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「玉音放送」の原盤 来月にも初めて公開へ
7月9日 7時04分

「玉音放送」の原盤 来月にも初めて公開へ
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宮内庁は、終戦の日の昭和天皇による「玉音放送」の音声を記録したレコード盤「玉音盤」の原盤を、来月にも音声とともに初めて公開する方針を固めました。今テレビなどで耳にする「玉音放送」の音声は、戦後、原盤からコピーされたもので、終戦を告げた「玉音放送」そのものが戦後70年を経てよみがえることになります。
「玉音盤」は日本の降伏をラジオで国民に伝えるため、終戦前日の昭和20年8月14日、当時の宮内省の庁舎で昭和天皇の声を録音したもので、翌15日正午からのいわゆる「玉音放送」に使われました。音声は合わせて6枚のレコード盤に収められ、皇室の所蔵品である「御物」として、今は宮内庁の倉庫で金庫に入れて保管されています。
劣化が進んでいましたが、関係者によりますと、宮内庁が音声の復元に成功し、先月30日には天皇皇后両陛下のお住まいの御所で、両陛下と皇太子さま、それに秋篠宮さまが「玉音盤」の原盤の音声を聴かれたということです。
宮内庁は戦後70年にあたり、終戦の日を前にした来月初めにも、音声とともに初めて原盤を公開する方針を固めたということです。今テレビなどで耳にする「玉音放送」の音声は、戦後、原盤からコピーされたもので、終戦を告げた「玉音放送」そのものが戦後70年を経てよみがえることになります。
宮内庁はまた、昭和天皇の住まいにもなった皇居の「御文庫」と呼ばれる建物に付属する防空ごうについても、報道各社の求めに応じて映像や写真を撮影して公表する方針です。この防空ごうは昭和天皇のいわゆる「聖断」によって最終的に終戦が決まった「御前会議」が開かれた場所で、「玉音盤」とともに、この夏注目を集めることになりそうです。

「玉音盤」とは

「玉音盤」は終戦を告げる昭和天皇の声を記録したレコード盤で、終戦の前夜に録音されました。宮内庁が編さんした「昭和天皇実録」や、NHKの「20世紀放送史」などによりますと、昭和天皇は、警戒警報が発令中の8月14日午後11時25分、軍服姿で当時の宮内省の庁舎の一室に入り、宮内大臣や侍従長らが見守るなか、NHKが用意したマイクに向かって終戦の詔書を読み上げました。録音が終わったあと、昭和天皇は「声が低かったようだが、どうだったか」と述べ、NHKの録音班が側近を介して「数か所おことばに不明瞭な点があった」と伝えると、みずから「じゃ、もう一度やろう」と希望して2回目の録音が行われ、二組の「玉音盤」が出来上がりました。
これを知った陸軍省の若手将校らが、降伏を阻止するため放送を妨害しようと皇居に侵入したり放送局を占拠したりして「玉音盤」を奪おうとしましたが、失敗に終わりました。
翌15日、二組の「玉音盤」がNHKの放送会館に届けられ、2回目に録音されたほうが正午からラジオで放送されました。37分余りに及んだ放送のうち昭和天皇が読み上げた音声はおよそ4分30秒あり、多くの国民にとって「現人神」(あらひとがみ)とされた昭和天皇の声を耳にする初めての機会となりました。
玉音盤は戦時中に皇居の防空施設として造られ昭和天皇の住まいになった「御文庫」(おぶんこ)で長らく保管され、その後、宮内庁の倉庫に移されました。

「御文庫」と防空ごう

「昭和天皇実録」などによりますと、「御文庫」(おぶんこ)と、「御文庫附属室」と呼ばれる防空ごうは、いずれも皇居の防空施設として造られました。
このうち「御文庫」は太平洋戦争が始まった昭和16年から翌年にかけて造られた地上1階、地下2階の鉄筋コンクリート造りの建物で、空襲に耐えるため屋根の部分が特に頑丈に造られました。昭和天皇と后(きさき)の香淳皇后が完成の翌年から暮らし始め、東京が空襲を受けるようになると、昭和天皇は政務の大半を「御文庫」で行い、多くの時間を過ごすようになりました。
一方、「御文庫附属室」は「大本営会議室」とも呼ばれる地下の防空ごうで、「御文庫」から100メートル近く離れたところに造られました。太平洋戦争末期、東京への空襲が激しさを増すなかで、昭和20年5月には「御文庫」と「御文庫附属室」が地下トンネルで結ばれました。
その後、空襲で宮殿が焼失すると、昭和天皇も出席する重要な会議が「御文庫附属室」でも行われるようになり、昭和天皇のいわゆる「聖断」によって最終的に終戦が決まった「御前会議」もここで開かれました。「御文庫」は昭和36年に「吹上御所」が完成するまで昭和天皇と香淳皇后の住まいとして使われました。

耳にしてきた「玉音放送」は

私たちがこれまでテレビなどで耳にしてきた昭和天皇の「玉音放送」は「玉音盤」そのものの音声ではありません。終戦の翌年、GHQ=連合国軍総司令部の命令で作られた「玉音盤」をコピーしたものの音声です。当時、作業に当たったNHKの職員が余分に作って自分で保管していたものが、のちにNHKに渡り、今日の放送で使われている「玉音放送」の音源として広く用いられるようになったということです。

もう一組の「玉音盤」

今回公開されるのとは別のもう一組の「玉音盤」は、東京・港区のNHK放送博物館にあります。
昭和50年に、放送開始50周年の記念事業の一環として宮内庁から移されました。ひび割れなど時の経過による劣化が目立ち、すでに再生不可能な状態でした。放送博物館では、「玉音盤」に修復や保存の措置を施したうえ、特殊なケースに入れて保管しています。

録音に携わった元NHK職員

終戦当時「玉音盤」の録音に携わり、3年前に91歳で亡くなったNHKの元技術職員、玉虫一雄さんは生前NHKの取材に答えて当時の様子や思いを語っていました。
この中で玉虫さんは、昭和20年8月14日の昼すぎ、上司から突然、録音機材の準備を命じられた場面を振り返り「天皇が話すということは分からなかったが、重大放送ということである程度予感はしていた」と述べ、録音に臨んだ時の気持ちについて「とにかくうまく録音できればいい、失敗したら大変だと考えていた。緊張の一語に尽きる」と語っていました。
録音を終えて帰る際、「玉音盤」を奪い取ろうとした反乱軍に拘束され「銃殺されるかもしれない」と考えたという玉虫さん。翌15日の「玉音放送」に臨んだ際は「放送できるようにしなきゃだめだ、重大な責任があるんだと考えていた」と述べ、放送を終えたあとの気持ちについて「ほっとしたの一語に尽きる」と振り返っていました。そのうえで、終戦を告げる玉音放送に携わった1人として「玉音放送についてもう少し知ってもらいたい。国民の終戦後の苦労もあって、はじめて現在の平和は保たれている。この平和がいつまでも続くような努力をしていただきたい」と話していました。

専門家「公開の歴史的意義大きい」

近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「終戦の玉音放送は歴史に残る放送で、文化財としての価値も高い玉音盤の公開は、歴史的な意義も大きい」と述べました。そのうえで「大きな被害をもたらした戦争を繰り返し思い起こしていくのはとても大切なことで、戦後70年の節目での公開は歴史を再認識するよい機会になると思う」と話していました。

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