

トウガラシです。

私が今、最も注目している反創価ブログは『対話を求めて』というブログです。

こちらのブログは、私がインターネットを始めて間もない頃、創価の実態を知らされたブログの中の1つですが、
いくつもある反創価ブログの中で、今最も反創価運動の大きなうねりを巻き起こしているブログではないかと思います。
アクセス数が200万を達成したということで、私も遅ればせながらお祝いのコメントを書いてきました。
アクセス数200万、すごいですね。それだけ創価問題に関心を持っている人がいるということなんです。

それにしても時代の移り変わりを感じますね。
私が創価青年部で活動していた頃、活動しながらも創価にはいくつもの疑念を抱いていたのですが、それを幹部に相談しても、
「そんなことで悩むのは信心が足りないからだ」とか「もっと題目唱えろ。そうすれば解決する」などと、ほとんど何の解決にもならない適当な指導しか返ってこないので、
自分の思いを外部の人に伝えたいと思い、当時はまだインターネットなどなかったので、創価の疑問点を手書きで原稿に書き、それをいくつもコピーして小冊子としてまとめて、それらを知らない家のポストに入れたりしたものです。
まあ、そんなことしても社会に対して何の影響もない、自己満足の行動でしかなかったのですが、その頃は創価の問題を世の中に知ってもらいたいという思いがあってそんな役にも立たないムダなことをしていたものです。
本当は創価の問題点を指摘した本を出版したかったのですが、作家でもない自分が本を出すとなると自費出版しかなく、それだと費用もかかるし、第一、書店にも流通しないし、やはり世の人々の目に触れることもなく終わるだろうと思い、
それで私が次に行なったのは、新聞や雑誌の投稿欄に創価の問題点を投稿することでした。
当時はまだ新聞や出版社などのマスメディアの多くが創価に支配されているなどとは知る由もなかったので、新聞などに投稿すれば世の中に知らしめることができるんじゃないかと思ったりしてましたが、
何ぶんにも新聞や雑誌の投稿欄では文字数の制限があるので、自分の書きたいことのいくらも書けませんでした。
まあ、投稿したいくつかの原稿は新聞社に採用されて投稿欄に掲載されたこともありましたが、結局、創価学会の実名を出さない宗教一般の問題点としてしか書けませんでしたし、訴えたいことのほとんどは書けずに終わったのが不満でした。
その後はもう創価の問題点を世に知らしめるのは諦めていたのですが、それが今、インターネットの時代になって、こうして無料ブログで自分の言いたいことを何の遠慮もなく世の中に発表できる時代になったんですから、いやー、世の中、変われば変わるものですね。
やっと自分が夢見ていたことが実現できる世の中になったわけです。
そういう時代になったからこそ、今こそ創価学会の問題点を世の中に訴えていくべきだと思います。
その1つの大きな流れが『対話を求めて』を始め、反創価ブログによって巻き起こっていると言えるんじゃないでしょうか。
私のブログなど微々たる影響力しかないと思いますが、そんな私のブログでもその一端を担えるなら役に立っていこうと思ってます。
ついでに言うと、私も同じ思いを抱いている人々とコメントをやりとりして交流したいとは思ってるんですが、
コメントの1つ1つにすぐに返事を書けないかもしれず、また、反創価ブログには盲信学会員が荒らしコメントを書き込んでくるようなので、それらに対処するのも煩わしいので、
コメント欄は閉じています。
そういうわけで言いっぱなし書きっぱなしのブログですが、これからもよろしくお願いいたします。

 

 

 

活動家の現実

こんばんわ、トウガラシです。

このところ、ニュースでもワイドショーでもギリシャ債務不履行の話題で賑わってますが、チプラス首相の強気の発言や国民投票でのギリシャ国民の緊縮生活への反対表明などについて、ワイドショーでも司会者が「借金をするだけして、借金は払えないのです。生活費もこれ以上下げられないのですとギリシャ人は居直っている。ええかげんにせぇと言いたくなりますね」と呆れたように言ってましたし、ギリシャは借金を返すつもりがないし、返さなくてよいものだと思っているという話題で盛り上がってましたね。

