ところで、「大山倍達外伝」正確には「大山倍達外伝/猛虎と呼ばれた男・添野義二回顧録」。本来ならば昨年の春に発売の予定でした。当初は添野先生と塚本佳子の共著として動いていました。しかし、当時の塚本は自分自身の著書も抱え、同時進行で作業を行わなければならない状況でした。
基本的な取材は殆ど塚本と倅が行い、特に証人となる人達へのインタビューは塚本が担当しました。また新聞や雑誌、公文書などの資料も全て塚本が収集していました。
せっかくの塚本の努力を無駄にさせたくないと思いながらも、既に常人の領域を超えた塚本の労力もかなり限界に近い常態にあったと私は判断しました。
仮に本作品の担当から外れても塚本には自身の著書の執筆がある…というより大切な自著の執筆に集中してもらいたい!!
そんな経緯から昨年の初春(既に予定の発売日には間に合わないのは明白でしたが)、急遽担当を倅に変えたのです。
その段階で倅は私や塚本よりも添野先生と親しくさせて頂いていたし、奥様のユリアナさんにも可愛がられていました。本来ならば「大山倍達外伝」と平行するかたちで、倅は添野先生の愛弟子である村上竜二君の評伝を書く予定でした。村上塾長の本が遅れたのは申し訳ないのですが(とはいえ必ず2、3年内にかたちにします)、息子は塚本からバトンを受けて執筆作業に入りました。

私と添野先生の付き合いはかなり古く、約30年前に遡ります。私は「月刊空手道」の編集長代理であり、当時話題になった「硬式空手」の全日本選手権を取材していました。私は基本的に「報道席」には腰を降ろさない主義で、勝手に客席をブラブラしていました。
間違って関係者控室の前を歩いていると突然、怒号が聞こえてきました。声から、硬式空手を主宰する某氏だと分かりました。すると間髪を入れず某氏の悲鳴が響いてくるではありませんか。思わず控室を覗くと、某氏は誰かに壁際に押し付けられ膝蹴りを数発、そして最後には掌底で顔面を張られ血だるま常態になったのです。
某氏を暴行した人物は背中しか見えず分かりませんでした。某氏は身長180cm近い大男でした。自称ではありますが松濤舘空手8段、柔道6段と自慢するところが、そして何かにつけて極真空手をバカにする言動が私も嫌いでした。
一瞬、ざまあみろ!!と思った私ですが、「あっ」と声を上げてしまいました。某氏をKOした人物が振り向いたからです。
それが添野義二、「極真の猛虎」と呼ばれた男だったのです。添野先生は当惑する私に向かって細い眼を更に細めながら意外にも優しい口調で言いました。
「キミ、いま何も見なかったよね。見なかった事にしてね」

ある日、「月刊空手道」を発行する福昌堂に電話が掛かってきました。受付のオバサンが顔色を変えて言いました。
「士道館という流派の人から電話です。怖い、暴力団かしら」
編集長の東口氏もまた顔色を変えて恐る恐る電話に出ました。
「士道館の添野先生がいまから挨拶に来るって!!どうしよう」
「挨拶?」
私も慌てました。殴り込みにくるとしたら誰が標的なんだろう、俺か?
私は即、芦原英幸先生に電話をしました。
「いまから添野義二が来るって言うんです」
焦る私に芦原先生は笑いながら「添野が来たら、たまには芦原に電話するよう伝えてくれ」。私は芦原先生の声を聞いて安心したものです。
結局、添野先生は福昌堂の近くにきたついでに、士道館主催の大会のパンフレットを渡そうと思っただけだったようでした。

そんな訳で、私にとって添野先生はとりわけ怖い印象しかありませんでした。しかし、ある日添野先生自ら私に電話を下さったのです。「大山倍達正伝」と「大山倍達の遺言」を読んで感動したと言ってくれました。それ以来、私は添野先生と極めて親しい関係になったのです。かつての芦原先生との関係に似た人間的師弟関係にあると言っても過言ではないでしょう。
そんな添野先生と私ですが、唯一「合わない」部分があるのです。梶原一騎氏と真樹日佐夫氏に対する見方です(もっとも生前の真樹氏とは私は比較的親しくしていましたが)。否定的な私と肯定的な添野先生。
この違いが解決しない限り、私は物書きの端くれとして添野先生の事は書けないと思ったのです。そんな事から「大山倍達外伝」は塚本、そして倅が共著者になることになりました。私は「総監修」です。

あと2章で添野先生の部分が終わります。しかしまだ共著者である倅の評論が手についていません。しかし何としても年内に発売したいと思います。

この作品は過去の「大山倍達正伝」や「芦原英幸正伝」とは全く違う異色的な本になると断言します。読んだ全ての人が必ず驚くでしょう。
極真空手、大山倍達そして松井章圭や緑健児…
超辛口の作品をお楽しみに!