週刊誌でも書いてましたがギリシャは「金なら返せん!」と居直っているありさまで、「緊縮策を実行する気はない、しかしEUは支援を続けろ」という虫のいい言い分を主張しているとしか思えませんね。

私はこのギリシャ危機の話題を見て、青年部の頃の活動家幹部のことを思い浮かべました。

活動家の全部とは言いませんが、特に創価脳全開の非常識な活動家幹部に、このギリシャのようなタイプの人間が多くいましたね。

とにかく、活動家の学会員には借金問題が多いです。これは事実です。

その借金も同じ学会員から借りることが多く、創価学会では会員間の借金や保証人は禁じてるんですが、そんなことは意にも介さず借りる者が多かったです。

学会員同士での借金トラブルは他の元学会員のブログでも書かれてますし、聖教新聞にも時々、「会員間の借金・保証人厳禁」という記事が載ってますが、それほど学会員間での借金問題は多いということなんです。

仕事も休んで創価のためにタダ働きをし、その上、金まで貢いでるんですから、借金までしてしまうのは当たり前と言えるでしょう。

私も頼まれると断れず随分貸したことがありますが、これが貸したらまず返ってきません。

その時の活動家幹部が今のギリシャと同じで、「金なら返せんけど、また貸してくれ」という、なかなかのド厚かましさでした。

相手からすれば、同じ創価の同志なんだから、金を貸すのが当たり前、借りた金は返さなくても当たり前という気持ちでいたようですが、まあ、世間から見れば非常識な人間でしかないでしょう。

このように書くと、金を貸すなら相手にくれてやるくらいの気持ちでないとだめだと言われるかもしれませんが、私が問題にしているのは、そういう会員間での借金トラブルのそもそもの原因は何かということです。

人間革命して崩れない境涯を築くために学会活動に励めと強制しているその創価学会に財産を搾り取られているのがそもそもの借金の原因なのです。

創価学会が原因なのに、いかにも下っ端の会員が勝手に金の貸し借りでモメているというように、責任を全て会員に押しつけている創価の体質こそ問題だと言ってるんです。

創価という支配者に財産を貢いで、奴隷同士が金の貸し借りで助け合い、それが元で奴隷同士でトラブルになっている、というのが創価学会の姿ではないでしょうか。

そもそも創価学会に支配されていることが不当なことなんです。

その創価に財産を差し出して、生活に困ったら他の会員から助けてもらうというのがバカバカしいことだと気づくべきなんです。

本来は信者を助けるためにあるのが創価学会という組織のはずなのに、創価の職業幹部を助けるための奴隷にされているのが創価活動家の現実だと言えるでしょう。

そういう簡単なことも創価脳の活動家は今だにわからないようですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

日蓮は宇宙根源の本仏なのか

こんにちわ、トウガラシです。

以前に書いた記事で、私は創価学会を信じていないが、宗祖の日蓮教学は信じていると誤解されてしまったかもしれませんが、現在の私は日蓮教学も信じていません。

記事の中で「日蓮大聖人」と書いたのは、活動家の頃の名残で書いてしまいましたが、今では宗祖のことも「末法の本仏」とは思っていません。

私は日蓮と言えども普通の人間に違いはないと思ってますし、その日蓮を宇宙根源の法と一体の末法の本仏として崇めるのは、一神教的な神を崇めるのと同じで、一宗教家をあまりに持ち上げ過ぎだと思ってます。

まあ、話としては壮大なファンタジーで面白いですが、あまりに話が大きすぎやしませんか?

また、日蓮を本仏としてしまうと、本仏なのになぜ今だにこの世界を救えないんだと批判されてしまいますよ。本仏なら世界を救ってみろと言われるのがオチですよ。

第一、日蓮自身は「我は本仏なり」なんて言ってません。弟子の1人が勝手に解釈して日蓮本仏論なるものを作ってしまっただけの話なんです。

それに、日蓮教学には危険な思想も含まれているため、日蓮を本仏として崇め、その教えは全て正しいとしてしまうと、創価学会顕正会のようなカルトに利用されてしまうことになります。もうすでに利用されてますがね。
もちろん私にとって日蓮は一宗教家として尊敬できるところはありますが、一神教における根源の神のような末法の本仏としてしまうのには違和感がありますね。

 

人間主義組織の現実

こんばんわ、トウガラシです。

創価学会は「人間主義の組織」を標榜し、いかに創価の組織が人間的温かさに満ちた団体であるかということをアピールしていますが、
それがあるのは創価に入会した直後や、会合に出て行かない会員が久しぶりに出て行った時くらいのものです。
入会したばかりの人や今まで会合に出なかった人が出てきたりすると、まわりの幹部は喜んでくれますし温かい言葉もかけてきます。
しかしそういう人間的な温かさがあるのはそこまでです。
会合に出て行くようになり役職を付けられると、学会活動するのが当たり前となり、やがてノルマをこなして成果を上げるのも当たり前のようになり、成果を上げられない時や目標数を達成できない時などは幹部から罵声を浴びせられ詰められ吊るしあげられるようになるのです。
それは、鬱病になる活動家が多いという事実でも明らかなように、創価学会成果主義は活動家に多大なストレスを与えています。
私も活動家の頃は特に折伏戦や選挙戦で幹部から成果が上がらないことを罵倒され吊るしあげられたものです。
その頃はまだ学会活動に使命感を抱いていた頃でしたが、それでもものすごいストレスを感じたものです。
私の場合は鬱病にまではなりませんでしたが、あのまま学会活動を続けていたら確実に鬱病になっていただろうと思っています。
創価学会というところはそれほどに活動家の信者に対して過酷な組織なのです。とても「温かい人間主義の組織」などと呼べるようなところではありません。

たまに創価盲信者のブログを見ると、「創価学会はとても和やかで楽しい組織」といった記事を見かけますが、この人らは本当に学会活動やってるのかと思ってしまいますね。月に1回程度、座談会に出るくらいなら創価組織は和やかで楽しいところと思うかも知れませんが、活動家となって目標達成のために連日活動していると、そういうのん気な気分にはなれないと思いますよ。

そういうのん気な記事を書いてる人には、もっと学会活動に頑張ってみてはどうですか? と提言しておきたいと思います。

その上で、それでも創価学会は楽しく温かい素晴らしい人間主義組織だと思えるのなら、寿命が尽きるその日まで思う存分学会活動に邁進されることをお勧めします。

まあ、そこまで思えるとしたら大したものですがね。

 

よく外部の文化人が「創価学会は素晴らしい人間主義の組織」などと絶賛してますが、あれだけチヤホヤされれば誰だってそう思うでしょう。
外部の文化人と内部の活動家に対する態度がまるっきり違うのが創価学会なのです。

 

そういう創価学会は宗教と捉えるのではなく、宗教ビジネスという企業体だと捉えるとピッタリきます。

利益を追求する企業体、それが創価学会だと言ってよいでしょう。

 

御書根本ではない創価の題目

こんばんわ、トウガラシです。

しばらく記事の更新ができませんでしたが、少し時間ができたので、書いておきます。

 

今は創価の組織から離れているので分かりませんが、昔活動家だった頃は題目表というものが配られていました。
塗り絵のようなマス目が書かれてあって、1つのマス目がどれくらいの時間か忘れましたが、一定時間唱題した分、マス目を塗りつぶしていくというものでした。
これなんかは今から考えれば、数にこだわる創価学会らしい発想だと思いますね。
創価学会ではよく「百万遍の題目に挑戦」とか「一千万遍の題目で宿命転換」とか言ってますが、何か願い事があれば百万遍、何かの目標があれば百万遍というように、だいたい百万遍の題目がひとつの目安になってましたね。
なぜ百万遍なのか、そこのところがはっきりしませんが。
とにかく数多く題目を唱えれば願いが叶う、目標を達成できるというのが創価学会の考え方です。
しかし、それも「御書根本」というのなら、そういうことが御書に書かれてあるのかというと書かれてないのです。
御書のどこにも「百万遍の題目を唱えなければ願いは叶わない」とか「数多く唱題しなければ宿命転換できない」などとは書いてません。
それどころか、御書には「一遍の題目にも、限りない功徳がある」と書かれていますし、創価学会でもよくここの一節を引いて題目にどれだけすごい功徳があるかということを強調しているくらいです。
それなのに、幹部は口を開けば「もっと題目唱えよ」「もっと題目唱えないと願いは叶わないぞ」と言っているんです。
どっちなんだ? と言いたくなりますね。

思うに、題目の数の多い少ないで願いが叶うか叶わないかなどと考えることが間違いなのです。
宗祖の教えはそんな底の浅いご利益信仰にあるのではないと思いますよ。
そう言えば、創価学会では題目を早口で唱える傾向にありますが、これなどもなるべく数多く唱えて福運をたくさん積もうという考え方から来てるんだと思います。
これでは仏の境涯に近づこうという仏道修行ではなく、数多く功徳をもらおうとする乞食信仰になってしまうでしょう。
学会活動家に非常識な人間が多いのもこんなところに原因があるように思いますね。
数にこだわらず、時間にこだわらず、ゆったりと自分の心が落ち着くように題目を唱えればよいのではないでしょうか。

創価学会日蓮教学を「仏法哲学」などと言ってますが、それならこれまでの迷信的なご利益信仰から脱するべきだと思いますがね。

 

 

 

「大聖人直結」の現実

トウガラシです。

創価学会が近年よく使う言葉としては、『御書根本』と並んで『大聖人直結』というものがあります。

創価学会こそが大聖人の教えを最も正しく実践している仏意仏勅に適った仏教団体だという主張のようですが、
しかし果たして、創価学会は大聖人直結の教団だと言えるのでしょうか。
それは創価学会がやってることを見れば明らかです。
創価学会がやってることと言えば選挙戦に聖教新聞販売拡張に財務で金集めに文化祭などなどですが、
御書のどこに「選挙戦をやれ」と書いてるでしょうか?
御書のどこに「聖教新聞の販売をしろ」と書いてるでしょうか?
御書のどこに「財務で金集めしろ」と書いてるでしょうか?
御書のどこに「文化祭をやれ」と書いてるでしょうか?
どれも大聖人の教えと直接関係のないものばかりです。
もちろん、それについては無理なこじつけをして正当化していますが、いずれも詭弁に過ぎません。
創価学会が勝手に解釈して勝手に「大聖人直結」などと言ってるだけなんです。
このようなものを唯一正しい仏法だなどと信じこむ必要はないでしょう。
創価学会が勝手に言ってるだけなんですから。

 

 

姿を見せない名誉会長の現実

池田名誉会長が一般会員に姿を見せなくなって5年経ちました。

創価学会では相も変わらず、幹部たちが名誉会長はお元気で、執筆活動に忙しいから姿を見せないんだと言ってますが、これにもバリ活会員は疑問を持ってないようですね。

それが不思議で仕方ありません。

普通、トップの指導者が5年も姿を見せないなら、いったいどうしたんだろうと思うものじゃないですか。心配になって、幹部にも聞きたくなるじゃないですか。

ところが創価学会には、そんな質問をするのがはばかられるような雰囲気があるんです。
以前の記事にも書いたことですが、創価学会に都合の悪い疑問をぶつけると、とぼけるか、反逆者扱いするか、はたまた狂人扱いするというのが創価組織なんです。

しかし、名誉会長が本当に人前に出られないほど体が弱っているとしても、別にそれは信者に隠すようなことではないと思うんですがね。
名誉会長といえども普通の人間なんですから高齢になれば体も弱るし病気にもなるでしょう。
それをなぜ隠さなければならないのか。
まあ、学会首脳部としては、名誉会長が元気に活動しているというように信者に信じこませることによってしか組織の求心力が保てないとでも思っているからでしょう。

また、名誉会長を超人のような存在として演出したいという首脳部の考えもあるのでしょう。

そこには、名誉会長というアイテムをうまく使って信者を操ろうとする首脳部の狡猾な魂胆が窺い知れますね。
そこに疑いも持たずに信じ込んでいるバリ活会員というのは、詐欺師から見ればこれ以上はないほどのカモなんでしょう。

 

反戦平和団体の現実

トウガラシです。

創価学会はこれまでも今でも「反戦平和の団体」であることを強調していますが、
現実はどうかと言えば、「平和、平和」と言いながら、創価・公明のやってることは、戦争法案への協力ではないですか。
公明党はこれまで自慢気に謳っていた「自民暴走の歯止め役」として全く役に立っていない状態ですし、バリ活学会員は自分たちが何をやってるかもわからずそんな戦争法案を通すために手を貸しているありさまです。
何しろ、バリ活会員は何のために選挙活動してるのかというと「功徳をもらうため」というバカみたいな理由で頑張ってるんですから、
自分たちの行動が戦争法案成立に手を貸していることになるなどという意識もないようです。
功徳さえもらえれば公明党がどんな政策取ろうがどんな方針に行こうが関係なしとしか思ってないからです。
日本を危うい状況に落とし込もうとしてるのが、何もわからないまま選挙活動に邁進し、首脳部から言われるままに票取りに励むバリ活会員だと言えるでしょう。
そんな創価学会公明党ももはや「反戦平和の団体」とは言えません。

本当に平和の団体だと胸を張るのなら、ここで戦争法案に反対の声を上げるべきでしょう。
情けないことに、そういう声は創価からも活動家からも上がらないようです。

聖教新聞創価学会公式サイトに今でも「世界平和」「平和運動」の記事を書いているのが白々しく感じられます。

 

 

 

師弟不二の現実

トウガラシです。

今や創価学会の最も重要な教義にさえなっている「師弟不二」。

師匠は池田名誉会長で、弟子である会員はどこまでもこの師を守りぬけというのが創価学会の指導のようですが、そもそも、仏教にそんな教えはないですよ。

法華経にも御書にもそんな言葉はありません。

あくまでも創価学会の造語でしかないものです。

創価学会は「文証・理証・現証」の三証が正しい宗教の証明だといってますが、

文証にもないものを創価学会は重要な教義にしているんです。
それに、信者にとって師と言えば、日蓮大聖人のはずではないですか。
名誉会長といえども信者の代表という存在であって、師匠などと呼ぶのは宗祖をないがしろにする不遜な態度ではないでしょうか。
このようなまともではないことまで何ら疑うことなく信じ込んでいるバリ活会員というのは、これまで、教学は何を学んできたんでしょうかね。
これでは仏教とは違う新興宗教だと言われても仕方ないでしょう。

 

 

仏道修行の現実

トウガラシです。

今さらですが、創価学会は仏教団体を標榜し、学会活動は仏道修行だと指導してきましたし、私も以前はそう信じていました。
しかし、その仏道修行だという学会活動、果たして仏道修行だと言えるんでしょうかね。

今や主な学会活動と言えば、選挙戦に聖教新聞の拡大活動、それに財務の戦い。これが仏道修行でしょうか?
いくら日蓮仏法を基調にした公明党を勝たせるためといっても、選挙戦は政治活動であって仏道修行ではないですよ。
それから聖教新聞の拡大活動って、それは営業活動であって仏道修行ではないでしょう。
そして財務の戦い。戦いなんて言ってますが、要は集金活動ではないですか。
無理やりこじつけて仏道修行なんて言ってますが、実際のところ仏道修行とは言えないでしょう。

いくら表向きは仏教団体のように装っていても、実際にやってることといったら、
政治活動に営業活動に集金活動でしかないというのが現実の姿ではないでしょうか。
仏道修行と言うからには、それこそ創価学会が「人間革命」と言ってるように、仏の境涯に近づけるように人格向上を目指せるものでなければなりません。
しかし、選挙活動や新聞の営業や集金活動で人格向上など無理というものです。
そういうものは仏道修行ではないです。
これではよほどの盲目的な信者でない限り、人は活動からも組織からも離れていきますよ。
だから私も非活になったんです。
仏道修行とはいったい何かということに、いいかげんバリ活会員も気がついた方がいいでしょう。
そこに気がつかない限り、信者は利用されるだけで一生終わってしまうでしょう。